丁寧にありがとうございます。でも、少し長くて、僕には拾いきれないところもありました。一言でいえば、仏語は幼児言葉だが、日本語は正しい言葉であって、言説レヴェルénonciationが同じではないから比較にならんということですね。うーん。どうでしょう。Je, une anguilleならおっしゃる通りの幼児言葉ですが、Moiに変形していますから、あまり同意できないところです。Pour moiとしないでも、それだけで既に対比になっています。Moi, une anguilleは何を略したかといえば、C’est moi qui prends une anguilleです(ただ強調構文ではくどいので、普通は、Je prendrai~っていいます)。あらかじめ正確な文章が作れた上での省略だから、幼児言葉ではないのです。
――というと、話はこれで平行線をたどって終わりかもしれません。ただそれでは設問に水を欠けただけで気の毒なので続けてみます。屈折語は石を積むように、単語を積み上げていけます。ラテン語など、一パラグラフが一文でしょう。しかし日本語となると、紫式部みたいなことになります。主語は明示されず、「そこはかとない」情報から、読み手に推測してもらわなければなりません。だから膠着語は感情表現にすぐれている一方、論理には向かぬなどと言われるのです(自動車会社さんの話は、煎じ詰めれば、そういうことじゃないかと思っていますが)。
一息に連綿と考えるには、確かに屈折語の方が便利でしょう。ブツ切りにされると、思考が長く続きません。ただ一文が長ければ、常に正確にものを考えられるというわけでもありません。「は」や「が」を使った思考は何に関して有利なのかを考えると面白いのではないかと思います。
たとえばJe prends une anguille(俺はウナギね)だと、もうここで文が終わることがわかります。関係詞をつなげても、Je ne prends pas une anguille(俺はウナギは要らない)の意味には変形させようがありません。強調構文のC’est moi qui prends une anguilleだと、更に身動き取れません。
ところが日本語の「俺はウナギ」だと「俺はウナギを食う」でも「俺はウナギが嫌いだ」とも、先を続けていけます。決定する単語を後に延ばせるというのは、あれか是かと丁寧にものを考える上で、有利と思えます。たとえば「僕はウナギ……を食べたいんだけれど、お金が無いから迷っていて、でも君が奢ってくれるというから店に入って、悪いなと思うから親子丼にしようと思ったけれど、匂いをかいだらうまそうだから、やっぱり食べることにした」などと続けることはできるわけです。意志決定しないうちに話し始めることができるという意味では、思ったらすぐに口にできるということであって、感情表現にすぐれているでしょう。
逆に英語や仏語は最初に意思決定しないと、話し始められません。ただ一度、意思を決定すると、その理由を説明するのはとても便利です。Je prends une anguille, parce qu’elle est très délicieuse au printemps, et que l’année dernière, je l’ai goûtée au restaurant de Nagoya en ayant eu recommandé par le Président que j’ai rencontré par hasard….etc.(僕はウナギね、だって春にはとってもうまいし、去年、僕は名古屋のレストランで食ったんだよ、そこには偶然にも社長がいてさ、食えって勧めてくれたんだ……)という風に、話を一気に続けていけます。その気になれば、まだ連続させることはできると思います。
上では便宜上訳してみせましたが、日本語で仏語と同じことをやるのはきついと思います。「僕はウナギにするのは、なぜって春にはそれがおいしいからだし、なぜって去年、名古屋のレストランで食べたんだけれど、それというのも偶然会った社長が勧めてくれたからなんだ……」。アクロバットをやってるようなもので、何か苦しいです(もう破綻している気がする)。
やはり西洋語の方が、(1)意思決定した(2)その理由や細部を説明、という順序で説明するのは楽です。ところで一般論として、意思決定後の理由を説明する方が、論理的にものを考えていると思われやすいでしょう。しかしあれこれ考えてから選ぶ人の方も慎重ではあって、思考をうつしこむ鏡として、日本語にはいいところがあると思えるのです。
お礼
つづいてです。 ★ 破格 ☆ について 誤解があります。社会一般にとおれば それが正式の文法規則になります。言語のならわしとは そういうものです。 用言の否定法は ナイという補充用言(助動詞)を用います。 これは けれども 状態用言(形容詞)です。形容詞の法活用をおこないます。 行か‐ナイ。 / 行か‐ナケレバ・・・ けれども ナフという動詞の活用をする否定法があり得たのだそうです。ナは無シのナであり フはたとえば取ルから 取ら‐フ(⇒取らえる=捉える・捕らえる)が派生しているように 相互行為の相(意味)(つまり アフ:合う)や継続の相(つまり フ⇒ヘル:経る)を添えるもののようです。 行か‐ナフ:(連体法)行か‐ナフ‐時 /(条件法=已然形) 行か‐ナへバ 行か‐ナイ:行か‐ナイ‐時 / 行か‐ナケレバ このように行か‐ナフというかたちの否定法があり得たのです。むろんあなたのおっしゃる《修破離の修(守)》としての《基本》は この動詞型活用の行か‐ナフのほうにあると見られます。そういうものです。 ですから 次の命題は安易な叙述になります。 ★ ~~~~ 破格を安易に受け入れてしまいますと、 古典の解析の際の誤謬の増加を避け難くなりますので、 たとえ企業の御偉方達が基本(初心)を忘れて、 平気で堕落(「修破離」の離)を押し付けてきましょうとも、 文法の学習の際には、基本に戻っておくべきでしょう。 ~~~~~~~ ☆ 何が初心で何が基本か 分かったものではないのです。 ★ ~~~~ 因みに、大手のコールセンターの多くで、 新人の二重敬語が矯正されなければ、 指導者が罰則を受けたり、その新人達が解雇されたりしていますので、二重敬語の問題は非常に重要なのです。 ~~~~~ ☆ わたしの知ったことではありません。という前提の上で ひとには接しているべきです。あなたはただ強制しているだけです。その口調からしてという意味です。まぁ わたしがここまで寛容すぎたかも知れません。 ★ ~~~~~ だからこそ、容易に加入し得るサイトで、 破格を受け入れた議論を展開する為には、 悪影響を防ぐべく、破格に関しましての大前提を、 先に表明させておく遣り方の採用が、 比較的に望ましいのだろう、と思われます。 ~~~~~~~ ☆ いつから インタネットに管理中枢部が出来たのですか?