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元号の決め方
元号の始まりは『続日本紀』によれば「大宝元年」です。 対馬嶋、金を貢る。元を建てて大宝元年と為す。 大宝律令は、唐の律令を参考にして日本の国情に合わせて制定されていますが、元号はなぜか日本的な発想で「大宝」としています。 元号は「慶雲」「和銅」と続きますが、先進国である隋唐の「書物」から元号を選んでいません。 元号を漢籍から選ぶようになったのはいつ頃からで、その理由は何でしょうか。 よろしくお願いします。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>元号の始まりは『続日本紀』によれば「大宝元年」です。 正確には、「大宝元年」(701年)以前にも「元号」がありました。 「大化元年」(645年)、「白雉(はくち)元年」(650年)などです。 詳しくは、下記の「よもやま話」をご参照ください。 >>元号を漢籍から選ぶようになったのはいつ頃からで、その理由は何でしょうか。 これは、「仏教伝来」をほぼ基準としています。 日本への「仏教伝来」は、「上宮聖徳法王帝説」(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ=聖徳太子の伝記)や「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」(がんごうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう=元興寺縁起)では538年に伝来したと記されており、歴史の教科書などでは、こちらが主流。一方で、「日本書紀」では552年とされている。 この仏教伝来により、漢籍が日本にもたらされ、同時に、中国や朝鮮半島の高句麗、新羅、百済などで使用されていた「元号」という概念も日本にも伝わり、やがて、日本でも漢籍の中にある「おめでたい言葉」を選んで「和暦」が誕生しました。 次のサイトに中国等の元号一覧があります。 http://www.page.sannet.ne.jp/jls-naka/structure-1/history/gengo.html (よもやま話) まず、和暦の変遷ですが、 (1)帝王(天皇)の交代による・・・代始改元。 (2)吉事を理由にする・・・・・・・祥瑞(しょうずい)改元。 (3)凶事に際してその影響を断ち切るための・・災異改元。 (4)三革を区切りと見なして行われる・・・革年改元。 大別して以上の4つが主なものです。 もう少し詳しく説明すると、 (1)代始改元は、分かりやすいですよね。 嵯峨天皇の即位「弘仁(810)」、清和天皇「貞観(859)」、令泉天皇「安和(968)」、後三条天皇「延久(1069)」、後白河天皇「保元(1156)」、二条天皇「平治(1159)」などがあります。なお、先の天皇が崩御されたた時などは、その年は「喪に服す」考え方で翌年から「新元号」としたり、隠居をし上皇などとなった時は、先の天皇(上皇)に敬意を表して、やはり、翌年から「新元号」とした場合もあります。 (2)祥瑞改元 大化6年(650)2月に穴門国(あなとのくに=長門国=現:山口県)から白い雉(きじ)が献上されたことを「吉事」として、「白雉(はくち)元年に改元しました。そして、白雉5年(654)まで数えられましたが、その後80年間は、元号の無い時代が続きました。天武天皇15年(686)7月20日に大倭国(やまとのくに=大和国=現:奈良県)から、今度は赤い雉が献上されたため、朱鳥(しゅちょう、すちょう、あかみとり)元年として「元号」が復活しました。しかし、これは「伝説」であって、実際は、天武天皇の病気平癒のための祈願を込めたものだ、とも言われています。事実、天武天皇がその年に崩御されると、朱鳥元年のみで、再び、15年間元号は断絶しました。文武天皇5年(701)に対馬(対馬ではないとの説もある)で産出された「金」が貢進されたため大宝元年が復活しました。 (3)災異改元 京都での地震発生や平将門の乱が起きたため、「承慶」から「天慶元年(938)」に変更。彗星(この星は災いを招くと考えられていた)が多く見られたので「永延」から「永祚元年(989)」・・・陰陽師の「安倍晴明」が活躍していた。平治の乱勃発で「平治」から「永暦元年(1160)」。全国的な飢饉が発生「寛喜」から「貞永(1232)」、関東での大地震発生と全国的な旱魃(かんばつ)で「正応」から「永仁(1293)」。江戸で大火発生「明暦」から「万治(1658)」。江戸で大火と全国的に大風(台風)による水害多発「明和9年(迷惑年)」と呼ばれ「安永(1772)」に。ペリーの来航で「「天明」から「安政(1789)」などがあります。 (4)三革とは 「辛酉(かのととり)革命」・・・昔は、干支(えと)の年号もあり、「甲子(きのえね)」から始まり、60番目の「癸亥(みずのとい)」までを繰り返す第58番目の年の呼び方。 「甲子(きのえね、こうし、かっし)革令」・・・干支の第1番目の年。 「戊辰(ぼしん)革運」・・・干支の第5番目の年。 いずれも、これらの年には、大きな「革命」や「大事件」が起きる、と陰陽道からの考えで、改元をして「運」を呼び戻そうとした考え方。 (5)昔は天皇が在位している間もコロコロ変わった・・・。 長い間「朝廷主導」で、まずは「朝廷関係」を取り巻く出来事があった時のみに「改元」がされ、やがて、朝廷も広く「民」の出来事にも目を向けるようになり、自然災害などでは、「開運」を願って「改元」しました。そして、江戸時代になると、朝廷も「朝廷」や「民」だけではなく「江戸幕府」の動きにも目を配るようになり、江戸で「大事件」や「天災」「火災」、あるいは、「人の生死」などが起きたりした時も「改元」して、「運気」を回復しようとしました。 ですから、日本の「元号」では、初期の頃は、「ゆったりとした」流れですが、やがて、「コロコロ」と替わるようになっていきました。 (6)明治以降は元号が変わらないのでしょうか? 明治維新とともに「一世一元の制」が提唱され、慶応4年(1868)を「明治元年」と改元した。その後、昭和54年(1979)6月6日に「一世一元の詔(みことのり)」が成立し、同月12日公布、同日より施行されました。いわゆる、「法律」として発布されたのは、意外と近年になってからなのです。 (7)元号の出展。 書経、易経、後漢書、文選、漢書、晋書、旧唐書、詩経、史記、芸文類聚・・・などが「ベスト10」。 (8)日本が中国を真似た「元号」。 大宝、神亀、天平、大同、仁寿、天安、貞観、承平、天禄、貞元、天福、乾元、元徳、建武、正平、天授、永和、至徳、文明、弘治、天正、元和、正徳、宝暦、天保・・・以上、26例。 (9)日本から中国へ渡った「元号」。 天慶、天暦、天徳、永暦、承安、嘉慶・・・以上、6例。 あなたのお役に立てたでしょうか。
お礼
いつも詳しい説明をありがとうございます。 「大化」はどのような意味か知りませんが(多分、大きく変化したとか)「白雉」も「朱鳥」も日本的な発想でネーミングされた元号ですね。 これらの年号が記された出土品はないので、実際に使用されたという根拠は薄いですが、日本書紀に書いてあるということは、書記編纂時に年号を後付けせねばならない何か特別な事情があったのでしょう。 「日本」という国名が使われたという記録は、大宝2年に出発した遣唐使が最初だそうです。 「日本書記」の編纂が進んでいる頃です。 「律令」を整備して、国家が立ち上がるときの意気込みが日本的な名の「元号」制定に表れていると思います。 それがいつ頃から漢籍に頼るようになったのでしょうか。 天皇家の権力が弱体化していった時期、あるいは唐・宋の実力を再認識した時期ではないかと思って質問しました。 日本が中国を真似た「元号」26例は参考になりました。