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「あらゆる衆生」とは。(浄土真宗
・「あらゆる衆生」というのは、すべての命あるものという意味でしょうか。 ・そうであるなら犬・猫あるいは虫、草花に至るまでをさすのでしょうか。
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#6様 あなた別に質問出しました。 そこのあなたのお礼文読みました。 私の国語力では理解できません。 私の#5の回答文、これ以上易しい日本文ありません。 よって、これ以上の回答なしです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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このご質問におけるご回答から、私も関連して別の質問を起します。 契機は、ANo.5のJiangJingguo氏のご回答です。何か口調が曽ってお会いした方のようですが。 つまり 「あらゆる衆生」という言葉は人間です。何でも広くすればいいというものではないよ。焦点ぼけてわけわからなくなる。 焦点をぼかさないで、「あらゆる衆生」とは人間を指すのだとしなければならない理由を質問しようと存じます。 ここにご訪問の皆様もここでご回答くださっても、私の質問にご回答下さっても結構ですのでよろしくお願い申しあげます。
「あらゆる衆生」という言葉は人間です。 何でも広くすればいいというものではないよ。 焦点ぼけてわけわからなくなる。 わけわからなくなると、奥深く高等なものだと誤解する。 たぶらかしいけない。
- mmky
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追伸 釈迦仏教では「あらゆる衆生」という言葉は「あらゆる生き物」と同じ意味なのですね。 これは、釈尊が、大蛇や、はては釈尊をあやめようと送られた馬や象まで折伏して帰依させたということがお経などに書かれていますので、動物も入っているのですね。植物はといえば釈尊入滅の際、草木が花を咲かして見送ったということがお経にありますから、当然全てを含むものですね。 後代になるにつれ、狭く解釈されるようになって来ていますね。これは人に焦点をあてる哲学的解釈という意味でしょうが、仏教はもっと高等で広大なのですね。
「衆生」は人間です。 「あらゆる」がついても人間です。 畜生草木など入らない。 >縁なき衆生は度し難し この「衆生」も人間のことです。 草木畜生を「度し難い」といってもしょうがないよ、当たり前のこと(笑)。
- mmky
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・浄土宗系で「あらゆる衆生」というのは、すべての命あるものという意味でしょうか。 ○浄土宗でいうところの「あらゆる衆生」とは人間のことですね。 これは浄土宗系の成り立ちからくるものですね。法然や親鸞は人に焦点をあてて一派を起こしたからですね。阿弥陀仏にすがる念仏ができるのは人だけですからね。 一方、本来の釈迦仏教でいう衆生には全ての生き物が含まれています。これは「山川草木悉有仏性」から明らかですね。草木に至ですから当然犬猫、動物は含まれていますね。 釈迦仏教では「上求菩提・下化衆生」ですから悟りを求めつつ、衆生を救っていくということですから、衆生は全ての生き物になるのですが、浄土宗系では「下化衆生」しかないのですね。この意味は救われたいと望むというだけのことになりますので、人間にしか適応されないのですね。つまり、迷っている者は人さえ救えないということです。ましてや動物まで救うことはできませんね。親鸞はこの点を自覚しており、「念仏は唯一,自身のため」と明言していますね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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日本語では有情とかもいいませんか? 何が有情かはそこに有情をみることによりましょうね。 万物とも森羅万象ともいいますかね。 英語のヒンドゥ哲学では、all creature(スペルは曖昧)といいますね。多分このことでしょう。 衆生って、私の読書では要素とか構成要素とかの意味もあります。 まぁタットヴァですね。 命はないものはないんですね。まぁ考え方かなぁ。 だから万物をいうと存じます、衆生って。 特に縁無き衆生なんていうフレーズもありましょうが。