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物質的豊かさと精神的充足の関係について
- 物質的豊かさと精神的充足は、身体と心の違いから二分されています。
- しかし、身体と心は同じことではなく、モノの便利さや豊かさを享受して満ち足りた生活を送る境地には、物質的豊かさと精神的充足の両方が必要です。
- 経済的な豊かさによっても心の充足を得ることは可能ですが、生きる目的を二分して捉える考え方はどこから来るのか疑問です。
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#10です。 「≪物質的豊かさ》と《精神的充足》に何故分けるのか」 という場合、誰がどのような局面で分けているのか、がわからないと難しいと思ったのですが、 先のご質問の、 ★ 生きる目的が、物質的豊かさであるなら ☆ と条件づけられたひとつの場合にあてはまると受け取られたのは どうしてかです。 というところから来ているわけでしょうか。 愛の問題について問うておられるのでしょうか。 ただ、あれこれ参照するのは面倒なので、今回のご質問タイトルだけに沿って答えさせていただきます。 必要な場合は個々の答えに対応した形で補足していただければと思います。 そこで、≪物質的豊かさ》と《精神的充足》について。 ≪物質的豊かさ》というのは、厳密に言うと、 ≪物質的豊かさを通して得られる精神的充足》ということでしょう。 精神的充足の伴なわない豊かさというものはおそらくないでしょうから。 ですから、仮に誰かが分けているように見えても、実際は分けているわけではない、と私は思います。 どうも、ブラジュさんの論点がよくわからないので、ここから論を進めていただけるとありがたいと思います。 一体に、充足という現象自体が精神的なものだと思います。 物質的豊かさだけで何かの尺度になることはないでしょう。 物質的豊かさによって得られる精神的充足、と敷衍して初めて意味を持ちます。 つまり、【本質的には】分けようにも分けようがないのではないでしょうか。 仮に分けるとすれば、単に思考の過程としてでしょう。 意識と無意識は実質上分けられませんが、両者を裏表の関係として認識する際に、このように両者を分けて表現することができるのと同じだろうと思います。 ブラジュさんのご質問意図に合致していないのかもしれませんが、こんなところです。
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- 来生 自然(@k_jinen)
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あらゆるものは、「全体」から派生し、その「部分」でありつづける(切っても切れない関係である)ので、「身と心」という「完全な」二分法はあり得ません。 たとえば「心」においても、「意識・無意識」とか「知・情・意」とかいった概念区分がありますが、これは、機能の差(脳内の機能局在という意味では、「働く中心が異なる」)に相当します。 「心」について言えば、心という概念で捉えうる「心の全体」と、「異なる機能」といった概念で捉えうる「意識・無意識」とか「知・情・意」とかいった部分の概念(完全・独立な二分とか三分ではなく、どちらかといえば、境界が曖昧で動的に変動しつつ、重なり合い相互作用しあうといった概念)となるでしょう。 「身と心」について言えば、物質的な側面での身体という概念と、(たとえ物質に還元されたとしても、安易には)「物質に還元し得ないであろう」と思われる「心」という概念区分を、(多くの人々が)想像したり想定したりしうるということ、そうして、そういった概念区分を人々が共有可能だということから、「身と心を含む全体」において、「異なるもの」としての「身と心」という部分概念が派生するのでしょう。 もう少し突っ込んで言えば、個と全体との関わりの中で、たとえば「受精卵からの細胞分裂過程にて頭が他部位から分かれてくる」などから「身と心」という機能局在が生じると考える事もできます。(発生と分化は細胞と環境間にて能動性と受動性が同時進行するものです) 同様に、双頭で生まれ育つ子供や、多重人格の場合には、「身と心1と心2と・・・」といった更に多くの機能局在(多中心性)にて、部分概念を想定可能でしょう。 全体の部分が、機能の局在部位(ないし中心)が異なるということは、それぞれにおいて、価値判断の基準が異なりうることを意味します。たとえば、夏の暑い日に右手で熱いものを触って左手で冷たいものを触ったときと、厳冬の時期に同様の状態になったときでは、(仰るところの充足に相当しうる)「心地よさ」の中心が右手か左手かと異なるでしょう。 同様に、「心と身」という概念区分が生じる以上、機能の局在部位(ないし中心)が異なっているので、それぞれにとっての「充足」には温度差が生じうるということではないでしょうか?
お礼
まだ説得――残念ながら 不遜に思われるというおそれをいだきながら――されません。 じねんさん ご回答をありがとうございます。 なぜご説明に不満をいだくか? (1) 次のような《充足をめぐる温度差》は 《身と心との――ともかくの―― 一体としての〈わたし〉》にとってのモノおよびその享受(つまりこちらは心のはたらき)のやはり一体における《充足》と言っているのであって そこでは別に《物質的豊かさと精神的充足》との分離・分割は問われていない。と考えられるからです。 ★ 機能の局在部位(ないし中心)が異なっているので、それぞれ〔* つまり要するに 感覚器官における知覚およびそれの認識といったハタラキそれぞれ〕にとっての「充足」には温度差が生じうるということではないでしょうか? (2) つまりは 身の器官における《知覚》とそれの――精神のハタラキを介する――《認識・意識》とは とうぜんつながっています。 たとえば PC というモノを持つ或る種のゆたかさと PC をとおしてまなび対話をとおして互いに情報を交わしつつそれぞれ境地の向上を目指すという言うなれば精神の充足と この二つのことはそれとして区別されそこに享受の仕方についての温度差が 生じている。 けれども 後者の精神的充足は けっきょく物質的ゆたかさとやはり一体なのではないですか? あるいは 仮りに分けたところの精神的充足からは それによってわが身体の状態に対してもよき結果がもたらされましょう。身体の状態がよいゆえに 精神的充足をより深く効果的に得ることができましょう。 (3) すなわち ことは――ここでの問いの焦点は―― 単なる二分法にではなく ☆☆(趣旨説明) ~~~~ 4. この二分法は いったいどこから来ているのか? 《生きる目的》がこれらに二分されると見るのは いったいどういう料簡から来るのか? ~~~~~~~~~~~~~ ☆ というように《生きる目的》をこれら二つに明確に分けるという考え方 ここにあります。 (4) この二分法は 意味がないではないか? 精神は そんなにえらいか? 仮りにえらいとしても そこに同時に身体も あるいはそれとしてしかるべき物質も 伴なわれているではないか? (5) あるいは仮りに《精神的充足》をもっぱら《生きる目的》にしているとしてみましょう。 だとしたら そのときには 物質的なゆたかさにめぐまれなくても その精神の充足が得られるであろうし それでよいと主張していましょう。 ということは まったく同時にそのときには 物質的なゆたかさにめぐまれていた場合にも その人は精神の充足に《生きる目的》を特化しており そのゆたかにめぐまれているモノに対してもその精神の充足にかかわる限りにおいて接しそれとして享受しましょう。 (6) すなわち確かにおっしゃるように《温度差》は 人によって・あるいは同じひとりの人でも人生の段階によっては 違ったかたちでではあれ それぞれに持たれましょう。ところが そこには つねに《身と心 あるいは モノと心》これらは それぞれの場合において やはり一体であると見なければならないはずだ。それ以外に考えられましょうか? (7) ひょっとして《生きる目的》をモノとココロとにあたかも互いを排除するかたちで分けてその思想(生活態度)を決めるというのは モノのゆたかさが得られなくて裕福な人びとの生活にやっかみをいだいている ただそれだけのことなのか。 ならば 精神的充足すら ニセモノぢゃ。 * ☆ この質問は このような内容をすでにその出発点に持っています。ので 残念ながら 不遜に見られかねないながら このたびのご回答内容には不満がのこります。 ★ 全体と部分 ☆ という切り口を出しておられますが そこで――質問者からこれからの問い求めの発展のために考えるところをぶしつけにも述べるならば―― はっきりしないと思われたことは いわば補助線が おそらく《単位体》という実際上の概念にあるはずなのではないかです。 もっと早い話としましては 《人間》という存在としての単位体であり さらにはそんな類というかたちとしてというよりは個別に《わたし》という存在のことです。 《わたし》は ひとりの存在としてひとつの《全体》です。むろんそこには 身としても器官などの部分があり 心としてもご説明があったように〔わたしの捉え方としてなら〕感性のほかには記憶と知解と意志という精神の三つのはたらき つまり部分があります。 おそらくこの《わたし》は社会もしくは世界あるいは経験世界の全体としての宇宙 これらそれぞれの《全体》に属しそれらとの関係の仕方を持ちます。 ★ 同様に、双頭で生まれ育つ子供や、多重人格の場合には、「身と心1と心2と・・・」といった更に多くの機能局在(多中心性)にて、部分概念を想定可能でしょう。 ☆ 多重人格については暗いので措いておきますが 双頭の人〔びと〕は 頭のほかの身がひとつであっても 頭のそれとしての存在に応じて それぞれが《身と心》を独自に持つと――つまりはそれぞれに単位体としての《わたし》が存在すると―― 見てはどうでしょう? 部分概念の問題が 整理されて来ると思われます。 そういう意味での《単位体》を補助線としてのように引くとよいと 言わずもがなでしょうが 思いしたためました。 《内と外》を言っていたのは じねんさんだったのでは? それは多くの場合 《わたし》をめぐる内と外だと考えられます。あるいは 《わたし》の認識や思考を媒介としてわざわざ一たんにでも措定するかたちでの内外なのではないでしょうか? すなわち その《わたし》には――よきにつけ悪しきにつけ 世界のあらゆるものごとに対する物指しとなるような《わたし》には―― 《身と心 あるいは モノとココロ》との二分法を適用する場合というのは 狭く少ないと考えられます。このことを問うています。どうでしょう? 温度差をおしえていただきましたが それも《モノとココロ》との一体となったかたちにおける感覚と認識・意識についてのであって モノかココロかに分けて温度差があるというのではない。どうでしょう? (モノのゆたかさ・ないし乏しさには 温度差以上の格差があり得ますが その多寡に応じてそれぞれココロは伴なわれていましょうし むしろココロは モノの有無にかかわらずモノゴトの善悪をも超えて 高く持ち得るとすれば そういった《精神的充足》のことを言っているとも受け取り得ますが なぜ生きる目的の中身としてもっぱらそこに特化させなければならないのか? です。 つまり 境地という見方をすれば 精神的充足という言い方もぎこちないと感じられましょうし そのときもっぱらそれに特化すること・すなわちモノのゆたかさをあたかも悪魔か何かのごとく排除すること このことには むしろ病的な感じさえいたします。 境地といえば それは《物質的ゆたかさと精神的充足》との彼岸に――しかも海を超えた彼岸だとしても 道のつながった彼の岸に――そうとすれば特化すればよいのであって なんで《もっぱら精神》なのか? この問いです)。
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お礼
はこぶるさんとの対話は この件にかんしては これ以上やっても時間がもったいないだけになったと思います。 共通の理解に立てたと思います。 まづは ご回答をありがとうございます。 ★ 仮に分けるとすれば、単に思考の過程としてでしょう。 ☆ それを 《生きる目的》として二者択一にしているので 怒れて来ました。 はこぶるさん ここまで引っ張って申し訳なかった感じを持ちます。 ただもしせっかくの問い求めの場だとしますと お気が向いたらでいいんですが この質問の回答No.4のその文章を よろしかったら解読してもらえませんか? わたしも再考した結果を補足欄に書いていますが なにぶんこの質疑応答の場では《議論》はしてはいけないという考えの持ち主でいらっしゃって 補足要求もままならない状態です。 ただし――短い文章ですから―― いちど読んで解読するにあたらないと判断されたのでしたら もう打っ棄ってください。 ちょっと押しの強いお願いですが。