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右の意味での・・・
現代文についてです。 自然は真空を嫌う、という古い言い方がある。同様に、科学者は哲学を嫌う、と言いたい時がある。 物の見方というよいうな論議を、哲学と評する人がある。当の論議の内容が、哲学であるか、哲学でないか、それを論じるつもりは私にはない。私が興味を持つのは、むしろ、ある人がある状況を哲学と評したということ、そのことである。そこに、その人の哲学に関する考え方が表出しているからである。 それがすなわち、その人の「物の見方」にほかならない。そして、その人をそう見ることが、こんどは、同様にして、ヒトの見方にほかならないのである。 どんな叙述にも二つの面がある。一つはその叙述の内容そのものであり、もう一つは、その叙述が、ある状況で、ある人によって、どういうふうにか、なされたということである。 ここでいう「物の見方」とは、つまり後者に近い。叙述の内容にとりあえず反論せず、叙述そのものを、素直に事実として受け入れる。それは、いわば、ヒトの博物学とでも言うべき立場を導く。 叙述を素直に認め、逆にそれを発言者の立場を考えるよすがとする、というやり方を、われわれの祖先は古くから実行してきた。だから、「語るに落ちる」というのである。そこでは、語りの内容の当否や、置かれた状況をあらわす。そして、そのことは、科学であっても同じことである。 これを、叙述の「形式と内容」と表現できよう。たとえば、文学について批評が成立するのは、基本的には批評が右の意味での事実、つまり形式を扱うからである。そこでは批評の方法は、「科学」の方法と、とくに変りようがない。 ラストから2文目なんですが、「右」という意味がわからないんです。ここで、どうして突然「右」が出てくるんでしょうか?右ってどこをさしてるんでしょうか。
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ちゃんと辞書にも載ってますね。 みぎ 0 【右】 (3)1 (縦書きの文章で)前に記したこと。既述したこと。 「―の通り相違ありません」
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- sunasearch
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批評が右の意味での事実、つまり形式を扱うからである。 ↓ 批評が「発言者(文学者)の立場」という事実、つまり形式を扱うからである。
お礼
すいません!私の勘違いでした! 「事実、つまり形式」を扱う っていうふうに区切ればよかったんですね。 「批評が右の意味での事実、つまり形式を扱う」 を、 批評=事実であり、それ(=批評)が形式を扱うと解釈してしまっていました。
- tyuuta
- ベストアンサー率35% (164/458)
「右」・・前述の 補足に書いた疑問 ここで筆者は「事実」=「批評」とは言ってないですよ 文学についての批評は「事実」(叙述の形式)を取り扱うもの。 つまり事実に対して批評すると言うことになると思います
お礼
すいません!私の勘違いでした! 「事実、つまり形式」を扱う っていうふうに区切ればよかったんですね。 「批評が右の意味での事実、つまり形式を扱う」 を、 批評=事実であり、それ(=批評)が形式を扱うと解釈してしまっていました。
- fitzandnao
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右=前述 ですね。 縦組みでテキストを読むと先に書いた文は右にきますから…。
補足
ぬぬぬぬ・・・何てトリッキーな・・・納得です。 でも、そうすると、第5段落および最終段落から、叙述=事実=批評ってことになりますよね。 なんかしっくりこないんですよ。 「批評」って、事実に対して外からごちゃごちゃ口出しすることを指すのであって、事実そのものであるようには思えないのですが・・・。
補足
ありがとうございます。辞書にもそう記されてたんですね。すいません。 でも・・・No.1の補足に書いた疑問が、まだ残っております・・・。