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室町後期に戦乱の世の中となったのはなぜですか?

はじめまして。 室町後期に応仁の乱が生じたり、戦乱の世の中になったのはどういう背景があったからなのでしょうか? 具体的に1つ、というわけではないとは思うのですが、いくつが要因を教えていただけると助かります。 惣の出現、守護の権力強化、日野富子が原因の中央政治の混乱などなど・・・ ここらへんが自分で思いついた要因なのですが、これは間違っていますか? ざっくりとした質問で恐縮ですが、回答いただけると嬉しいです。

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  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.6

良く学んでいると思います。 最新の説では明応の政変を戦国時代の幕開けとする説が有力です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89 ですので、自説に血肉を付けて行くのが良いでしょう。 ただ、日野富子だけに焦点を当てないよう。 「大きな契機になった。」「転換期を迎えた。」とありますから、 それに沿うような結論を求めます。 また、時代背景は常に頭に叩き込んでおく事でミス記載を防止します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C 一読しておき誤記防止に努めます。 中央だけでなく地方。軍事より財政面からアプローチをしてみて下さい。 中央は、権威+軍事力+経済力です。 守護の権力強化は、 失敗すれば守護代や国人などにその権力を奪われる結果となり下克上を生みます。 成功すれば国人支配で領国支配をさらにめていきました。

kominoiha3nan
質問者

お礼

みなさまありがとうございます 地方・経済、この情勢も考えないと正確な思考はできませんね! いただいた情報をもとに、再度検討してみます。ほんとうに助かりました!!

その他の回答 (5)

  • phj
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回答No.5

日本というのは、現在でもそうなのですが天皇制です。 最初は大和政権ということで、天皇家を中心とした王権が日本を統一し支配していました。 これが日本の発展に寄与したのは、中央集権体制を引くことによって、地方の活性化につながり、今まで放棄されていた土地に植民したり、地方に行政機関を置いて管理することができるようになったことが大きいのです。 しかし、地方の国力(この時代は主に農業生産高)があがると、地方の人口も増えまたトラブルなども増えていきます。 また、本来大和朝廷は律令制のため公地公民で私有を許していなかったはずなのですが、開墾永年私財法などにより、土地の所有者が増えていったのもトラブルの元になっていきました。 また、開墾するために人を集め、作業している間の食事や住まいなどを保障することを考えると、開墾した私田の所有者は貴族や宗教集団になるため、地方の土地を中央に住む有力者が所有している、ということになっていったのです。 この時に、持ち主は中央(京都ですね)に居て、地方で田畑を守り運営していたのが後の武士になっていきます。中央のあまりの横暴さに耐えかねて、また運営側から独立し私田を持つものも増えたので、地方の武士そのものも実力を蓄えていきます。 ところが中央政府としては公地公民が基本のため、地方の実力者から合法的に土地を取り上げることができたのです。これに怒った地方有力者、とくに関東の有力者が興したのが鎌倉幕府になります。 六波羅探題など京都に睨みを利かせる必要がまだあったのは、鎌倉幕府と大和朝廷の間に緊張関係があったからです。また、鎌倉幕府以前に平家が京都で実質的な政権を担ったのも、地方の実力者の協力があったからだといわれています。 鎌倉幕府をよく見てみると、必ずしも全国統一をした政権とはいえません。後醍醐天皇の討幕運動やその後の南北朝の時代を見ると、関東を中心とした東日本は鎌倉政権側であり、関西を中心とした西日本は天皇家に忠誠を誓っている状態でした。 だからこそ、後醍醐天皇が討幕運動を起こすことも可能だったわけですし、その後の南北朝も天皇家を中心とした政府に戻したい南朝と幕府側が支配した北朝に分かれてしまったわけです。 このとき北朝で活躍したのが後の室町幕府を開く足利氏になります。足利氏の室町幕府を簡単にいうと「新興勢力の武士階級と従来の支配者である公家との融和を図ろうした政権」ということになります。どこかの新首相と同じ力学で出来た政権といえるわけです。 もっともこの室町幕府は幕府とは名ばかりで、擁立はされたものの権威がほとんどない右と左のバランスで成り立っていたため、中国の冊封を受け「日本国王」の称号をもらうなど権威を高めることに努力を払っていました。 しかしこの公家と武士のバランスを解消することが出来ず、地方で国力を蓄える武士階級と中央に留まって権威はあるものの実力を失っていく公家との力関係を調整することが出来なかったために起こったのが応仁の乱でありその後の戦国時代であるといえるです。 つまり、室町幕府の後戦乱になったというより、鎌倉幕府が出来て日本が二重政権(天皇と幕府)になってから、常に公家と武士の間には政権争いがあり、それが調整できないぐらい歪が大きくなったのが応仁の乱であり、応仁の乱によって足利幕府が調整能力を失ったために戦国時代になったわけです。 だからこそ戦国時代の目標は「天下統一」であったわけで、この意味は「今までの幕府と公家の調整機関ではなく、新しい日本の権威と権力を作る」というものだったのです。 だからこそ、織田信長は比叡山を焼き払うなど武士以外の既存権力や権威を弾圧したわけで、それに反発した権威側が織田信長を暗殺したといわれているのです。 結局「この国のかたち」として、天皇が民間に政権を委託する、という方式に落ち着くまでに信長-秀吉-家康と3代の天下覇者が必要だったわけで、政権が安定した徳川幕府は260年もの安定した政治体制を敷くことができたのです。 これが大きな流れであり、それを踏まえると、惣の出現、守護の権力強化、日野富子の行動、などの意味が見えてくると思います。 蛇足ですが、この流れを見ると今の政治が安定するまでにはまだ時間がかかるということもいえるでしょうし、戦国時代も(選挙ですが)起こるでしょうね。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.4

室町後期に限った話ではない。室町時代は最初から最後まで戦乱の世の中です。そもそも室町幕府とは何だったのか。そもそも足利将軍の役割は何だったのか。室町幕府は守護の任命機関です。逆にいえば大名にとっては領地経営の正当性の根拠として足利将軍から任命されたという事実が必要だったから室町幕府は存在する意味があった。ところが、その効力が時代が進むにつれて薄れて有名無実化する。守護が守護代や国人に領地経営の実権を奪われる。そうなると足利将軍の意味そのものが希薄になってしまうわけです。守護は足利将軍に任命されたが守護代も国人も足利将軍に任命されたわけではない。守護代は守護が中央政局に関わって任国を留守にするので、守護の代官として守護が任命したものです。下克上の時代になると室町幕府は既成事実の追認機関にまで成り下がってしまうわけです。 足利将軍は将軍権力の確立を図るために有力守護の弱体化を目論んだ。ところがそれは同時に将軍権威の弱体化を意味してしまったのです。守護が有名無実化すると同時に将軍の意味も薄れてしまう。 室町時代は、時期によっても地域によっても様相が大きくことなるので、以上のように論じるのは単純化に過ぎるかも知れませんが、大雑把にいえば室町幕府そのものが虚構性の高い不安定な存在だったということになるのではないかとも考えているのです。そもそも室町時代という捉え方は便宜的なものに過ぎませんし、戦乱の世を異常事態と捉えるのも現代人の間違った歴史認識かも知れません。私たちはともすれば現代の感覚で歴史を捉えようとする。そうでなくても江戸時代の安定性を室町時代にも当てはめてしまおうとするところがある。そういう余計な先入観が室町時代を分かりにくくしているのだとも思う。 観方を換えれば、室町時代前期はどうして戦乱の世の中でなかったのかという問いだって可能なはずです。そして決して戦乱が無かったわけでもないことに気がつくはずです。 室町前期と室町後期の違いは、戦乱が有ったか無かったかということでなくて足利将軍と守護の権威が保たれていたか否かという問題なのではないでしょうか。 守護が中央政局にかまけている間に地元の領国では着々と実力を養っていた勢力が育っていた。様々なレベルで争いは起こっていたのであって決して平安の世であったわけでもないのです。惣領家と庶家の間でも対立はあり、家督争いもあった。将軍権威の弱体化と共に争いがより大規模化して表面化したともいえるのかも知れません。私たちが教科書で倣うのは時間的な制約もあって中央政局に絡むものだけです。しかし中央政局だけが歴史ではない。むしろ実際の歴史は地方ごとに存在します。 我々は様々なフィルタで歴史を捉えようとするから、多くの出来事を見落としてしまう。上っ面だけに捉われやすいのが弱点です。 大きな流れでいえば室町時代は、江戸時代の武家政権確立のための過渡期であって、中央政局だけを見ても何も理解できない時代であるともいえるのです。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

嫡子単独相続制度が確立していなかったか。 なので、有力守護大名と言っても、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1 この地図を見てわかるように、常に一族内に有力な対抗馬が存在した。 応仁の乱のきっかけが、畠山氏の内紛から始まったのが象徴的です。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.2

地方経済の発展が、一番大きな原因でしょう。 それまでは、地方経済が貧弱で、中央に逆らうだけの経済的基盤がありませんでした。 しかし産業の地方での発展により、地方が経済的に自立し、地方単独でも運営ができるようになったため、中央政府に従う必要がなくなったためだと考えます。 奈良時代や平安時代など、中央政府が混乱しても、地方で反乱が起きる程度で、全国的な戦乱とはなっていません。 これは、地方の産業や経済力が弱く、自立できないためだったと考えます。

  • 1582
  • ベストアンサー率10% (292/2662)
回答No.1

もともと将軍権力が弱かった

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