こんにちは。反論を浴びていますが「僕はウナギだ」って、ウナギ構文と言って日本語の特殊性として、よく書いてあります。英語に直訳してはならない文章の例です。「は」は対比の意味です。つまり他に注文する人がいて、その想定される文章にのっかって成立しているのです。料理をオーダーする時など、言うことは決まっていますから、省略もできるわけです。
でも、日本語の特性って本当にそうだと思いますか。外国語がさほどわかっていない時は、ウナギ構文って本当だと思いました。が、フランス語だと、Moi, une anguilleってあるんですよ。単語を二つ並べただけ。訳すと「俺、ウナギ」でしょう。丁寧に言えばJe voudrais prendre une matelote d’anguilleですが。印欧祖語でも、直訳可能な気がしています。
質問者
お礼
ご回答をありがとうございます。
おおむね同意せざるをえない内容のご回答だと思います。
問題は 焦点として ハ格による表現が日本語ではそのままふつうに一般的な構文をかたちづくっていると考えられること ここにあります。
( a ):「僕はウナギだ」
( a-F ): Moi, une anguille.( Me? An eel. )
言いかえるなら 文例( a )が 次の分析に言う《省略》もしくは半製品のような状態にあるに過ぎないのか これだと考えます。
★ 「は」は対比の意味です。つまり他に注文する人がいて、その想定される文章にのっかって成立しているのです。料理をオーダーする時など、言うことは決まっていますから、省略もできるわけです。
☆ そこで反論をこころみるわけですが:
(1) ハ格は ここでまったくおっしゃるように《対比》の意味において――つまりほかの人たちの注文と比べての意味で――その主題である《ぼく》を取り立てている。このことに間違いない。すなわち次の解釈例に当たります。
☆☆(No.3お礼欄)~~~
( a-3 ):ぼくについて言えば きみたちと違って ここはうなぎが
旨いと知っているんだ。だから うなぎにするが きみたちも
変えてもいいよ。
~~~~~~~~~
☆ そうすると ハ格は では この《対比としての取り立て》の役目に限られるか? となります。
(2) どうでしょう? ――おそらくこの文例( a )を言っている話し手は じつは上の解釈例に忍び込ませたように ハ格についてその役割をこの場合ふたつ見ているはずなのです。
( a-3 ) (あ=主題提示) ぼくについて言えば
(い=対比としての取り立て) きみたちと違って
(3) そしてむろん(あ=主題提示)の役割が おもな存在性である。こう帰結されませんか? つまりは ( a-F ): Moi, une anguille. この《 Moi ≒ぼく‐ハ》が―そしてさらには その文全体のかたちが――日本語では ふつうの言語習慣に属している。こういう意味になりませんか?
( a-F-1 ): Pour moi, une anguille.
( a-F-2 ): Moi, je prends une anguille.
☆ この《 Pour moi ( For me )》という意味合い(ないし用法)が 日本語ではハ格ひとつで万能のごとく間に合うのですし。( a-F-2 )の主格語《 je (ぼくが)》はおそらく主格( S )‐述格( V )‐対格( O )なる線形論理の文型において必須の成分であって しかもこの主格語の役割をわがハ格はお一人様にて兼ねている。――だとすれば おおよそ構文上 彼我の差はいちじるしい。のだと。
(4) 文例( a ):「僕はウナギだ」 が省略したのは おそらくガ格による主題提示すなわち《〔注文‐ガ〕》であり それだけであるはずです。ぎゃくに言うと やはりそれでもまだ線形的な論理連絡は あいまいなままに残るところの主題提示としての成分である。それを省かないかたちにおいても まだ最終の意味連絡――《ぼくはうなぎを注文する》というような明確な意志表示――は 定かではない。(すでに明確であると言うなら それは言語習慣の上で共通の了解があるからだ)。
(5) 文例( a-F ): Moi, une anguille. が省略したのは 形式的には文例( a-F-2 ): Moi, je prends une anguille. における《 je prends ( I take )》という成分であるのですが それだけではない。この場合は この成分がすでに S-V-O の文型をかたちづくるからには 文型じたい(その全体)を省略したと考えられます。おそらく或る種の仕方で 幼児ことばで済ますかたちなのではないか。そしてそれは 確かに主題提示による構文の成り立ちに似ている。幼児ことばは ただしハ格やガ格の用法を知らない。
(6) およそこのように考えますが いかがでしょう?
(7) ★ 印欧祖語でも、直訳可能な気がしています。
☆ (う) 《祖語》でどうかは ちょっと判断がつきかねますが ひとつには 幼児ことばのあり方としてなら それは似ている。
(え) 似ているが 主題提示格としてのハ格やガ格とそれらによる構文をまだその成熟性において知らないはずだ。
(お) 古代のサンスクリットやギリシャ語においてもすでに体言の格活用やそれら主格や対格に直接対応する述格用言の法活用をおこなっておりそれらによって S-V-O の線形論理による文型は基礎固めがなされている。
こういったことが言えるのではないでしょうか?
(8) (か) 《直訳可能》というのは それは祖語と言いますか どの言語においてもその初源のかたちにおいては 言ってみれば《絶対格》によることばの表出をおこなったとすれば 共通性がある。こういう意味ではないか。
(き) すなわち文の成分たる語句に相当するであろうことばをすでに無格として――つまり話し手がその主題の提示の仕方にまったく無頓着に――ポオ―ンと言い放つ場合。つまり 或る種の仕方で 幼児ことば。
(く) つまりことばの絶対格による投げ入れ(言い放ち)であっても それが話し手という主体(その意志)によって統括されているならば その意味を解釈して捉えることは出来ると思われますから そういう意味で初源の言葉づかいは どの言語でも同じようであったろうとは推測し得ます。
★ でも、日本語の特性って本当にそうだと思いますか。
☆ 以上において 本当にこうだと思いますが いかがでしょう?
お礼
つづいてです。 ★ 破格 ☆ について 誤解があります。社会一般にとおれば それが正式の文法規則になります。言語のならわしとは そういうものです。 用言の否定法は ナイという補充用言(助動詞)を用います。 これは けれども 状態用言(形容詞)です。形容詞の法活用をおこないます。 行か‐ナイ。 / 行か‐ナケレバ・・・ けれども ナフという動詞の活用をする否定法があり得たのだそうです。ナは無シのナであり フはたとえば取ルから 取ら‐フ(⇒取らえる=捉える・捕らえる)が派生しているように 相互行為の相(意味)(つまり アフ:合う)や継続の相(つまり フ⇒ヘル:経る)を添えるもののようです。 行か‐ナフ:(連体法)行か‐ナフ‐時 /(条件法=已然形) 行か‐ナへバ 行か‐ナイ:行か‐ナイ‐時 / 行か‐ナケレバ このように行か‐ナフというかたちの否定法があり得たのです。むろんあなたのおっしゃる《修破離の修(守)》としての《基本》は この動詞型活用の行か‐ナフのほうにあると見られます。そういうものです。 ですから 次の命題は安易な叙述になります。 ★ ~~~~ 破格を安易に受け入れてしまいますと、 古典の解析の際の誤謬の増加を避け難くなりますので、 たとえ企業の御偉方達が基本(初心)を忘れて、 平気で堕落(「修破離」の離)を押し付けてきましょうとも、 文法の学習の際には、基本に戻っておくべきでしょう。 ~~~~~~~ ☆ 何が初心で何が基本か 分かったものではないのです。 ★ ~~~~ 因みに、大手のコールセンターの多くで、 新人の二重敬語が矯正されなければ、 指導者が罰則を受けたり、その新人達が解雇されたりしていますので、二重敬語の問題は非常に重要なのです。 ~~~~~ ☆ わたしの知ったことではありません。という前提の上で ひとには接しているべきです。あなたはただ強制しているだけです。その口調からしてという意味です。まぁ わたしがここまで寛容すぎたかも知れません。 ★ ~~~~~ だからこそ、容易に加入し得るサイトで、 破格を受け入れた議論を展開する為には、 悪影響を防ぐべく、破格に関しましての大前提を、 先に表明させておく遣り方の採用が、 比較的に望ましいのだろう、と思われます。 ~~~~~~~ ☆ いつから インタネットに管理中枢部が出来たのですか?