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日露戦争前後の日米関係
米国はロシアの満州進出に不快感を感じており 日本を支持したのに戦後日本は満州を独占した 為日米関係が悪化したと息子が学校で教わった そうです。 満州進出はやはり誤りで朝鮮と台湾で我慢しとけば 米国を刺激せず敗戦を回避できたのでしょうか。
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>米国はロシアの満州進出に不快感を感じており 日本を支持したのに戦後日本は満州を独占した 為日米関係が悪化した 米西戦争でスペインからフィリピンを奪ったアメリカは、 そこを足がかりとして中国に経済進出しようとしました。 ところが既に中国では英、仏、独、露、日がそれぞれの 勢力圏を設定し、経済的政治的特権の強化を計っていた ので、アメリカの輸出商品が締め出される恐れがあったの です。そこで1899年、当時の国務長官ジョン・ヘイは どの国の商品も関税や運賃で差別されないという原則、 いわゆる門戸開放の原則を列国に提案し、ほぼその同意を得 る事に成功します。 ところが、1900年、中国で列強の侵略に対し、中国の 青少年が義和団事件という抵抗運動を起こします。 清朝はこれを支持しますが、列強はこれを鎮圧し、清を 半植民地化します。義和団事件がおさまると、列強各国は 兵を引き揚げますが、ロシアだけは満州に居座り、満州を 独占しようとします。これが先述の門戸開放を主張し、 満州への経済進出をもくろんでいたアメリカの怒りを買い、 1904年に始まった日露戦争では、日本にイギリスと 共に戦費を貸すという形で日本を支持することになります。 (アメリカが狙っていたのはあくまで経済進出なので あって、日露戦争そのものには紛争に巻き込まれるのを 恐れ、あまり深入りしたがらなかったのです) さて、戦争が始まると日本の連戦連勝、貸した戦費の回収が 見込めるアメリカにとっては喜ぶべき事だったのですが、 今度は日本が東アジアで強国としてのさばると、アメリカ と利害の衝突をきたしてしまうので、ロシアを説得し、日本 との講和あっせんに乗り出します。(とはいっても日本には もうこれ以上戦争を続ける力はなかったのですが)前述のように この問題に深入りしたがらなかった米大統領ローズヴェルトは、 最初講和会議をヨーロッパで開くよう勧めましたが、日本が アメリカを望んだので、講和会議をポーツマスで開催、 アメリカは日露双方に譲歩を求め、1905年、調印にこぎつけ 日本は賠償金こそ取れなかったものの、長春以南の南満州鉄道 及びそれに付随する権利をロシアから譲渡されることになります。 この日本が獲得した権益にアメリカは目をつけ、アメリカの 鉄道王ハリマンは南満州鉄道の共同経営を日本に持ちかけ、 一方ロシアの復讐を恐れた日本もアメリカと一緒に経営した方が いいと判断し、一度は仮の約束をするのですが、小村寿太郎が 強硬に反対し、結局仮条約は取り消しとなります。当然ハリマン はかんかんになり、アメリカ議会に日本は中国を独占し アメリカを入れないつもりだと訴えます。 さて、日本がロシアを戦争で破ると、有色人種の国が白色人種の 国を破ったということで、アメリカは日本を脅威とみなすように なります。 一方、日本でも日露戦争後の重税に国民は生活苦にあえぎ、 (とんでもなく戦費がかかったのです)その結果 1906年までに7万人に及ぶ日本人移民が新天地を求め カリフォルニアに移住します。 安い賃金で勤勉に働き、しかもアメリカ社会に入り込もうと する日本人は、カリフォルニア州の労働者にとって、雇用を 脅かす恐ろしい存在として映り、カリフォルニアではこれを 「黄禍」とよんで日本人排斥を始めます。 (中でも問題になったのは1906年、サンフランシスコ市が 日本人学童差別命令を出し、公立学校から日本人を締め出した 事件です。) こういったことがあって、日本では反米感情が高まり、また 先述の鉄道のこともあったアメリカでもその反動として 反日感情が高まり、太平洋をはさんで日米が戦争をするという 危機さえ叫ばれるようになります。この事態を重く見た ローズヴェルト大統領は、サンフランシスコ市長をホワイト ハウスに呼んで、日本人学童差別命令を撤回させるよう説得、 一方日本も、自主的に移民を制限するという「紳士協定」 に同意する事になります。 さて、差別命令は撤回され、問題は一応解決したのですが、 これを日本を恐れた結果だと受け取られる事を恐れたローズ ヴェルトは、世界第二の海軍力を日本に見せつけるため 親善訪問のためと称して、アメリカ全艦隊に世界周航を命じ ます。(このように武力を用いる彼特有の外交のやり方を こん棒外交と言ったりします) 1908年、艦隊は横浜に入港し、数千人の児童が 日米両国旗を振って艦隊を歓迎し、日本での反米感情は 一転して親善風景に変わる事になります。こうした対米 好感ムードの中で1908年、太平洋における日米両国の 領土権の尊重、中国独立、門戸開放の支持を日米両国で約束 するという、いわゆるルート・高平協定が生まれるのです。 一方、ヨーロッパでは日露戦争後、ロシアとフランスで ドイツに対抗し挟み撃ちにするため、ロシアの戦力が極東に 釘付けにならないよう、1907年6月日仏協商 (中国と蒙古で両国が持つ特殊権益を互いに擁護する) さらに7月日露協約(両国が相互に韓国、外蒙古の独占的 支配を認め合い、満州を南北に分割して支配する) という取り決めをそれぞれ日本と結びます。 やがて、1908年、アメリカでは大統領がローズヴェルト からタフトへ交代します。彼はそれまでの武力を用いる これまでの外交から、ウォール街の余剰資金をアメリカの 重要視する地域に投資するといういわゆる「ドル外交」に 方針を変え、これを中国でも進めようとします。 しかし、先述の通り、満州の鉄道は日露両国で南北で分割され 独占されていたので、これによって中国の経済が破滅的になって 門戸開放が無意味になってしまう事をおそれたアメリカは、 1909年、アメリカと外国の資本に満州鉄道を買い取らせ ようとしますが、日・露両国に拒絶され、かえって日露両国は 接近し、両国の特殊権益を守るために相互援助を行うという 取り決め(第二次日露協約)を結んでしまうのです。 こうして日米両国の対立は再び表面化し、日本、イギリス、 ロシアの三国を警戒したアメリカの希望によって、1911年、 日英同盟の再改定により交戦相手国の対象からアメリカが外れる 事になり、日米戦争に日英同盟を使う事は出来なくなります。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ おそらく貴方の御子息が学校で学ばれた内容をもし具体的に 記述すると、このようなものになるであろうと思われます。 (まだ書きもらしがあるかもしれません) >敗戦を回避 ANo1さんのおっしゃるとおり、とてもそこまでは行き着けません。 この後、色々な事件が起こり、国際情勢はどんどん複雑化して 行ったのですから、それらを説明する事を省略して太平洋戦争に 至るのは、歴史の理解の方法としてはあまりにも大雑把に 過ぎるのではないかと私には個人的には思われます。
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- mekuriya
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そういうことではない。日露戦争の頃は、アメリカは日本に協力的で日本が戦費を賄うために発行した外債を引き受けてくれたり、セオドア・ルーズベルト大統領が日露の講和を斡旋してくれました。そのおかげでなんとか勝利にこぎつけたのです。実態は辛勝ということ。ところが愚かな日本国民は大国ロシアに勝ったというので途端に有頂天に舞い上がってしまってアメリカやイギリスに世話になったことを忘れてしまいました。アメリカは南満州鉄道の共同経営を申し入れてきた。セオドア・ルーズベルトが講和を斡旋してくれたのもそういう下心があったからです。世の中全てGIVE&TAKE。単なる善意で世話を焼いたのではなかった。それが国際外交の常識。ところがすっかり舞い上がった日本は、アメリカの提案を拒否してしまった。アメリカの立場で考えてください。アメリカは明治維新後、日本の近代化を支援してくれました。また日系移民を引き受けてくれた。日露戦争も助けた。ここまでアメリカは一度も日本に敵対したことはありません。ところが日本はアメリカにおすそ分けをしようともしなかった。それでアメリカ人の対日感情が悪化しました。日本人はそうしたアメリカ世論の変化に全く気づいていなかったのです。決定的にアメリカの対日感情が悪化したのは第一次大戦後です。日本は日英同盟を背景に第一次世界大戦に参戦し、ドイツの植民地だった南洋諸島を委任統治領にし、国際連盟の常任理事国になった。これは新人がデビュー3戦目で世界チャンピオンになったようなことなのです。だからアメリカは日本をライバル視して警戒しました。欧州諸国は戦場になって一挙に没落した。ロシア帝国、オーストリア帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国はいずれも革命によって帝政が瓦解しました。残ったのは大日本帝国だけだったのです。だからアメリカが日本を警戒するのも当然でした。ところが天にも昇るほど有頂天に舞い上がりに舞い上がりきった日本は、アメリカが日本を見つめる眼にも世界が日本を見つめる眼にも全く気がつかなかったのです。日本は自分勝手に好き勝手やらかしました。だから、アメリカは怒ったのです。もう許しておけない。 今だって同じです。日本は世界を見ようとせずに自分勝手に温室効果ガスを排出し地球温暖化を促進しながら、乏しい食料、乏しい石油を好きなだけ買い占めています。日本のせいで貧しい国は餓死者が出て、電気も供給できないのです。朝から晩までパチンコに興じ、冷房をがんがん利かせて、電気で弾いたパチンコ玉の行方を追いかける。そういう日本を世界はどう見ているか。思いあがった日本人は誰も気づいていない。
お礼
詳細な説明ありがとうございました。
- tanuki4u
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1905年のころから1945年のころを考えても意味が無い。 1970年に万博をやって浮かれていなければ、今の日本になっていませんか? と、考えるの同じように、あまりに話が飛躍しすぎ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%83%95%E3%83%88%E5%8D%94%E5%AE%9A http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B9%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E5%8D%94%E5%AE%9A 1905年 1908年 と、日米で帝国主義的ニギリをしています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5 なかよくシベリアに出兵しています
お礼
詳細な説明ありがとうございました。
お礼
解り易い解説ありがとうございました。 歴史は魔性と思います。 当時の空気では満州進出を止めるなど不可能と思います。