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日本語の基本構文とは?
- 日本語はA‐ハ B‐ガ C‐ナリ。 / C‐スルという基本構文で成り立っている。
- 日本語の文は主題を提示する形で構成されており、問いと答えが一つの文になっている。
- 英語のS-V-O型式を内蔵しており、和文は非線形の構文であり、英文は線形の文型である。
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破格を安易に受け入れてしまいますと、 古典の解析の際の誤謬の増加を避け難くなりますので、 たとえ企業の御偉方達が基本(初心)を忘れて、 平気で堕落(「修破離」の離)を押し付けてきましょうとも、 文法の学習の際には、基本に戻っておくべきでしょう。 因みに、大手のコールセンターの多くで、 新人の二重敬語が矯正されなければ、 指導者が罰則を受けたり、その新人達が解雇されたりしていますので、二重敬語の問題は非常に重要なのです。 だからこそ、容易に加入し得るサイトで、 破格を受け入れた議論を展開する為には、 悪影響を防ぐべく、破格に関しましての大前提を、 先に表明させておく遣り方の採用が、 比較的に望ましいのだろう、と思われます。 確かに当事者意識の問題と違いますので、 インフォームドコンセント(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88)と比べる程に深刻な内容なのではなかろう、と思われますが、折角の教育を蔑ろにしてはmottainaiのではないでしょうか?
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- kusa-mura
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こんにちは。反論を浴びていますが「僕はウナギだ」って、ウナギ構文と言って日本語の特殊性として、よく書いてあります。英語に直訳してはならない文章の例です。「は」は対比の意味です。つまり他に注文する人がいて、その想定される文章にのっかって成立しているのです。料理をオーダーする時など、言うことは決まっていますから、省略もできるわけです。 でも、日本語の特性って本当にそうだと思いますか。外国語がさほどわかっていない時は、ウナギ構文って本当だと思いました。が、フランス語だと、Moi, une anguilleってあるんですよ。単語を二つ並べただけ。訳すと「俺、ウナギ」でしょう。丁寧に言えばJe voudrais prendre une matelote d’anguilleですが。印欧祖語でも、直訳可能な気がしています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 おおむね同意せざるをえない内容のご回答だと思います。 問題は 焦点として ハ格による表現が日本語ではそのままふつうに一般的な構文をかたちづくっていると考えられること ここにあります。 ( a ):「僕はウナギだ」 ( a-F ): Moi, une anguille.( Me? An eel. ) 言いかえるなら 文例( a )が 次の分析に言う《省略》もしくは半製品のような状態にあるに過ぎないのか これだと考えます。 ★ 「は」は対比の意味です。つまり他に注文する人がいて、その想定される文章にのっかって成立しているのです。料理をオーダーする時など、言うことは決まっていますから、省略もできるわけです。 ☆ そこで反論をこころみるわけですが: (1) ハ格は ここでまったくおっしゃるように《対比》の意味において――つまりほかの人たちの注文と比べての意味で――その主題である《ぼく》を取り立てている。このことに間違いない。すなわち次の解釈例に当たります。 ☆☆(No.3お礼欄)~~~ ( a-3 ):ぼくについて言えば きみたちと違って ここはうなぎが 旨いと知っているんだ。だから うなぎにするが きみたちも 変えてもいいよ。 ~~~~~~~~~ ☆ そうすると ハ格は では この《対比としての取り立て》の役目に限られるか? となります。 (2) どうでしょう? ――おそらくこの文例( a )を言っている話し手は じつは上の解釈例に忍び込ませたように ハ格についてその役割をこの場合ふたつ見ているはずなのです。 ( a-3 ) (あ=主題提示) ぼくについて言えば (い=対比としての取り立て) きみたちと違って (3) そしてむろん(あ=主題提示)の役割が おもな存在性である。こう帰結されませんか? つまりは ( a-F ): Moi, une anguille. この《 Moi ≒ぼく‐ハ》が―そしてさらには その文全体のかたちが――日本語では ふつうの言語習慣に属している。こういう意味になりませんか? ( a-F-1 ): Pour moi, une anguille. ( a-F-2 ): Moi, je prends une anguille. ☆ この《 Pour moi ( For me )》という意味合い(ないし用法)が 日本語ではハ格ひとつで万能のごとく間に合うのですし。( a-F-2 )の主格語《 je (ぼくが)》はおそらく主格( S )‐述格( V )‐対格( O )なる線形論理の文型において必須の成分であって しかもこの主格語の役割をわがハ格はお一人様にて兼ねている。――だとすれば おおよそ構文上 彼我の差はいちじるしい。のだと。 (4) 文例( a ):「僕はウナギだ」 が省略したのは おそらくガ格による主題提示すなわち《〔注文‐ガ〕》であり それだけであるはずです。ぎゃくに言うと やはりそれでもまだ線形的な論理連絡は あいまいなままに残るところの主題提示としての成分である。それを省かないかたちにおいても まだ最終の意味連絡――《ぼくはうなぎを注文する》というような明確な意志表示――は 定かではない。(すでに明確であると言うなら それは言語習慣の上で共通の了解があるからだ)。 (5) 文例( a-F ): Moi, une anguille. が省略したのは 形式的には文例( a-F-2 ): Moi, je prends une anguille. における《 je prends ( I take )》という成分であるのですが それだけではない。この場合は この成分がすでに S-V-O の文型をかたちづくるからには 文型じたい(その全体)を省略したと考えられます。おそらく或る種の仕方で 幼児ことばで済ますかたちなのではないか。そしてそれは 確かに主題提示による構文の成り立ちに似ている。幼児ことばは ただしハ格やガ格の用法を知らない。 (6) およそこのように考えますが いかがでしょう? (7) ★ 印欧祖語でも、直訳可能な気がしています。 ☆ (う) 《祖語》でどうかは ちょっと判断がつきかねますが ひとつには 幼児ことばのあり方としてなら それは似ている。 (え) 似ているが 主題提示格としてのハ格やガ格とそれらによる構文をまだその成熟性において知らないはずだ。 (お) 古代のサンスクリットやギリシャ語においてもすでに体言の格活用やそれら主格や対格に直接対応する述格用言の法活用をおこなっておりそれらによって S-V-O の線形論理による文型は基礎固めがなされている。 こういったことが言えるのではないでしょうか? (8) (か) 《直訳可能》というのは それは祖語と言いますか どの言語においてもその初源のかたちにおいては 言ってみれば《絶対格》によることばの表出をおこなったとすれば 共通性がある。こういう意味ではないか。 (き) すなわち文の成分たる語句に相当するであろうことばをすでに無格として――つまり話し手がその主題の提示の仕方にまったく無頓着に――ポオ―ンと言い放つ場合。つまり 或る種の仕方で 幼児ことば。 (く) つまりことばの絶対格による投げ入れ(言い放ち)であっても それが話し手という主体(その意志)によって統括されているならば その意味を解釈して捉えることは出来ると思われますから そういう意味で初源の言葉づかいは どの言語でも同じようであったろうとは推測し得ます。 ★ でも、日本語の特性って本当にそうだと思いますか。 ☆ 以上において 本当にこうだと思いますが いかがでしょう?
- codotjtp
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意図を汲めますが、 「僕の注文の対象は鰻の関連のメニューだ。」 としませんと、文法的には意味が…
お礼
ご回答をありがとうございます。 日本語という言語についてお考えになったことが少ないでしょうか。 ( a ) ぼくは うなぎだ。 この日本文は まったく正真正銘の日本語ですよ。 No.1およびNo.2でのやり取りをごらんになってください。どうですか。
- codotjtp
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文例a(ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。)の文法的な誤りに気付きませんか。 小学生レベルの内容です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ( a-3 ):ぼくについて言えば うなぎだ。 ・・・・注文の品は うなぎだ。 ・・・・うなぎを注文しよう。 ・・・・きみたちと違って ここはうなぎが旨いと知っているんだ。 だから うなぎにするが きみたちも変えてもいいよ。 ( a-2 ):ぼくは〔ぼくが〕注文する うなぎをだ。 ( a-2-E ):I'll have one UNAGI. 文法も何も誤りなどはありません。つまり( a )文が いろんなかたちに相転移して化けるという言語現象について考えようという趣旨です。焦点は ハ格およびガ格のはたらきです。
- JidousyaGaisya
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こういう事例の方が分かりやすいでしょうか? 「大型の爬虫類達は獲物達を丸呑みにし得る。」 ↓ 「大型の爬虫類達について言うのならば、 獲物達を丸呑みにし得る(、と言える)。」
お礼
つづいてです。 直前のご回答(No.1)についてと一応同じお応えになります。 多少 趣旨説明の論旨に合わせて捉えてみれば: ★☆( c ) 「大型の爬虫類達は 〔それら‐ガ〕 獲物達を丸呑みにし得る。」 ★☆( c-3 ) 「大型の爬虫類達について言うのならば、〔それら‐ハ それら‐ガ〕 獲物達を丸呑みにし得る(、と言える)。」 ☆ そうして 線形言語においては たぶん次のような表現形式( S-V-O 文型)になるだろうというのが 論点になっています。 ○( c-2-E ): Reptiles can swallow their preys. ○( c-2 ):大型の爬虫類達‐ガ 獲物‐ヲ 丸呑みし得る。 すなわち ( c )文から( c-3 )としての解釈文を得ても それほど非線形文が相転移を起こしたとも思われませんが ( c-2 )の解釈例を持ち出すなら かなりの相転移を起こしている。こう考えられませんかというのが 問いです。 つまり この場合は ハ格に注目できます。( c )文および( c-3 )文は まさに主題提示の役割をになっていると分かります。ところが ( c-2 )文では 主題提示のことはさておいて 《獲物》という対格語との絡みで論述用言(述語動詞)の《丸呑みし得る》に対する主格(行為主体)を示しています。つまりその主格としてのガ格に転移しています。 このこと およびそこからさらにどういう構文やらの細かいことが言えるか。これを問うています。
- JidousyaGaisya
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「象は鼻が長い」を下記の様に言い換えられましょう。 つまり、「象について語るのでしたら、鼻が長い(、と言える)」 という事です。 因みに、簡単に分かる筈ですが、 前回の最後に投稿して下さっている方の御意見との類似性には気付いていらっしゃいますか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 前回の最後に投稿して下さっている方の御意見 ☆ とは 【Q:日本人は 論理思考をそなえている。】の BA にわたしが――早い段階で味わいのある回答を投じてくれたので――えらんだそのフロイラインさんの見解のことですか? ★ 類似性には気付いていらっしゃいますか? ☆ というのは 果てさて どういう展開になりましょうか? まづご回答の内容のほうに注目します。 ★ つまり、「象について語るのでしたら、鼻が長い(、と言える)」 / という事です。 ☆ つまり おっしゃるとおりですよ。これを ( b-3 )としても出せるわけです。と言ってもこの場合は それほど《相転移》を起こしておらず いちばん素直なハ格の解釈になっているはずです。つまり《象と言えば〔それ‐ハ〕》といった意味合いです。なぜなら これが主題提示という役割そのものですから。 ( b-3 ):象について語るのでしたら、鼻が長い(、と言える)。 ( b-3-E ): Talking of an elephant, its nose is long. とでもなるのでしょうか。たしかにこの事例は( b-1 )として最初に出すべきだったかも知れません。その線形論理としての意味連関が 互いに似かよっていたので 出しそびれたのです。 ですから このような基礎的な分析を共通の理解とし前提とすれば 比較対照においてどういうことが言えるか? 共通点やあるいは相違点 これらを問うています。どうですか。 最初に取り上げて保留した件は 必ずしも焦点を結びません。どう違うかと言っても あるいはどう同じかと言っても いづれの場合にも 焦点を結びません。ご説明を!
お礼
つづいてです。 ★ 破格 ☆ について 誤解があります。社会一般にとおれば それが正式の文法規則になります。言語のならわしとは そういうものです。 用言の否定法は ナイという補充用言(助動詞)を用います。 これは けれども 状態用言(形容詞)です。形容詞の法活用をおこないます。 行か‐ナイ。 / 行か‐ナケレバ・・・ けれども ナフという動詞の活用をする否定法があり得たのだそうです。ナは無シのナであり フはたとえば取ルから 取ら‐フ(⇒取らえる=捉える・捕らえる)が派生しているように 相互行為の相(意味)(つまり アフ:合う)や継続の相(つまり フ⇒ヘル:経る)を添えるもののようです。 行か‐ナフ:(連体法)行か‐ナフ‐時 /(条件法=已然形) 行か‐ナへバ 行か‐ナイ:行か‐ナイ‐時 / 行か‐ナケレバ このように行か‐ナフというかたちの否定法があり得たのです。むろんあなたのおっしゃる《修破離の修(守)》としての《基本》は この動詞型活用の行か‐ナフのほうにあると見られます。そういうものです。 ですから 次の命題は安易な叙述になります。 ★ ~~~~ 破格を安易に受け入れてしまいますと、 古典の解析の際の誤謬の増加を避け難くなりますので、 たとえ企業の御偉方達が基本(初心)を忘れて、 平気で堕落(「修破離」の離)を押し付けてきましょうとも、 文法の学習の際には、基本に戻っておくべきでしょう。 ~~~~~~~ ☆ 何が初心で何が基本か 分かったものではないのです。 ★ ~~~~ 因みに、大手のコールセンターの多くで、 新人の二重敬語が矯正されなければ、 指導者が罰則を受けたり、その新人達が解雇されたりしていますので、二重敬語の問題は非常に重要なのです。 ~~~~~ ☆ わたしの知ったことではありません。という前提の上で ひとには接しているべきです。あなたはただ強制しているだけです。その口調からしてという意味です。まぁ わたしがここまで寛容すぎたかも知れません。 ★ ~~~~~ だからこそ、容易に加入し得るサイトで、 破格を受け入れた議論を展開する為には、 悪影響を防ぐべく、破格に関しましての大前提を、 先に表明させておく遣り方の採用が、 比較的に望ましいのだろう、と思われます。 ~~~~~~~ ☆ いつから インタネットに管理中枢部が出来たのですか?