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自己主張をなじる日本人。その癖はどこから来たのか?
- 自己主張を含まない哲学の文章はあり得ません。
- 哲学カテでは自己主張をすることが多く、なぜ日本人にはその癖があるのか明らかにしたい。
- 日本の文化や社会的な要因などによって、自己主張をなじることが一般的になっている可能性がある。
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こんばんは、ヒドッチでございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 以下に、参考資料を載せてございます。ご参考になれば、幸甚に存じます。 §4 経済学的研究 経済の分野でも、「日本人は集団主義的だ」と言われてきた。個々の日本人は企業の中で団結し(「日本的経営」論)、企業は「系列」の中で団結し、すべての企業は政府のもとに団結している(「日本株式会社」論)、と言われてきた。 しかし、そうした議論は専らエピソードやイメージに頼っており、実証的なデータが示されることはなかった。全体像をより正確に反映する経済統計や、経済統計にもとづく実証的な研究を調べた結果、経済の分野での「日本人の集団主義」説は事実とはそぐわないことがはっきりした。 > ( a ) 小池和男の研究は、「日本的経営」論で言われてきた「終身雇用」や「年功賃金」が事実ではない、あるいは、欧米諸国とのあいだに明確な差異がないことを明らかにした。 戦前、戦時中は、おそらく、「終身雇用」や「年功賃金」なるものは存在していなかったと考えております。戦前は、大財閥が経済の中心的な地位を占めておりました。その際、「終身雇用」等が保証されたことは考えにくいからでございます。「株式の持ち合い」なるものも、当然、戦後からのものと考えられます。 以下に参考資料を載せておりますが、戦後、労働運動が盛んになり(かつての総評も戦後生まれ)、その結果、「戦後の労使紛争の中で両者の妥協として大企業で成立した雇用慣行なのである」というのが正しいかと考えております。 年功序列の起源 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/73e3c4eb679bde621cbd302b980b8255 > ( b ) 三輪芳朗とマーク・ラムザイヤーの共同研究は、「系列(サプライヤー・システム)」にはまったく実体がなかったことを明らかにした。 以下の文章から推察致しますと、少なくとも、硬直的・一方的な「系列」は存在しなかったことが伺われます。 「サプライヤー・システムについては、いわゆる「系列 サプライヤー・システム)」と呼ばれるサプライヤー・システムはサプライヤーとアセンブラーとの長期的かつ排他的な関係であり、またサプライヤーが従属的地位にあるものと考えられてきた。 しかし、実態を見ると、サプライヤーとの関係は長期的であり、その中で情報共有が行われるものの、サプライヤーは必ずしも従属的ではなく、独自の能力を有しており、それを活かして複数のアセンブラーと取引している。アセンブラー側もこのようなサプライヤーの能力を活かすべく、仕事を「まとめて、まかせ」ており、またリスクを取る能力に応じて契約を調整している。」 参考:http://lecture.ecc.u-tokyo.ac.jp/~ctshimiz/keieiseisaku/Ch7-9.pdf p.16からでございます。 > ( c ) 「日本株式会社」論についても、三輪とラムザイヤーによる実証研究は、日本政府の「産業政策」が日本の高度経済成長にはほとんど実質的な貢献をしなかったことを示した。 通説は、Wikipedia 日本株式会社 にもございますように、”貢献した”というものかと思われます。 ですが、ファインセラミックおよび石油化学では、「以上の2つの例は、通産省は自らの政策に対する企業行動や、その結果もたらされる産 業発展について予測ができないということを示している。」と、否定的な説が述べられております(p.10-11)。 また、「仮に、日本の経済成長のための政策の特徴を政府による中央集権的な管理、すなわち通産省による政策決定と資源配分に求めるとするならば、むしろ第二次世界大戦後のヨーロッパ諸国の国有化政策 15 のほうがより中央集権的な政策といえるのではないだろうか。国有化によって政府は直接に企業をコントロールできることを考えれば、日本の産業政策はむしろ穏健だといっても良いかもしれない。 さらに言えば、政府の権限そのものについても日本に特徴的といえるものは見出せない。 よく行政指導がその例として上がるが、行政的な行為について非公式の接触を持ち、政府の意向を伝達するということであればどの国でも起こりうることであるといってよい。」(p.12) という文章からも、決して、日本特有のものではないことが示唆されております。 参考:http://lecture.ecc.u-tokyo.ac.jp/~ctshimiz/keieiseisaku/Ch7-9.pdf > ( d ) また、国内産業を保護するために政府が設定する関税率を比較したところ、歴史的にみると、日本よりアメリカの方がずっと高かったことも判明した。 p.41の表4をご参照くださいませ。2006年のデータだそうでございます。 参考:http://www.jubc.gr.jp/jpn/active/pdf/EPAReport-J.pdf なお、過去の経緯を示したデータは見つけられませんでしたが、悪名高いスムート・ホーリー法(1930年)等がございましたため、「日本よりアメリカの方がずっと高かった」”時期が存在した”、とも推察出来ますが、継続的であったかどうかは、推測の域は出ませんでした。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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- codotjtp
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御互いの意見を称え合うリスペクト型の遣り方の採用よりも、 謙譲が比較的に高く評価されているからではないでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 御互いの意見を称え合う ☆ いつもは そうであるかも知れないけれど 今回は事情が違うはずです。 わたしが調べていなかったところ その調べをしてくださったということですから。 そのあと 見解が一致したというかたちです。 見解が一致することに 特に不思議がなければ いちいちわざわざ《称え合う》こともないですよ。 その点 そう見えるのかも知れませんが 実情は違っていますとお伝えしておきます。 そのような錯綜する実情を超えて捉えてみると どうなるか? ★ ~~~~~ 御互いの意見を称え合うリスペクト型の遣り方の採用よりも、 謙譲が比較的に高く評価されているから〔* 日本人は自己主張をなじる の〕ではないでしょうか ~~~~~~~ ☆ というご回答でしょうか? ただ どうなんでしょう。すでに触れているはずですが そのように自分の意見を述べることは (1) 必ずしも《謙譲》であるとは言えないでしょうね。それとも わたしのようなやからに対してなら 謙譲もへちまないのだというご見解と交通における態度なのでしょうか? つまり空気がそうだから その空気に従う意見発表や自己主張は すべて なじられることをまぬかれる。こういうご主張でしょうか? (2) そうしますと ★ 謙譲が比較的に高く評価されている ☆ という実情についても くわしい分析が必要になります。一筋縄で捉えることは出来ません。 まさか 謙遜のこころでない場合にも 空気に乗っかれば謙譲だと見なされるというようなごり押しを主張しておられるのではないですよね? つまり 今回ご提示なさったご回答はその内容が きわめてあやふやなものであると質問者としては結論づけなければならない。のですが いかがでしょう?
こんばんは、ヒドッチでございます。 > あるいはつまり ほかのカテにおけるような知識情報の供給であっても そもそも文章はすべてその人の自己表現であるはずです。 その自己を出すな・抑えろというのは 前へならえ! 右向け 右! のまぼろしの号令がなおも人びとの耳の奥には聞こえていて 勝手に手足が動いてしまうのでしょうか? 一般的には、日本は集団主義と言われていますが、今では、否定論も多いようでございます(参考)。 では、なぜ”いじめ”のようなものが起こるのかとなりますと、現在では、”スクールカースト”という概念が用いられているようでございます。 「森口朗は2007年の『いじめの構造』で、内藤の理論をベースに独自の「スクールカースト」の概念を導入した。これはクラス内の序列のことで、人気や「空気を読む能力」の多寡により上下し、下位になるほどいじめられやすくなるという。」(Wikipedia ”いじめ” いじめに関する研究 からです) つまりは、その場の”空気”により物事・是非が決まってしまう、というものかもしれません。 参考 高野陽太郎著「集団主義」という錯覚(新曜社) 著者自身のHPより:http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_200930_j.html > ひとつの解釈を提出しましたが 話の手がかりに 極論を考えてみたものです。 つまり 詳しい説明をせずに言い出すのですが たとえば何の根回しもせずに 権限を持つ者が突然重要な発表をするかたちを取るというのは そのあとの四面楚歌を覚悟の上の或る種の《右向け 右!》であると捉えられなくはない。こういった見方にもかかわりましょうか? これは、管氏の「中部電力に対する原発停止要請」等でしょうか。 愚生の知る限りですと、「中電の原発依存度は10%程度であるため、安全措置が講じられるまでは、とりあえず停止にしよう」という案は、既に識者達から出ていたかと記憶しております。従いまして、あまり四面楚歌になるとは考えておられなかったのではないかと、そう思っております。実際、支持率も下がらなかったかと記憶してございます。 ただ、自民党の谷垣氏を入閣要請したのは、確かに違和感がございました。また、ごく少数の仲の良い仙谷氏等で、全てを決めてしまっているという感もございます。かような非常時下におきましては、経験者でもある(当時の運輸大臣)亀井氏らを重要ポストに起用すればいいのでしょうけれど、そういったこともございませんし。そう鑑みますと、「四面楚歌を覚悟の上」での行動はあろうかと推察しております。 > つまり四面楚歌の部分では ぎゃくに《右向け 右!》の亡霊のような号令に対して おまえはすでに死んでいる おまえの居場所は墓場なのだよと言って 追い返していることになるかも知れません。たしかにそれなら 《民主》党です。 国民からの管内閣に対する見方は、非常に厳しいものがあろうかと思われます。まるで、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という印象を受けます(ほとんど”群衆心理”に近いものが見られます)。ですが、「政治家は国民の鏡」でもあるのですが..... (レジスタンスさんへのご質疑、どうもありがとうございました。) 駄文、最後までお読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
イエーーイ。まさにピッタンコカンカンですよね。 ひどっちさん こんばんは。まさに望んでいました参考資料を得たりというご回答をありがとうございます。いやぁ 気持ちのいいものですね。 おそらく長年どういうわけか この《集団主義》については おかしい どうしてもおかしいと思いつつ なぜか調べませんでした。調査研究があったわけですね。こりゃあ たまんないですよね。 ヰキぺ:いじめ の資料におぎないとしまして: ▼ (ヰキぺ:スクールカースト) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88 スクールカーストとは、学校での人気のヒエラルキーを表す言葉である。 アメリカではジョックを頂点とするヒエラルキーという類似した問題がある。 ▼ (ジョック) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF 多くの場合において5段階程度に分かれるものと見られるこれら階層は、異階層間の交流関係を主従-対立という上下関係に基づくそれのほかにほとんどとして持たないという傾向を有し、そこに呈するその様相は「厳然たる階級社会」と表現されてもいる。 そして多くの場合においてその頂点に位置するのが体育会系の男子生徒らとそれを補佐するチアリーダーの女子生徒らの属す階層であり、前者を指してジョック、前者の属す階層または、前者を集団的にジョックス(Jocks)という。 平たくは肉体志向の人気者集団あるいは派閥(Popular group∨Popular clique)といえるもので、これに属するための教育(訓練)が幼児の時期から行われるなど、米国における社会のいわゆるメインストリーム(王道)として、一般的な米国社会の多くの親が自らの子に望む道であるという。 つまりはいわゆるアメリカ人の生き方の目立った花形にあたるこの栄光を得るための熾烈な競争が幼少の時期から始まるのである。 ~~~~~~~ ☆ そうして 本格的な研究成果があったようです。これはもう そのままを引用します。 ▲ (高野陽太郎:「集団主義」という錯覚 著者自身のHPより) ~~ http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_200930_j.html §1 心理学的研究 「世界で最も個人主義的だ」と言われてきたアメリカ人と、「世界で最も集団主義的だ」と言われてきた日本人を比較した研究を集めた。 ・集団主義・個人主義の程度を測定するための調査研究が11件。 ・自分の意見を曲げて集団の意見に従うという「同調行動」に関する実験研究が(高野自身の研究も含めて)5件。 ・自分の利益を犠牲にしてでも集団に献身するという「協力行動」に関する実験研究が6件。 これら計22件の研究の結果をみると ・通説に反して、「日本人とアメリカ人とのあいだには明確な差はない」という結果を報告していた研究が16件、 ・通説とは正反対に、「アメリカ人の方が日本人より集団主義的」という結果を報告していた研究が5件もあった。 ・一方、通説どおり「日本人はアメリカ人より集団主義的」という結果を報告していた研究は、わずか1件(調査研究)しかなかった。 §3 教育学的研究 学校での「いじめ」は、「異質なものを排除しようとする集団主義的な日本社会に特有の現象」と評されることが多かった。 ところが、近年の実証的な研究を通覧したところ、アメリカでも「いじめ」は発生しており、発生率も日本より低いとは言えないことが明らかになった。学校での発砲事件も、「いじめ」への報復として起きたケースが多いのではないかと推定されている。 「いじめ」が原因となる自殺も、欧米諸国の多くで報告されている。したがって、日本の学校での「いじめ」は、「日本人の集団主義」の証拠と見なすことはできないことになる。 §4 経済学的研究 経済の分野でも、「日本人は集団主義的だ」と言われてきた。個々の日本人は企業の中で団結し(「日本的経営」論)、企業は「系列」の中で団結し、すべての企業は政府のもとに団結している(「日本株式会社」論)、と言われてきた。 しかし、そうした議論は専らエピソードやイメージに頼っており、実証的なデータが示されることはなかった。全体像をより正確に反映する経済統計や、経済統計にもとづく実証的な研究を調べた結果、経済の分野での「日本人の集団主義」説は事実とはそぐわないことがはっきりした。 ・小池和男の研究は、「日本的経営」論で言われてきた「終身雇用」や「年功賃金」が事実ではない、あるいは、欧米諸国とのあいだに明確な差異がないことを明らかにした。 ・三輪芳朗とマーク・ラムザイヤーの共同研究は、「系列」にはまったく実体がなかったことを明らかにした。 ・「日本株式会社」論についても、三輪とラムザイヤーによる実証研究は、日本政府の「産業政策」が日本の高度経済成長にはほとんど実質的な貢献をしなかったことを示した。 ・また、国内産業を保護するために政府が設定する関税率を比較したところ、歴史的にみると、日本よりアメリカの方がずっと高かったことも判明した。 §5 エピソード 日本人論は、個別のエピソードを主な論拠としてきた。 そこで、エピソードは日本人論の通説を支持しているのかどうかを検討するために、新聞や雑誌に掲載された集団主義・個人主義に関連するエピソードを調べた。その結果、「集団主義的な日本人」という通説に一致するエピソードと同様に、「個人主義的な日本人」や「集団主義的なアメリカ人」を表すエピソードも多数見つかることがわかった。 このことは、エピソードについても、公平に調べてみれば、日米間にはっきりとした違いは見られないことを物語っている。 日本人論において通説に合致したエピソードばかりが取り上げられてきた理由は、自説に合致した事実ばかりに注意が向く「確証バイアス」という思考のバイアスではないかと推定される。 §6 過去の日本人 日本人は、「アメリカによる占領の結果、アメリカナイズされて個人主義的になった」というわけではないことも明らかになった。文献調査の結果、戦前も、開国前も、日本人が個人主義的に行動した事例は数多く見出すことができたのである。 たとえば、生徒が学校側と対決する「学校紛擾(ふんじょう)」と呼ばれる事件。明治初期に西洋式の学制が定まるのとほぼ時を同じくして発生し、ある教育雑誌には、明治期だけでも255件の学校紛擾が報告されている。こうした事件は、「和を尊重するタテ社会的な集団主義」という従来のイメージとは全く相容れないものである。 §7 オリエンタリズムとしての「日本人 = 集団主義」説 ・・・ 欧米人、とくにアメリカ人は、自らを形容するために、ポジティヴな意味で「個人主義」というレッテルを使うことが多い。異文化に属する日本人に出遭ったとき、その「個人主義」の対極にある「集団主義」というネガティヴなレッテルを天下り的に貼りつけたのではないかと推定される。すなわち、「日本人 = 集団主義」説は、オリエンタリズムの一種として成立したと考えることができる。 §8 「日本人 = 集団主義」説が広まった理由 この通説は、戦後間もない時期に出版された、アメリカの人類学者ルース・ベネディクトの著書『菊と刀』によって世間に広まったと言われている。この時期、「日本人は集団主義的だ」という主張に接したひとびとは、戦時中に日本人がとった、見まがいようのない集団主義的な行動を脳裡に甦らせ、この主張に頷いたのであろう。 しかし、歴史的な状況をみると、昭和初期から第二次世界大戦終結までの時期、日本人は強大な外敵の脅威にさらされていた。外部からの脅威に対抗するために、団結を強めて集団主義的に行動しようとする傾向は、日本人にかぎらず、人間集団に見られる一般的な傾向である。「世界で最も個人主義的」と言われてきたアメリカ人もその例外ではない。第二次世界大戦中の言論統制や敵国からの移民の強制収容、冷戦下の赤狩りといった歴史的事実がそれを物語っている。 §9 ステレオタイプ文化論 しかし、ステレオタイプ的な文化論の危険性は、日米間だけにとどまるものではない。グローバル化が進展する現代の世界では、異なる文化が接触する機会は飛躍的に増大している。それとともに、異なる文化(たとえば、欧米文化にとっての「イスラム」)を異質化する文化ステレオタイプの危険性も増大していると考えなければならない。 文化ステレオタイプについて認識を深めることは、現代の世界にとって重要な課題であると思われる。 今回の研究は、集団主義・個人主義の日米比較という具体的な事例の分析を通じて、「文化差」の認識に潜在するさまざまな歪みとその危険性を明らかにする結果になった。 ~~~~~~~~~ 菅政権の動静はこれからも見守ってまいります。 ★ 愚生の知る限りですと、「中電の原発依存度は10%程度であるため、安全措置が講じられるまでは、とりあえず停止にしよう」という案は、既に識者達から出ていたかと記憶しております。 ☆ そうでしたか。四面楚歌でもないと。 * レジスタンスくんは好転しましょうか。
補足
お礼欄へのおぎないです。 次の《経済学的な研究》の中の事例について わたくしは自信がありません。そのことを留保としておきたいと思います。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~ §4 経済学的研究 経済の分野でも、「日本人は集団主義的だ」と言われてきた。個々の日本人は企業の中で団結し(「日本的経営」論)、企業は「系列」の中で団結し、すべての企業は政府のもとに団結している(「日本株式会社」論)、と言われてきた。 しかし、そうした議論は専らエピソードやイメージに頼っており、実証的なデータが示されることはなかった。全体像をより正確に反映する経済統計や、経済統計にもとづく実証的な研究を調べた結果、経済の分野での「日本人の集団主義」説は事実とはそぐわないことがはっきりした。 ( a ) 小池和男の研究は、「日本的経営」論で言われてきた「終身雇用」や「年功賃金」が事実ではない、あるいは、欧米諸国とのあいだに明確な差異がないことを明らかにした。 ( b ) 三輪芳朗とマーク・ラムザイヤーの共同研究は、「系列」にはまったく実体がなかったことを明らかにした。 ( c ) 「日本株式会社」論についても、三輪とラムザイヤーによる実証研究は、日本政府の「産業政策」が日本の高度経済成長にはほとんど実質的な貢献をしなかったことを示した。 ( d ) また、国内産業を保護するために政府が設定する関税率を比較したところ、歴史的にみると、日本よりアメリカの方がずっと高かったことも判明した。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ( a )はそういうふうに読んだ記憶があります。 ( c )は 例の《通商産業省( MITI )》の功績として聞いていますが 案外その高度経済成長のための政策に反対した産業あるいは企業が よく成長したということも聞いています。 ( b )は 《系列》はそれぞれの実態があると思われますので その一体的行動の強さがそれほどでもないのか こういったところに焦点があるのではないかと思われます。
- hekiyu
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ことわざですが、日本は出る杭は打たれる、と 言います。 米国では、煩いエンジンは油を差してもらえる、 てのがあります。 日本は、集団主義の国だから、露骨に自己主張する 人は敬遠されるのではないでしょうか。 和をもって尊し、ですね。 この集団主義には種々の欠陥がありますが 良い処も多い、と思います。 資源もない日本がここまでやってこられたのは この集団主義のお陰でしょう。 民主制がすんなりと根付き、犯罪が少ないのも これが原因だと思っています。 反面、変化すべきとにも、なかなか変化できない という悪い面もあります。 自己主張については、貴方の言うとおりだと思います。 日本人だってそれは自然にやっているのですが、 露骨なのが嫌われるだけではないでしょうか。 日本には、キリスト教のような軸がありません。 この集団主義を日本から奪って、個人主義を導入したら、バラバラに なって、中国のようになるおそれがあると 思っています。 だから私は、この集団主義を支持します。
お礼
へきゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ ことわざですが、日本は出る杭は打たれる、と 言います。 米国では、煩いエンジンは油を差してもらえる、 てのがあります。 ~~~~~~ ☆ そのアメリカの場合は 《金に成ると見たら》という含みがありませんか? 金には成らないと見るなら やはりその杭は叩きのめすというのかも知れないのでは? 次のようにおそわったことがあります。 ● (【Q:名誉・体面とは何か】 回答No.9)~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6157666.html 米国人の“出る杭は打たれる”(”A nail that sticks out will get hammered down.” or “The tall poppy syndrome.(お花畑で、高いひなげしの花はつみとられてしまう)”)に関してですが、「こいつは出来る」or「お金になる」と思ったら、どんなに変な奴でも絶対に叩かず、守られる という合理的判断がなされるようでございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから まづは 《集団主義》と 切っても切れないつながりがあるとは思えないのです。関係はあるはずです。 そう言えば 集団主義について質問しておかねばと思ってから 放ったらかしにしてあって 細かいことなどを合わせて全体的・歴史的な評価を 誰か詳しい方におしえて欲しいほどですが 基本的に考えて こうだと言えませんか? つまり ○ ことはあくまで個人個人の集団志向として成り立っているのが 集団としてのまとまりのよさであると。つまり決して 個人としての自覚や個人の尊重がないがしろにされているわけなのではない。 ☆ むろんこのときわたしは《個人主義》とは言いませんでした。だから《集団主義》という言葉も使いませんでした。 そういう視点から見て行かなくてはならないと考えるのですが どうでしょう? 二項対立の図式で捉えがちであり 捉え過ぎなのではと。 つまりそして そのレッテルを貼り過ぎではないでしょうか? あるいはひょっとして風呂敷をかぶせ過ぎなのでは? 十把一絡げでものを見ているし 見ようとしているし おまけにほかの人に対して そのようにおまえも見るようにせよとまで言っていませんか? そう考えると ことはむしろ所謂る《空気(つまり KY というときの空気)》の問題にかかわっていませんか? 西岡参議院議長が 菅政権の批判ないし菅降ろしを《露骨な自己主張》としてしています。問題は単に そのように空気をおれは読んでいると言うだけのことではないでしょうか? すなわち おっしゃるように ★ ~~~~~ 民主制がすんなりと根付き、犯罪が少ないのも これが原因だと思っています。 反面、変化すべきときにも、なかなか変化できない という悪い面もあります。 ~~~~~~~ ☆ といった側面の事情もしくは事態にかかわるようにわたしも考えます。 《犯罪率が低い》かどうか またその原因や背景事情についていまはっきりしたことは分かりませんのでこれは措いておきますが 《民主制の根づき方》やそれが《あたらしいかたちへと変わる力にとぼしい一面がある》こととも 《空気》の問題は関係して来ると思われます。 つまりは ★ ~~~~ 日本は、集団主義の国だから、露骨に自己主張する 人は敬遠されるのではないでしょうか。 和をもって尊し、ですね。 ~~~~~~ ☆ このように見えている。あるいは一般にも見られている。のですが そうなのですが どうも実際の動き方は その分析の中身と違うのではないか? ○ 《空気》を以って貴しと為す。空気の流れに棹差すのならば 露骨に自己主張をしてもかまわない。空気が読めない自己主張は 敬遠され その杭が出たならば打たれる。この種の《集団主義》的心性であって それは 別様の命題としての《和を以って貴しと為せ》によって輪をかけて温存されている。 ☆ こうなのでは? ★ 日本には、キリスト教のような軸がありません。 ☆ でしょうが 《日本教》がれっきとした一神教として――つまり 多神教というすがたを取って上から一元的にたばねる〔・時にはその身を隠した〕宗教として―― 軸となっていませんか? 中国ともその統治の形態は同じと言ってよいほどではありませんか? キリスト教の原理主義と同じと言ってよいほどの カチカチでガチガチの宗教の枷がはまっていませんか? 居心地がいいからって この日本教を支持するのは どうも哲学の道ではないように思うのですが 果たしてどうでしょう? なぜならふつうに自由でふつうに和をとうとぶ個人が たとえ容易には見えないとしても伝統的日本人として この社会には生きて来ているはずだからです。 つまり集団主義だとか空気崇拝だとかは みな 社会のうわべにおいて幻想としてふところ深く抱かれている に過ぎないのでは? どうでしょう?
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お礼
ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 年功序列 ☆ につきましては 取り敢えず次の点を覚え書きします。 ○ 江戸時代には 身分制(石高による序列)とそして幕末になるにつれてその身分制と併用のかたちで採用された能力主義による人材登用(足(たし)高制)とがあった。 ○ これが 明治維新ののち 官僚における身分制度や俸給制度に変わり それとともに非公式に昇給が年次によるものとなったと言います。 ▼ (年功序列の起源) ~~~~~ http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/73e3c4eb679bde621cbd302b980b8255 では日本の年功序列は、どこから生まれたのだろうか。 笠谷和比古氏によれば、徳川幕府にも年功序列はなかったという。武家の序列の基準は≫石高≪だったが、幕末には財政が苦しくなり、管理能力の高い下級武士が昇進するようになった。 たとえば勘定奉行として日米修好通商条約を結んだ川路聖謨の家は、「御家人株」を買って武士になった町人だった。勝海舟の家も、無役の最下級武士だった。 このような能力主義を可能にしたのは、徳川吉宗のつくった≫足高(たしだか)制度≪だった。 これは本来の石高とは別に、能力に応じた足高が加算され、形式上の序列(石高)とは別に、実質的な能力主義による俸給制度にするものだった。 つまり年功序列は、家柄とは別の経験や功績による序列だったのである。 ところが明治時代に官僚制度ができたとき、高等官/判任官の身分制度や15段階の俸給制度ができ、≫昇給は年次によるものと(非公式に)定められた≪。これが戦後も実質的に継承され、・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 日本株式会社 ☆ についての議論です。ただし 以下はぶらじゅろんぬによる要約に過ぎません。 ▲ (《日本株式会社》論) ~~~~ http://lecture.ecc.u-tokyo.ac.jp/~ctshimiz/keieiseisaku/Ch7-9.pdf §1 政府ー企業間システム 1. 業界団体 および 審議会 を通じて 行政当局(通産省など)と連携する。 2. 審議会は 学者等の第三者の識者を交えて産業政策などを正当化し権威づけるらしい。 3. 業界団体は むろん各企業のあいだの意見や行動を調整する。 4. さらには 産業間の調整をもおこなう。ただし 三輪・ラムゼイヤーの研究によると この場合の資源配分などについて 調整がそれとして認識しうるほどに成されたかは 疑問とされている。 5. 産業の保護あるいは 競争力の向上のために国家としての産業政策そのものは どの国でもおこなっている。⇒ご回答での引用箇所( c )。 6. いわゆる《ギョーセーシドー(行政指導)》も 政府行政当局が非公式に業界と接触し その意向を伝えることとしては どの国でも起こりうると見られる。⇒同上の引用箇所( c ) 7. 政府は 詳しい情報を持ち合わせているのではなく 産業や経済の将来をただしく予測できるわけでもない。 §2 日本型企業システム 8. ステークホルダー別に 従業員(雇用システム)・債権者(金融システム)・株主(ガバナンス・システム)・サプライヤー(サプライヤー・システム)・競争相手(市場メカニズム)・政府(政府‐企業間システム)と区分した構造の中に位置づけられる。 9. 日米のあいだで差があるのは ホワイトカラーとブルーカラーとの扱いの違い(日本は扱いが同じ アメリカは違いがある) 早い選抜の有無 企業別労働組合と産業別組合の違い 後者の基盤の違いである。そのほかに雇用期間などで相対的な差が認められるというかたちだ。 10. 金融システムにおける《メインバンク制》にかんして その長期的・複合的な関係は ドイツと日本とで強い。アメリカとの差は 地方の銀行で 株式持合いなどの複合的な関係は持たないものの 長期的な融資関係は保つと見られるといったところにあるようだ。 11. ガバナンス・システムとして 株式の持ち合いが比率としてそれほど高くなく 外国において持ち株会社のもとに企業グループを構成する場合と日本において相互に利害関係をもって取引したり共同で投資したりして協調する場合との違いであるようだ。 12. 監視機能は どの国の企業でも形骸化が言われているようだ。 13. サプライヤーシステム。⇒ご回答の引用箇所( b )。 14. 市場システム。価格競争ではないが 業界標準をめぐる協調の入り混じった競争 あるいは 新製品開発をめぐり競争相手の思考の枠組みをまなび それに応じて自分の思考の枠組みを変えて行くというような対話としての競争が行なわれている。同質的な競争であるかも分からないが ほかの国と明らかな差があるとは見られない。 15. もし違いがあるとすれば 《企業間の関係の長期性》 および《それにもとづく濃密なコミュニケーションと調整》 これらが日本における相対的な意味での特徴であると言えるのではないか。あるいはまた 《対話としての競争》が取り上げられよう。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これらの事情において 《集団主義》といった規定が適切であるだろうか? 分析視角としても全体の認識としても 個人主義とそれに対する集団主義といった見方は 果たして現実をただしく捉えたものであろうか?