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ニュースを見なければ世界は恐ろしく平和です
ニュースを見なければ私の世界は恐ろしく平和です。 東日本大震災も私の住んでいる地区ではずいぶん揺れたなー程度でした。 風や雨音、鳥や蜩の声を聞いていると世界の平和を実感します。 しかし、新聞やテレビではあらゆる場所で発生している事件事故、解決すべき諸問題があふれています。 あらゆる問題が私に解決を求めてくるようです。 このギャップは何でしょうか。 私は今まで生きていく上で問題となる者は解決または処理してきました。 私は自身の問題解決にターゲットを絞ったため、他の人と比べれば安定した生活をしているでしょう。 しかし、テレビや新聞ではもっと、もっとと言って来るように感じます。 私はというか我々は情報に対してあるところで線引きをするべきでしょうか。 ここまでは自分に関連すること、ここからはそちらの問題など。 それとも、無限の情報に自らをさらし可能な範囲で問題解決してゆくべきでしょうか。 この場合恐らく永遠に自分自身に平和は訪れないようにも思いますが。 皆さんは情報とのかかわり方についてどのように考えているでしょうか。
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こんにちは。 心に苦しみを持っている人を隣で支えるのに「沈黙」が大変雄弁な事は多々あると思います。 あなたと共にある。何を言うよりも沈黙が一番それをその人の心の奥まで伝えるのです。 また、座禅の基本は「判断しない事」と読んだ事があります。 心に浮かんでくる(ニュースの情報も心に浮かんできている)事柄に対して、それがそこにあると認識はするがそれについて何ら判断(解釈)はしないという意味だと解釈^^しています。 無視ではなく、無関心ではなく、ただ認識するだけ。 多分やってみないと考えただけではこの「ただ認識するだけ」というのがどういう状態か解らないと思います。 無限に深みもあるでしょうし。 多くのニュースを見ている人たちは、自分達がニュースで伝えられているネガティブな情報によってどれほど自分が過剰な警戒心や心の平安を失っているかなど自覚が足りないと思います。
>人の不幸に対する情報は本当に必要なのでしょうか 事実ならば知っておいた方がいいと思います。 ただし、技術という理性の結晶であつめた情報は、受けとる側も理性で再編集しないといけないでしょうね。 それは「殺人事件は頻繁に報道されるが、住んでいる地域の殺人件数はどれくらいか」といった発想です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 一方的な情報に振り回されるなということですね。
情報は広く、行動は選択と集中といきたいところですが、実行するとなると難しいです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 人の不幸に対する情報は本当に必要なのでしょうか。 例えば自分の寿命など知る必要のない情報というものがあるように思えてならないのです。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
>私はというか我々は情報に対してあるところで線引きをするべきでしょうか。 ここまでは自分に関連すること、ここからはそちらの問題など。 : これは全く思いのままで良い、としか言えないでしょう。 それ以上やそれ以下にしようと意図する必要は全くないように思われます。 全財産を投げ打って寄付する人も、一円の寄付も厭う人も何の違いもありません。 好き嫌いの感情は生じるでしょうし、何事も適度に、が健康(つまり無理がないので色々な意味での摩擦が起きにくい)だと思います。 情報とは刺激剤に過ぎないので、毒にするも薬にするも活用法は人それぞれということになるのでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 その都度線引きは変動するのだから適宜に対処せよということですね。
- hgam
- ベストアンサー率16% (3/18)
本当なら関係がちかいほど問題解決に助力したほうがいいんでしょうけど。 そうすれば見返りの可能性とそれ相応の自己満足が得られるわけですから。
お礼
ご回答ありがとうございます。 では、地球の裏の出来事は知る必要もないということですね。
- hgam
- ベストアンサー率16% (3/18)
情報について私にはどうすればよいのかわからないことばかりなのでただ見てるだけです。 身のまわりの問題も私にはどうすればよいのかわからないことばかりですが、とりあえずその場しのぎの解決を試みます。 そういう線引きは必要だと思いますが、 身のまわりの問題でなくても仮に確実な解決策を確信をもって意見できるなら、その解決策をおおやけにするべきです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 この質問は私の他人に対するイライラでもあるのです。 私が平和であるというのには理由があるのです。 私は能天気でも天から与え得られた特殊な才能があるわけでもないのです。 現実を観察し脳みそを絞って一つ一つ問題を解決してきたのです。 その結果の平和なのです。 そういう人間はどこまで他人の問題に立ち入るべきかと思うのです。
- hyuuma8579
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人類が宇宙に行くことが地下鉄に乗ってどこかに行くような当たり前の時代になればなるほど、どこかの星に生物が住んでいることやまして人類と同じような文明や生活圏がある可能性はゼロであることを一層証明するに過ぎません。 人間をよく見てください。ニュースやネットや百科事典などがなくとも、どれだけ人間が素晴らしいか、人間の姿は、絶対といっても過言ではない完璧な個性体です。どんなに宇宙広しといえど、ありえない現実=人間なのです。この現実を知れば、他の星に異星人がいるなどという発想すら湧いてきません。 人間や人間の住む環境が極小から極大まで奇跡の連続の上に成り立っている事実を知って下さい。 そうすれば、宇宙人などの存在を考えることが如何に荒唐無稽な空しいことかがわかります。 おそらく、まだまだ人間の凄さを知らないゆえなのでしょうが・・・ 話は変わり、 他人=自分です。ということは、全体=個(自分)です。 よって、自分と他人(=全体)を切り離して考えることはできません。 したがって、自分が平和なら全体も平和なはずです。 逆に全体が地獄なら個人も地獄で然るべきです。 よって、全体が地獄で個人が天国なら客観的に矛盾します。つまり、どこかに嘘があることが見て取れます。 人間はある種の特殊体的存在です。 自分を知るには自分をいくら観察してもわかりません。他人の中にこそ、自分を知る道があるのです。 その逆に他人を知る道は自分の中にあります。 だからといって、自と他はそれぞれ独立した存在でもあります。これを相対的自我というのです。 絶対的自我は、個でありながら、全体から分離、孤立しません。他や全体と共鳴共感同情できるのです。 人間は、個として独立した個性体(相対的自我)でありながら、他と共鳴できる絶対的自我にもなりうる 摩訶不思議な存在です。絶対的自我を獲得しなければ、自分は自分、他人は他人で終わってしまうのです。人の痛みを感じられるようになるから、他人事とは思えなくなるのです。 ですから、個と全体が違うのだとする矛盾が生じるとしたら、まだ絶対的自我を獲得していないともいえますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 宇宙人の話は比喩として出しているのでそこを汲んでもらえないでしょうか。 もしかしたらタコみたいな火星人にしたほうが分かりやすかったでしょうか。 >他人=自分です。ということは、全体=個(自分)です。 >よって、自分と他人(=全体)を切り離して考えることはできません。 >したがって、自分が平和なら全体も平和なはずです。 ではなぜ私は平和であなたは混乱しているのでしょう?
- hyuuma8579
- ベストアンサー率29% (326/1097)
私は、必要とする情報以外のものを報道する性質を持つ新聞やテレビは基本的に見ないのですが、 それでもいろいろな情報は、うざいほど目や耳にはいってきてしまいます。 したがって、ニュースを見続けなくとも困ることは一度もありませんでした。 仮に新聞やテレビ報道などを通じて多くの情報を知っていたからと言って、それが自分自身の役に立つものだとは、考えにくいことでもあります。 それを若い自分に知ったからこそ、読む時間や見る時間さえ、無駄な時間として切り捨てたのだと思います。 さて、あなたのおっしゃるようなことは、ニュースに依存しなくとも既に知っている事柄でもあります。 但し、ぼーっとして生活していてもわからないでしょう。 目を凝らさないと見えてこない世界や実情といったらいいでしょうか。 自分の周りは平々凡々かもしれません。しかし、それは、森ではなく木です。 木にばかり囚われてしまえば、森という全体像や真実が見えてこないのです。 群もう象を撫でるもしかりです。自分の狭い世界しかわからなければ、全体や真実を見失います。 あるいは、池の水を見てください。池の水は、水面下と水面上では、全く違います。 例えていえば、水面下とは、人生の裏の部分です。 水面上には、自由に鳥が飛ぶ上空も含めて、目にするものは全て華々しいものに満ちています。 しかし、水面下という世界は、自然に目に入ってくるのではなく、目をよく凝らさないとその世界の営みを見ることはできないのです。魚がどういう動きをしているか・・・水生生物や土壌の実体を知るには。 したがって、その水面下(裏)の世界をよく見れば、この世の真理は、華々しいどころか地獄の様相を呈していることがよくわかるようになるのです。地獄を知るのに新聞の報道は必要ありません。 人の目がどこを見ているかで決まるからです。 地獄から目を逸らすのは、誰でも簡単にできることです。見なければいいだけなのですから。 しかし、見なかったり、目を逸らすことで実体が消えるわけではありません。 今の自分は平和だから、恵まれているから、自分には関わりがないことだからと思って目を逸らしたい気持ちもわからないではありません。 しかし、地獄を見ないことでもって、この世の真実である地獄という事実が消えてなくなるわけではありません。 見ないことはイコール消えてなくなることではないのです。 全体が地獄だという現実の中で、自分が平和だと思うのは勝手ですが、その真実から目を背けた時点で、人生は既に狂いだすことでしょう。 木を見て森を見なければ、森が滅び同時に木も滅んでしまうのです。 情報に線引きなどしなくとも、自分ができる問題解決の方法は、その行動において、自ずとプライオリティー(優先事項)を選んでいるはずです。個人がやれる範囲は決まっているからです。 その一なる行動は、個人の力に限りがあっても、少なくとも全体の実情を見ようともしない人や見ても見ぬふりする人より、はるかに崇高だといえましょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 例えばアンドロメダ星雲の中にある星(ウルトラγ星)に住んでいる宇宙人夫婦αさんとβさんの離婚問題について私は知る必要があるでしょうか。 全体の実情とはこの宇宙すべてという意味ですよね? >全体が地獄だという現実の中で、自分が平和だと思うのは勝手ですが、 全体は地獄ではなく、個々人が地獄の苦しみを味わっているというのが現実ではないでしょうか。 それゆえに私個人は誰が地獄で苦しもうと平和でいられるのです。
- hekiyu
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砂に頭を突っ込んで、怖くない、何もない とするダチョウみたいな考え方ですね。 それはそれでアリだと思います。 事実、第二次大戦を知らずに、研究に没頭していた ドイツ人学者が居た、という話がありますから。 彼は、幸せだったと思います。 情報なんかが発達したお陰で、世界でもトップクラス の美女を拝めます。 お陰で、ウチの嫁さんが不細工だ、ということが ・・・以下略。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私にとっては回答者さんの奥さんが不細工かどうかも問題になってくるのです。 なぜなら、回答者さんが美人コンテストを見て、自分の嫁はどうしてこんなに不細工なのかと不満を募らせ、それが原因でDVに走ってワイドショーのネタにでもなればそれを見た私は不快な思いをしなければりません。 その後、私はこのQ&Aサイトで奥さんのDV相談に乗ったほうがいいのか、それともシカトしたほうがいいのか悩むわけです。 私にしてみれば迷惑な話なのです。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
私が、「奴隷の平和」と呼ぶものがあります。 人と同じようにし、他人の評価に依存し、お金や出世といった 他律的価値に流されて生きる事で、現象的にトラブルなく、 楽に生きる状態です。 しかし、それは非自覚的に生かされている=半分死んでいる事= 意識の事を宇宙と考えれば、世界の滅亡にも匹敵する状況です。 それを「恐ろしく平和だ」と言われますか?‥‥「恐ろしい平和」 の間違いではないでしょうか? 政治的な紛争は少なくなっても、親の子殺し子の親殺しが頻発 する精神的荒廃ぶりは、心の平和とはほど遠いと言えます。 (自己存在の本質に根ざした自覚的生存による自律的社会行動 =愛こそが、この処方箋です)
お礼
ご回答ありがとうございます。 もしかすると回答者さんには想像できないのかもしれませんが、平和というのは現実にここにあるのです。 今ここにあるのであって想像の産物、遠い未来の理想郷にではないのです。 >政治的な紛争は少なくなっても、親の子殺し子の親殺しが頻発する精神的荒廃ぶりは、心の平和とはほど遠いと言えます。 これは自分自身のことですか?それともどこかの他人の話でしょうか。 自分のことであればおっしゃる通り平和ではありません。 どこかの他人の話であれば私が平和になれる可能性はありますね。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 座禅の考え方は私にとって参考になると思います。 何のための情報なのかを考える必要がありそうです。