• ベストアンサー

般若心経の意味

なんですけど、 解説書もいろいろあり、どうやら誇大解釈が多すぎるような気がしました 誰かが解釈したそのままをほぼパクって常識的解釈になっていませんか?宇宙なんかを言われても、当時の人々に実際の宇宙がイメージできないですし おそらく世界旅行も出来ない時代に万物の法則ってごく狭い地域での法則特徴ぐらいだと思いますが? 色即是空、空即是色 原語でこれを聞いた当時の一般人はどうイメージしたのか?ぶっちゃた解説をおねがいします

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.9

こんにちは 般若心経全体の意味を書くと、ながーーくなるのでかけませんが、 質問の後半の部分だけ書きます。 色即是空 の部分ですが、原語で聞いた当時の一般人が受け取るイメージと 我々が受け取るイメージは基本、当然同じだと思います。 まず、「色」とは「物」とか「存在」と言う意味です。 も少し解説しますと、様々な世界の構成要素の「物質」 に該当します。(他にも構成要素はあります。) 「空」とは、一番簡単な意味としては「無い」とか 「無常」という意味です。 ですので、色即是空は 物質は空虚なものである という意味です。 基本的な本意としては、物に執着する人間の考えが誤り である(物は執着の対象とならい空虚なものである)という 事を意味しています。 読んで、その通りなので、原文でも基本同じような内容が 記述されています。 細かいことは書きませんが、般若心経全体から、宇宙の真実を 感じ取ることは可能とは思いますが、色即是空の1フレーズには その様な意味は無いと見るのが一般的だとは思います。

thank27
質問者

お礼

そうでしたか ありがとうございます

その他の回答 (8)

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.8

>「宇宙と認識で接点」がなんともよくわかりません 仏教の時間の最小単位という概念は瞑想による自己観察により得たものだと考えます。もし最小単位が確定すれば既存の法則の数式に定数として最小単位を組み込むことができるので科学的価値が高いのでしょう。一方で、仏教は時間というのは脳内の概念に過ぎないとも述べています。 最小単位という概念を先駆けて発見した仏教だから、脳内概念も正しいのではないかときて、ならば人間の認識力を反映したカタチで法則、現実はつくられるのではないかという思考の流れになっているのではないでしょうか? それは個人的には正しいように思えますが、それは哲学の範疇であり、科学といわれる質問者さんと同じく首を傾げたくなります。 科学に先駆けて哲学的考察がおこなわれ、後で科学的裏付けがされることはよくあるのですがね。

thank27
質問者

お礼

ごめんなさい良くわかりませんが、ご回答には感謝しております

  • mamoru333
  • ベストアンサー率39% (17/43)
回答No.7

>仏とか神を否定できるほどの理論知識がなかったからだと >思いますが それほど般若心経が永遠不滅の法則に >感じられない節もあるかと思いました いえいえ、般若心経が「永遠不滅の法則と思う事」に間違いがあります。 永遠なんてないし、不滅なんてのもありえないのです。 永遠もないし不滅もないけど、そう考えている人間あなた自身は いますよね。それを素直に見てくださいね。 というのが本来の意味に近しい内容だと思います。 永遠不滅の法則を思うことは、つまりすでに変化する中で 固定されてしまうので、それはとらわれている状態だから 空じゃないよねということです。 >正直、死、病 悩み・・こんなものは最初からないよ、 >無ですといわれて ハイ確かに!と誰が理解できますか? あと、ここも違うと思います。 無いのではなくて、自分から生み出している、もしくは自分以外の 現象からもたらされているものに対して抗えないんだから 素直に考えたほうが楽でしょ? ということであって、ここで言う「無」というのは 貴方は何も出来ない。心さえ自由に操るのも無理なのに それに対して抵抗するのは無駄ですよ?疲れるでしょ? 死や、病や、悩みを良く見て御覧なさい、貴方が自由に 操れるものはありますか?ないでしょ? ない事に対して、さも自分が支配できるように考えるから、 悩みが生まれるのです。もともと自分のものじゃない物を 操ろうとするのはあまりいいことじゃないですよ? それをとりあえず説明すると長いので「無」ということで よろしく。ということです。 色即是空、空即是色という言葉を言葉として捉えると きっと誤解を生みます。前回書きましたとおり 所詮書き物だからです。 ひとつ、体験例としてご紹介しますと、 例えば、普段食べているご飯をとびきりおいしいと 心から感動したことはありますか? 無いですよね。私も基本無いです。 ですが、1日2日まったくご飯を食べられなかったとき 一番始めに食べたご飯の味はどうでしょう? 普段なんとも思っていない物が、とびきりおいしい物 として「感じる」と思います。 ここの心の動きを見てみますと、まず自分が「意図して」 感動しているわけではなく、感動したという心の動き のみがあるわけです。そこで、こんなにおいしいと思えるのに 普段どうしてそう思えないのだろうかという疑問が出て来ます。 それは、普段と心や体の状態が違っているから。 つまり、自分で感じてはいるけど、自分以外の所から もたらせられているよね。それって自由にできないでしょ? じゃあ、それって何なの?といったときに、わからないから わかるようにした1つとして色即是空、空即是色ということです。 空は移ろいやすく、ひとつの場所に留まる事は出来ないんですよ。 良くも悪くも。だから、日常生活や自分自身をもっと大切に 見つめてくださいね。ということです。 でも、忘れるといけないので般若心経を作った。読んでね! ということかと思います。 原典は日常生活の他愛の無いことをただひたすら延々と 書いてある訳ですが、あまりにも長すぎるので 非常に短くしたのが般若心経かと思います。 ですが、他愛の無い事に意味を見つけるための指標の1つに なるのが色即是空、空即是色という言葉であると思います。 ちなみに私は宗教家ではありません。

thank27
質問者

お礼

ありがとうございました

  • ga111
  • ベストアンサー率26% (247/916)
回答No.6

あのー、般若心経 意味で検索すると、宇宙や宇宙の構造みたいのが議論されているとする解釈はほとんど見当たらないですね。 存在は議論されていますが、これは今もその当時の大昔も存在における共通項は、身の回りの存在から、太陽、星にいたるまでかなり有るとおもいますけど。 結局、ぶっちゃけ、thank27 さんが般若心経の意味をどう解釈しているか?をはっきり述べるとすれ違いがなくていいと思います。

thank27
質問者

お礼

すみません 途中でしたが 質問を打ち切りたいとおもいます パンチのあるご回答感謝しております

thank27
質問者

補足

http://enlighten.fc2web.com/index.html 私はここから理解しようとしてます 原語から中国語に訳し、中国語のニュアンスがピンと来ない日本人がさらに全体を神秘化した感じがぬぐいきれません 呪文(痛いの痛いの飛んでけ~)ほら治ったでしょ ・・に思えるのですが? 当時、死、病、悩みを嘆く民衆に世の中にはもっと厳しい状況の方がいますよ 考え方次第で何とかなります なぜなら空ですから・・・これが民衆には??なものの、エリート行者さんのお言葉なんでとりあえず信じたのかなぁ 運良く海外翻訳で神秘性が発揮されたのではないかと思ってしまいます 日本の武道みたいなもので外国人はそこに神秘、強い精神を感じるが 日本人は大半が そうでもないように・・・

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.5

認識論という基礎の基礎の謎は棚上げにして科学研究を進めていったら、それがネックになって一時停滞、その基礎的考察を過去に求めたら仏陀や仏教的蓄積を発見したという感じでしょうか。 まさか宇宙と認識で接点がみつかるとはね。

thank27
質問者

補足

反抗的ですいませんが 「宇宙と認識で接点」がなんともよくわかりません なんか単に類似点といいますか、似てるよなあ だけど別物、と思ったりしますが・・? 昔の未開拓民族に良薬といって歯磨き粉を飲ませて治療できるとか 悪魔を追い払って直すだとかと同じ行為が宗教の基本であって 要するに神秘的であることがすべてでは?と思ったりしますが どうも現代人は知識が増えて騙しにくくなったので 一般的に解りにくい宇宙、科学と強引に類似点を探しその気にさせているのでしょうか?

  • mamoru333
  • ベストアンサー率39% (17/43)
回答No.4

>インドよりはむしろ翻訳されて広がるときに  >あたかも日本の解説書のように意味を膨らませて >(ある意味ごまかして)しまったので他の国のほうが >より広まったのかなと思いましたが・・・? 意図してそうしたのかはわかりませんが、少なくとも 意味を膨らます、もしくは誤解して広まるという可能性は あると思います。 また、悪意があるかどうかもわかりませんが、 どちらかというと「正しく意味を伝える」こと自体 非常に難しいものだと思います。 例えば、thank27さんが私が今なにを考えているか わからないように、私もthank27さんがなにを考えているのか わかりません。コミュニケーションが成り立たせるには 推測や予測を使う以外方法が実はないと思います。 なので、「正しく真意を伝える」のは今も昔も 相当困難を極めるはずです。 そんな中で、現在もっともわかり易い例えとして 「宇宙」をという単語を使っているのかなあと思います。 なんかすごいでしょって思わせる効果はあると思います。 しかしながら本質はそこにはないと私は思っています。 結論から言うと理解したときの思いは今も昔も 変わらないと思います。 現在の人間は「宇宙」という単語を使うと大仰に聞こえますが、 数百年先の未来での「宇宙」という単語は日本からアメリカに行く 程度の気軽さしか持ち合わせていないかもしれません。 そのときに、もし般若心経の本質的な意味が変わっていないなら きっとまた大仰な単語を出す業者がいるでしょう。 その時代(未来)にthank27さんと同じ考えの人がいれば、 昔の人は宇宙旅行も出来ない時代に万物の法則って ごく狭い地域での法則特徴ぐらいだと思いますが? と質問が来るはずです。 つまり、100年前の人も10年前の人も今の人も未来の人も 感じることは同じでしょ?ということで、それを調べる方法が ないので本当はわかんないよね? ということを表現したいがために、色即是空、空即是色 であるんだろうなあと私は思っています。 色が移ろいでいるように見えるけど実は何もない。 何もないけど色が移ろいでいるように見えるよね。 でも実際はわからないんだよ。 でもそれだけでもすごいよね。と。 で、わからないけどなんかすごい象徴として「宇宙」 という単語が乱用されているんだと思います。 多分昔の人も、わからないけどなんかすごい象徴を 想像していたはずです。 あと、言葉で説明するのは不可能な部分は修行という 形で補ったのでしょう。きっと。 百聞は一見にしかずという言葉があるとおり、 聞いただけの内容と、見てみただけの内容では 非常に情報量が違ってきます。 ですので、聞きかじった物が誤解して又は都合よく 広まって日本の合う形で馴染んでいったというのが まあ、今の般若心経じゃないかなと思っています。 そう考えると宗派が時代を得るにつれて 多くなってきたのもつじつまがあうかなと思います。

thank27
質問者

補足

おそらくですが 昔の常識人であれば般若心経を否定しなかったと推測します 仏とか神を否定できるほどの理論知識がなかったからだと思いますが それほど般若心経が永遠不滅の法則に感じられない節もあるかと思いました たとえば普通の日本語に翻訳して見るとありがたみが半減するようにおもいますが? 正直、死、病 悩み・・こんなものは最初からないよ、無ですといわれて ハイ確かに!と誰が理解できますか? 超哲学者はころっと行くかもしれませんが・・・

回答No.3

 普通の人はパクッてドヤ顔するんでしょうね。その意味では、私の考えも大したことはないと思いますが・・・。  「宇宙」というのは天体の宇宙ではないと思います。「世界」も地理的な意味ではないでしょう。自分の心の奥の「心境」とか「想念」とかで描いているものだと思います。  例えば二人の人が同時に、同じ所で、同じ状況に置かれた(例えば、雨が降ったとか、友達に嘘をつかれたとか・・・)として、それを「幸」と考えるか、「不幸」と考えるかで二人の住む「世界」が違うのではないでしょうか。  自分の住んでいるのが自分の「世界」で、もう一人の人にも「世界」があって、その他の人達の「世界」もあって・・・、無限に広がって、「宇宙」になるのでしょう。自分の「世界」に留まるかぎり、「世界」は狭いままで、「宇宙」を感じることはないでしょう。  古代の人は、望遠鏡や宇宙船がなかったから、目で見える範囲とても狭かったでしょう。しかしその分、見えない世界を想像する力は現代人よりも深く、鋭かったかもしれません。  下の質問はまったく想像すらできません。

thank27
質問者

お礼

ありがとうございました

  • mamoru333
  • ベストアンサー率39% (17/43)
回答No.2

こんにちは。 ではぶっちゃけると、 自分の存在なんてあるかどうかなんて わかんないんだって。 ないわけじゃないしあるわけじゃない。 五感や心が勝手に感じているだけで。 何にもコントロールできないし 自分がいるというのも嘘かもしんない。 だって誰も証明できないでしょ。 証明できないのを証明しようとするから 複雑になって苦しむんだって。 わかんないものはわかんないでいいじゃん。 でもそうすると、わかんないことを解ろうと しちゃうからとりあえず、この言葉を唱えておけば いいんじゃない?舎利子さん。 と、このような感じかと。 当時、科学も発達していなく疫病や疾患で亡くなる方が 現代に比べて非常に多かったようです。 学問自体もなかった当時の人々は何で死んでしまうのか 何で病気になってしまうのかまったくわからないため 相当な恐怖であったと思います。 原因不明のなにかで、健康だった人が突然いなくなる そして自分もいつそうなるか解らない。 そういった恐怖から逃れる為に何かが必要だったのでしょう。 それが、人柱だったり祈祷だったりするわけです。 ですから、ここからは推測になりますが、 すがれるものは何でもよかったのかもしれません。 ただ、般若心経は非常に融通の利く、すがりやすい 理由の1つだったのかもしれません。

thank27
質問者

補足

仏陀の本拠地であるインドでは民衆にインパクトが少ない、お経だったということはありませんか? インドよりはむしろ翻訳されて広がるときに あたかも日本の解説書のように意味を膨らませて(ある意味ごまかして)しまったので他の国のほうがより広まったのかなと思いましたが・・・?

noname#150682
noname#150682
回答No.1

参考までに、 人気ランキングの上位のスレです。 http://okwave.jp/qa/q5262515.html?from=navi_ranking

thank27
質問者

お礼

参考になりますどうもありがとうございました

thank27
質問者

補足

日本人にはなじみの苦行は、インドでは行者さんが足のしびれ、空腹にあえて自分を追い込んで、苦しみが瞑想でエクスタシーに入ると何も感じない・・こんなイメージがもともと世の中は空である、痛みもないと自己満足の修行だったのかなと思いました 本来はややお粗末な奥深くない教えなのでインドでははやらなかったのかなと。。。

関連するQ&A