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仏教の「慈悲」について
仏陀はどうやって慈悲というものが大事だと導いたのでしょうか。 彼は認識したものから論理的に答えを導くタイプの人だと思うのですが、いまいち論理の筋道がわかりません。
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仏教の修行の段階は、須陀亘→斯陀含→阿那含→阿羅漢となり、阿羅漢になれば、六道の輪廻から解脱し、死後天界に生まれることが出来ます。 この教えは原始仏教の小乗と呼ばれている修行です。 しかし、阿羅漢でも仏になって仏国土(神の国)に生まれたいと願う者がいます。それを菩薩といいます。 人々に教えを説き人々を苦しみから救うことが菩薩の修行なのです。 つまり、菩薩の修行は慈悲の修行です。 菩薩の修行の教科書は大般若経の六波羅蜜という修行です。この修行は慈悲の修行です。この大般若経は大乗経と呼ばれています。 なぜ慈悲が菩薩の修行かというと、仏国土(神の国)の住人はすべて慈悲(愛)の性質を持っているからです。慈悲を持たない者は神の国には入れないのです。
- sirba
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こんにちは。 釈尊は、積極的に慈悲を説いていません。 しかし、悟りを開いて以来、慈悲の心で教えを説き、 人々を救っています。 慈悲が強調されたのは、大乗仏教になってからです。 成道後の釈尊の行動に倣って、慈悲行を説くようになりました。 おそらく最初に慈悲行を説いたのは、竜樹でしょう。 空の教えは、無分別につながり、 無分別とは、自分と他者との境をとることですので、 無分別のために布施を強調し、慈悲を説いたと思います。 合掌
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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▲(回答No.9) ~~~~ ( a ) この点も含めて、もともとの「慈しみ」の中身というのは、いま現在我々が「慈悲」という言葉に感じるニュアンス、つまり超越者たる仏が衆生に垂れる「慈悲」のように無条件な「思いやり」のようなもの、とは少々質が異なるものですから、注意が必要だと思います。 ( b ) 一口でまとめると、社会性がビルトインされている仏教にとって、修行の過程で自己をととのえ自己を参究した結果として、他人をできるだけ自己と同じように扱おうとする徳目が生まれた、ということになるでしょう。 ~~~~~~~~~~~ ☆ 横やりになりますが: ( a )の前半ないし骨子すなわち《もともとの慈悲の中身》は ▲ 「慈しみ」の具体的な内容はどんなものであったかというと、まず「温和であること」。 ☆ というごとく これは 人間にとってごくふつうのあたたかい心だと考えられます。一般に人びとが共同体として生きているときふつうに持ちうるやさしさや思いやりの心であり それは だったら三縁の慈悲のうち 《衆生縁》の慈悲である。 ( b )は 《法縁》の慈悲である。すなわち 諸法無我なり諸行無常なり何なりのおしえを聞き 法を縁として これを友にも仲間にもあるいはあまり知らない人にも説明するといった慈悲である。 ( a )の後半ないし対照されているほうの慈悲が 何の縁起にもよらず自然(じねん)に起こると言われる無縁の慈悲であるようです。 ▲ 超越者たる仏が衆生に垂れる「慈悲」のように無条件な「思いやり」のようなもの ☆ という規定から受け取れることとしてはです。 この無縁慈悲は 人間がその能力を持たず 努力しても果たすことはむつかしい。はからい無しという自然を心がけても はからわないというはからいが出て来ます。そのはからいをまた打ち消す。といった繰り返しになります。 ところが ブッダの後世において 人びとは仏性――如来蔵――を見い出しました。これは言うなれば ほとけのたましいであり 神の霊であり けっきょくは昔からの梵我一如なるアートマン(むしろ霊)のことだと思われます。 つまりは ゴータマのあれほど――つまり無我=アン-アートマンと言うからには――否定したアートマンが むしろゴータマにも宿っていたと見るところの仏性としてよみがえった。 仏性が後世において説かれたことと 慈悲――それも無縁慈悲――が人びとの思いの中にやがて芽生えた(またはすでに花を咲かせた)こととは ゴータマに対する強烈な批判になっているとわたしは考えます。中身は 互いに相通じるのでしょうし むしろ同じ系譜であると考えられますが。 ブラフマニズムが ブラフマンとアートマンとの一体を言うとき 《存在》についてどこまでも探究するという論理をはたらせていると考えてよいと思います。 この《存在》の究極としての梵我一如なる宇宙霊の系譜として 仏性を捉えたと見られるのではないでしょうか 後世のブディストらは。そうは言わず そうは認めないとしても。 ゴータマさんにおいて それでは 論理あるいは心の思い これらはいかにあったか? (おそらく アン-アートマン(無我)の説においてわたしは けっきょく無神論であったと見ますけれど。 つまりは この無神ないし《無い神》が やはりとどのつまりは 神であり 宇宙霊であるといったことになり のちの《仏性》説を見い出した人たちとも同じひとつの系譜にあると。お粗末でした)。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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やあ。 究極的にからかってやろう。 信じる事とは結ばれる事だ。 神に限らず人と人をも結び得るだろう。 それはともかくアマテラスさんはすでにおれの女だ。 ちょっかいを出したら待望の死地へと案内してやろう。 すなわち他者の信仰の尊厳を汚してはならない。 そして、他者の信仰心を代筆しない礼節を心得よ。 信仰とは一人ひとりにとって、自らの大道である。 生き様とは信じる姿だ。 神に向かう信仰に限った事ではない。 これで判らないと言うなら我にひれ伏せ。 公認家畜人としてサーカスに売り飛ばしてやる。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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やあ。 からかいたくてしょーがないので、もっとありがたい話をしてやろう。 あーらかわいそーねーの説明だ。 救いを求めるな。 回り道だ 。 慈悲を求めるな。 回り道だ。 ただ信仰のみに生きよ。 自らの大道を行け。 慈悲の発露を志すよりも、普通のいたわりを大切にしろ。 自らの信仰に生きられないのなら、それは生きていない証拠だ。 死を恐れ、生きようとせず、屍と化して彷徨うしかない。 そんなさまよう屍が亡者であり、娑婆世界と言う地獄の幻想を抱かせる当事者だ。 地獄すなわち娑婆だよ。 それを苦のあふれる世界であるとお釈迦様は指摘したのだ。 娑婆は現実を指すので抜け出すのではなく改めるのだよ。 生き方を改める事であり、一言で言えば死を潜り抜ける事だ。 だからいっぺん死んでみろと言われるんだが、死を知らぬ君たちはもっと死に向き合う必要があるのだよ。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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やあ。 思いついた事があるので続けて書くよ。 仏陀を志せば即座に仏陀だし、菩薩を志せば即座に菩薩だ。 信仰の正しい道行きはそんなもんだ。 そうはならないと納得しない不満があるとしたら信仰心に問題があるのだ。 煩悩を滅却するのは信仰を正した後でいいよ。 君たちは一般にここを逆さまにとらえて考える傾向がある。 即座に仏陀だと言う事は要するに、信じれば即座に救いがあると言う言い方もできるかもしれないが、これが救ってほしいから信じると考えるだけでもサカサマなのだよ。 そこが正すべき信仰だ。 ありがたいだろ。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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やあ。 A12だよ。 あんた方の一般的な理解力を考慮していなかったので補足するよ。 仰々しく仏陀と言わなくても、普通に生き仏として生きるのはとても簡単な事だと言いたかったのさ。
- MOG56222
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正しい判断には正しい観察が必要です。 そして、慈悲(共感)がなければ、相手の事情を客観的に推し測るという行為(観察)は生まれ難いでしょう。
- hanniyagi
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彼は(釈迦)認識したものから、論理的に答えを導くタイプの人。? それは、知恵とは無縁の?西洋思想、形而上学的思考形態の人ではないでしょうか。 釈迦の考え方は、理法、であり。理法に照らして、認識するのです。 縁起の理法、と伝えられていますが。縁によりて起こる。起きているのが、今、であり。 今、を縁として次ぎの、今、が起こり続ける。答え?は出ない。次を考えて、答えとしても、 その次を考えれば、答えは、逆?になるかも知れないのです。 囲碁や将棋に、3手の読み、と云うのがあります。 自分がこうすると相手はこう応じたら、こう対応する。最善のようだ。と考えます。 しかしそれでは、へぼ碁、ヘボ将棋、下手の考え休むに似たり。なのです。 三手先の盤面を頭の中に描き、それを最初として、更に、3手先を読む、ということを 繰り返すのです。10回、繰り返せば、30手先を見ていることになりまず。 プロは、一目30手、とも云われ、読むだけなら、先手先でも読める。プロが云っていたのをききました。三手先を考えて、最善、正解の答え、などと思う素人が、百人、千人、集まって、相談し、知恵を寄せ集めても。プロに勝てることはありません。 どういう事なのか、考えたのは、 諸行無常。世界も、己も、変化する過程として、今、ある。 今、という認識単位において、考えられる事は、3っしかない。 象さんを見ました、とっても、力持ち、でした。僕は象さんが大好きになりました。 というような幼児の、考え方、が基本のようなもの、であり。 大人になっても、対象、認識、評価、答え、では、人間の知恵、考える事、にはならないのでは。 という事でした。 釈迦の慈悲の心、とは。好き嫌い、とか思う事がなく、善だの悪、だのと評価、答え、をせず。 、慈しみと、悲しみの目で、その先を、見守る。 人が人に対し、不安、怖れ、を感じるのは、相手の中に、自分の心、(逆を含めて)考え方を投影し想定するから。なのではないでしょうか。だから、そういう心が無い、釈迦や老子、が最も、安心、 な、大きな慈愛に満ちた人格と写るのでは。 釈迦の言葉は大体、00を縁として、00が起こる。という表現形式。になっています。 そうなっていないものは、釈迦の言葉、ではない。と言えるかも知れません。 題慈悲の思想は、縁起の理法からは、出て来ない、導けないものです。 慈悲の反対は、憎喜、となるでしょうが。 憎しみの心も、喜びの心も、共に、捨てる。とは、釈迦基本的理念であり。 それを縁として、慈悲の心、が起こる。と釈迦が考えなかった。とも言えない、(考えた事)でしょうが。 思想として、(縁起を省いて)論じているのは、後の大乗仏教のようです。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
全てが苦しみであると言うのが曲者だ。 私は不幸なんですと他者から打ち明けられれば「あーらかわいそーねー」と言いたくなるのが社交辞令です。 そんな上っ面の体裁が慈悲であり、お釈迦様の処世術です。 何故なら仏陀は一切が苦であるはずの娑婆において、自分ばっかりは幸福のさなかに生涯をすごした。 生きながらに仏であれば娑婆は極楽です。 生きる事は苦ではない。 ところが2500年前のインドは、苦しみをもたらす抑圧者がいたので、そこから生きる事に幸せを見出す者は稀有であった。 そこで、「私ばっかりは幸せよーん」と言いだす変わり者が仏陀です。 仏陀として生きる処世術が、同じ境遇にいながらも苦しみを感じる不平不満に満ちた家畜人、(確かに当時は隷属的だっただろうね、)に対する救いようもなくなすすべもない憐れみが慈悲です。 どんな境遇であろうとも、幸せを感じるのは当人の心です。 どんなに貧乏でも幸せそうな人はいるじゃないですか。 心が悟ったと言い切るほど完全なレベルで清らかな貧乏人が仏陀です。 その点が現代でも通用する共通項です。 ちなみに私はその仏陀です。 現代でも通用するので現代にも仏陀は存在します。
補足
どんな病気を持たれているのかわかりませんが、真剣に自分の回答が読まれて、自分が対等に扱われていると思わないほうがよいと思いますよ。