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ひとは心で納得したことを むしろ嫌うのか?
- ひとは心の琴が呼応するような言葉には従いたくないのか。
- しかし、自分の上からやってくる言葉にはうっとりしてくるのか。
- 肩書きがない言葉に心が揺さぶられるなら、それは大罪だと思っているのか。
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なるほど。そういう風に言われて考えてると、 何故言ってはダメなのだろうと考えます。 自分には、1つの考え方の道しかなかったのに、 2つの道になったような。 素人は意見を言うものではない、楯突くものではないと 言った感覚の私自身の固定観念。 意見を言う事で、その分野の新しさが生まれるかもしれない。 なるほど。 私自身は、上記の質問に対して、 確かにそのように感じるようになりました。
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そんなに驚かれましたか。。 自分が見る目がないと感じますね。 そういう風に言われて考えてみると、 絵について話したりだとか、政治に関して話したりする場合に 一緒に自分の位置までおりて話す人がいませんね。 知らないなら、質問をするなと言う感じに受け止められます。 知識のないものは話すものではないと。 あとは、自分の知識の無さが恥ずかしいと感じます。 私が勝手に感じていますね。話していて気づきました。 専門家になるくらい勉強してから話すべきだと感じています。 ですが、専門家になるための知識と、先程の自身の感動を考えると また意味が変わってきます。答えになっていない。 それはそれ。で考えるほどの自信がない。 私が専門家になったら、薄っぺらいなと感じました。。 やっぱりならないです。
お礼
そうですか。たしかに現実は現実ですし また別の角度からみれば――おっと またたびさん ご回答をありがとうございます―― 一歩一歩を踏みかためて歩くという堅実な態度でもあるように見えますが。 そうですね。専門家というのは手にわざをつけるといった場合を別として知識の問題であれば――これも 現場の体験とそれを積むという経験を別にしなければならないかも分かりませんが―― けっきょくその知識のゆたかさと ひとりの人間(また家族の一員)としての生活全般とのあいだが どのようになっているか。これはまた 人それぞれではないでしょうか。 専門の知識および経験が 生活全般とうまく合っていて たしかに何もかもゆたかに暮らしていると思える人の場合もあるでしょうが それほど簡単にコトは運ばないようにも思えます。 (あぁ ワーク・ライフ・バランスという言葉がありますね)。 すなわちつまり ここで言うアマテラス普遍語に精通した人の場合 素朴な生活者としてのスサノヲ人間語とのあいだに 多少とも何がしかの溝があるように思います。もっと言えば 専門家として名を成せば成すほど そのギャップは埋まるのではなくかえって深まって行くのではないか。そういぢわるく見がちになっても仕方がないほど その専門知識の活用では――おもに人文科学や思想のほうですが――必ずしも建設的ではないという印象を持つことが多いです。 これも ただ自分だけの印象であり感覚であると言われればおしまいですが わたしはもっとこれらの専門家の主張や発言にかんして 一般の人びとがツッコミを入れてもよいと思います。それによって さらによい内容の思想なら思想が生まれて来るのではないか。そう思います。 といったところで 話は単なる感想のたぐいになってしまいました。わたくしのほうは この主観と世間の流れとのあいだの違いを指摘したところで しりぞいたほうがよいかも知れません。 いえ けっきょくこの質問の問い求めたところは その両者のあいだの違いを認識して それでも主観の内容のほうもけっこういい線を行っている場合があると思われるので さっき言ったようにツッコミを入れてもよいでしょうし もっともっと互いのバランスを図り探ることもよいかと考えます。その作業としては この質問もまだ持ち堪えるようです。
そうですね。 あくまで私個人の感覚ですが、一旦絵に感動しても、 これは誰の絵か?価値があるのか?などを聞いて、 知らない人であれば、見る目がないんだなと思いますね。 そう考えるとおかしな事です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 えぇっ? ★ 見る目がないんだなと思いますね。 ☆ 誰がですか? 自分がですか? それともあまり感動しない一般の人たちがですか? 次の(1)か(2)か どちらでしょう? ★ 知らない人であれば〔* すなわちその画家が無名の人であれば〕、〔* (1)知られていない画家の絵に感動した自分が / それとも(2)こんなに感動をおぼえる絵を描いた画家がまだ無名だなんて 人びとは〕見る目がないんだなと思いますね。 ☆ (1)なら 世の中の流れに乗っかっているということでしょうし (2)なら自分の感動は自分の内面において大事にしておくということだと思います。 (1)の場合 そうしなければ生活が出来ないということであれば 仕方ないかも知れません。 いちおう収束しましたでしょうか。まえもって あらためてありがとうございました。またよろしくお願いいたします。
そうですねぇ。 回答に心が反発している感じがあります。 固定観念ですね。何か自分の中に固まりを感じます。 bragelonneさんのように分け隔てなく 接する事の出来ない原因が固まってある感じがいたします。 肩書きなんて必要は確かにないんですよね。 ですが、よりよくあるためにわかりやすいものを求めるのでしょうか? 私の固定観念が必要と言っていますね。 自信がないに繋がるんだと思います。 自分の判断に自信がない。 ですが、何故自信がないのか?と言う問いには、、 やはり世の中の流れに乗り切れていないと 自分が感じるからではないでしょうか? 流れに乗らないと、生活が出来ない。 能力がないと感じるからです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 なるほど――と反応してはいけないかも知れませんが 世の中のことでそれほど判断が簡単にできるというものも少ないのではないか。つまり 原発問題ひとつを取り上げてみても 一般の人間は たやすく結論を出せるというわけではない。それなら いちおう権威と呼ばれる専門家の見解にしたがったほうが無難である。 このような見方のようですね。 ふたつ 思い浮かびました。 ひとつは 専門家と呼ばれる人たちのあいだでも意見が分かれることがある。困ったものだという情況。 ひとつは 何度もくどいように言いますが 問いとしてはすでに初めに《心に感動を覚え 納得している》という前提があることです。 一般に人びとは自信はないのですが 回答No.1の中に出て来たように《絵》に感動するという場合などは よくある一般的なことだとも思われます。そのときすでに自分の心では納得をしているということです。 それでも 無名の人が描いた絵については その感動を発表するのは憚られるのか? という問いです。 ★ ~~~~ やはり世の中の流れに乗り切れていないと 自分が感じるからではないでしょうか? 流れに乗らないと、生活が出来ない。 ~~~~~ ☆ 絵についての自分の鑑賞ということだけでは 世の中の流れから離れていると感じるでしょうか? ★ 自分の判断に自信がない。 ☆ のだけれども 同じ自分は 絵を見てうつくしいとすでに感じ思っています。それでも一たん何か確実で《信憑性のある》専門家の批評を フィルターとしてのように とおす。ということでしょうか? ちょっとくどくなりましたが。
奥深い質問ですね。 一つは、自分に自信がないから、そういうものに流されるのではないでしょうか? もう一つは、肩書きがある人は、努力して行動した結果を持つ人が多い。 経験を持たない人のコメントより、経験のある人のコメントが信憑性があるのでは? 例えば私がbragelonneさんと逆に昔から思うのは、何故 ある特定のスポーツの出来ない人間がプロに対して、監督にあぁしたほうがいい。こうしたほうがいい。 選手に、何であんな球取れないんだとか言いあってる事ですね。。 スポーツニュースなどでも平気でまかりとおっている。
お礼
またたびさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。こちらの質問は 出来るだけ内面へ入って行ってその奥底にある思いなどを探ろうというねらいです。 ところが逆に 《肩書き》問題は 単なるお墨つきの有るか無いかではなく あくまで《経験がものを言う》世界のことなのだ。だから その人びとの発言には 重みがある。一般の人びとも参考すべきところが多いはずだ。――こうなりましょうか。 そうですね。まづ現段階での結論(たたき台)としましては 出発点がすでに《感動をおぼえている》という前提になっているということだと思います。 ☆☆(趣旨説明) こころの琴が おのづから呼応して鳴りだすような / 心で納得したこと ☆ ですから このコトが 有名人か無名人か 肩書きのある無い 経験が豊富か乏しいかに関係なく すでに起こっているという前提なのです。 原則としては いま述べたようですが 実際問題としてはおっしゃるように《経験の豊富な人》の場合のほうが 一般にこの心における感動を味わうことが多いわけだとも考えます。 ですから そのコメントを取り上げてみても 経験者のほうが深い味わいがあると素直に認めたいと思います。 そこで――しつこくなおも――問うてみたいのは 次のことです。 ★ 経験を持たない人のコメントより、経験のある人のコメントが信憑性があるのでは? ☆ この《信憑性》如何ということです。 ここからややこしくなります。 それを簡単に言ってしまえば こうです。 ○ たとえ未経験の人のコメントであっても 経験のある人のそれと同じように味わい深いものがあると思ったとすれば それはもう《信憑性》いかんの問題ではなくなっている。のではないか? ○ つまりすでに《わたし》は心に感動をおぼえているからです。 そこであらためての問いは こうです。 ○ 一般に未経験者のコメントはどうしても信憑性がないと見られがちであるから たとえそのコメントに自分が感動したとしても やはりこれを嫌うべきなのか? つまりは自分の感性をも信頼できないとして そのはたらきの結果を捨てるべきなのか? ☆ こうなると考えますが どうでしょう? ★ 一つは、自分に自信がないから、そういうものに流されるのではないでしょうか? ☆ というもう一方の側面の問題でしょうか? なぜ自信がないか? この問いをも含んでいるのですが それは《どこか上のほうから 何らかのクウキが流されて来て そのクウキに乗っかってしまう》 こういうことでしょうか?
- gamera4500
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こんにちは 質問の趣旨が、いまいち解らないところが、あるのですが、ご参考までに。 下記のものには、それなりの価値は無いでしょうか? (1)アメリカ大統領の書いた絵 (2)横綱が書いた絵 (3)ショパンコンクールで優勝した人の書いた絵 ・・・ 下記のものに、価値を見出せるでしょうか? (1)知らない人の書いた絵 (2)友達のA君の書いた絵 ・・・ 「絵」は大して意味は無いのではないでしょうか? 「言葉」もそれ程意味は無いと思います。 多分、回答にはねっていないとは思いますが、ご参考までに
お礼
ううーん そうですね。わかるような気がしますが――おっと がめらさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。――たぶん 問いは おっしゃっていることをすでに突き抜けているところから出発しているかも知れません。というのが 申し訳ないですが 正直なまづ初めの印象です。(あとからの書き込み:途中から 転調することになりました)。 たとえば ☆☆(趣旨説明)~~~ つまり何事もお墨つきが要るのか。 ――いやいや そうではない。という心の言葉を 何が阻み誰が闇へほうむるのか。 ~~~~~~~~~~~ ☆ ですので ★(要約) 有名人など肩書きのある人 対 たとえ知り合いでも無名人で肩書きの無い人 ☆ という対比は 要らないという地点に この質問者の思いは立っています。 すなわち ☆☆(趣旨説明) こころの琴が おのづから呼応して鳴りだすような言葉 ☆ をすでに前提した上で 話を進めようとしています。言いかえますと 《知らない人の描いた絵》にしろ《アメリカ大統領の描いた絵》にしろ どちらの場合にもそのいくつかの絵の中ですでに《心が揺さぶられ感動した》もののみをあつかっています。 さらに細かく見てみたいと思いますが この場合には《肩書きのある人》の作品が感動を呼んだとしますと そのときにもすでに《肩書き》は脇に置いておくというかたちです。《肩書き》でその絵をうつくしいと感じたのではないという前提を置いてしまっています。 ということは たとえば絵に感動をおぼえるという事例としては 有名人および無名人のどちらの作品もうつくしいと思ったという場合には それでは有名人の絵なら堂々とそう言えるが 無名人の絵については そのように発言することはためらわなければならないのか。という問いになると考えます。 でも この第一印象から出発したお応えは まだご回答の半分にも達していない。ようでもありますね。 つまりただし――ただし です。ただし がめらさんのお考えでは そのような出発をしている場合にも 次のような見方をしておられましょうか? ★ ~~~~ 「絵」は大して意味は無いのではないでしょうか? 「言葉」もそれ程意味は無いと思います。 ~~~~~~ ☆ すなわち逆にと言いましょうか 無名人の絵にせよ言葉にせよあるいは有名人のそれらにせよ そもそも人間の言うこと為すことに それほど大した意味はないのではないかと。 言いかえると 人間の作品におぼえた感動というもの これとて それほどのことではないのだ。いづれ移ろい行く感覚であり 通り過ぎて行くひとこまなのだと。 これは どうでしょう? ずばり質問者が自分の考えを言ってしまえば それはそうでもないだろうと思っています。 ☆☆(趣旨説明) 自分の魂が揺さぶられよう // こころの琴が おのづから呼応して鳴りだすような言葉 ☆ という表現では あたかもおのれの人生を決めてしまうような衝撃のある感動を言おうとしています。 この世界をあるいはおのれの心の中をそしてさらに特にはそのどこかにあるだろう闇を照らしてくれる光に出会うこと このような事件には何がしかのおどろきがあります。あるいは おそれがあります。 ところがさらには わが心の灯心をともしてくれてしまった感動の体験ということもあり得ます。あります。 世界を照らしてくれた光と わが心の中にいつしか灯った(灯らされた)光と この明かりには 避けがたく抗いがたいちからがあるように思います。《意味》があたかもあるように感じます。 ほかの人にとっては《大した意味がない》かも知れません。けれども その本人には ほかの何ものをもってしても替えがたい或る体験なのではないでしょうか。 そのような《心で納得したこと》を取り上げたいと考えています。 つまりは むしろそれほどのちのちまで――たとえがわるいですが――心に残る《大地震》の場合には このような場合には ひとはむしろそれを嫌おうとするクセがついているのか? 心が揺さぶられていたとしても それほどの《意味のあること》は信用できぬと思っているだろうか? こういう問いです。 また仮りに信用してみようかという場合 そういう場合があるとしたら それは《肩書きがある》場合であり 《お墨つきがついている》場合に限るということなのだろうか? これです。 要らぬひとことをつけ添えるとしたら こうです。 人びとは 見る目がないのか? 見る目はあるが それを公言する判断力も意志の力もない。のか? いや あるにはあるが それにはほかの人たちの・そして特にはおえらい方々の顔色をうかがってからでないと できない。のか? もしそうだとしたら いったい何が人びとの自由をうばっているのか? むしろ《ひとは ウソにひと安心するのか》? あらためていかがでしょう? (われわれ日本人のこころは さまよっていましょうか? そもそもさまよっているのが 心なのでしょうか どうでしょうか?)
お礼
おおおおーっ! ですね。――まづは ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ 自分には、1つの考え方の道しかなかったのに、 2つの道になったような。 ~~~~~ ☆ たぶん これでしょうね。つまり一方の振り子の極から他方の極へ振り切っても何にもならないと言えるでしょうから。 ★ ~~~ 意見を言う事で、その分野の新しさが生まれるかもしれない。 なるほど。 ~~~~~ ☆ たぶん そういうことだと思います。いまでは素人の意見や感覚が 商品開発などにも活かされて来ているのでしょう? 一件落着でしょうか。 ありがとうございました。