慈悲は 経験現実か
わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。
《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2
まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって( 人間S語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの( 普遍A語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。
▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~
〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、
【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、
【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。
したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。
次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は
【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。
【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。
仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。
(一) 衆生縁とは 衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。
☆ (これは =【S語】か?)
(二) 法縁(ほうえん)とは、 すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。
☆ (これは ≒【S語】か?)
(三) 無縁とは 慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。
☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?)
この三縁の慈悲とは、
第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、
第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、
第三は 仏の哀愍の心であると言える。
この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。
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Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。
Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。
Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。