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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:哲学で平和・調和に何かできないものでしょうか?)

哲学で平和・調和に何かできないものでしょうか?

このQ&Aのポイント
  • 哲学を通じて平和と調和を実現する方法を探る
  • 哲学の目的と意義について考える
  • 現代の課題に対して哲学的なアプローチを試みる

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.8

どこだったかで書かれてありましたが、 平和に貢献するのは(超)大国の武力だ、という思想があります。アメリカが一人勝ちして世界の警察官になればそれは可能かもしれません。あべさんもそのひそみにならって武力を持ち出し、アメリカへ擦り寄ろうとしています。それを軽薄なネトウヨは歓迎していますね。 しかしこれは哲学ではなく実学です。 力で力を抑えることはできない、という思想もあります。 人間が人間を信頼し、あらゆる情報を見せ合って国際的な友好関係を築き上げる。その先に根本的な世界平和がある、という思想です。日本の憲法の精神ですね。これはすぐれて哲学的だと私は思います。 人間は人間を信頼できるか?という根本で今グローバル精神が惑っている。 ここの突破のために、どんな宗教をも圧倒する世界的に共通なベースを持った倫理哲学が必要視されているのではないでしょうか。

yuniko99
質問者

お礼

正にその通りだと思います 人間世界をよくする根拠は 人間個人の理性と良心です それがややもすると集団心理に押されて騙されて 悲劇を見てきたのが今までの世界だったのではないでしょうか? >どんな宗教をも圧倒する世界的に共通なベースを持った倫理哲学 この様な哲学を目指しましたが道半ばと言うか今だ役に立ってません 存在性思想で検索するとあるのですが・・・ どうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (7)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.7

>「人口爆発の問題やエネルギー問題 それらを解決するために ここらで ビシッと奇警な言葉を投げかけられないものでしょうか?」 21世紀初頭に、「アフリカの、新生児死亡率が低下?」 と、NHKで言ってました。

yuniko99
質問者

お礼

今はどうなんでしょうね 風潮はアフリカのクロンボの赤ちゃんは 育ってもますます貧しく また子供を産んで更に貧しくなるので 止むを得ないという風潮です 満員バスでも可能な限り乗せて走りますよねえ 諦めないでほしいなあ どうも大変ありがとうございます。

noname#197435
noname#197435
回答No.6

国民が幸福になるには、物と心の両方満たされることです。そのために政治哲学を論ずると効果的行動になる。しか~し、公明党は自民から離脱するより、主権に寄りすがる程度の問題意識だった。・・・このぐらいは読んでもいいかな。

yuniko99
質問者

お礼

そうだそうだ 集団的自衛権とか言ってたら どこまでも自衛の範囲は広がって いつかは戦争に巻き込まれる 北朝鮮やイスラーム 他にも反米感情の強い国は多い 誰か人物が出て「日本は戦争はしません 不可侵条約を結びましょう」と世界中の国と不可侵条約を結べばいいんだ そして国連の拒否権とかやめて 反戦平和を国連で堂々と主張する気概がなくて 何の平和憲法なんだ? 戦争反対 戦争を外交の手段とすることを国連で禁止すべし 内戦も無くすように対話の場を作るべし どうもありがとうございます。

  • 2014japan
  • ベストアンサー率22% (35/159)
回答No.5

人間は平和より自分の幸福を最優先にします。 他人が幸福になっても、自分が不幸では自分の生きる意味がないからです、当たり前ですよね。 この問題が解決されない限り、平和は永遠に来ないと思います。 従って、貧しい人にその国の生活水準と同じ金を与えれば解決します。 全世界の人々が実行すればすぐ平和になります、私たちの収入の半分を貧しい人達に与えればいいのです、可能ですよね? しかし、誰もやりません。 どこかの国が、戦争しようと、飢え死にしようと。今晩、家族で焼き肉を食う方が大事ですからね。 だから、日本だけ戦争しないで平和ならいいという改憲反対の発想なのです。 日本に住んでいる日本人だけが戦争しないで平和ならいい。 これは、世界を平和にする考えから大きく外れると思います。

yuniko99
質問者

お礼

日本人の結構多くの人がそう考えてるのかもしれません そう考える方が楽ですからね 仕事や家庭で大変なのに 世界平和まで考えられるか と言うことでしょうね なるほどどうもありがとうございます。

回答No.4

#2の者です。 >つまり哲学は平和調和に資するためにやるものではない 環境を深く認識すれば、目先の損得ではなく、自己 の行動の長期的な影響が把握でき、短絡的な戦争 や犯罪は避けられる。 それは、分業化による相互依存の発達による自己の 生命の社会的拡張を自覚化し得る認識の深まり、と いう事だ。

yuniko99
質問者

お礼

つまり認識を深めて、生命の社会的拡張を自覚化すれば 戦争も回避できて犯罪も多く避けられると言う事ですね 成る程 どうもありがとうございます。

回答No.3

 こんにちは。長いです。  或る質問に次のように回答を寄せました。      *  ◆ なぜ他のカテから逃避し、哲学カテにのみ引き籠もって  ◆ なぜ、哲学カテにのみ引き籠もり、他流試合を避けているのでしょうか?   ☆ わたしは ぎゃくだと思います。つまり 他流試合を避けているのは 哲学カテに来ない場合ではないか。という意味の回答です。  ◆ なぜ、他のカテに参加しないのでしょうか?  ☆ これは まったく自由です。参加するしないは まったくの自由であって この際の問題にはかかわりません。  哲学カテに参加するかしないかが いまの問題です。  どういうことか?    けっきょく哲学は 自己了解という行為です。存在の全体としての・人格全体としてのわたしについてわたしが これがわたしだと納得するかたち――それは なお動態ですが――を得ることです。  言いかえると ほかのカテゴリでは おそらく存在や人格のあるいは世界の一部分についての知識を得るかどうかを問題にしている。いかんせん 知識も世界について部分的です。  自然科学の内の或る種の行き方として 世界全体の探究だというばあい それでもそれは 人間の得ることのできる知識だという限界を持ちます。つねに その限界がつきまといます。  むろん哲学も これらの部分的な知識を総合して いまここなる自己の了解を得ます。ただし 知識プラスαにもとづき 《全体として――つまり 隅々にわたっての全体を ではなく全体として――》わたしと世界とを捉える心的にしてかつ意志の行為です。  哲学とほかのカテゴリとのあいだの情況は こんな感じだと思います。  もう少しつけ加えれば ほかのカテゴリにあってもその回答内容は けっきょくその人の哲学にもとづいた知見です。ですが おそらくその知見が拠って立つ思想については 一般に明らかに述べることを控えているはずです。総合的な思想がない場合なら なおさらです。  そして 大幅に悪口を言うなら その思想は 知識や学問の対象となる領域にのみかんする部分哲学であるのだと見られるのですが どうでしょうか。  つまりは わたしがわたしであるという自己到来にもとづく自己了解は まだ得ていない状態にある。のではないでしょうか?  ◆⇒☆ なぜ、哲学カテに参加することをしないで 人びとは引き籠もりがちなのか?   哲学カテにあってさえ じつは にんげんどうしとしての他流試合を避けているのが ほとんどです。総じて言って知識の切り売りしか見られず ほんのひと言二言世間話をしゃべって去って行く社交の場でしか ないのではないでしょうか?   ★ (2)回答へのお礼 <物理や科学の世界では権威ある法則が多くて 自由に考えられないのです。>  ☆ これは ささやかな抵抗です。自己了解を目指していない部分知識の行き方に抵抗するささやかな自己表出のことばです。       *  

yuniko99
質問者

お礼

哲学は自己了解や知の全般を扱っているので 何か出来るかどうかは・・・ どうでしょうか?答えが他の質問の答えだそうなので よく分からないですねえ 何か出来るということなのでしょうか? どうもありがとうございます。

回答No.2

僕は、特に哲学をしているつもりはない。 見えている世界を、より深く理解しようとしているだけだ。 「見えている世界」は、元々は感受器官表面での量子 相互作用のパターンに過ぎないものを、五感の相関し た経験の蓄積により、新たな先行感覚(光や音など) に対おいて生理的な感覚を励起する(=そこに行けば 何が起きるかの予測)ことで、脳内に空間的広がりを 派生させたものなのだ。 認識する事で派生する宇宙を、より深く認識する事は、 意識が明確になる=存在性を強く感じる=喜びを深く する事になる。 人は、凸凹道を行く時は、よく見て穴を避ける。 自ら目を閉じて歩くバカはいない。 哲学とは、環境を深く認識する事だ。

yuniko99
質問者

お礼

達観してますねえ 哲学とは、環境を深く認識する事だ。 つまり哲学は平和調和に資するためにやるものではない と言うようなことでしょうか? どうおもありがとうございます。

回答No.1

根本敬先生の言葉、「犬小屋発豚小屋行き」という理論で全てが説明つくのではないでしょうか。 http://www.h4.dion.ne.jp/~manilove/nemotoyougo.html 私の解釈は上記のページでの解釈とは少し違って、人間は犬小屋で生まれて豚小屋で死んでいく存在である、どんなに着飾って偉そうな言葉を吐いても所詮はケツメドとマンコの隙間ほどの違いしかない、という思想です。 哲学もその隙間をうろちょろする営みにすぎないのではないでしょうか。

yuniko99
質問者

お礼

所謂一つの表現でしょうけど つまり哲学もそんな大したものではない と言うことでしょうか 謙虚でいいですねえ  どうもありがとうございます。

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