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欲望を抑えるのは神の意思に背くのではないか?

人にはいろいろ欲がある。 しかし、我々はある程度その欲を抑えて生活している。 金銭欲があるからといって、金儲けのために無茶苦茶な ことはしないし、性欲があるからといってレイプもしない。 しかし、これは正解なのだろうか? 人を神がつくったとすれば、神がつくったものを否定 しているのではないか? 例えば、スピードのよく出る車をつくったのだが、それは 欠陥商品と考えて、スピードを抑えるように改良した。 と、いうのと同じで、最初に神は欠陥をつくったのだろうか? いづれにしても、全能の神がうっかり欠陥をつくることななく、 故意につくったものであれば、それを抑えたり改良する事は 神の意思に背いているのではないだろうか? みなさんどーおもいます?

みんなの回答

  • agripapa
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回答No.13

英国の移民がアメリカに移住した頃、インディアンにトウモロコシの種を分けてもらって生活ができていった そのうち、インディアンは自ら住んでいたあの広大な土地からさえ駆逐されてしまった 英国が清国との貿易で、いるものがないからといって貿易を断られると阿片を流し戦争を仕掛ける その文化を読むことさえできないまでにインカはどうやって滅んだか 地球を食い潰すエイリアン国家の侵略を仕掛ける口実はいくらでも作れるってこと かな 極端な話、口実なんてなくったっていい みたいな 人が歴史に学ぶ意味とは何処にあるんだろう。。 旧約聖書はバベルの項で神は人間の統一化行動を否定し、それぞれの言葉を話すように分散化させた意味は何処にあったんだろう。。。 ね? `

noname#194996
noname#194996
回答No.12

自然界をごらんなさい。 喰えるからといってとことん喰いまくっている猛獣などいないし、 出来るからといってレイプしまくっている猛きオスもいない。 走れるからといって100Kmhでのべつ幕なしに走り続けるチーターもいないし (すぐ心臓に来て頓死するでしょう)、 可能なことならすべて欲望の赴くままに暴走するのは人間、それもキムジョンギルか 協賛中国の大幹部連中くらいのものではないでしょうか。 >全能の神がうっかり欠陥をつくることななく、 故意につくったものであれば、それを抑えたり改良する事は 神の意思に背いているのではないだろうか? そんなことはありません。 神は能力を授けるとともに、かならずそのブレーキも同時に付与したのです。

  • agripapa
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回答No.11

全能の神ということなので、ユダヤ教唯一神系の範疇で回答すると 蛇にそそのかされたからということでなくても、食べる自由もあったのだろうと考えられる状況の中で 知恵の木の実は食べてはならないというアダムとイブに与えた神の禁忌は、欲望を抑制させることが人間にとって必要であることを意味している象徴と解釈されます 例えば、スピードが出せる車で、スピードを抑制して運転できるドライバーが最も安全に目的地につける 目的地とは。。 `

回答No.10

コンピューターの様な無心状態こそが本来の理想形なのでありまして、 そもそも疲労等によるストレスの存在が認識されていませんでしたら、 欲望さえもが湧き起ってきません。 寧ろ、鍼灸理論でも問題視されています通りに、 欲望は経絡上の随意筋の異常攣縮に起因しています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3#.E4.BA.94.E8.A1.8C 従いまして、抑制されねばならないのではなく、 残念ながら、欲望が発生していることが既に問題なのです。

回答No.9

どのような知性も、「欲望を抑える」ものではなく、 欲望を最大限(人生を通算して)に発揮するために、 その発露方向を曲げる(短絡的ではなく)ものであり、 単に「抑える」のではない。

  • hakobulu
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回答No.8

>しかし、我々はある程度その欲を抑えて生活している。 金銭欲があるからといって、金儲けのために無茶苦茶な ことはしないし、性欲があるからといってレイプもしない。 : そのような生き方をする動物として人間を作ったのでしょう。 神の意思どおりだと思います。 神に意思があればですが。 また、例外はつきものでしょう。  

回答No.7

 こんにちは。  《神は創造主である》というのは ただの物語です。実際かどうかは 人間には分かりません。    《神の意志》も ほんとうには人間には分かりません。  わが主観において分かったという人が あるいはときが あるかも分かりませんが それは その主観の内におさまるものです。  極端なことを言えば 欲望であろうと何であろうと おまえたちが勝手にふるまいたまえと もし神を人格化して言ってみれば 言うことになりましょう。  自由意志というヤツです。  なぜわざわざ全知全能の創造主などというたとえによる作り話で 神と人間の物語を編んだか?  それは この世界あるいは人間という存在を超えた領域が あるかも知れないということを言おうとしたものです。  わたしは わが心をすら自分の思うとおりに運転することも出来ないとさとったときから この世界を超えたところにナゾの力を想像して――もしくは 或る日そのようにヒラメキを得て―― そのときからこの人間のいる世界とそれを超えた領域にきよらかなおそれをいだいた。  このおそれは生きている。とさとった。  その結果が ただひとつなる(つまり 全体としての一なる)無根拠の存在を想定するようになった。こういうことだと考えます。  欲望も何もかも 自由に もっと自由に もっともっと自由に もっともっともっと自由に 自分のものとして振る舞うようにしましょう。  あのきよらかなおそれをいだいているなら きっとすべてが――多少のウソをつき多少のあやまちをおかしても―― 益となってはたらき これぞわが人生だという世界を生きることができるでしょう。

  • kagakusuki
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回答No.6

 欲望を抑える理性というものも又、神様が人間に与えたものです。  ですから、欲望を持ちながら、それをある程度理性で抑える姿が、人間の正しいあり方であり、欲望と理性の両方が存在している事を認めた上で、そのバランスを取ろうとするのではなく、どちらか一方(この場合は理性)を否定するのは、神様が創ったものを否定する事になると思います。  例えば、自動車には必ずアクセルとブレーキがありますが、スピードのよく出る車を運転する際に、ブレーキを踏む事はその車の性能を否定する事だと主張して、一切、ブレーキを踏まずに、アクセルだけを踏み込む事が、正しいと言えるでしょうか?  アクセルとブレーキの両方が備わっていて、どちらも確実に機能する事が、車として正常な事なのであり、もし、ブレーキが利かない車があれば、その方が欠陥車という事になります。  それから、私個人は、神が完全な存在であるという考えには疑問を持っています。  もし、完全な存在と言うものが存在するとすれば、その様な存在は、それ自身で完結していますから、他の存在を必要とする事は無い筈です。  もし、完全となるために、他の存在を必要とするのであれば、それは完全な存在とは呼べないと思います。  そして、完全な存在であれば、無駄な事、必要のない事はしないと思います。  完結しているのであれば、それ以上何かをする必要はありませんから、それ自身で完結している存在が、更に何かをする必要は無い訳で、従って、完全な存在となっているものは、それ以上行動する事は無いのではないかと思います。  神様は、人間を始めとして、この世の万物を創造されたのですから、もし、神様が完全な存在だとしたならば、不必要な事をした事になります。  従って、神様は完全な存在ではないという事になると思います。  もし、完全な存在と言うものが存在したとすれば、その様な存在は只そこに存在しているだけで、新たに何かをする訳ではありませんから、我々人間に対して利益か害を与える様な行動をとる事は無く、又、完全な存在となれば人間が傷付けたりする事は不可能な筈ですから、大地を掘って鉱石を取り出す様に、我々人間が完全な存在を利用して、何らかの利益を得る事も出来ないのではないかと思います。  つまり、もし、完全な存在と言うものが存在したとすれば、その様な存在は、我々人間にとって、道端の石ころ程の役にも立たない存在という事になりますから、神様は不完全であられるが故に、我々人間にとって重要な存在である、と言えるのではないでしょうか。

回答No.5

そう思いますよね。あまり深くは読みこんでおりませんが、シルバーバーチの霊訓をまとめた「シルバーバーチは語る」にその疑問に対する解答が書かれてあります。シルバーバーチが語るところによれば、 1.この世は大霊の摂理に支配され、摂理は一寸の間違いもなしに働いている。   その摂理には自分が蒔いた種は、自分で刈り取るという因果応報の理も含まれている。 2.霊は不滅であり、また、この世は自分自身を磨くための修業の場であり死後もなお修業が続く。 3.人間には自由意思が認められているがためにその裁量で良いことも悪いことも実行できる。   それも大霊の摂理のうちであること。 4.もし。、この世で正されたなかったものはあの世で正していくことになる。   つまりあの世で苦労するという事です。私の浅い理解では、大霊は人類に霊的な成長を果たすことを望んでおり、それが苦労をしたり、困った人を助けたりすることで成就されていくものであるという事で、好き勝手で自由奔放に生きることは魂の向上に資するものではなく、いずれ魂の向上のために過酷な状況に陥ると理解しています。詳しくは「シルバーバーチは語る」や関連サイトをご一読ください。以上ご参考まで。

回答No.4

速度制限をする日本政府(?)が間違っています。ドイツを見なさい。スピードの出る車はスピードを出して走っています。250Km/H の車両を実現したら、250Km/Hで走るのです。そのメリットとリスクは個人が選択することであって、国家権力が規定することではありません。日本人はまだまだドイツ人から学ぶべきことがたくさんあります。

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