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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本語における「理想」の意味)

日本語における「理想」の意味

このQ&Aのポイント
  • 日本語における「理想」とは、完全なもの、最高の状態を望むことを意味します。
  • 日本語の「理想」と西洋の文脈での理解は異なり、イデア界の神的なものを追求する善の行いと明確に区別されます。
  • 「理想」という語の定義や理解、理想と貪欲の関係は個人や文化によって異なります。

質問者が選んだベストアンサー

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  • cyototu
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回答No.9

成る程、あたしから見て何でそんな頓珍漢な質問が出て来たか判ってきた。コミュニケイションをするには余りにも端折り過ぎで、自分の生きざまと相手の生きざまが違うのだと言うことを全く無視して、自分が判っていることは相手にも判っている筈だと言う根拠のない前提に立って質問がなされるから、話しがややこしくなっちまうんだね。 先ず、あんたの理想という言葉で意味するものが物質的な豊かさの獲得という、極端に限定されたものを指しているから、あたしには何でそれが理想なのか皆目見当もつかなかった。だから、唐人の寝言みたいな頓珍漢な質問をする奴だと誤解されちまう。確かに、理想という言葉はそんなに古い日本語ではないかもしれないが、中国には桃源郷という言葉がとっくにあった。そして、そんな概念は平城、平安期の日本人に既に知られていた筈だ。また、キリスト教の神だプラトンだなんて持ち出さなくても、仏教には上下足す八方に十方浄土があり、その中でも西方の極楽浄土は特に日本人に人気があった。 今度機会があったら、惠心僧都の『往生要集』の極楽を読んでご覧なさい。それは正に理想の世界だ。でも、物質的豊かさとはまったく無関係な世界だ。この極楽が凄いんだ。どんな民族でも地獄の描写は常に面白い。何とまあいろいろな拷問を考えつくかと感心されてしまう。ところが、天国の描写となると、いきなり退屈になっている。ダンテの『神曲』の天国篇なんて、あんな所に居たら1週間で飽きてしまう気がする。ボッシュの絵の天国なんて、なんかアナーキーでヒッピーみたいな所がある。あたしは直接読んでいないので無責任なことを言うが、イスラム教の天国もキャバクラみたいなところだそうで、直ぐに飽きてしまいそうだ。 ところが『往生要集』の極楽なら、あたしゃ是非行ってみたいと思ったね。極楽以外の残りの九方の浄土に入るには、結構難しい入学試験がある。難しい教義を学んで奥義を究めなくちゃいかんとか、偉い坊さんになって出世しなくちゃいかんとか、真夏の竹やぶで1週間裸で蚊に食われる修行をしなくちゃならんとか、お金持ちになって莫大な寄付をしなくちゃならんとか、人間には一寸出来そうもない入学試験ばかりだ。ところが、極楽だけは、「阿弥陀様お助け下さい」って言うだけで良いんだそうだ。殆ど無試験で入れるってことだ。だから、極楽だけが人間用に用意されているらしい。 んで、その極楽に入ると、極楽の入門コースから始まる。そこは、絵も謂れぬ綺麗なところで、匂いも香しい。いくらでも美味い食い物が在る。まあ、超電化住宅に無料で生活を許されたみたいな物だ。そして、其処此処にある菩提樹の木の下で阿弥陀様が講義をなさっておられる。その講義の素晴らしさと来たら、超一流の学者さんの講義を聴いているようで、一言一言が目から鱗が落ちるように解っちまうのだそうだ。そして、そうだその通りだと感激するたびに、百万年寿命が延びる。 そんな感激を何度も繰り返しているうちに、知らず知らずのうちに極楽の中級コースに入っている。そこでは、最早美しい景色も香しい匂いもない。非常に質素な中で、阿弥陀様の講義を聴いている。そして、どんどんと究極への「理想」に近づいて行くそうだ。そして、その究極の状態では、あんたは最早あんたではなくなり、阿弥陀様と完全に合体融合しているんだそうだ。それが、平安末期から鎌倉時代に日本人が認識した理想の世界だ。どうだ、知的な世界だろう。だから、物質的な充足は単なる方便であって、理想でもなんでもないっちゅうことを、我々の先祖達は認識していた。 キリスト教やイスラム教の天国と比べて、あたしがある有名なインド人の物理学者にこのインド人の考えた極楽の話をしたら「そうかお前解ったか。インド人は頭が良いんだ」って威張ってた。 神道だって同じだ。お祈りのときは、ご先祖様や神様には無念無想でただ頭を下げる。決して、なんかの願い事を叶えてくれなんてお祈りしては駄目なんだそうだ。一々こちらから私の願い事はこれです何んて言わなくては解んないもんが神様であるものか。それに、こちらの願い事よりももっと重要なことを神様ご先祖様は知っている筈だ。だから、神様ご先祖様に任しておいて、何も祈るな、ちゅうことだ。んで、あんたが死んでもいきなりご先祖様になれる訳ではない。あんたのことをまだ覚えている人間が生きている間は、単なる死んだ爺さんや婆さんなだけだ。でも、その死後、時間をかけて段々とあんたの御霊が浄化されて行き、皆の記憶が無くなった頃に、あんたはご先祖様という集合体に合体する。まあ、上の阿弥陀様そっくりだ。んで、その状態が日本人にとって最も理想的だと考えて来たんだ。だから、あんたの言う理想と、ここで言う理想がどれだけかけ離れているかお判りだろう。 自分の拙い経験とその外挿だけの思い付きで理想云々するのではなくて、我々の先人達が考えて来た理想って何なのだろうと言うことも考えながらこの問題を論じないと、話しが限りなく浅く、陳腐になってしまう。 あんたは、決して木の股から生まれて来たのではなくて、日本人として日本の文化の中にどっぷりと浸かって生まれて来たことを忘れちゃ駄目だ。そして、あんたのご先祖様達はあんた並みか、あるいはあんたよりももっと優れた思考をして来たかもしれないと言うことも忘れちゃ駄目だ。あんたがどんなに西洋人の考えて来たことを学んだところで、結局あんたは日本語で考えることしかできないことを忘れちゃ駄目だ。別な言い方をすると、日本語で考えるあんたの思考法に関しては、西洋人には絶対に真似が出来ない物をあんたは持っている。幸いにも、日本人は世界から尊敬される長い歴史と、独特な深い文化を持っている。それによって、この人類の多様性に関して大変な貢献をしている。 確かに西洋の文化はその強大な軍事力の故に、他の文化に決定的な影響を与えて来た。だから、西洋の文化を学ぶことは重要なことだ。しかし、それはあんたが西洋人になるために学んでいるのではない。そんなつもりになって西洋人の土俵の上で相撲を取ったって、所詮西洋人に敵う筈がない。 しかし、そのような無視出来ない多大な影響力を持つ異国の文化を学ぶのは若いうちが一番良い。相手の手の内を知って置かないと、いよいよあんたが目覚めた後で、お前ら西洋人とはまた違った世界観もあるのだと西洋人に向って説得することが出来ないからだ。だから、今のうちは、西洋人の考えて来たことを一杯学んでいるあんたのそのやり方は、正しいやり方だ。 しかし、そのうちにあんたが歳を食ってくると、もう西洋は良い、ところで日本はどうなんだと言う気になって来るものだ。そして、いよいよ自分の土俵で相撲を取るときがやって来る。 若い故に西洋かぶれしているあんたを見ていると、そんなことを頭の片隅に入れておいて、いつか自分で何者なんだ、俺って日本人じゃないか、と言うことに気付いて欲しいと言う気になった。 まあ、あたしはあんたに一つの理想を描いているのかもしれんな。

kusa-mura
質問者

お礼

どうもありがとうございます。回答内容もさることながら、期待を寄せていただいて、感謝しております。 さて、もう投稿それ自体で完成されているので、僕から付け加えることもないのです。しかし敢えて整理すると、理想の問題を考えるにあたって、ユートピアを検討してみたということですね。そして日本の主要な宗教のユートピアにおいて究極の目的は何であったかといえば、 ・仏教:阿弥陀様と合体(『往生要集』) ・神道:ご先祖様に同化 であるということでした。 イスラム教のように死後という最も快楽におぼれる世界を想定してもよいところに来て、神道も仏教も、酒池肉林を退けている。かくして、欲望を垂れ流すような思想ではなかったと、(当然かもしれませんが)まず言えます。 更にこういう文化背景があるのだから、西欧の理想という言葉とその下地はなかったにしても、似たような概念があったのではないかと考えられます。実際、設問で説明したキリスト教の「理想」とは、 ・キリスト教:イデア≒神を探究 ということでした。 どうやらこれは、阿弥陀様やご先祖様に同化しようとする仏教や神道とアナロジーがあると言えそうです。 かくして日本が文化的に、理想を貪欲と等しく結ぶような土壌をもっていたと言い得るはずがない。むしろキリスト教と最初から似ていたんだとも言えそうです。さて、ここで設問の3項目に沿って整理してみます。 (1)理想とは、欲望の探究ではなく、浄化され、至高の存在に近づくことである。 (2)理想とは聖に属し、俗な貪欲とは対極に位置する。 (3)この判断基準は、仏教と神道にある。 またもう少し考えを煮詰めてみます。お勧めの『往生要集』は読んでみようと思います。『神曲』を読んでいて、そちらを読んでいないのは、何とも面目がない話です。

kusa-mura
質問者

補足

【問いを締めるにあたって】 ご回答を多数お寄せいただき、どうもありがとうございました。当初は僕の言葉の至らない点があって、問いの意義に疑問も出されましたし、なるほど、理想などその当人が良いと思えば、他人があれこれ言うことでもないような気もしました。No.1の方のおっしゃる通りです。 しかしNo.6のお礼欄を使って補足したように、僕としては何が「理想」と呼ぶに値するものかを、今一度問い直すことが、理想と欲望の見分けがつかなくなった状況を呈してしまった社会において有益に思われたのです。実際、回答者の方々からも、現状の日本で「理想」が非常に曖昧になってしまっているという同意は得られたように思います。 幸いにも文明とは何かという論点から議論は活発化し、西洋と東洋の思考スタイルを対比するというテーマ、職人とは何かというテーマ、また何をもって文化の創出とみなせるかというテーマも出ました。なかなか面白いやり取りができたと思います。しかし結局のところ、「理想=イデア」という考えを支えには文化が必要なはずです。どの回答も秀逸で僕には面白かったのですが、この点について、最も直接的に答えてくださった回答をBAに選ばせて頂きました。 参加してくださった皆様方が多様な意見をお持ちであることを考慮して、ここで僕が無理に(1)(2)(3)と立てた問いの答えを書くことはしません。しかし共通する結論としては、日本人が「理想」と呼びうるものを考えるにあたっては、自国の文化を見直すことから始めること必要があるということは言えると考えられます。その日本の「文化」と呼ぶ対象が人それぞれ違うとしてもです。皆さま、どうもありがとうございました。

その他の回答 (32)

  • TANUHACHI
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回答No.13

 質問者様からの問い掛けに対して一言、直接の答にはなっていないかもしれませんが、僕の好きな舞台作品に『ラ・マンチャの男』というブロードウェイのミュージカル作品があります。セルバンテスの作品『ドン・キホーテ』をベースとする作品ですが、その中にこんな台詞があります。曰く「狂気とは何か。現実のみを追って夢を持たないのも狂気かもしれない。夢に溺れて現実を見ないのも狂気かもしれない。だが最も憎むべき狂気はありのままの人生に折り合いを付けてあるべき姿のために闘わないことだ」。  ドン・キホーテは風車を巨人と勘違いして突撃していくような夢想家であることには違いありません。近代の理知的な発想に基づいて端から見れば“馬鹿げた発想”と映るのも頷けます。けれども「斯くありたい」「斯くあるべし」との志そのものを一概に否定することもどうでしょう。  僕は質問者様の「理想」という表現をこの台詞の「あるべき」と同じ事として考えてみました。精神的な意味であるいは人の生き方において自らが拠り所とするものが戦後そしてバブル更には3.11といった節目節目でどのように変化してきたか。僕の両親の世代は幼い頃を戦後の焼け野原の中で「明日の食料(かて)をどの様にして手に入れるか」として過ごしてきた世代です。ですから「生きる」ことを充足させることが当面の課題であり、「理想」としては次の月に家財道具として何を揃えようかと現実の要求を先ず念頭に置いて働いてきた。やがてそれが満たされると同時に今度は「どのような家庭を築き、子供にはどの様な将来を模索させるか」として「家族としての設計図」を書き始めることが一般的に普及?していった、と当時のニュース映像などから僕の眼には映っています。  「個」としては「小さな幸せ」を追求することが決して悪いとは思いませんが、一部としてその中に芽生えていた「お金があれば何でも出来る」そのためには「世の流れに抗うことはよろしくない」との意識が「長いものには巻かれろ」或いは「寄らば大樹の陰」として「物言わぬサイレント・マジョリティ」を生み出してしまった背景にあるのではないのかとの理解を持っています。  この「余りに過度の拝金意識」が70年代後半から80年代にかけて地下水脈のように進行していき「消費は美徳」との歪んだ認識とその絶頂期としてのバブル経済とそれを裏付ける旗振り役を務めたのが「デジタル」に依拠する「二極化」の発想。それらの現実を覆い隠そうとするための「喧しい精神文化論」の終着駅が現在の日本が抱えている諸問題です。  「戦後日本」という言葉の響きから外国の人が思い浮かべる単語を列挙するならば、古くは「トランジスタの商人」でありそこから「エコノミック・アニマル」「SONYやPANASONICなどのメーカー・ブランド」という具合にモノは出てきますが、日本の歴史や文化に造詣の深い人でない限りは精神文化を想起させる言葉が出てくることも多くはないのが現実です。外国からみれば「日本=モノに固執する集団」としか映っていないのではなかろうかとの思いすらします。  「モノに満たされた充足感」が直ちに日本人の描く「理想像」には該当しないかもしれません。「個」としての日本人を見た場合に、果たして西洋の文化や哲学で説明される「理想」に対応する事象を具体的に提示できるほどの確たる証拠も僕は持ち合わせていません。何となれば、日本社会の歴史的構造の特殊性として常に指摘される不思議さ、つまり「統べる者と従う者」の関係において、従う者は従うことにある種の充足感を持ちそこに安住することになぜ疑念を持たないのかとの疑問です。  もし日本人に「なぜ?」と社会と社会のあり方に対して問い掛ける姿勢が顕在化していたのであれば、フランス革命よりも以前に日本での構造的変化が生まれていたはずです。それがなかったのは異質なモノに対する無意識の警戒があり、金太郎飴のように同化することによって社会に受容される条件を手に入れる事ができる「ムラ意識」とも呼びうる思考様式が何処かにあるのではなかろうか。或いは己が懐深くに仕舞い込んで表には出さないだけとの処世術が働いているのやもしれません。  僕の個人的な見解としては (1)日本語では西洋に見られる「理想(The Impossible Dream)」に相当する言葉は精神文化が有るか否かは疑問 (2)モノ文化としての「理想」と限定する場合に「充足感」を得る手段てとして「貪欲」は現実の形・方法として顕在化する (3)に関しては何とも申し上げることもできません。「衣食足りて礼節を知る」などとの言葉はいつの間にやらこの国では死語と化してしまった風潮が漂っていますので。  ただ「3.11」を境目としてこの国に再び「分岐点」が訪れていることは紛れもない現実であろうとは思われますが。  青二才の上に不勉強なモノでまことに申し訳ありませんが。

kusa-mura
質問者

お礼

タヌハチさん、どうもありがとうございます。青二才とおっしゃいますが、僕の方がどうやら若いので、御遠慮は無用です。『ラ・マンチャの男』の導入部をはじめとする具体例を、非情に面白く読ませていただきました。僕もセルバンテスはとても好きです。全体の概要は、――戦後の日本は、ともかく生きるのに必死で、物質の豊かさを追い求めた。理想はなかったと言える。実際、高度経済成長期に、日本は精神的と言われるような文化を算出できなかった――という風に読みました。 高度経済成長期の日本の芸術家も何もしなかったとは言えませんが、世界的に知られることとなった村上春樹がそうであるように、多くの芸術家は精神的な文化の担い手であるというより、商業主義に乗っかったスターであるという風に僕には思えます。『ノルウェイの森』のように、売れるから、注目された。そして読者も、もはや芸術家に精神的な支柱ではなく、生活を少しおシャレにしてくれるセンスを求めている。なるほど深い精神性があったらあった方がいいが、それを得ることに労力を注ぐ気はなく、ちょっと楽しく、教養を自慢できる程度でよい。これをわかってなのか、村上龍に至っては、生活を豊かにするハウツーを、具体的かつ丁寧に教えてくれるアナリストと化しています。 精神性ではなく、センス。理想と貪欲という区別がなくなった現状にはNo11と12のご指摘を踏まえつつ、それらのお礼欄でも書いたのです。しかしタヌハチさんから、精神的なモノの産出というお話を振っていただいて、これもまた現代の世相を反映した切り口となりうるかと僕には思われるのです。 このセンスが問題だと思われるのは、あらゆるものを等しく、商品とみなすからです。これは、「ブルータス」をはじめとする雑誌を開けば、一目瞭然です。芸術作品も、アップルコンピューターの洒落たデザインのパソコンだとか、デザインの良い製品も、同じ価値の土俵で提示されます。ここでいうセンスとは、いうなれば、商品として買うことが可能な精神性だと僕には思えています。 いや、これでは精神性など生まれてこないでしょう。というのも勉強するより、お金を払う方が楽です。いいかえれば、芸術とデザイナーの商品が同じ価値を有しているのなら、後者を買った方が楽ですし、かつ確かな投資です。というのも、芸術作品など、買うには買ったが、理解できるかわかりませんから。こうした中で形成される風潮とは、お金を払って理解できないのは、作り手が悪いものです。こうなると、精神的文化の担い手も、自らの信じる「あるべきもの」を作れなくなります。お客様に媚びなければならなくなります。 ここで話がドン・キホーテ―的な挑戦をやることのむずかしさに戻ってくるのですが、モノづくりの担い手が「古典主義的な精神性」を目指して、遍歴の騎士をやると、どうも生活の糧を奪われてしまうように思われるのです。真理を追究するという意味での理想をやると、どうも説教臭くなるでしょう。それよりは、「何となくクリスタル」(田中康夫)のヒロインが好みそうな、何だかわからないぼやっとしたセンスのいいもの生産して、買いまくってもらった方が楽なわけです。 しかし土壌が変わらないことには、変わらないと思うのです。コンセンサスを裏切り、ドン・キホーテ―となるべきなのは消費者である、という風に僕は思ったりするのでした。消費者が味付けだけの良いものに強くNOを突き付けることは、3.11以降、重要であるように思えます。その一歩として、自らの欲望を見つめ直すことが重要などと僕は考えているのでした。少し話が脱線気味になってしまいましたが、議論の方向性自体は同じという上での、意見交換ということでお許しください。

noname#176957
noname#176957
回答No.12

三度失礼いたします。 (1)多神教の価値観に基づき、人それぞれの「考え得る最も完全なもの。(中略)意志と努力との究極の目標として観念的に構成されたもの」 vwにはvwの、トヨタにはトヨタの。 西岡常一には西岡常一の、 ミケランジェロにはミケランジェロの、 演奏家にはそれぞれね理想の音があり、 私には私の理想がある。 それぞれ、過去の天才が到達した地点かもしれないし、その先の前人未踏の地点かもしれない。 (2)貪欲と呼ぶかどうかはわかりませんが、人の抱く理想には完全はなさそうです。中には間違った理想も、社会に害になる理想もあるかもしれないのが、日本人の「理想」観ではないでしょうか。 (3)顕された結果が全てではないでしょうか。 トヨタの車の評価、 西岡常一の仕事の評価、 私の作ったパンの評価、 原発の評価、 危機管理の評価、 行動の評価。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。そうでしたか、パンをおつくりになられる方でしたか。大変、失礼いたしました。僕がファンタジアという言葉を軽々しく扱ったと咎められた理由は合点がいきました。確かに経験知が不足していると思われたことでしょう。実際、「人と違うものをやってやろう=独創性」と思って、何かすると失敗するものです。淡々と自分の思う正しいことをしていたら、いつの間にか、人と違うことになっていた、というのが王道と僕は思っています。 またファンタジアはもともとラテン語(ギリシア語だという説もある)で、ヴィジョンの意味です。想像力によって、何かの情景を描くという意味がもとで、そこからさまざまな語義が派生したわけです。想像と観想の差はあるが、目の前にはないものを着想するという点で、とてもイデアに近い語だと思います。こういうことはわかってはいたのですが、ただ、コミュニケーションとして、どうボールを投げ返していいかわからなかったのでした。お許しください。 さて、多神教の価値観というのは、日本古来のアニミズムということでしょうね。それをベースに多様な価値観を受け入れ、絶対評価で、それぞれが「よい」と考えるモノを受け入れるべきである、ということですね。 こうなると理想とは主観的なモノであって、客観的に見れば「愚かしい理想」という形容矛盾に陥った事態も発生するには違いない。ただしその理想の質を吟味するより、その結果をまず見て、多様な欲望を受け入れるべきである。 これはNo11の方の意見と、近いなという印象です。そして僕の意見によれば、現状の日本はこれなのです。 しかし、最終的には「その質そのものを問い直すことで、自らを規制することが必要だろう」とおっしゃるわけです。従来の欲望に寛大だった状態から変わっていかないとならないという方向性について、まさに同感です。3.11が時代の変わり目なのかなという印象をもっています。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.11

(1)日本語の「理想」をどのように定義するか。 ○ 小さな社会、例えば会社、集団、村、町でみんなが幸せに暮らせる社会を理想としている。 (2)理想と貪欲は、異なるといえるか。 ○ 立場の違いだけで同じ。例えば、経済大国の日本が自国の利益のみを考えて歴史を刻むことは他国から観れば貪欲そのものに見える。国を会社、集団、村、町に置き換えても同じ。 (3)その判断基準はどこにあるか。 (2)に同じであるが、トップに立つということは回りに良い影響を与える義務があるというのが基本。日本人その基本を忘れてしまっている。 理想国家とは、理想を実現すべく努力する国民性と同時に、国が発展して国民が豊かになれば、その方法を他国にも広める努力をすることです。小さな理想は貪欲に変わるのですね。理想は際限が無いので実現した理想をより多くの者が手本にして豊かさを享受するような世界を目指すということになりますね。 日本にはそれが欠けていますね。 例えば、隣国が無謀な軍拡をすれば、いさめるか自らの軍事力で他国を守るということも大国であれば義務として考えることも理想国家ですね。立派な軍隊を自国の災害のみに使うというのは貪欲になるのですね。というように理想というものは国の根幹や個人や国家の未来を創っていくものですね。

kusa-mura
質問者

お礼

どうもありがとうございます。まずムラのような小さな社会全体に富が「幸せ」に行きわたることが理想あるというわけですね。富を欲する気持ちには、善も悪も無い。しかし一部の者がせしめる貪欲という行為は、ムラ社会の「幸せ」を脅かすだけに、糾弾されるべきである――これが大筋であると思います。欲の質を問うのではなく、その分配の仕方が問題である、というわけです。 これは村全体が豊かになるならどんどん豊かになってよいということですから、この自由が引き起こす問題は、ある村が富栄えても、他の村が貧困であるという事態です。つまり、ユートピアの村が富を総取りしないように抑制するブレーキを果たす概念とは何か。次のようにお書きです。 >理想国家とは、理想を実現すべく努力する国民性と同時に、国が発展して国民が豊かになれば、その方法を他国にも広める努力をすることです。小さな理想は貪 欲に変わるのですね。理想は際限が無いので実現した理想をより多くの者が手本にして豊かさを享受するような世界を目指すということになりますね。日本にはそれが欠けていますね。 つまり「大きな理想」をもつ必要がある。それは、世界は一つとでも言うべき、自分の村を超えた統一されたコミュニティを構想し、富める村はそこでリーダーとして富の再配分を行うべきである、ということですね。 これは非常に鋭いご意見だとも思いました。つまり欲望の質を理想とか貪欲とかその是非を吟味しなかったとしても、――言い換えると欲望全部を肯定したとしても、総体として富を再配分する「大きな理想」で調節できるという考え方は、十全にそれが達成されていないとご指摘ではあるものの、日本が行こうとしている道と思えます。僕は正直、自衛隊には人道的な立場から、紛争地に関わって欲しくないと考えています。しかし技術を分配したり、寄付を行ったというのは、まさに富を再配分していたといってよいでしょう。 しかし3.11以降も、富を再配分するだけでいいのでしょうか。僕としては、やはり欲望の質を吟味し、個人個人、ひいては国家全体が、自分でブレーキをかけた方がいいのではないかと考えているのでもあります。その理由は原子力のように、国全体をとにかく電力で満たそうとしたはいいが(つまり徹底的に富を求めたが)、過剰に作り過ぎた上、国土を危険にさらしたという事例があるからです。その富の追求が果たして必要なものなのかどうか、吟味する必要性を感じているのでした。

回答No.10

叢さんの質問は今一焦点が見えないのですが、理想に関して雑感を少々。 戦後、日本とドイツは国土が荒廃しましたね。 ちょうどモータリゼーションの波があったので、両国とも膨大な公共工事をしてい道路を作った。 一つだけ大きな違いがあるのですが、ドイツでは、道路は、自動車がスピードを出すために直線で作り、また交差点で停止しなくてすむよう出来るだけ立体交差をつくった。結果、片側一車線の田舎道を走っていても立体交差が多いので、車を停止する必要がない。一方の日本では、車がスピードを出すと危ないので新規の道路も緩やかなカーブをつなげて作った。もちろん交差点には信号機を付けて車を停止させるし、交差点以外でも出来るだけたくさん信号機をつけるよう、地元の市会議員に陳情するのが当たり前だった。結果、日本では100Kmの移動をするのに、ドイツ人の倍の時間をかけて、1.5倍ぐらいの燃料を消費して運転してゆく社会が出来上がった。 さて、ドイツ人と日本人の間に土木技術の差があったのか?ドイツ人ならできる土木で日本人には出来ない土木があったのか?無いですね。 違いは理想だけです。 車は止まらずに走るのが理想だということを明確に認識してできるだけ理想に近づけようとしたドイツ人に対し、車社会の理想を描くことなく、車のネガの部分を抑制することに情熱を注いだ日本人。 角を矯めて牛を殺すと言いますね。 プリ薄という薄い車、じゃなかったプリウスというガソリン車でバッテリー駆動の電動モーターを兼備した車があるでしょう。 この車は、自動車が自動車らしく走れない場面(=渋滞)で燃料の無駄を省いて環境にやさしい。 ドイツにはゴルフという名前の大衆車がありますが、この車はプリウスとはことなり、自動車が自動車らしく高速運転するときに燃料の無駄使いをなくすよう、直噴エンジンにターボチャージャという一昔前ならレースカーに用いられる技術を国民車に載せてしまった。トヨタとVWの技術の差がどの程度あるのか存じませんが、理想が違うことは明らかですね。 国家の理想、理想の国家を記述するとすれば、それはどこでしょう? そう、日本国憲法前文です。 この日本国憲法前文を外国人に書いてもらった原稿で済ましてしまう、これが日本人ですね。 日本人ってのは世界でももっとも理想に頓着しない国民だと思います。 今、喧しい原子力発電の議論。 もともとの理想は、化石燃料が枯渇してゆく中で、世界人類(=70億人)が電力の恩恵を受けるにはどうしたら良いか、から始まったはずですが、ちょっとトラブルと理想は忘れて、ネガつぶしの議論に入り、ネガがなくせないなら理想も要らないや、ってな議論になっちまう。 まったく理想を持たない国民で、ここまで技術的・文化的に発展した国は歴史上あったのでしょうか。興味がつきません。

kusa-mura
質問者

お礼

親方、ありがとうございます。おそらくNo6のお礼欄も読んでくださったのだと思いますが、なるほど、総体として、日本は理想がないということですか。 うーん、そうですか。僕が「理想がないはずがない」と持っていこうかと思ったところで、「いやいや、おまえ、本当にないらしいんだから」というわけです。車の例は知りませんでしたが、確かに、そうですね。エコ・カーといえば何でもいいのかと僕は思ったら、ゴルフのように、早く目的につく車も、なるほど総体としてエコにはなっているかもしれません。車とは何であるかという本質を見極める力が、日本人には欠けていたと言えそうです。 こうした本質を見極めることなく進む有様は、作ってもらった憲法然り。理系の花形だったにもかかわらず、今やお荷物と化して迷走している原発然り。日本のどこに理想=ヴィジョンがあるのだろうか、無いではないか、と看破なさっているわけです。これらをまとめると、次のようになりそうですね。 (1)理想とは本質を見極め、一貫したヴィジョンをもつことである。 (2)理想と貪欲の差は、判断なし。しかし日本には理想がそもそもない。 (3)現代の迷走する様をみれば明らか。 しかし日本人が理想=ヴィジョンをもつには、何から始めたらいいのでしょう。教養もドイツに比べて、それほど劣っているわけではないように思います。根本的に何がダメなのだとお考えですか。結果論として、大国になったのだから、このままでいいではないかというお話ではなさそうだと思うのですが。

noname#145704
noname#145704
回答No.8

日本語に理想という言葉がなかったというのは、その通りだろうと思えます。しかし言葉がないから、概念がなかったと言えるでしょうか。とりわけ、理想のように大切な概念をめぐって。故意にやっているのかもしれませんが、キリスト教圏でなければ、秩序も何もないと述べているのと、この命題は同じようなものだと思えます。しかし「理想」という言葉が伝来する以前、もともと何かしら「理」という言葉をめぐって、イデアとはいわないまでも、観念的なモノがあったと思うのです。でなければ、訳しようもなかったはずです。 そこで、それこそ大辞泉を引けばですが、「理」には「中国宋代の宇宙の根本原理」という意があるそうです。つまり秩序の整頓された様を、玉の筋の整った様子になぞらえて呼んだのが、「理」です。これに即せば、「理想」とは、真理や道理が筋道正しく行われることを想いうかべた語だと解釈してよいでしょう。なるほど儒教の理と、キリスト教圏のイデアは異なります。しかし儒教の構想も、イデアに劣らないものです。なぜなら「理」は、真と善に密に関わるからです(どうも美には関わらないらしいから、真善美が一致するイデアとは違うわけですが)。 さて、No6の文明についての記述は、なるほど、欲望と理(ことわり)が一緒くたになっている現状というものがあるのかもしれませんし、それは私も否定はしません。しかしそれが言葉の定義が曖昧であることによって引き起こされたと考えるのは、飛躍というものでしょう。むしろモラルの低下によって、「理」を認識する力が弱まったと考えるのが、筋道ではないでしょうか。そのモラルの低下を、「理想」という言葉の定義の曖昧さを切り口に浮かび上がらせようとするのが、この設問の趣旨だとは認めはしたとしてもです。 ご参考までに。

kusa-mura
質問者

お礼

どうもありがとうございます。僕の設定した形式に即せば、 (1)理想とは儒教の「理」である。 (2)それは貪欲と違う。 (3)その基準は理の下地となる儒教にある。 ということになりますね。 おそらく理の他にも、理想に相当する語は何かしらあったかもしれません。前の語が死語になって、置き換わっただけである、とは言えるかもしれません。僕はキリスト教圏でないと秩序がないと言いたかったわけではありませんが、ともあれ、言葉に捉われていたかもしれないとは思いました。 しかし儒教にせよ、ネオ・プラトニスムにせよ、元の根っこの部分を、現代の我々が忘れているということも確かだろうと思うのです。その結果、理想という語は、イデアを下地に持ちながら、貪欲と区別さえつかないのが、現状になってしまった。果たして我々が今、その根の部分を捨象して理想という言葉を使う時、代わりに何を込めているのかを知りたいところです。 サイコロさんも儒教やキリスト教の元の根っこを踏まえて、理想という語を使っているわけでは必ずしもないでしょう。個人的な見解を教えてもらいたいというところです。

回答No.7

「理想」の対義語は、「現実」であり、状態に関する定義であって、 貪欲や欲求のように内的な条件とは、同一次元では扱えません。 現実において生じる何らかの価値観において、それを敷衍して 得られる極限を意味します。 それが、「貪欲」が往々にして意味しがちな、即物的欲求とは、 どちらかといえば距離をおいた、認識的な指向です(「同一次元 ではない」ので、例外的に衝動的な指向の極限も「理想」と言う 場合もあります=酒池肉林的な)。 「理想<>現実」「貪欲<>禁欲」において、物事をとらえるべきで、 無理やり結びつけても、混乱するだけです。

kusa-mura
質問者

お礼

どうもありがとうございます。理想の対義語とは、現実というのはその通りですね。対義語にしておくと、一応は、整理されています。混ぜるなというのもごもっともです。 しかし、その観念的な世界の内実とは何かと問うてみましょう。psytexさんが述べていることは、端的にいえば、イデア界でしょう?が、日本の文化にはイデア界についての認識がない。では「理想」は、果たして日本人がどう理解することができるのでしょうか。日本人に「理想」が理解できないとは言わないが、酒池肉林もあり得るとお書きのように、貪欲とまぜこぜになってしまっているのが現状ではないでしょうか。 僕が混ぜているというより、既にまぜこぜになってしまっている現状を指摘しているというつもりだったのです。日本人にとって整理を明確にする分かりやすい理想の定義があったら(つまりイデア界以外)、ご教授ください。

kusa-mura
質問者

補足

【質問全体の補足】 この設問が屁理屈ではないかという指摘が相次いだので、齟齬を埋めるべく、設問の動機をNo6のお礼欄に書きました。もし不審に思った方がいらしたら、そちらを参考にもしてください。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.6

あたしが訳が解らんのは、そんなところで筋道を付けて、話しを何処に持って行こうって言うのかってところだ。論理を弄んで時間つぶしでもしようと言う以外に、何ら生産性を感じないんだが。 問題の提起がその回答よりも常に優れていると言われる所以は、その問題の提起の動機にある。んで、その動機は何なんだ。

kusa-mura
質問者

お礼

僕は先生のように上手く書けませんから、そのままの順で書きますよ。 僕の当初の疑問は、日本人の築き上げた高度な技術の文明には理想があるのか?という大味なものでした。なるほど日本は経済大国で、様々な豊かさを実現してきたわけです。しかし、この豊かさは貪欲とはどう違うのだろう。理想だと断言できるのか。原子力をはじめ、どうも理想と呼べないようだというのが、僕の考えです。 とはいえ、待て、待て、そう自国を卑下するものではない。理想とはそもそも何だっただろうと考えました。そこで「理想」という語を、改めて調べてみました。設問に書いた通りですが、どうも「理想」は西洋の宗教的な背景をもった語であるらしい。おそらくideaをそのまま明治に訳して、理念(イデア)を想い描くという意味で、「理想」という語が生まれたんだろうなと思われました。 もともと外来語ではある。しかし日本人は「理想」という言葉を受け入れて、その概念を支える文化的な下地がないにもかかわらず使い始めてしまった。この結果、何でも欲望を「理想」と呼んで美化し、自らの欲を見つめなくなったのではないか?と僕には思われたのです。そして実際、大辞泉では(「完全」がイデア論を踏まえた神であるとわかれば問題はないが)、究極の貪欲が「理想」なのか?と思えるような説明になっている。 僕は大辞泉をやり玉にあげる気はないのですが、この時、なるほどなぁと思ったのです。そもそも、理想という語の定義が、ここまで大味だったら、何でも「理想」と呼びたい放題じゃないか。そして功利主義の企業にせよ、エネルギーをやたらと増産する原子力にせよ、何でもかんでも「理想」という言葉の影に隠れて、欲望を美化することも矛盾ないじゃないか、と思われたのです。 更に恐ろしいのは、自分で欲望を美化して欺いているという自覚があるなら兎も角、最初から、理想と欲望の境を見分けがついていないのかもしれないというこです。というのも、辞書の語義からして区分がないのだから(広辞苑、明鏡の定義も、必ずしも明快とは思えません)。実はこんなことを、哲学カテの他の質問で文明論をやり取りしていたら感じました。 さて、話を文明に戻しますが、こうした日本の現状は、これまた貪欲に関する西洋の比喩をもってくるなら、バベルの塔をやっているようなものだと思われたのです。当人らは、「完全」「すばらしいもの」「最高のこと」を「観念に従って」やっていると思って石を運んでいるが、神からみれば、それは貪欲の所業に他ならない。結果、メルトスルーのごとき、天誅を非情にも連帯責任で食らわせられる。 バベルの塔の民らは理想と貪欲の区別もついていないから、彼らからするとなぜ懲罰されるのかもわからず、定めし悲劇には違いない。しかし、こうなりたくないと思えば、理想と貪欲の概念を区別しておくべきでだと思ったのです。しかし概念の区分には、最初に道具として、語が必要になります。理想の語義が大味なままであれば、穴のあいた桶で水をすくっているようなものと思われます。かくして日本人が日本語で使う「理想」の内実を問うたのです。

noname#176957
noname#176957
回答No.5

>独創性 なるほど経験知の不足ですね。ものづくりに独創性なんてないんですよ。作り手にあるのは「理想」。観る人間が勝手に「独創的」と呼ぶことも在るだけです。 演奏家も技術者ですから、常に「理想」を意識しているでしょうね。 貪欲との違いですが、 貪欲は人の状態、意識の在りよう、 理想は想い描かれた観念、 を意味しているのではないですか? ○「理想を抱く」 ×「貪欲を抱く」 辞書変えて、考えた方が有意義だと思います。

kusa-mura
質問者

お礼

再投稿、ありがとうございます。正直、何が言いたいのか、よく、わかりません。そういじわるせず、どうぞ丁寧に書いてくださいな。 まずファンタジアは、独創性でなければそれでも結構です。僕はイタリア語を訳しただけですから(語義はたくさんありますよ)。しかし、もともと何が言いたかったのですか。 また経験知と書いているのに、なぜ自分の経験を超えて、「ものづくりに独創性なんてないんですよ」と一般化して断言できるのですか。どうも曖昧であると、僕には思えたのです。ここまでおっしゃるからには、モノづくりの語経験があるのだと思いますが、詳しく書いてくれないと説得はされません。 さて、貪欲と理想は、前者が状態で、後者が思い描くものだと、動詞「抱く」を根拠におっしゃるわけです。しかし、その中身に違いがないかと僕は聞いているつもりなのでした。 辞書は、まぁ、叩き台にしているだけです。大辞泉が間違っていると述べてはいないのですが、どうもそう見えてしまったようですね。広辞苑を使ったとしても、同じように考えたと思いますよ。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.4

理想と貪欲は関係があります。それは、風が吹けば桶屋が儲かるからです。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。先だっての僕の非礼、お詫びします。こうして尋ねてきてくださったのですし、仲直りしませんか。 ところでご回答の内容は、「風が吹けば……」という但し書きつきですから、理想と貪欲を並べるのは無茶苦茶な理屈であるとご指摘なさったという風に読んでいます。 結論としては、僕もそう思うのです。しかしその筋道が、今一つ、わからぬというところです。当たり前すぎるとおっしゃるかもしれませんが、教えていただけませんか。

noname#176957
noname#176957
回答No.3

広辞苑をひくと(ideal)と載っています。「考え得る最も完全なもの。(中略)意志と努力との究極の目標として観念的に構成されたもの」 だそうで、完全にイデアの訳語です。福沢諭吉なんかが作った翻訳語なのかもしれません。 辞書に混乱させられてしまいましたね。 二番三番は割愛します。 実際はこう使います。 お得意さん「余所んちのパンを買って帰ったら、孫が食べてくれないんだよ。 粉が違うんかねぇ、 酵母が違うんかねぇ」 パン屋「いいえ。違うのは『理想』です」 イデアとの対比は判りませんが、イタリアではこんな言い方をするそうです。 「職人の仕事は、手とファンタジアだ」 余談ですが、その「西洋の文脈」はキリスト教下の話ですか? イデアは確かギリシア発祥なので、多神教の価値観が大本ではないでしょうか? 「神」といっても絶対の価値ではないので、ご質問のイメージとは違うような気がします。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。うーん、僕の質問が分かりにくかったかなぁと、頭をかいています。 まず「理想」が福沢諭吉などの訳語である可能性もありますし、それは先刻承知なのです。しかし、もう日本に浸透して、普通に使う単語になってしまいました。となると、もともと外来語でござい!と言ってすむ話ではなくなった、というのが話の出発点です。だから当初から「日本語の『理想』」と「日本語の」と但し書きをつけた上、理想が括弧にくくられているのです。 次にギリシア云々の話ですが、ギリシアとキリスト教は全然宗教の体系が違うではないかと思うでしょうが、それは、うーん、早合点です。というのもルネッサンス期にネオプラトニスムが美術に影響を与えた、って聞いたことあるでしょう。異教なのに変だなと思いませんでしたか。異端審問にならなかったのか?と疑問に思いませんでしたか。 実は「ネオプラトニスム」という概念が十九世紀に誕生して、ギリシアとキリスト教が、精密に腑分けが進んで来たのは今日のことです。それまで、ギリシア神話と聖書が混同されていることも多かったのです。こうした例は、二十世紀だと、シモーヌ・ヴェイユの『キリスト教的直観』などに見られます。ゼウスと一神教の神は同じものとして語られており、この論考は修道院などで読み上げられたのだそうです。 最後にパンの比喩です。 >パン屋「いいえ。違うのは『理想』です」 >職人の仕事は、手とファンタジアだ ここでいうファンタジアは、「空想力」というより、独創性という意味でしょうね。理想とは独創性だという提案かな?と思って読みました。

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