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ニーチェの「祝福できないならば呪うことを学べ」とは
ニーチェの「祝福できないならば呪うことを学べ」という言葉は 例えば、誰かを祝福したくても、不満や嫉妬などで素直に祝福できなければ、祝福しなければ道徳に反するという考えを疑い、思い込みを捨てて皆に合わせて祝福せずに祝福できない自分を素直に肯定しようという意味なのでしょうか? 個人的には、このような考え方自体がニーチェの批判するルサンチマン的な考えのように思いますがどうなのでしょうか? 本当は、祝福することが本当にいいのか自分で疑って考えてみよう、それでもひねくれずに受け入れ肯定して祝福しようという意味なのでしょうか?
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- サム(@sa----m)
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- Nakay702
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質問者からの補足を拝見しました。 >回答していただきありがとうございます。 ではttps://diamond.jp/articles/-/103278?page=3のような解釈は間違いということでしょうか? ⇒原田まりる氏の作品『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた』中での翻案ですよね。それなりに楽しく、ためになる本と拝察します。 ですから、内容が間違いだなどとは申しませんが、当時のニーチェが「苦闘しながら心中を吐露するために叫んだり意図したりしたこと」と必ずしも同じでないのは、やむを得ないことと思います。 なお、確かにニーチェは、自らの思想を表現するために多くの金言を残していますね。例えば、https://kantbuddha.com/entry/nietzsche-zarathustra などをググってみれば一目瞭然です。以上、不十分ながら、ご返信まで。
- Nakay702
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以下のとおりお答えします。 >ニーチェの「祝福できないならば呪うことを学べ」という言葉… ⇒失礼ながら、ちょっと違うような気がします。 ここでニーチェの言う「祝福できない(こと)」とは、「評価できない、賛同できない(習慣や所説)」という意味を象徴的に表したものであり、「呪う」とは「論難・論駁する」の言い換えであり、「学べ」は「(そのような排撃の理由を)説明し、自前の代案を提示せよ」ということを暗示するための、ニーチェ特有の修辞法であると見ました。 ですから、彼は、一切の意味と価値の根源たるキリスト教を、ヨーロッパ近代の精神的危機の元凶と見て、「神は死んだ」と宣言し、そうして生じた空白を新しい価値創造によって転換しようとした、と見ることができる、と言われます。 こうしてニーチェは、神の代わりに「超人」を、不滅の霊魂の代わりに「永劫回帰」を、善と真の代わりに「権力への意志」を、神与の喜びの代わりに「躍動する生」を、あの世を賛美する代わりに現世的現実を肯定する心的態度を代置し、提起したわけですね。
補足
回答していただきありがとうございます。 ではttps://diamond.jp/articles/-/103278?page=3のような解釈は間違いということでしょうか?