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日本で○が良になった由来は?
海外(アメリカ?)のテストを見てみますと、正解した問題にはペケがついています。 対して、日本では○が同じ意味で使われています。 この違いはどこで生まれたのでしょうか?タイトルの通り、日本でそうなったきっかけ、由来が特に知りたいです。
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WEBサイト「閾(ヰキ)ペディアことのは 極私的百科」の「○△×の歴史」項目に 興味深い記述があります。 http://www.kotono8.com/wiki/%E2%97%8B%E2%96%B3%C3%97%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 なお、蛇足ですが、上記「○△×の歴史」に基づいて ○×印などの日本事情を時系列で一部検証を試みました^^ ◇ 削除を示す×印 現代風の小さな×印につながった経緯は明らかでないものの、 間違いを消すための×印は遅くとも江戸時代から使われていたと考えられ、 注釈部分を大胆に墨で罰点を付けたり貼り紙をしたりして、 自説を欄外などに墨や朱で書き込んでいる『源氏物語湖月抄<宝暦八(1758)年以前>』があり、 詳細は下記URLのとおりですが「小画面」から辿った方が頁毎の全体像が見易いと思います。 http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y05/html/569/index.html ◇ 適塾の△○●の印 △印のその後の降格の経緯は定かではありませんが、 当時大坂の「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた蘭学者・緒方洪庵の適塾(適々斎塾)で 安政二(1855)年から学ぶこととなって、安政四(1857)年には適塾の塾頭となった福沢諭吉は、 ここでの勉強法について『福翁自伝』で次のように述懐しています。 「…其中で解(げ)し得(え)た者は白玉(しろたま)、解(げ)し傷(そこな)うた者は黒玉(くろだま)、 夫れから自分(じぶん)の讀(よ)む領分(りやうぶん)を一寸(ちよつと)でも滞(とゞこほ)りなく 立派(りつぱ)に讀(よ)んで了(しま)つたと云ふ者は白(しろ)い三角(さんかく)を付ける、 是れは只の丸玉(まるだま)の三倍(さんばい)ぐらゐ優等(ゆうとう)な印(しるし)で、 凡(およ)そ塾中の等級(とうきふ)は七、八級位(きふぐらゐ)に分(わ)けてあつた而(さふ)して…」 詳細は下記URLのとおりです。 『福翁自伝/福沢諭吉述、矢野由次郎記/時事新報社/明32.6』「緒方の塾風」(134頁)<74/289> http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781921/74 ◇ 相撲の白星・黒星 「視覚色彩心理診断受付センター>黒色の雑学>~役に立たない~「黒色」の話」によれば、 「明治31年、東京日日新聞が、現在の星取表に近い成績表を、新聞紙面に記載を始めた。 この時、勝者に○、敗者に●を記号として記したのが始まりです。 この日を境に●は日陰のごとく転落した? 白星・黒星と言う呼び方が登場したのは、 昭和14年、東京日日新聞の見出しに初めて黒星と言う言葉が登場する。」とあり、 詳細は下記のとおりのようです。 http://sunde.jp/kuro100mo.html ◇ 競馬の◎○▲△ 河出書房新社『競馬新聞の楽しい読み方―予想オッズは誰がどう算出しているか? (KAWADE夢文庫)』には 「本命などの言葉に代わり、◎○▲△の印が使われるようになったのは、 昭和六年のことだったという。出走馬が、開催前夜に発表されるようになってからである。」 と記されているそうです。(『閾(ヰキ)ペディアことのは 極私的百科/○△×の歴史』) 明確な由来は定かではありませんが、 「丸や円には完全で欠けたところのないこと」を表す言葉の素地もあり、 上記などからは遅くとも明治期には○印を良しとする気風が芽生えていた様子が伺えます。
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- tanuki4u
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http://longtailworld.blogspot.com/2010/08/meaning-of-tick-check-marks-crosses.html 由来はわからないが、色々書いてある。 日韓で ○だが 中国ではそうじゃないみたいなので、戦前の日本の教育制度に関係あるような感じですね。 あと、アメリカでは先生単位でバラバラのようです。
お礼
回答ありがとうございます。 アメリカでは先生によってバラバラなのは、面白いことだと思います。 アメリカでは○と×についてさほど違いは感じていないのでしょうかね。
お礼
詳しい回答ありがとうございます。 わかりやすい説明とソースで、なるほどよく納得できたようです。日本が○と×に感じていたことの一部を知ることができました。 明治後半~大正期あたりの学校の成績評価ですでに概念ができあがっていたことだけでも嬉しい知識です。 しかしさらに増えた疑問もあります。白黒の優劣の変化です。 あなたの教えてくれたURLの4つ目によると、相撲の星取表において、勝ちを江戸期では黒丸で表していたのに、明治31年東京日日新聞では白丸で、黒は却って負けに使われています。江戸期で使われていた黒丸がただの印代わりだったことはわかります、しかし東京日日で黒を否定的な意味で使っている理由はわかりません。紅白(源平?)に関係があるのでしょうか?原始の日本人は紅白黒しか色の概念がなかったと聞いたことがありますが、それにも関わることでしょうか? また質問を投稿するかもしれません。 P.S 個人的にペケが関西語だったことは驚きです。自分は兵庫の生まれで、皆普通につかっていたので気づきませんでした。