大宝律令の制定時、新羅を参考にした可能性。
歴史年表を見て思いついた疑問です。
669年 第6次遣唐使派遣(河内鯨)
681年 律令の編纂を開始
689年 浄御原令22巻をわかつ
701年 大宝律令なる
上記の遣唐使が帰国したのは多分670年だと思います。
一方、遣新羅使は、668年に初めて派遣してから695年までに9回派遣しています。
質問です。
1.大宝律令は、唐の律令を手本にしたものですが、670年に帰国した遣唐使一行が持ち帰ったのですか。そもそも、律令を書写して持ち帰ることができたのですか。
2.大宝律令を制定した701年まで遣唐使の空白期間は30年もあります。
一方、この間、遣新羅使を9回派遣しています。
おそらく初めの数回は「白村江」の後始末だと思いますが、遣新羅使が唐の律令を取り入れた新羅の制度を持ち帰って、大宝律令に反映させた可能性はありませんか。
そもそも当時の新羅に「律」「令」があっての話ですが。
よろしくお願いします。