- ベストアンサー
松永貞徳の業績
歳時記に、貞徳忌という季題があり、松永貞徳は俳諧連歌の一體を興した人である、と書かれていますが、「一體を興した」とはどういうことでしょうか。 いろいろな意味にとれてむずかしいので、教えて下さい。よろしくお願いします。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
とおりいっぺんの知識しかない者です。 その上で。 >「俳諧連歌の一体を興した」というのは、俳諧にも連歌にも、それぞれに新しい体系を作り上げ、独自の流派を築いたと解釈してよろしいのでしょうか。 まず、基本的なこととして、俳諧、連歌などの用語を整理します。 もし質問者さんが十分ご存知なら、申し訳ありません。 まず、連歌というのは、複数の人が集まって、五・七・五と七・七の句を交互に並べていくものですね。 五・七・五の発句が醸し出すイメージから、つぎの七・七の付け句ではまったく別の風景を提示する、どこまで違うイメージを表現することができるかを競い合ったもので、平安時代から始まり、室町時代が最盛期であったとされています。 その連歌の中でも滑稽な種類のものが「俳諧」と呼ばれていました。 俳諧とは、滑稽とかおもしろい、とかいう意味で、連歌の中でも、芸術性の高くない、おもしろおかしい(連歌では使うことを禁じられていた言葉を使った)ものが「俳諧之連歌」だったんです。 江戸時代に入って、俳諧を連歌から独立させて一ジャンルを築いたのが、松永貞徳だったんです。 松永貞徳が興したジャンルが「俳諧連歌」です。 後にここから談林俳諧が生まれ、井原西鶴や芭蕉もここから出てきたわけですが、最初は西鶴も芭蕉も貞門俳諧を学んでいる。 つまり、俳諧の基礎を築いたのが松永貞徳というわけです。 松永貞徳の登場によって、初めて、俳諧は連歌の単なる余興ではなくなった。 また、それまでは禁じられていた俳言(こっけいな言葉や俗語)を使うことで、身近なできごとや感情を表現できるようになって、表現の幅もひろがっていったわけです。 いわゆる本家としての連歌は、後に貞門俳諧から談林俳諧を興した西山宗因が、談林俳諧の一方で続けていきますが、これといった後継者も現れなかったため、江戸中期以降は衰退していきます。 基本的なことしかわかりませんが、まだ疑問な点などありましたら、補足要求ください。
その他の回答 (1)
- fushigichan
- ベストアンサー率40% (4040/9937)
awazoさん、こんにちは。 >松永貞徳は俳諧連歌の一體を興した人である、と書かれていますが、「一體を興した」とはどういうことでしょうか これは、旧仮名遣いで「一体を興す」です。 一つの形、一つの体系を作り上げる、という意味でしょう。 下のは、夏目漱石「坊ちゃん」の原書ですが 第5段落の7行目に「一體」という漢字が使われています。 「一体釣りや猟をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ」ということですね。 http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/NATSUME/botchan.html 同じく「表記的かな遣いは、かな遣いにあらず」という文章です。難しい漢字ばかりですが >全體が一體となつてその語を表はし (全体が一体となってその語を表し) http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/HASHIMOTO/HYOON.html 松永貞徳(まつながていとく)についての紹介です。 古典の深い教養を生かし、 俳諧の規約、形式を整え、貞門と呼ばれる俳諧の新流派を興し、近世俳諧の基礎を築いた人です。 http://www.gtoweb.com/native/person17_21.htm 「一體を興した」とは新しい体系を作り上げ、独自の流派を築いた、と解釈していいと思います。 ご参考になればうれしいです。
補足
fushigichanさん ありがとうございます。 「俳諧連歌の一体を興した」というのは、俳諧にも連歌にも、それぞれに新しい体系を作り上げ、独自の流派を築いたと解釈してよろしいのでしょうか。 「俳諧連歌」と続けて書いてあったものですから、両者の共存に関わりのある特殊な体形を作り上げたのかなどと考えてしまいました。
お礼
ghostbusterさん よくわかりました。 やはり「俳諧連歌」というジャンルがあったのですね。 これで頭の中がスットしました。 懇切なご説明ありがとうございました。