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日本語における「理想」の意味
- 日本語における「理想」とは、完全なもの、最高の状態を望むことを意味します。
- 日本語の「理想」と西洋の文脈での理解は異なり、イデア界の神的なものを追求する善の行いと明確に区別されます。
- 「理想」という語の定義や理解、理想と貪欲の関係は個人や文化によって異なります。
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成る程、あたしから見て何でそんな頓珍漢な質問が出て来たか判ってきた。コミュニケイションをするには余りにも端折り過ぎで、自分の生きざまと相手の生きざまが違うのだと言うことを全く無視して、自分が判っていることは相手にも判っている筈だと言う根拠のない前提に立って質問がなされるから、話しがややこしくなっちまうんだね。 先ず、あんたの理想という言葉で意味するものが物質的な豊かさの獲得という、極端に限定されたものを指しているから、あたしには何でそれが理想なのか皆目見当もつかなかった。だから、唐人の寝言みたいな頓珍漢な質問をする奴だと誤解されちまう。確かに、理想という言葉はそんなに古い日本語ではないかもしれないが、中国には桃源郷という言葉がとっくにあった。そして、そんな概念は平城、平安期の日本人に既に知られていた筈だ。また、キリスト教の神だプラトンだなんて持ち出さなくても、仏教には上下足す八方に十方浄土があり、その中でも西方の極楽浄土は特に日本人に人気があった。 今度機会があったら、惠心僧都の『往生要集』の極楽を読んでご覧なさい。それは正に理想の世界だ。でも、物質的豊かさとはまったく無関係な世界だ。この極楽が凄いんだ。どんな民族でも地獄の描写は常に面白い。何とまあいろいろな拷問を考えつくかと感心されてしまう。ところが、天国の描写となると、いきなり退屈になっている。ダンテの『神曲』の天国篇なんて、あんな所に居たら1週間で飽きてしまう気がする。ボッシュの絵の天国なんて、なんかアナーキーでヒッピーみたいな所がある。あたしは直接読んでいないので無責任なことを言うが、イスラム教の天国もキャバクラみたいなところだそうで、直ぐに飽きてしまいそうだ。 ところが『往生要集』の極楽なら、あたしゃ是非行ってみたいと思ったね。極楽以外の残りの九方の浄土に入るには、結構難しい入学試験がある。難しい教義を学んで奥義を究めなくちゃいかんとか、偉い坊さんになって出世しなくちゃいかんとか、真夏の竹やぶで1週間裸で蚊に食われる修行をしなくちゃならんとか、お金持ちになって莫大な寄付をしなくちゃならんとか、人間には一寸出来そうもない入学試験ばかりだ。ところが、極楽だけは、「阿弥陀様お助け下さい」って言うだけで良いんだそうだ。殆ど無試験で入れるってことだ。だから、極楽だけが人間用に用意されているらしい。 んで、その極楽に入ると、極楽の入門コースから始まる。そこは、絵も謂れぬ綺麗なところで、匂いも香しい。いくらでも美味い食い物が在る。まあ、超電化住宅に無料で生活を許されたみたいな物だ。そして、其処此処にある菩提樹の木の下で阿弥陀様が講義をなさっておられる。その講義の素晴らしさと来たら、超一流の学者さんの講義を聴いているようで、一言一言が目から鱗が落ちるように解っちまうのだそうだ。そして、そうだその通りだと感激するたびに、百万年寿命が延びる。 そんな感激を何度も繰り返しているうちに、知らず知らずのうちに極楽の中級コースに入っている。そこでは、最早美しい景色も香しい匂いもない。非常に質素な中で、阿弥陀様の講義を聴いている。そして、どんどんと究極への「理想」に近づいて行くそうだ。そして、その究極の状態では、あんたは最早あんたではなくなり、阿弥陀様と完全に合体融合しているんだそうだ。それが、平安末期から鎌倉時代に日本人が認識した理想の世界だ。どうだ、知的な世界だろう。だから、物質的な充足は単なる方便であって、理想でもなんでもないっちゅうことを、我々の先祖達は認識していた。 キリスト教やイスラム教の天国と比べて、あたしがある有名なインド人の物理学者にこのインド人の考えた極楽の話をしたら「そうかお前解ったか。インド人は頭が良いんだ」って威張ってた。 神道だって同じだ。お祈りのときは、ご先祖様や神様には無念無想でただ頭を下げる。決して、なんかの願い事を叶えてくれなんてお祈りしては駄目なんだそうだ。一々こちらから私の願い事はこれです何んて言わなくては解んないもんが神様であるものか。それに、こちらの願い事よりももっと重要なことを神様ご先祖様は知っている筈だ。だから、神様ご先祖様に任しておいて、何も祈るな、ちゅうことだ。んで、あんたが死んでもいきなりご先祖様になれる訳ではない。あんたのことをまだ覚えている人間が生きている間は、単なる死んだ爺さんや婆さんなだけだ。でも、その死後、時間をかけて段々とあんたの御霊が浄化されて行き、皆の記憶が無くなった頃に、あんたはご先祖様という集合体に合体する。まあ、上の阿弥陀様そっくりだ。んで、その状態が日本人にとって最も理想的だと考えて来たんだ。だから、あんたの言う理想と、ここで言う理想がどれだけかけ離れているかお判りだろう。 自分の拙い経験とその外挿だけの思い付きで理想云々するのではなくて、我々の先人達が考えて来た理想って何なのだろうと言うことも考えながらこの問題を論じないと、話しが限りなく浅く、陳腐になってしまう。 あんたは、決して木の股から生まれて来たのではなくて、日本人として日本の文化の中にどっぷりと浸かって生まれて来たことを忘れちゃ駄目だ。そして、あんたのご先祖様達はあんた並みか、あるいはあんたよりももっと優れた思考をして来たかもしれないと言うことも忘れちゃ駄目だ。あんたがどんなに西洋人の考えて来たことを学んだところで、結局あんたは日本語で考えることしかできないことを忘れちゃ駄目だ。別な言い方をすると、日本語で考えるあんたの思考法に関しては、西洋人には絶対に真似が出来ない物をあんたは持っている。幸いにも、日本人は世界から尊敬される長い歴史と、独特な深い文化を持っている。それによって、この人類の多様性に関して大変な貢献をしている。 確かに西洋の文化はその強大な軍事力の故に、他の文化に決定的な影響を与えて来た。だから、西洋の文化を学ぶことは重要なことだ。しかし、それはあんたが西洋人になるために学んでいるのではない。そんなつもりになって西洋人の土俵の上で相撲を取ったって、所詮西洋人に敵う筈がない。 しかし、そのような無視出来ない多大な影響力を持つ異国の文化を学ぶのは若いうちが一番良い。相手の手の内を知って置かないと、いよいよあんたが目覚めた後で、お前ら西洋人とはまた違った世界観もあるのだと西洋人に向って説得することが出来ないからだ。だから、今のうちは、西洋人の考えて来たことを一杯学んでいるあんたのそのやり方は、正しいやり方だ。 しかし、そのうちにあんたが歳を食ってくると、もう西洋は良い、ところで日本はどうなんだと言う気になって来るものだ。そして、いよいよ自分の土俵で相撲を取るときがやって来る。 若い故に西洋かぶれしているあんたを見ていると、そんなことを頭の片隅に入れておいて、いつか自分で何者なんだ、俺って日本人じゃないか、と言うことに気付いて欲しいと言う気になった。 まあ、あたしはあんたに一つの理想を描いているのかもしれんな。
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質問者さまには、御質問とは直接関係ありませんが、周辺事項の一つだと思ってお許しいただければ、と思います。 TANUHACHI様 >僕のような若輩者が「職人の世界」や「エコノミックアニマル云々」を口にすることすらも難癖でありご不満でしょうか?。 まず、エコノミックアニマルに関して、私はあなたと意見を交わした覚えがありません。何の話でしょうか? 次に職人の世界について、あなたの理解に対して私が異論を 述べることが、何か不当なことですか? 「難癖」と表現したのは、あなたが自身の宣長評を以てして私の論に反論したこと。これは宣長に対しての「人身攻撃」の虚偽、そしてその宣長を引用した私の論に対しては「藁人形論法」の虚偽だと思います。そして世阿弥や利休を持ち出したこと。これは私の「鎮守の森」評に対する無関係な揶揄と判断しました。ゆえに「論旨が難癖」と表現しました。それらは全て比喩で提議してありますね? 「口にすることすら難癖」とは、いったいなんのことでしょうか? 「言葉の職人」であるならば、論理には誠実であってほしいと思います。やたらな修辞を使うのは、評論家や作家の領分ではないでしょうか。 さて本題。 >棟梁が木材の性質と当時の匠の技に対する「こだわり」を今の匠である棟梁が遺した言葉として受け止めていました。 何の為の「こだわり」だか解りますか? 「千年先にも在り続ける建物」の為のこだわりです。 飛鳥の工人達が残した遺産を千年後に受け取った西岡が、そっくりそのまま千年先に送る為の「こだわり」です。 飛鳥の工人たちの残したものは千年建ち続けた。西岡も千年建ち続けさせることを目標にした。 けれども、どうしても現代の台ガンナでは飛鳥の工人たちのように削れない。そこで必要だったのが槍ガンナです。この槍ガンナも、現在の鋼では荒すぎて同じようには削れない。当時と同じように砂鉄から鍛造した鋼でなければ、木の繊維に分け入るように削れない。だから西岡は刀鍛冶に槍ガンナをつくってもらったんですよ。 全ては「千年先に建ち続ける」という理想のために。西岡は法隆寺の檜の柱に触れて、謙虚に理想を抱いたのです。 文献を研究して上っ面を真似ることが理想なのではありません。職人にとって「理想」とは、知ることではなく、物として顕すことなのです。 こうした職人の理想の在り方は、「知る」ことが目的の方たちには、なかなか理解し難いことなのかもしれませんね。
お礼
僕のことはお気になさらないで大丈夫です。職人のこと、更によくわかりました。ありがとうございます。しかしこうした有意義な知識を、険悪な中で提示するのは、もったえないと思えます。たとえれば、言い争いをしながら御馳走を食べているようなものです。また、お二人がお疲れになったらよくないかなとは思っていました。 かくして仲裁めいたことを僕は言う責任があると思ったのですが、お二人の投稿の一番新しいものに意見を付すのが適当と考え、No24のお礼欄に僕の考えを短く書きました。一読していただけたら幸いです。しかし議論は歓迎するというのが僕の方針ですから、どうぞ説教の類などとはとらない頂けたらと考えています。あくまで楽しく議論できたらという気持ちです。一応の管理責任がある設問者として、僕の到らなかった点は、どうぞお許しください。
- TANUHACHI
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こんにちは、Imantarx様そして質問者様には不快な思いと共に手厳しい叱責を受けたことを先ずはお詫び申し上げます。 西岡棟梁と「エコノミックアニマル云々」との僕の言葉に関して。西岡棟梁の「理想」は棟梁が薬師寺西塔の再建が一先ず終えた時に「100年後に東塔と同じ高さになることを見越して今の高さにした」との言葉に基づいて、棟梁が木材の性質と当時の匠の技に対する「こだわり」を今の匠である棟梁が遺した言葉として受け止めていました。職人の世界ではマニュアルに相当するモノがないことも僕は理解しています。けれどもそのマニュアルに相当するモノが「匠の知恵」であり、それは素材とそれを加工する手段によって構築されている技であると僕は思います。 現代の建築工学やら積算工学に基づく試算をに相当するモノを匠は既に「過去からの知恵」として受け継いでいて敢えてそれをマニュアルの様に無粋な形では残さず「見て、身体で獲得する」ことで現代に残してきた。これは一つの文化であるとも言えましょう。この様な形は僕が生業の一部として未だに関わっている歴史学の世界でも同様です。学問の世界で成果を表現する武器があるとすれば、それは「言葉」でしかありません。この意味で僕も「言葉の職人」の端くれに身を連ねる一人です。陶芸家が土と対話する事は土の性質と状態を知る事であるとも言われます。その時々の温度湿度や季節による水分がどの様に土の中に保たれているか、選んだ土が鉱物としてどの様な成分構成を含有しているか等の状況を匠は土と対話する事で瞬時に知り適切な対応を選択する。それはImantarx様の仰るとうり科学的なデータよりも知恵に基づく「勘」という言葉が適切な表現であると思います。 「エコノミックアニマル云々」に関してはその前段にある「トランジスタの商人」との言葉を受ける形で、戦後の文字どうり全くのゼロベースからスタートし、そのアイデアを実際の商品の形として仕上げ輸出した時に海外から寄せられた賛辞であると僕は理解しています。当時外交でフランスのド・ゴール大統領あたりがフランス人独特のエスプリを込めての表現であり、敗戦国としての極東の小さな国が「文化的に先進国である自分達」よりも先に精密機械を作り上げた事に対する半ばヤッカミにも似た驚きの発露として理解する事も強ち誤りとは言えないのではないかと存じます。僕が生まれた時には既にカラーテレビが一般家庭に広く普及していた時代です。Imantarx様にとって僕のような若輩者が「職人の世界」や「エコノミックアニマル云々」を口にすることすらも難癖でありご不満でしょうか?。 さて質問者からの再度の問いかけと批判に関してですが、既にその問い掛けの中で質問者様は僕の言いたかった事を的確な言葉で表して下さっています。「文化としての日本の構造」が「翻訳文化」である、との言葉です。 前回に寄せさせていただいた回答の中で、僕は丸山眞男の事例を引用し、近代としての日本の精神文化の構造が「儒教道徳と神道に依拠する捻れた天皇制的国家」であると申させていただきました。価値観として日本が移入してきたのは仏教であり儒教でありそして蘭学だったことも事実です。けれどもそれらを受容する段階で慈円の「道理」やら中世の「無常」としてつまみ食いの形で彼らの思索に組み込まれていった。これが「翻訳」の一つの側面(意識としての翻訳)。 そしてもう一つは加賀や本願寺そして島原一揆に見られる「ある種の価値観に依拠する自検断権組織」として外界(国家もしくは権力)から離脱することを志向する等の事象から、「国家レベルでの理想なり理念」と「社会集団レベルとしての理想なり理念」との間ではそこに属する者に依り意識レベルにおいて歴然とした相違がある。つまり一つの国家としての枠の中に幾つかの異なる意識階層が存在することで、決して一枚岩の様な存在ではないとの側面(社会構造としての翻訳)。 このうち後者は「アジール」と呼ばれる「空間領域に根ざした意識としての境界域」を示す歴史学上の定義であり、この度の質問者様の疑問を「日本における理想を文化として見た場合にどう理解できるか」との問題と同質であり「文化の位相をどう捉えるか」と理解できます。 この意味で「日本の精神文化」を僕は「コピー文化」「独自に形成された文化」と呼ぶよりも「翻案の蓄積と集合による寄せ木文化」と呼ぶスタンスに賛意を示したいと存じます。 本筋からかなり遠くに問題を拡げてしまい混乱を招くこととなったことをお詫びさせていただきます。
お礼
ありがとうございます。不快な思いなど、とんでもない。僕はタヌハチさんが、ご自分の意見を書いてくださったことに感謝していますし、敬意を払っているつもりです。なるほど、僕も少し疑問を書きましたが、それはご意見を正確に知りたいという動機からです。 ご意見には、同意できる点が多くあります。今の問題点は、職人が何を考えているか?職人について語る資格を持つのは、職人だけか?という風になってきました。しかし結局、職人や匠とは何かと考えると、実は論文を執筆する学術研究者もまた、それに加えてよいのではないかと僕には思われます。研究論文の言語の使用は、それは慎重なモノで、普通の日常の言葉遣いとかけ離れています。誰が読んでも、仮に外国人が辞書を引きながら読んでも、正確に内容を伝えなければなりません。「なんとなくわかってよ?」という甘えが許される語の使用とは違うのです。僕はタヌハチさんが、ご自分の語る権利を主張していることを支持するところです。 ただし、こうした考え方には注意も必要であることを僕は常に自分に言い聞かせないとなりません。学者のように言語の職人であり、弁だけがやたら立つ者が語りまくって、相手を封殺してしまうことがあるからです。だから僕はImantarxさんが、職人を弁舌の徒ではないと数度強調した理由もわかるのです。 日本が翻訳文化であるというのは、なるほど、一つのご意見として、よくわかりますし、豊富な例をありがとうございます。僕もそう思います。何それがもともと正しかったという原理主義は、どうも僕には馴染みません。だから寄木細工やコラージュもまた結構だと思っています。 しかし、タヌハチさんにあっては、これはネガティヴな意味でおっしゃっているということなのでしょうか。 僕は翻訳、コピーも、また独自性を発揮する機会になると考えているのです。実際、西欧にも、確固とした独自性というものがあったわけではないと思えます。たとえば詩学において、聖書を翻訳するということは、常に大きな意味をもっていました。聖書と関係ないと思われている作品にも、聖書のエピソードへの目配せがあるのはご存じでしょうが、これは十七世紀や十八世紀において、聖書の翻案として捉えてもよいものです。この翻案が、当時の文脈が捨象された現代の読者からみて「独創性に富んでいる」と思われることもあります。それが独創的であるかどうかは、判断するものの視点の取り方なのだろうなと思うのです。 だから独創か独創でないかという判断は、既にタヌハチさんが先に触れてくださったとおり、生まれた年代によって異なるのかもしれません。意識的に西欧を真似した世代にしてみれば、独創性がないと言われるの痛い点を突かれたことになるかもしれません。しかし、もう既に寄木的な文化が形成されてしまった中で生まれてきた世代にしてみると、「これが日本の特性なんだな」と何らネガティヴな感情が無く、受け入れられるように思います。こうなってはコピーの集合もまた、コラージュという技法による独創性であるとさえ思われてくるのです。僕が後者の世代であることは言うまでもありません。 話が脱線するのは、本来書いた方が面白かったであろうことを設問に書きそびれたのですから、僕の責任が大きいと言えます。どうぞお気になさらないでください。むしろ歓迎するところです。
そうですね、わかりやすく書いたつもりなのですが、厳密な話をお望みのようなので、私にはこれ以上の話はできません。「うーん、そういう意見もありますか。ふむふむ」で、OKですよ。議論を望んでいるわけではないので。私からは以上になりますので、続けてください。^^
お礼
ありがとうございます。少し強く書き過ぎてしまったかもしれません。もしかしたら、口頭でやり取りするのなら、ああやっていろいろ話題があった方が、退屈しないでいいかもしれません。しかし書いたものを読むというのは、何度も検討できるわけですから、また別の「わかりやすさ」への配慮が必要だと僕には思えたのです。また何か気付いたら、お願いします。
質問者様には失礼して、余談に応じさせていただきます。 TANUHACHI様 私は西岡棟梁の理想は、 >「今の材料に過去の道具で生命を吹き込み未来に向けて再現する」ための連続的な対話、 というような観念的なものではないと思います。同じ職人としての直感ですが。 職人は口舌の徒ではありませんから、理想は言葉では顕しません。言葉は方便。彼の理想は彼の仕事そのものです。敢えて言葉にすれば、今後先千年後にも建ち続ける檜の木組みです。 この実際的な理想のために必要だったのが、現代の劣化した技術ではなく、飛鳥の工人たちが示した本源的な技術であり、その技術に迫るために必要だったのが飛鳥の工人たち使った槍ガンナなのです。 TANUHACHI様の理解は、目的と手段の完全な転倒と言って良いでしょう。職人というもの、職人の「技術」というものが理解できないのは、もしかしたら「学校秀才」故なのかもしれませんね。 本居宣長に関しては見解の相違で結構ではないでしょうか?なるほど宣長が「花」について過誤を犯したからからと言って彼全体を貶めるのは、ラッセルやアインシュタインをその過誤によって貶めるのと同じでしょう。 また、「文化なき国家」と言いながら、西岡棟梁は認めておいでらしい。職人の技術は文化ではありませんか? さらに言えば、なるほど世阿弥や利休は日本文化の精華と言えるかもしれません。けれどそのことと、私の提議した「鎮守の森は日本文化の結晶である」ことと、なんの関連もないでしょう。それは喩えば、ルネッサンスを西洋文明の華ととらえるのか、ローマ街道を西洋文明の礎とみなすのか、そんな議論ではありませんか? 全体の論旨が、難癖にしか思えませんが?
お礼
ありがとうございます。もはや皆様方の投稿に周回遅れです。 なるほど、タヌハチさんが原点回帰というお話をして、西岡氏と本居を例としてくださったわけです。これについて、少なくても西岡氏の場合は、あくまで技術の復興を目的としたに過ぎず、思想的な主張ではないと注意を促しているわけですね。プロパガンダ的にも万葉集を復興しようとした本居とは大きく異なる、と。この根拠はご自分の職としての直感とおっしゃるが、これは職人の仕事に思想(とくに政治)は入り込まないし、入り込むべきではないとお考えだからでしょう。 しかしタヌハチさんは、西岡氏について、あの投稿では、彼が思想の類に基づいて原点回帰をしたとまでは言っていないと思います。また基本的には、僕にお話しになってくださったという書き方なので、特定の回答者に対して意見をぶつけてきたという風には考えていません。おそらく本居がお好きではないから、書いている間に、感情が高ぶったというところだろうと思います。ここの参加者の誰かを批判したのではないと思うのです。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
No.15です 喩えが悪かったので、分かりにくかったかも知れないですね。 まずは、本論の側から、喩えを変えてみます。 たとえば、西洋哲学的な理想という概念で身近なものは、「理想」気体などに代表されるようなものでしょう。 すなわち、気体を構成している粒子の大きさが「ゼロ」という状態を仮想的に想定するものです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E6%83%B3%E6%B0%97%E4%BD%93 これは、たとえば、幾何学的な三角形が、幅が「ゼロ」の線と、面積が「ゼロ」の3点から構成されているというのと同じことです。すなわち、 >>> ひとつは、その「あるべき姿」が、既存のものに内在化されているが気がついていない、あるいは見えないようになっていると考える立場です。 この場合、外部との関連性は「あるべき姿」を隠すだけの邪魔物(制約)になると考えられるため、そういったものを極力排除した状態を想定することになると思います。 <<< といった態度であり、これは(西洋)科学的な立場で顕著なものです。 一方で、周囲との関連性の中に「あるべき姿」を見いだそうとする方向性が日本的だと思う理由は、今回の大震災後でもマナーを守る国民性に対する海外の評価に見て取れると思うからです。 また、No.9のcyototu氏の記述にも、その片鱗が隠されていると思います。特に西洋系の天国では、「個人」は「個人」のままの人格を維持するという概念で構成されていますが、東洋系(というより日本)の天国では、究極的に「合体融合」するという概念になっています。 無論、二分法で「どちらか一方」という概念ではなく、方向性・傾向という概念になります。 (1)日本人が「理想」を考えるとき、周囲との関連性を抜きにして考えるよりも、周囲との関連性を重視して考える傾向が強のだろうと思っています。 そういった意味から、 (2)貪欲という概念は、周囲との関連性を排除したところに現れてくるものでしょうから、どちらかといえば日本的な「理想」とは異なると思います。かといって、どちらかといえば「個」が中心となる西洋的な理想でもあり得ないのは、「神」を持ち出すまでもなく、倫理的な規範(関連性の重視)の方が強いからだと思います。 (3)「個」を主体とするか「全体」(ないし関連性)を主体とするかは、ケースバイケースでしょうが、そういった方向性が「理想」という概念に影響していると考えます。
お礼
ありがとうございます。次のようなことかと考えました。 ・西洋哲学は全体の一部として埋もれている本質を見抜くこということに特化し、細部を排除するものである。 ・東洋思想は細部を排除しない。一部が本質だとは考えず、全体像そのままを本質であると捉えるからである。 こうであるとすれば、わかってきました。確かに古典主義では、自然は粗暴なものだと考えます。自然は雑多なモノであって、芸術家がその本質を見出してやらねばならないというのです。従って、人工物は自然それ自体よりも、より自然らしいものであるとみなされるわけです。 こうした古典主義はあるがままの自然を拒絶するわけですが、無論、リアリスムは対立するものに他なりませんし、そうした闘争関係もあったのです。このリアリスムが東洋的かどうかという議論は、僕はちょっと断言しかねます。ただし、僕もそうかなと感覚的に思うところです。 こうなってくると、「理想」と日本人が言う時、それにふさわしい中身は、イデアにはないでしょう。むしろ、全体をあるがままに受け入れて、そこに溶け込むことになると言えそうです。字引にある理想の定義が、「完全なモノ」を目指すとありますが、これは神ではなく、「全体の秩序や調和を把握して配慮する」ということであると言えそうです。 この秩序を重んじる思考の枠内では、「どこに進むべきか」という議論は行えません。というのも「全体」が一つの声を発信することはないからです。しかし「何となく感じとる」ことによって、全体の秩序を維持するための方向性は維持される、ということはあるでしょうね。それが震災で発揮されたというのは、なるほどおっしゃる通りだと思います。「自分は~~をするべきだ」と考えた人同士が錯綜したという話も、もちろん個別の話はあったかもしれませんが、全体として大混乱になっていないわけだから、秩序は保たれているわけです。首脳部がここまで迷走しているにもかかわらず、どうにかなっている風に見えるのは、一重に、発想の仕方が違うからでしょう。 なるほど、面白いですね。現状にもよく当てはまります。が、「理想」がこういう性質のものだとしたら、とても人間個人が口にするのはおこがましい語だということになりますね。西洋の理想は神の視点に立つところがありますから、まぁ、自分が思う主観的な神の声を聞けば、その通りにやってよろしいわけです。なぜなら、神の声を聞くことができるのは、ごく一部の人だからです。万人が認識できるものではありません。ジャンヌ・ダルクのように、神の声を聞いて、思いきったことをし、主導権を握ることができます。 しかし、ここで述べてきた東洋思想では、あくまで客観的に全体というもの把握しなければなりません。ここからいえるのは、三つあると思います。まず、「理想」は選ばれたものだけではなく、万人がもつことができること。次に、どんなに頭がいい人でも全体を把握するのは無理である以上、完全に「理想」を語ることができないということ。最後に、誰かが「理想は……」と口にし、さも全体のメリットになることをしているかのように語るのは、常に嘘が潜んでいるということ。 回答者さんの言葉から、少し話を広げすぎたかもしれませんが、うーん。ますます今の日本の状況がわかってきたような気がします。
- TANUHACHI
- ベストアンサー率31% (791/2549)
こんばんは。Imantarx様のお言葉から一つの刺激を受けてのコメントであることをお許し下さい。 宮大工の西岡常一氏は棟梁の世界で「最後の宮大工」と呼ばれ、確か西岡棟梁が手掛けた寺には斑鳩の法隆寺・法輪寺そして西の京の薬師寺再建を陣頭指揮の形で成し遂げた方ですね。古寺を再建する時に西岡棟梁が最も心を砕いたのは「出来うる限り当時と同じ手法で再現する」だったと記憶しています。 そのために棟梁が拠り所としたのは春日権現絵巻やら石山寺縁起・東大寺写経所などの当時を伝える膨大な史料や正倉院の宝物群でした。「槍鉋」はそれらの中にひっそりと眠る形で存在したモノを「匠の技」によって復元された貴重な資料そのものでもあります。 西岡棟梁がなぜ「当時のモノ」に拘ったのか。それを裏付けるのが棟梁の言葉として遺されていました。「今の材料に今の技を使っても過去を再現することはできない。今の材料に過去の技を使うならばそれはできる」。一本の桐の木から作られる一組の箱は箱と蓋に0.1ミリの違いがあれば何をせずとも音もなく静かに滑るように合わせて閉じることができる、とも申します。 西岡棟梁の後継者に指名された小川三夫氏はこの言葉から「木と対話する意味」を始めて教えられたと回顧していました。木には板材としての木目の他にも樹皮や虫食いなどの部分がありますが、それら全てを引っくるめて使うことで木を活かすことができる。樹皮も室生寺に見られる檜皮葺などの屋根の素材としても使用されていました。 西岡棟梁にとっての「理想」を僕は「今の材料に過去の道具で生命を吹き込み未来に向けて再現する」ための連続的な対話、と理解させていただきました。 対話というスタイルだけならば本居宣長もそれに該当するかもしれませんが、彼はその本質を理解していなかったためにその後の日本の思潮に途轍もない過ちを遺す形となってしまったことも事実です。大和魂を復活させるために万葉の昔に返れと自己陶酔的に原点回帰を唱えたのも自由だがね。彼はその原点である万葉の時代では花と言えば「梅」を指し示す言葉だったことをすっかり忘れていた。学校秀才が陥る典型的な躓きに他ならないね。 逆に日本の精神文化というならば江戸時代以前の鎌倉や室町時代の「無常観」であり、愚管抄の「道理」もある。「至高の価値」を何に求めるかとの話に揺り戻すならば、表面的には仮面を被る形で自分のスタイルを貫き通した藤原定家もいれば世阿弥や千利休そして小堀遠州や本阿弥光悦もいる。一見して「世捨て人」に見えても彼らに共通するのは世間で暮らす人以上に「世間の目」を気にしていたことも確かだね。だから彼らほど権力者の庇護を求める必要が他のライバル達にはなかったのだよ。 徳川の時代に1つの精神文化の形を求めるならば、それは丸山眞男に代表される政治学者が「近代日本に地下水脈のように流れている古層」として儒教に基づく道徳観念の問題を指摘しています。幕府は統治機構としての国家原理を儒教それも朱子学に求め、明治国家はその冠に当たる部分を天皇に置き換え体裁として立憲国家の形を取ったがそこに流れる発想そのものは断絶することもなく神道と融合して受け継がれ、オカシナ方向へと舵をきってしまった。これが「文化なき国家」と呼ばれる由縁かもしれない、と僕は思います。 途中で文体が変わってしまい申し訳ありません。
お礼
ありがとうございます。宮大工のこと、勉強になりました。しかしこれと、本居を一緒にしてはならんということですね。僕なりにもう一回まとめさせていただきますが、――過去に遡ったという点では二人とも共通点が見いだせる。が、本居の場合は原理主義になった。しかも、正確に当時のことを把握していたわけではなく、「花」という語ひとつとっても、間違いがある。精密な研究というより、我田引水のプロパガンダであった――と読みました。 なるほど本居がダメというなら、それもそうかと思います。僕はこの点に関して中立的です。まだ自分で判断を下せるほどの材料が揃っていませんから。しかし日本の「精神文化」について、結局、どういうお考えをお持ちなのですか。あるのか、ないのか。あるとすれば、どれなのか。 そして僕の印象ということですが、明治の国家原理が、徳川幕府の朱子学を都合よく解釈をねじったとおっしゃるということだけれど、こうした接ぎ木もまた、日本的な発想と呼ぶことはできるのではありませんか。フランス革命のように、新しいものを作り、過去のものを何でも壊せばいいというわけでもありませんし。実際、革命以後、フランスはすぐに共和制に落ち着いたのではなく、王政復古と帝政のぶり返しを経験し、理念は揺らぎます。思考錯誤を経て、他を飲みこんで生成されてきたといってよいと思います。 こんな風に僕個人は思うので、文末にタヌハチさんは「文化なき国家」と言い切ってらっしゃるが、この言葉は強いと思うのです。また前までの文脈を踏まえても、「理想(理念)なき国家」とおっしゃった方が正確だと思うのです。 あるいは文化とは、理想に基づいて創出された純粋なモノだけを指すのであり、それは日本になかったとまでお考えということでしょうか。
四度目の正直。 あっさり前言撤回させてください。 私が日々体感する身近な理想と、皆さんの語られる大きな理想の相違に苦しみましたが、 日本文化には、それを包括する概念があると思います。 「至極」 この他にも在るとは思いますが、私が思い起こせたのはこれです。 「理想」はこの至極を下地に、「ことわりをおもう」として受け入れられたのではないでしょうか。 それは技の極致も示すし、社会の在るべき姿も示します。 そして全ては天地の理、 本居宣長がルネッサンスした 「物の心 事の心 物のあわれ 事のあわれ」 に適うか否かが問われるのです。 (1)理想とは、日々の細々した立ち居振る舞いから、社会の在り様まで、天地の理との合致を目指すものである。 (2)当然異なる。 (3)あめつちのことわり、もののこころ、ことのこころに適うか否かである。 エコノミックアニマルは、古くはヴェネツィア人に向けられたヨーロッパ各国のやっかみではないでしょうか。メディアの煽りに乗せられて自虐的な国家観を抱くのは止めませんか?エコノミックアニマルと言われたら、「そうか日本も遂にルネッサンス最後の担い手ヴェネツィア人に並んだか」と思っておけば良かったのではないでしょうか。 そのころの日本に精神文化が育ってないと感じるのは、視るところが違うからだと思います。南方熊楠が死守し、宮脇昭が再発見し世界に広めた「鎮守の森」は日本文化の結晶です。 そしてまた、同じ理の中に、西岡常一が復元した法隆寺薬師堂が在るではないですか。 日本人の理想は欧米のそれのように言葉を尽くしてアピールされないのです。静かに事物と向き合い形に顕されてきたものなのではないでしょうか。 そして、そうした理想は、常に現代日本社会に警告を発していました。 御質問の出発点である現代日本社会の在りようは、「日本の理想を見失ったが故」なのではないでしょうか。 もういっこ蛇足 >日本古来のアミニズム 「自律分散システム 」と知ったかぶらせてください。
お礼
再度、ありがとうございます。ここのスレッドを読みながら、ご自分の考えを練り上げてくださっているらしいと読めて、嬉しく思っています。回答者の中には、大工の親方と物理学の先生がいて、そのお二人は、モノづくりの実践者です。しかし、そのスタンスも多様だなと思います。 理想の上位概念である「至極」というものをまず示したうえで、理想は「至極」の一様態とおっしゃっているわけですね。この「至極」は、「もののあわれ」に通ずることにも、天と地と合一することを目的とするものである、と。 なるほど、イデアが神に合一することだとすれば、「至極」も非常に近しい概念であると言えそうです。かくして「理想」という語を使ったにせよ、潜在的には、それと似たものがあったから、問題ない、という方向に議論はなるでしょう。ただし「至極」は忘れられてしまった。そうだろうなと思います。この忘れられてしまったという意味は二重であり、理想に似た概念が西洋のものだろうと日本のものだろうと忘れられたということ、そしてとりわけ、日本のものが忘れられたということになりそうです。 最後の話の繋がりは淡い書き方をしてらっしゃいますが、エコノミックアニマルは日本流の理想のあらわれの一例だとお考えだということなのでしょうね。ただし贅沢をもう一つ言わせていただくと、西欧の理想と日本の「至極」の明確な差が、今一歩、分からないです。ともかく理想に近似する概念をもつことが重要であるというのは同意するところです。しかし西洋の「理想」をどんどん導入してくればいいわけではないとお考えのようですから。最も大きく違う点はどこにあるのかを伺えたらななどと思ってもいました。 >メディアの煽りに乗せられて自虐的な国家観を抱 くのは止めませんか? これは質問欄の参加者全員に対しての呼びかけではあるでしょうが、まず僕に向けて話しているのだと受け取ります。うーん、これは違いますよ。物事は多面的なのです。結局、総体として僕は、日本が高度経済成長の時代に、西欧が精神的だと認めるほどのものを「示せなかった」と判断しています。しかし宮脇昭と西岡常一がダメだと言っているのではないのです。もっと高く評価されてしかるべきだと、むしろ僕は考える方向性です。彼らの評価がなぜ乏しかったかといえば、脚光を浴びる主流派は、商業主義が占めていたからだと考えることに矛盾はないと僕は思うのです。
こんにちは。 理想と欲望を比較するのに、私がわかりやすいなと思う例を挙げて見ます。それは愛に関してですが、プラトニックラブと言う言葉を聞いたことがあると思います。精神で行う愛を言う言葉ですが、これに対して欲望の愛と言うと、端的に肉欲、情欲をあらわすものであると思います。端的に、理想の愛と、欲望の愛、と書き並べるだけでも、その二つが違うことはわかるかと思います。 それが精神によるところのものなのか、本能によるところのものなのかで、理想と欲望を分別することができるのではないでしょうか。 1)それは生存に在りながら、精神によって追い求められる純粋な存在の事である。 2)それは異なるといえる。 3)精神に基づくものか、本能に基づくものかで分別でき得る。 より速いマシン、より高い建造物、これらを求めることが本能に基づくことなのか、それとも精神に基づくことなのか。より速いということが興奮を呼ぶためのものなのか、精神の充足のためのものなのか、より高いということが、顕示欲を満たすためのものなのか、究めることの達成感を味わうためのものなのか。少なくとも技術者にとっては、それは精神に基づく後者の行いであると私には思われます。 およそ現代日本では、西洋的な理想の概念が浸透していると思います。古代日本にそれに変わる言葉があったのかどうか私にはわかりませんが、現代の言葉にも見られる清らかさや潔さといった言葉からも、何らかの、かくあるべしのような、目指すところはあったと思われます。おそらく、神事や風習などにも文化的痕跡として残っているのではないでしょうか。 しかし、清らかさや潔さなどにまつわる行為も、病気の蔓延を防ぐ目的などの実利があったと見ることもでき、その場合、それは本能に基づく行為(嫌悪など)ではないが、理知的でありかつ現実的な事として、現象していたと考えられます。 喩えば医者が、感染予防を徹底していて治療に当たるのは当然です。それを理想とは言いません。しかし、それが完全に徹底され目的を達成するのが確実になったとき、それは理想的であるということができます。そこから清潔であることは特定のシーンにおいては特に大切であるとされ、かくあるべしとされ、そこから清潔にまつわる理想が生じたと見ることができないでしょうか。 つまり、速いや、高い、といった事柄に関しても、実利がその背景にあったのではないかと言うことです。しかしより速く走りたい、ということが、高いところから見渡したい、ということが、本能的な欲求ではないのかといわれれば、そういう面もあるとなるでしょう。しかしながら、それは興奮や顕示欲とはことなるのであり、こういう場合には、欲求と欲望の区別も必要となってくるかと思います。 ちょっとぐだぐだになりましたか、以上のような感じです。
お礼
ありがとうございます。こんにちは。文明論の話をあなたの質問欄でしたから、ここでの回答は理想の話というより、文明論に特化されているという風に見ました。そしてこうやって、いらしてくださるからには、議論を望むという風に受け止めています。うーん、議論をしたいというところではありますが、ちょっと記述の仕方の問題点を指摘させてください。上げ足をとっているというのじゃなくて、議論を始めるにあたっての重大な障害と思えることです。 まずアナロジーが多すぎて、議論の繋がりが見えないのです。プラトニックラブというのは、愛をめぐること。不浄や穢れの話は宗教のこと。さて、それがなぜ技術の話と関係あるのですか。どこの国にも、何かしら通俗的なモノと、そうでないものを区分する概念がある。だから技術に関しても、実利や欲望と違う何かがあると推測される――これ以上のことを仰っていますか。 次にあなたは、自分が技術者でもないのに、個別の技術者の意見を取り上げることもなく、技術者はこう考えているはずだという言い方をしていますね。しかしこれでは根拠がないから、技術者によりけりじゃないの?といって終わってしまいます。こうなると水掛け論にしかならず、後の話が続きません。どんなに好意的にコメントしても「回答者さんは技術者にそういう期待をしているんですね」というだけのことです。何か根拠があっておっしゃっているなら、それを示してください。 それから理想の定義は、精神と理想を言い換えただけのことで、中身の定義になっていません。あなたはプラトニックラブというが、そもそもイデアがプラトニスムの語なのです。プラトン主義において、その言い換えの語が見つかるのは当たり前すぎるのではないですか。 そしてプラトン主義は日本にどの点で「浸透」しているのでしょうか。飯島愛が自伝のタイトルで普及させたプラトニックラブですか。しかしそれはプラトンとはあまり関係ないですね。ポルノ女優が肉欲と対極の「プラトニック」という形容詞をラブにかけたことが撞着語法になって、注目を引いたというだけです。 こうやって整理すれば、なかなかボールを返せないことが明らかでしょう。かくして僕はエチケットの問題として「うーん、そういう意見もありますか。ふむふむ」というくらいのことは言えます。しかし中身がよくわからないので、賛成も反対もできないのです。
- 来生 自然(@k_jinen)
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個人的な感覚なので、全ての人に当てはまるかどうかは分かりませんが、書いておきます。 人間が対象物に対し、想像力を働かせて「あるべき姿」を空想するとき、大きく分けて二つの方向性があると思います。 ひとつは、その「あるべき姿」が、既存のものに内在化されているが気がついていない、あるいは見えないようになっていると考える立場です。 この場合、外部との関連性は「あるべき姿」を隠すだけの邪魔物(制約)になると考えられるため、そういったものを極力排除した状態を想定することになると思います。ドイツのアウトバーンなどは、そういった思索の元に作られたのではないでしょうか? もうひとつは、その「架空のもの」は、既存のものを含む外部に渡って広がっていて、観察者の心にまで広がっているがゆえに「感じ取ること」ができるという立場です。思索的には、「まず、全体があり、対象物や思索する心はその部分である」という視点になります。 この場合、対象物そのものよりも、外部との関連性(調和)の中に「あるべき姿」が想定されることでしょう。 ご存じかも知れませんが、西洋的視点と東洋的視点の違いについて、興味深い実験結果(アンケート結果)が2009年8月24日のテレビ番組で放映されていました。http://www.ntv.co.jp/marumie/onair/090824/090824_04.html#Q1 過去および現在の日本人のどれだけの人がどちら側の視点を有しているかは分かりかねますが、大震災後の多くの日本人の対応は、外部との調和の中に「あるべき姿」を想定して動いているように見えます。
お礼
ありがとうございます。3.11以降、周囲に流されることなく、自らの欲望を再検討することが重要だ、という方向に話が固まって来たところではあったのですが、これには反対だということですね。つまり、 >大震災後の多くの日本人の対応は、外部との調和の中に「あるべき姿」を想定して動いているように見えます。 うーん、そうですか。客観的に捉えるということは大切ですから、このように対案も歓迎するところです。ただもう少し、この点については事実を想起できるように詳しく書いてくださるとありがたいです。 ともあれ、僕のいう方向性は、日本が西洋の思考スタイルを取り入れるべきだという議論であって、東洋的な感性を踏まえていないのではないかという指摘をなさっているとは言えそうです。しかし実はこの東洋的な思考の説明の箇所が、僕の不勉強ということかもしれませんが、よくわからないのでした。 >もうひとつは、その「架空のもの」は、既存のものを含む外部に渡って広がっていて、観察者の心にまで広がっているがゆえに「感じ取ること」ができるという立場です。思索的には、「まず、全体があり、対象物や思索する心はその部分である」という視点になります。この場合、対象物そのものよりも、外部との関連性(調和)の中に「あるべき姿」が想定されることでしょう。 ここがリンクのバラエティ番組「世界丸見え」のアンケート調査で、東洋的と言われているものの見方に対応するということなのだろうなと推測します。しかし一部を考察することで全体の様相を推論するとは、シャーロック・ホームズにも「一滴の水から大海を知ることができる」とあったように、甚だ西洋的な考察スタイルだと思うのです。いわゆる演繹法です(白状すると、僕は「世界丸見え」の説明にはバラエティとしての暇つぶし以上の説得力を感じませんでした)。そして最初の話に戻りますが、この演繹法の思考スタイルによって、日本が震災以後、周囲と調和しているとは、どういう意味なのでしょうか。ちょっと僕には想像がつかないので、保留したような書き方しか今はできないのでした。すみません。
- cyototu
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#10の木造さん関連で蘊蓄を。 >まったく理想を持たない国民で、ここまで技術的・文化的に発展した国は歴史上あったのでしょうか。興味がつきません。 あたしは、むかし自分の経験から、ドイツ人とアメリカ人、日本人とベルギー人、これをそれぞれ組みにして比較することを思い付いたことがあった。 ドイツ人とアメリカ人の共通点は、共に人間を規則でコントロール出来ると思っている。そして、ドイツはそれが見ごとに巧く行っている国のようだった。ドイツのある有名な研究所を訪れたとき、そこの建物の廊下の途中にところどころ防火用のガラス戸が付いていた。そして右側通行だったかどうか忘れたが、それに従って廊下を歩いているとそこに障壁があることが分からないくらいスムースに廊下を歩ける。ところが、その反対側を歩くと不自由きわまりない廊下だった。何とまあ、いろいろ計算されて出来ていることかと感心した。 その反対がアメリカだ。アメリカはidealistic country すなわち、理想、ないし理念の国と言うことになっている。実際、彼等は口では理想を掲げ、その実現のためにありとあらゆる規則を作っている。ところが、それが全く巧く行っていない国だ。そんな規則を皆が無視しており、めちゃくちゃな国だ。 日本人とベルギー人の共通点は、ともに人間を規則でコントロールするなんて出来っこないと思っている。だから、この両方の国は規則ではなくて、成り行きで人々が収まるところに収まるようにしておけば良いと思っているようだ。その成り行きに任せて見ごとに失敗しているのがベルギーだ。皆てんでんばらばらで、日本人から見ると何もかにもが驚くほど効率が悪い。まあ、ベルギー人の名誉のために言っとくが、ベルギーは美味いビールに美味い料理、人生の楽しみ方は、日本人よりも上のようには見えた。んで、それが巧く行っていない理由は、徹底した個人主義の土台の上に、成り行きに任せているからなんだと思う。 その反対が日本だ。日本人は、国とはこうあるべきだ、人々はこうあるべきだなんて前もって考えても無駄だ、規則なんか作ったって、必ず何処かで齟齬が出る。だから、成り行きに任せていれば良いんだってなところで、だれかお偉いさんがこうせいああせいと言うのではなく、皆に勝手気ままに行動させて、収まるところに収まるように社会全体が出来ているようだ。だから、神の手も、予定調和もない。偶然の成り行きで収まるところに収まるように構造が自発的に出来上がって来るのを待っている。そうして、少なくとも最近まではそれで見ごとに成功して来た国だ。実は、こう言う、何の計画書もなく何の存在目的もなく偶然の成り行きで、収まるところに収まるように出来上がって来る構造のことを散逸構造と呼ぶんだが、日本の社会構造はその散逸構造の教科書みたいにうまく出来た構造だ。散逸構造の特徴は、成り行きで出来るから、何が起こってもそう簡単に構造が壊れない。 何か前もって目的を決め、設計図に基づいて出来上がって来る構造は散逸構造ではない。例えば、それは高度な機械時計みたいなものだ。その存在は、自発的に出来た訳ではなくて、誰かその構造の外側にある者が、前もって存在目的を明確にして作り上げる構造だ。その典型が、例えば機械時計は驚くほど複雑に出来ているが、その中に一寸したピンでも放り込むと、その機械は動かなくなる。その点、われわれの体の構造も含めて、もともと偶然の成り行きで、前もってのシナリオも存在目的もなく勝って出来てきた散逸構造は、偶然の障害物に大変な抵抗力がある。だから、ピンの一つや二つ差し込まれたって、その機能は落ちるが、それで一巻の終わりといことがない。日本の社会はそんな散逸構造の典型だね。だから、日本の社会が出来るにあたって、ビジョンだ理想だなんてものが何の役割も演じていない。あるのは偶然だけだ。 パリを見ていると、その中心部の整然とした町並みは大変美しい。如何にもそれを設計した人間の理念が現れている。それに比べると、東京の町並みの乱雑さときたら、一見なんの秩序も見えない。30年以上昔に聞いたことのある話しだが、その当時は東京の建物は約30年ごとに壊されては新しいものが作れて来たそうだ。それをあちこちでてんでバラバラにやっている。それを、西洋の社会学者が、大河の流れに例えていた。東京の町は一見そこに留まっているように見えるが、いつも流れている。そこには渦があり、あそこには流れがと、あちこちいろんなことが起こりながら、いつもそのメンバーが変わりながら新しい何かを生み出している大変にダイナミックな、だから大変美しい町だ、と形容していた。 ドイツのやり方も日本のやり方も、互いに一長一短があるようだ。今回の原発なんて、そんな成り行きに任せていた付けが回ったってな風に考えられないこともない。あるいは、その反対に、国のお偉いさん達が、国民に取って何が必要なのかを俺たちには考える力があるんだとふんぞり返って、何かアメリカや旧ソ連見たいな理念を持ち出して、国民に任せずに国民には内緒で計画を進め、日本の伝統的な散逸構造に任せる方法を採らなかったために起こってしまった大惨事なのかもしれん。まあ、私はどちらかと言うと、付けが回った方だと思ってはいる。 あたしには、ゴルフとプリウスを比べるのは、トンボとチョウチョウを比べているようなもんで、こっちの方があっちより優れているのいないのなんて、そんな比較は意味ないと思うんだがね。 木造百年も良いが、30年ごとに立て替えるのもダイナミズムの源泉になっているっちゅう見方もあるみたいだが、どうかね、でえく。
お礼
先生、ありがとうございます。僕の論旨からすれば、ゴルフとプリウスの対比など、親方の意見に反対するべきだったのかもしれませんが、未だ正面切って反対するのは苦手なところです。うーむ、なるほどと、とりあえず口にし、相手が何を言いたいかの大枠をつかもうと思ったりもするのです。おそらく親方が、先生の話に応答してくださることでしょうから、基本的には僕はちょっと隅で傍観させてもらいます。ここでは雑感を書くにとどめましょう。 パリの街並みですが、あれは新古典主義によるもので、大革命期の名残です。新古典主義とはギリシア様式の復古調ですが、ギリシアの文化を大々的に取り込んで、ポリス的な民主主義的を気取ったというのが、そもそもです。建築物、街並み、その様式が民主主義を高らかに称揚しているというわけです。まさしく理念によって街並みが作られ、古い街は自分らで壊してしまった。東京となれば、焼け野原らになり果てた中で、再興してきた街です。ヴァイタリティがあれば、何でもよかった。民主化が理念に基づいて行われたのか、それとも成り行きによって起きたのかという差は、まさに街並みに出ているわけです。 しかし散逸構造とお書きのように、東京は散逸しているが某かの構造ではあって、街もできてしまったものを受け入れて、接ぎ木する形で、何らかのまとまりができてきた。憲法もとりあえず外国の草案との合作でできたが、まぁ、それもなかなかいいじゃないかと受け入れた。こんな寛容さ、あるいは事後承認の力が、日本の見出した平和なのかもしれない、とも思えます。 先生は原発の問題を、成り行き任せか、一部が主導したせいかと問うておられますね。しかし、僕は事後承認の力を当て込んで引き起こされたのだと思っています。つまり、何が起きても受け入れざるを得ないし、受け入れる力が日本にはあるだろう、というアテがあり、また国民の方にも自負があった。その結果、それは首脳部の無責任を引き起こし、また国民が首脳部任せにするということにもつながったと思えます。 散逸構造を形成したパワーとは事後承認の力である、と僕はここでいっているのですが、原発事故は、果たして事後承認できるようなレヴェルのものなのか。いや、そうはいかないだろうと僕は思ったりします。すると日本のあり方が変わって来るだろうなとは思います。No13のお礼欄でも書いたのですが、受け手の側が拒絶するということが今後起きてしかるべきであり、またその判断基準が求められることになるだろうな――というのが僕の時代の読みです。 受け手側が拒否するようになると、日本流の散逸構造は構造として体をなさず、何かバラバラな時期を一度、経なければならないだろうなどと思ってみたりもします。それくらいなら散逸構造のまま留まろうという意見も出てくるだろうな、と思ったりもします。それでもなお散逸構造を脱するべきか否か。これが問題です。 もしよかったら一つ伺いたいのですが、物理学的にみて、散逸構造から、理念によって統制が取れた構造への移行は可能なのですか。あるいは、まったく行われえないのですか。これは余談に属すると思うので、ご無理でなければ、お教えください。
お礼
どうもありがとうございます。回答内容もさることながら、期待を寄せていただいて、感謝しております。 さて、もう投稿それ自体で完成されているので、僕から付け加えることもないのです。しかし敢えて整理すると、理想の問題を考えるにあたって、ユートピアを検討してみたということですね。そして日本の主要な宗教のユートピアにおいて究極の目的は何であったかといえば、 ・仏教:阿弥陀様と合体(『往生要集』) ・神道:ご先祖様に同化 であるということでした。 イスラム教のように死後という最も快楽におぼれる世界を想定してもよいところに来て、神道も仏教も、酒池肉林を退けている。かくして、欲望を垂れ流すような思想ではなかったと、(当然かもしれませんが)まず言えます。 更にこういう文化背景があるのだから、西欧の理想という言葉とその下地はなかったにしても、似たような概念があったのではないかと考えられます。実際、設問で説明したキリスト教の「理想」とは、 ・キリスト教:イデア≒神を探究 ということでした。 どうやらこれは、阿弥陀様やご先祖様に同化しようとする仏教や神道とアナロジーがあると言えそうです。 かくして日本が文化的に、理想を貪欲と等しく結ぶような土壌をもっていたと言い得るはずがない。むしろキリスト教と最初から似ていたんだとも言えそうです。さて、ここで設問の3項目に沿って整理してみます。 (1)理想とは、欲望の探究ではなく、浄化され、至高の存在に近づくことである。 (2)理想とは聖に属し、俗な貪欲とは対極に位置する。 (3)この判断基準は、仏教と神道にある。 またもう少し考えを煮詰めてみます。お勧めの『往生要集』は読んでみようと思います。『神曲』を読んでいて、そちらを読んでいないのは、何とも面目がない話です。
補足
【問いを締めるにあたって】 ご回答を多数お寄せいただき、どうもありがとうございました。当初は僕の言葉の至らない点があって、問いの意義に疑問も出されましたし、なるほど、理想などその当人が良いと思えば、他人があれこれ言うことでもないような気もしました。No.1の方のおっしゃる通りです。 しかしNo.6のお礼欄を使って補足したように、僕としては何が「理想」と呼ぶに値するものかを、今一度問い直すことが、理想と欲望の見分けがつかなくなった状況を呈してしまった社会において有益に思われたのです。実際、回答者の方々からも、現状の日本で「理想」が非常に曖昧になってしまっているという同意は得られたように思います。 幸いにも文明とは何かという論点から議論は活発化し、西洋と東洋の思考スタイルを対比するというテーマ、職人とは何かというテーマ、また何をもって文化の創出とみなせるかというテーマも出ました。なかなか面白いやり取りができたと思います。しかし結局のところ、「理想=イデア」という考えを支えには文化が必要なはずです。どの回答も秀逸で僕には面白かったのですが、この点について、最も直接的に答えてくださった回答をBAに選ばせて頂きました。 参加してくださった皆様方が多様な意見をお持ちであることを考慮して、ここで僕が無理に(1)(2)(3)と立てた問いの答えを書くことはしません。しかし共通する結論としては、日本人が「理想」と呼びうるものを考えるにあたっては、自国の文化を見直すことから始めること必要があるということは言えると考えられます。その日本の「文化」と呼ぶ対象が人それぞれ違うとしてもです。皆さま、どうもありがとうございました。