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日本語の基本構文とは?
- 日本語はA‐ハ B‐ガ C‐ナリ。 / C‐スルという基本構文で成り立っている。
- 日本語の文は主題を提示する形で構成されており、問いと答えが一つの文になっている。
- 英語のS-V-O型式を内蔵しており、和文は非線形の構文であり、英文は線形の文型である。
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質問者が選んだベストアンサー
破格を安易に受け入れてしまいますと、 古典の解析の際の誤謬の増加を避け難くなりますので、 たとえ企業の御偉方達が基本(初心)を忘れて、 平気で堕落(「修破離」の離)を押し付けてきましょうとも、 文法の学習の際には、基本に戻っておくべきでしょう。 因みに、大手のコールセンターの多くで、 新人の二重敬語が矯正されなければ、 指導者が罰則を受けたり、その新人達が解雇されたりしていますので、二重敬語の問題は非常に重要なのです。 だからこそ、容易に加入し得るサイトで、 破格を受け入れた議論を展開する為には、 悪影響を防ぐべく、破格に関しましての大前提を、 先に表明させておく遣り方の採用が、 比較的に望ましいのだろう、と思われます。 確かに当事者意識の問題と違いますので、 インフォームドコンセント(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88)と比べる程に深刻な内容なのではなかろう、と思われますが、折角の教育を蔑ろにしてはmottainaiのではないでしょうか?
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- littlekids
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14の追記をします。 言葉が少な過ぎたせいで、誤解を招きましてすいません。 挿入が多いのは日本の古典の性質だと思って、 14の内容を入力しました。 本当にコンピューター関係のコトに詳しくないのですか。 謙遜と違いますか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 自慢ぢゃないが 謙遜ではありません。 ★ 挿入が多いのは日本の古典の性質だと思って、 / 14の内容を入力しました。 ☆ これはですね もしただしく受け取ったとすれば 挿入そのものは どの言語や文学作品にもあるわけですが 日本語の文章に見られる挿入節は いわば文の外からその文を条件づけるといった性質のものだと考えられます。 つまり 誰かが言っていましたが 線形言語で挿入節をいくら用いても それぞれ節どうしの意味連絡もしっかりと直線的につながっている――つまり関係詞でその先行詞を指し示すかたちで 列車の連結がきちんと為されている――。けれども 日本文では あたかも尺八の音を 主題ごとに・また主題節ごとに響かせて その音色のいくつかをたのしむといった具合いでもあるようですから 挿入節は 連結の具合いがゆるやかなのでしょう。 ▼(ヰキぺ:割り込み) ~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E3%82%8A%E8%BE%BC%E3%81%BF 割り込みの主な目的は周辺機器からの情報を、他の作業をしながらも取り落とすことなく受け取ることであり、具体的な効果として次のようなものがある CPU資源の有効利用 - 周辺機器の速度はCPUの処理速度より格段に遅いため、周辺機器が処理を行っている間、CPUが他の処理を行ったほうが効率がよい。その場合、周辺機器の処理の終了をCPU側から定期的にチェックする(ポーリングと呼ぶ)のは、他の処理の効率を落とすため望ましくない。 このため、周辺機器の側から割り込みによって処理の終了を通知する方法がとられる。 しかしながら、近年のCPUの高速化に伴い、GHz クラスのCPUを利用した場合は、1msec単位程度の周期的なポーリングを行う方式も研究されている。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 文章における挿入ないし割り込みは けっきょく読み手は それなりの読みとりをするほかないと思われます。要は 中身で勝負なのだと思われ よい文章は挿入節が多くても 読み手はつとめて読みこなすものと考えます。たぶんコンピュータの場合とは 違うのではないか。それというのも 読み手は ひとりで CPU と周辺機器とを兼ねているでしょうから。 ★★(回答No.14) ~~~~~ 挿入の羅列が許容されていますと、 各章の表題の作成が要求され難いからこそ、 前近代の日本文学にも、「目次・索引」が無かったのでしょう。 ~~~~~~~~~~~ ☆ ううーん。わたしの感覚と違うのですけれど 文学作品には《索引》はないでしょう ふつう。《目次》は あるのと ないのとがある。ですよね。 ★ 各章の表題の作成が要求され難いからこそ、 ☆ これも どういうことを実際には言っているのか 読みとれないのですが。つまり 小説には論文におけるような章区分はないでしょうし。数字だけの区分のものも ふつうだと言えるでしょう。ただし 区分をして表題をつける場合もあるでしょうし。 そうして ひとまとまりの段落ごとなどのような文章における挿入節の多さとは違って 作品全体におけるかたちで ★ 挿入の羅列が許容されていますと、 ☆ と言うのも どこか何か別の問題があるのかなと思ったりしますが 果たしてどういう事情でしょうか? 例によってコンピュータの割り込みについては 全部のことを把握し得ていません。あしからず。
- JidousyaGaisya
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奈良・平安時代の日本文学で、 作者が自作の虚構の登場人物達に表敬を示しているのが、 特殊な内容だ、と気付かないのでしょうか? 此の表敬の形式は一部の著作者に採用されていたのではなく、 当時の作品に共通する内容です。 現代の小説の中で、『主人公が登場「なさった」』と綴れば、 奇異な印象を与えませんか? 是をも学生時代に習っていらっしゃる筈なので、 世の中の改革を志していらっしゃる御偉い方が、 基本を失念されていますと、非常に勿体無い、と思います。
お礼
☆☆(No.10お礼欄) いつから インタネットに管理中枢部が出来たのですか? ★★(回答No.8) 矢張りきちんと読んでいらっしゃらないですね。 ひとつひとつ けじめをつけ 互いにきちんと踏みかためつつ進みましょう。 答えがないのは ほんに屁のよう。
補足
芸術ないし文学作品にかぎれば いかなる表現も 自由におこなわれる。――これが 大前提だと考えます。中身が勝負です。 ☆☆(No.10お礼欄≒) いつから 芸術ほどに自由な自己表現の場に管理中枢部が出来たのですか?
- littlekids
- ベストアンサー率10% (6/57)
挿入の羅列が許容されていますと、 各章の表題の作成が要求され難いからこそ、 前近代の日本文学にも、「目次・索引」が無かったのでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A2%E5%BC%95#.E3.83.87.E3.83.BC.E3.82.BF.E3.83.99.E3.83.BC.E3.82.B9.E3.81.AE.E7.B4.A2.E5.BC.95
お礼
つづいてです。 あぁ わたしが他人の文章を注釈するかたちで やたら長い文章を挿入したことを指して言っているのですね。 それくらい 読め。読んで分かれ。分かるように分割整理してありましょう。
- littlekids
- ベストアンサー率10% (6/57)
又割り込みます。 日本の古典での挿入とコンピュータでの割り込みとには、 制御の点での共通性が有りそうですか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E3%82%8A%E8%BE%BC%E3%81%BF
お礼
ご回答をありがとうございます。 一たん野暮用で出かけます。 お願いですが もう少し論点を具体的に明らかにしてもらえばありがたいところです。わたしがパソコンに詳しくないということは ご存じではないかと。 ★ 日本の古典での挿入 ☆ これも分かるようではっきりしませんね。
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
題述の問題に言及されている根拠は 是と関わっているのでしょうか? http://okwave.jp/qa/q5620008.html?rel=innerHtml&p=complete&l=3
お礼
つづいてです。 ○ サンスクリット語は、日本語と同じように、主述よりも題述志向が強いでしょうか? ☆ はい この《題述》というのが 主題提示のことです。つまりハ格やガ格の活躍するその構文の問題です。 古代語では つまり現代では一般に英語を筆頭として線形の意味連絡をそのまま語句に表わす文型を取っている場合でもそれら印欧語族の古代語では この題述志向がありました。あったと言えるようです。 ただし 触れましたように あくまで いわゆる線形文の基礎としての S-V-O 文型をすでに確立し固めて来ている。こう捉えます。 言いかえると 世界の言語は 初源のかたちは いまの日本語および韓国語の構文ではなかったか。こういう問いにもなっています。
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
ファン登録させて頂いた5・9番さんから適切な助言を賜りましたので、 更に追記を続けます。 奈良・平安時代の日本文学では、 主語が変わっているのに、何に変わったのかを明示せず、 作者達の意図の有無に関わらず、 沢山の挿入的な表現が羅列されていますので、 読解の際には、読み手の方々の諒察が必要になっていますね。 従いまして、中心の主題を「類推」して貰おうとしている文体に、 「ハ格」を網羅している、とは見做し難いのではないでしょうか? 因みに、尊敬語・謙譲語の使い方にも奇妙な特徴が有り、 その時代には帝が神格化されていたからかも知れませんが、 源氏物語絵巻等では、作者が、 『自分の「虚構」の登場人物達への「表敬」』を、 其の作品の中へ盛り込んでいます。
お礼
つづいてです。 ★ 5・9番さんから適切な助言を賜りましたので ☆ かまいませんが もしわざわざここに書くのでしたら その中身をしっかりと明らかにするのが 破格から自由な文体であると言えましょう。つまり 質問者への間接的な批判になるようなことを含み得ますので その点は 含み批判で済ますのではなく 堂々と述べるのが 《適切な対話》でありましょう。 ★ ~~~ 主語が変わっているのに、何に変わったのかを明示せず、 作者達の意図の有無に関わらず、 沢山の挿入的な表現が羅列されていますので、 読解の際には、読み手の方々の諒察が必要になっていますね。 ~~~~~~ ☆ ええ 現代人の読者としてのわれわれにとってですね。それだけの話です。当時の読者は 読んで分かったのですから。 ★ 従いまして、中心の主題を「類推」して貰おうとしている文体に、 / 「ハ格」を網羅している、とは見做し難いのではないでしょうか? ☆ もっとも理解にくるしむ叙述です。(1)《「ハ格」を網羅している》とは どういうことですか? (2)そんなことをわたしが言いましたか? (3)初めの《従いまして》が 上に触れたように《従って》いません。 (4) ★《中心の主題を「類推」して貰おうとしている文体》――☆ この捉え方は あいまいです。《類推》などしなくても 作者が初めには明らかにしているか 明らかになるかたちで述べ始めているはずです。(5) 類推が必要な場合には その類推が効くというかたちに よい文体ならば なっているはずです。 ★ ~~~ 源氏物語絵巻等では、作者が、 『自分の「虚構」の登場人物達への「表敬」』を、 其の作品の中へ盛り込んでいます。 ~~~~~~ ☆ 表敬を盛り込みたかったからでしょう。
補足
★★(回答No.8) 矢張りきちんと読んでいらっしゃらないですね。
- kusa-mura
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丁寧にありがとうございます。でも、少し長くて、僕には拾いきれないところもありました。一言でいえば、仏語は幼児言葉だが、日本語は正しい言葉であって、言説レヴェルénonciationが同じではないから比較にならんということですね。うーん。どうでしょう。Je, une anguilleならおっしゃる通りの幼児言葉ですが、Moiに変形していますから、あまり同意できないところです。Pour moiとしないでも、それだけで既に対比になっています。Moi, une anguilleは何を略したかといえば、C’est moi qui prends une anguilleです(ただ強調構文ではくどいので、普通は、Je prendrai~っていいます)。あらかじめ正確な文章が作れた上での省略だから、幼児言葉ではないのです。 ――というと、話はこれで平行線をたどって終わりかもしれません。ただそれでは設問に水を欠けただけで気の毒なので続けてみます。屈折語は石を積むように、単語を積み上げていけます。ラテン語など、一パラグラフが一文でしょう。しかし日本語となると、紫式部みたいなことになります。主語は明示されず、「そこはかとない」情報から、読み手に推測してもらわなければなりません。だから膠着語は感情表現にすぐれている一方、論理には向かぬなどと言われるのです(自動車会社さんの話は、煎じ詰めれば、そういうことじゃないかと思っていますが)。 一息に連綿と考えるには、確かに屈折語の方が便利でしょう。ブツ切りにされると、思考が長く続きません。ただ一文が長ければ、常に正確にものを考えられるというわけでもありません。「は」や「が」を使った思考は何に関して有利なのかを考えると面白いのではないかと思います。 たとえばJe prends une anguille(俺はウナギね)だと、もうここで文が終わることがわかります。関係詞をつなげても、Je ne prends pas une anguille(俺はウナギは要らない)の意味には変形させようがありません。強調構文のC’est moi qui prends une anguilleだと、更に身動き取れません。 ところが日本語の「俺はウナギ」だと「俺はウナギを食う」でも「俺はウナギが嫌いだ」とも、先を続けていけます。決定する単語を後に延ばせるというのは、あれか是かと丁寧にものを考える上で、有利と思えます。たとえば「僕はウナギ……を食べたいんだけれど、お金が無いから迷っていて、でも君が奢ってくれるというから店に入って、悪いなと思うから親子丼にしようと思ったけれど、匂いをかいだらうまそうだから、やっぱり食べることにした」などと続けることはできるわけです。意志決定しないうちに話し始めることができるという意味では、思ったらすぐに口にできるということであって、感情表現にすぐれているでしょう。 逆に英語や仏語は最初に意思決定しないと、話し始められません。ただ一度、意思を決定すると、その理由を説明するのはとても便利です。Je prends une anguille, parce qu’elle est très délicieuse au printemps, et que l’année dernière, je l’ai goûtée au restaurant de Nagoya en ayant eu recommandé par le Président que j’ai rencontré par hasard….etc.(僕はウナギね、だって春にはとってもうまいし、去年、僕は名古屋のレストランで食ったんだよ、そこには偶然にも社長がいてさ、食えって勧めてくれたんだ……)という風に、話を一気に続けていけます。その気になれば、まだ連続させることはできると思います。 上では便宜上訳してみせましたが、日本語で仏語と同じことをやるのはきついと思います。「僕はウナギにするのは、なぜって春にはそれがおいしいからだし、なぜって去年、名古屋のレストランで食べたんだけれど、それというのも偶然会った社長が勧めてくれたからなんだ……」。アクロバットをやってるようなもので、何か苦しいです(もう破綻している気がする)。 やはり西洋語の方が、(1)意思決定した(2)その理由や細部を説明、という順序で説明するのは楽です。ところで一般論として、意思決定後の理由を説明する方が、論理的にものを考えていると思われやすいでしょう。しかしあれこれ考えてから選ぶ人の方も慎重ではあって、思考をうつしこむ鏡として、日本語にはいいところがあると思えるのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 少し長くて、僕には拾いきれないところもありました。一言でいえば、仏語は幼児言葉だが、日本語は正しい言葉であって、言説レヴェル énonciation が同じではないから比較にならんということですね。 ☆ ほんとうにこのように結論されたのでしょうか? 理解に苦しむところです。 ★ 拾いきれないところもありました ☆ なら 仕方無いと考えますが その理由が ★ 少し長くて ☆ であるなら 説明したこちらに責任があるということのようですので いま少し説明しなおしましょう。 いづれにしましても ★ ――というと、話はこれで平行線をたどって終わりかもしれません。 ☆ というようにすでに 推量においては 話が終わっているということの表明もなされていますから あまり気がすすみません。次のように言いかえたわが見解を明らかにすることにつとめます。 ★ ~~~~~~~~~ 仏語〔* の省略文( a-F ): Moi, une anguille. は (あ) 一方でもしすでに線形論理にもとづく文型――( a-F-2 ): Moi, je prends une anguille.――が出来上がっていて その中から一部を取り出して来ただけであるとすれば その場合には 日本文のハ格に相当するような《 Moi, 》という主題提示のほかは やはり線形文型でありつづけると捉える。 (い) 他方で〕は幼児言葉〔* の自己表出に近いかたち〕だが、〔* この点は あとでくわしく説明します〕 日本語は (う) 〔* ハ格としての主題提示が決まりとしてしっかりと確立しており そのじつ 幼児ことばの表出形式にきわめて近いのであるが そのような主題乱発のような形式であってもすでにその主題どうしのあいだで線形論理における意味連絡も 文みづからが相転移を起こせば容易に形づくることができる。むろん相転移と言っても 話し手や聞き手がそういう解釈をするということだ。 という意味で〕正しい言葉〔* ないし言葉遣いのかたち〕であって、 〔ゆえに 和文の(う)としての言語類型は (い)の表出形式でなければどうしても(あ)の線形文型に落ち着かざるを得ない言語類型を持つ仏文とは〕 言説レヴェル énonciation が同じではないから〔* もしくは 単純に言語類型が同じではないから〕 比較にならんということですね。〔* もしくは その祖語が互いに《直訳可能》であるという見方にただちにみちびかれるものではないと言わねばならないでしょうね〕。 ~~~~~~~~~~~ ☆ となります。 §§ (い)の幼児ことばとしての自己表出の形式と 初源の言語における《絶対格》での語句の無造作な表出形式 これらのあいだの異同を明らかにします。 まづ絶対格ないし無格における語句を言い出す形式とは 次のようですと言えましょうか。 ( a-0 ):ぼく・・・たべる(注文)・・・うなぎ ( a-0-F ): moi( je ) ・・・manger ( prendre )・・・anguille どうなんでしょう。赤ちゃんことばは 《うまうま》とか《まんま》とか言う〔だけ〕でしょうか? つまりおそらくこれだけで見た場合にも 自己表出の形式が 《わがまま あるいは わがほしいまま》であることは 共通であろうと見られます。けれども 絶対格による表出に到ると――その語句が 持てる語彙としてゆたかになったかどうかは別として―― 一番の違いは話し手である自己によるその表出語句に対する統括 ここにあるかと見られます。 いやいや統括などといった要素はほとんどないではないかと言われるかも知れません。おそらく その話し手は これらの言葉を聞いている相手との間に それでも落とし込むようにことばを言い出している。赤ちゃんが母親に依存しつつ言い出しているのとは違って来ていると見られるのではないか。 したがって 無格によって(つまり裸のままで)語句を言い出しても相手との関係でその交通が為し得たとするならば これも意志疎通であると考えられます。 (勇み足がありましょうか?) だとしたら ここで和文と仏文との――その言語類型となる特徴をめぐって捉えるところの――違いは つぎにあります。( a-0-F )の絶対格表示は そのままで意味が通じたとしても 《これは文ではない》という見方が 言語習慣上色濃く形作られている。ということ。片や和文の初源的なかたちとしての例示は じつは意味が通じるというだけでなく その上 この( a-0 )のままでも 現代日本語としても 文としてほぼ認められるほどである。ということ。――ここに違いがあると考えます。 だとすれば 線形文型と非線形の構文との異同は はっきりしている。 よって 次の二文の比較対照としては その文の構えとしての基礎(歩み)が違って来ているから 一概に同じ土俵の上で比べることはむつかしい。 ( a ):「僕はウナギだ」 ( a-F ): Moi, une anguille.( Me? An eel. ) こうなります。 ご提案などについては 追って考えます。
補足
★ ただそれでは設問に水を欠けただけで気の毒なので続けてみます。 ☆ 《気の毒》がることはありません。もしほんとうに気の毒に思ったのなら その分だけでよいでしょうから ご自身のその自信について ほんのちょっとはうたがってみることをおすすめします。 ほかに特にめぼしいことはなかったようです。お礼欄でのお応えですべて答え得ています。
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
矢張りきちんと読んでいらっしゃらないですね。 受験用ではないからこそ、「ハ格」の適正が乏しいのです。 たとえ身近にいらっしゃる方々の趨勢が使っていましても、 其の用法が正しい、と見做せる根拠には成りません。 因みに前回の問いへの回答の中で、 二重敬語の一般性に言及されていましたが、 たとえ義務教育課程で学んだ事柄を忘れた御偉方達の使い方がどう成っていましょうとも、 『「従来」の帝』が既に存在していない以上、 二重敬語を使ってはいけない様になっています。 http://www.jimcom.co.jp/manner/greeting/000096.html
お礼
つづいてです。 ★ 二重敬語 ☆ 敬語については わたしはていねい語としてうやまひがある語法でじゅうぶんだという持論でいますが 二重敬語にかんしては たとえば破格としての用法だと捉えればよいはずです。 話し手の気持ちが 最高度にうやまひを言葉においても表わさなければいけないというところまで高まって 考え得る限りでの敬語を用い尽くす。こういった現象です。 その気持ちは おもねるといった要素もあるとすれば あまり感心した話ではありませんが そこにウソはないでしょう。だから 破格としてのようなかたちで現象がつづいているのでしょう。 ★ 二重敬語を使ってはいけない様になっています。 ☆ と言っても 使うものは使うでしょう。 ★ 『「従来」の帝』が既に存在していない以上 ☆ いっさいの社会的な条件にかかわらず 使いたいなら使うものです。通用しないと見なされれば 廃れます。何とか通用していると見られれば それなりに存続します。それだけのことだと考えます。 言葉づかいにも 中枢の管理者などはいませんよ。 ★ 「ハ格」の適正 ☆ にかんしては わたしの説明を読んだとは思えません。読まなくてもかまいませんから ご自分の見解を明らかにして それから批判をするようにしてください。 ★ たとえ身近にいらっしゃる方々の趨勢が使っていましても、 / 其の用法が正しい、と見做せる根拠には成りません。 ☆ いつそんなことを言いましたか?
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
5番の方の御意見の通りに、 外来語でも前後の文脈に応じた省略が可能になっていますし、 周知の通りに、地中海沿岸の国々の言語では、 主語が省略されていましても、動詞の活用形から、 何の主語が省略されているのかが容易に分かりますよね。 従いまして、 「利己的な」解釈への協力を求めていらっしゃらないのでしたら、 「ウナギ構文」を表題に据えますと、 果たして望ましい正解を導かれ得るのか否かが、分かり難いです。 因みに、現代日本語の長文読解を受験生達が行なう際には、 「ハ格」への注目が望ましいだろう、と思われますが、 あくまでも問題文の主題を見出しやすいから、 長文読解の際に「ハ格」を探すのでありまして、 もし長文の中の全文章に「ハ格」が盛り込まれていましたら、 逆に寧ろ読み難くなるだけです。 だから、矢張り「ハ格」よりも寧ろ述語論理に注目なさる方が、 汎用性に富んだ回答が揃うのではないでしょうか?
お礼
つづいてです。 というように まだまだハ格・ガ格のはたらき それらによる構文 これらの特徴が伝わらなかったとあらためて気づいたところです。 追い追い深めてまいりましょう。 S-V-O の線形文型において 論述用言(述語動詞)が 主格語に応じる法活用をもかたちづくっているので 主格語( S )を省いても――たとえばスペイン語で――じゅうぶん通じると言いますか それがふつうである。このことと A‐ハ B‐ガ C‐ナリ / C‐スル。の構文とでは まるっきりその文の構造が違っているという問いです。 後者は 非線形として成り立っている。ゆえにハ格やガ格が そのかたちから別様に相転移を起こしてのごとく 意味連絡としては或る種の仕方で 線形の文型を――あらためて――かたちづくることになる。すなわち 趣旨説明では 文例( b )について――これは非線形のかたちのままですから―― 文例( b-2 )や( b-3 )のごとく 線形の意味連絡を直接表わすかたちに変身するのだという見方を提出しています。 どうかこの論旨をじっくりと捉えていただくよう願います。No.1&2においても 説明いたしました。 ★ だから、矢張り「ハ格」よりも寧ろ述語論理に注目なさる方が、 / 汎用性に富んだ回答が揃うのではないでしょうか? ☆ たとえばどのように? 受験生用の文法を扱っているのではありませんよ。
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
日本語等に論理的な説明が期待されていなかった事情は当たり前の大前提で御座いますので、御存知でいらっしゃらない筈が無い、と考えていましたが、期待し過ぎなのでしょうか? 他の方が「大御所」と呼んでいらっしゃる通りに、 地位が高い方であろうかと思われますので、 当たり前の内容の説明に納得してほしくなかったです。 因みに、反実仮想がディレクトリ型の階層構造を備えていない故に、 『「時制の一致」が必要になっていない』 という事情を理解なさって、前回の質問を締め括られましたか? 他の方の御意見がベストアンサーになっても構いませんが、 最初の質問への直接的な回答が盛り込まれていなかったので、 非常にmottainai、と思いました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84
お礼
ご回答をありがとうございます。 この質問の前身である質問を閉めたのは あなたから 分かったという言葉が出たからです。単純にそれです。 たぶんこの質疑応答では 或る程度読者としての参加者のために一般的な説明をするのがとよいとは思います。たしかにわたくしも 質問者としては回答内容の復唱につとめる程度ですが。 ★ 最初の質問への直接的な回答が盛り込まれていなかったので ☆ では この質問にてあらためて触れてください。わたしとしては 上に述べましたように一区切りが打てたと思ったわけですから。 わたしは たとえばインタムライズムのような思想を その昔から持っていましたので 白目で見られるばかりだったのでして いわゆる負け組です。もろに。
お礼
つづいてです。 ★ 破格 ☆ について 誤解があります。社会一般にとおれば それが正式の文法規則になります。言語のならわしとは そういうものです。 用言の否定法は ナイという補充用言(助動詞)を用います。 これは けれども 状態用言(形容詞)です。形容詞の法活用をおこないます。 行か‐ナイ。 / 行か‐ナケレバ・・・ けれども ナフという動詞の活用をする否定法があり得たのだそうです。ナは無シのナであり フはたとえば取ルから 取ら‐フ(⇒取らえる=捉える・捕らえる)が派生しているように 相互行為の相(意味)(つまり アフ:合う)や継続の相(つまり フ⇒ヘル:経る)を添えるもののようです。 行か‐ナフ:(連体法)行か‐ナフ‐時 /(条件法=已然形) 行か‐ナへバ 行か‐ナイ:行か‐ナイ‐時 / 行か‐ナケレバ このように行か‐ナフというかたちの否定法があり得たのです。むろんあなたのおっしゃる《修破離の修(守)》としての《基本》は この動詞型活用の行か‐ナフのほうにあると見られます。そういうものです。 ですから 次の命題は安易な叙述になります。 ★ ~~~~ 破格を安易に受け入れてしまいますと、 古典の解析の際の誤謬の増加を避け難くなりますので、 たとえ企業の御偉方達が基本(初心)を忘れて、 平気で堕落(「修破離」の離)を押し付けてきましょうとも、 文法の学習の際には、基本に戻っておくべきでしょう。 ~~~~~~~ ☆ 何が初心で何が基本か 分かったものではないのです。 ★ ~~~~ 因みに、大手のコールセンターの多くで、 新人の二重敬語が矯正されなければ、 指導者が罰則を受けたり、その新人達が解雇されたりしていますので、二重敬語の問題は非常に重要なのです。 ~~~~~ ☆ わたしの知ったことではありません。という前提の上で ひとには接しているべきです。あなたはただ強制しているだけです。その口調からしてという意味です。まぁ わたしがここまで寛容すぎたかも知れません。 ★ ~~~~~ だからこそ、容易に加入し得るサイトで、 破格を受け入れた議論を展開する為には、 悪影響を防ぐべく、破格に関しましての大前提を、 先に表明させておく遣り方の採用が、 比較的に望ましいのだろう、と思われます。 ~~~~~~~ ☆ いつから インタネットに管理中枢部が出来たのですか?