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洗礼を受けないと天国に行けないのでしょうか?

キリスト教では洗礼を受けていない人は天国に行けないと考えますか? ふと、疑問に思ったので質問です。キリスト教では洗礼を受けていない人間は天国に行けないと考えているのでしょうか? よろしくお願いします。

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  • riehana
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回答No.19

こんにちは* 天国に行けるかどうかの基準。難しい問ですよね。 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを得るためである。』(ヨハネの福音書3章16節) ひとり子=イエス様 永遠の命=天の国に入ること です。 ここには『信じる者』が永遠のいのちを持つと書かれています。 洗礼を受けるかどうかではなく(本当に信じていなくても、洗礼は受けられますもんね・・・) 『信じる』かどうか。 つまり自分の意思でイエス様を信じる事を選び、イエス様と共に生きるということだと思います。 よく『クリスチャンはイエス様の花嫁』などと表現されますが、 洗礼=披露宴 イエス様を信じる(受け入れる)=婚姻届の提出 に近いのではないでしょうか? 披露宴をあげても夫婦にはなりませんよね? 婚姻届を出して、初めて夫婦と認められます。 ただし、夫婦(クリスチャン)でい続けるには、一瞬だけイエス様を信じるのではなく、 信じ続けるということが何よりも大切です** 洗礼を受ける受けないが基準ではなく、信じるか信じないかの一点のみです。 神様は、信じない人を救わないのではなく、私たち一人一人に選ぶ権利(選択)を与えてくださったのだと思います。 イエス様は全ての方の心のドアをコンコンっと叩いています。 イエス様側のドアにはドアノブはありません。 私達の側にしかドアノブはないんです。 もちろん、無理やりドアを蹴破ることもできます。 しかし、イエス様はそうはされません。 私達がドアを開け、共にお茶を飲みながら、顔と顔を合わせて話をするその日を ドアの外でいつまでも待っていて下さいます。 誰かを救って、誰かを救わないのではありません。 全ての方を救いたいのです。 全ての方のドアを叩いているのです。 その選択肢は私達の手にゆだねられている。 ただそれだけです。 無理強いすることなく、愛を強制しないこともイエス様の愛ゆえです。 自分にはドアはない。 イエス様は自分のドアは素通りしていると思われる方もいるかもしれません。 そんな時は、イエス様に聞いてみて下さい。 居るか居ないか分からない人に向かって質問することは、本当に馬鹿げて見えるかもしれませんが、家族や友達に言う必要はありません。 寝る前や、お風呂の中でそっと、「イエス様。あなたは本当に居るのですか?私のドアも叩いているのですか?」と小声でいいので(難しければ心の中で)聞いてみて下さい。 あなたのその小さな祈りを、一言も漏らさず、全て聞いていてくださいます。 hallelujah

noname#142902
質問者

お礼

こんにちは。 確かに信じていなくても信じた『フリ』をして洗礼は受けられますね……。『クリスチャンはイエス様の花嫁』というのは言いえて妙と感じました。洗礼が披露宴でイエス様を受け入れるのが婚姻届の提出。このたとえは素晴らしいです。これですんなりと納得できました。 そしてイエス様を信じ続けるのが非常に難しいと感じています。信仰は脆いので、離れてしまいがちです。愛を強制しない愛、いい響きです。 駆け足のお礼でしたが、本当に素晴らしい回答でした。ありがとうございました。

その他の回答 (18)

回答No.18

 では  幼児洗礼  これを何故おこなうのか? 多くの宗派で秘蹟(サクラメント)としておこなっていますから その説明が必要になると思います。信仰を宣誓するための水による洗礼という定義であればです。

noname#142902
質問者

お礼

確かに、幼児洗礼の必要性は感じない気もします。幼児洗礼では本人の明確な信仰心の有無が分からないと感じます。 信仰を宣誓する為の洗礼が水による洗礼か否かというのも結局、私には分かりません。キリスト教は色々と難しいです。

  • kigurumi
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回答No.17

>途上国などでは国民番号制度やICチップなどの管理は非常に難しそうだと感じています。 哲学ですよね。 キリスト教の考えは、プラトン哲学。 だから別名プラトン教とも呼ばれている。 が、パウロ教とも呼ばれている。 ローマ・カトリックの図書館に残っていた文章の中に、「二枚舌のパウロ、神に背信したパウロ」と書かれている文章があったそうです。 彼はヘロディアン。 ヘロデ一族の関係者で、支配者層の人。 ヘロデ大王の父か祖父は、ローマが窮地にたったとき、イスラエル兵を派兵してローマを助けたことで、ヘロデ大王はユデアにおいて王位をローマからもらったんです。 ヘロデ大王の政治はローマと友好関係を築くことだった。 ちなみにヘロデ大王はイスラエル人ではない。(レンズ豆でヤコブが兄のエサウから長子権を奪ったので、ヤコブ、後にイスラエルの子孫がイスラエル人。エサウの子孫はイスラエル人ではない。 そのエサウの子孫がヘロデ大王で、本来なら自分たちが王位を継承できたのに、ヤコブが奪ったので継承できず、ヘロデ大王はついにやコブの子孫から長子権ならぬ王位を奪い返したってわけです。) で、祭祀たちもローマと仲良くしたかったので、自由にユダヤ教をやれる見返りとして、高額の税金をローマに納めていたわけです。 日本もアメリカ政府にガード代としてお金を払っているし、アメリカの基地を各地に置かせていますよね。 ユダヤ教は国民から10分の一税をとっていたわけです。 そういうことをすることをローマ帝国は許した。 祭司たちは集めた税金を到聖所に貯蔵していた。 それをローマ皇帝にあげるからとローマから派遣された提督が奪ったことで、ユダヤ人はついにキレてローマとのユダヤ戦争が勃発したわけです。 そのとき、ユデアの代表でローマとのコネクション役だったパウロにローマ政府は打診したんです。 パウロは抑えきれないので、許可 って返答をした。 その許可を受けてローマ帝国は各地にいた軍隊をユデアに集結させ、一気に攻撃をし、阿鼻叫喚となったわけです。 何故 パウロはローマにイスラエル人を殺させたのか。 彼は2年間空白のときがあった。恐らくですが、エルサレム教会で修行をしていたと思える。 ところが、パウロは自分の考えからして、十戒は納得できず、ほとんどを否定してしまったんです。 エルサレム教会は神に背信したパウロを追放。 そのときの悔しさがパウロが書いた書簡に書かれています。 自分を追放したエルサレム教会のヤコブを亡き者にしようと、神殿の階段から突き落としたが、両足骨折で命は奪えなかったので、今度は大祭司を使い、ヤコブを神に背信したものだとして処刑させた。 それでもまだ恨みつらみは残っていたらしく、自分に服従しないユダヤ教に対し(市民を押さえきれなかった)、もうどうにもならないから暴力でおさえつけろ となり、ローマ帝国によって神殿を破壊させた。 熱狂的な支持を受けていたヤコブを殺したので、市民から恨まれていたパウロは、たくさんのローマ兵の護衛をつけて、ユデアから逃げて、外の地域でマイ宗教をイエスの言ったことだとして布教してまわった。 そしてとうとう 作ったのが パウロ教ならぬ キリスト教。 ギリシャ哲学のプラトンの考えをヘロデアン(ローマ文化に親密)であるプラトンは継承して、人々を支配する方法を宗教によって確立したわけです。 プラトンの考えは、「ごくごく一部の人のみイデア界を知ることができる、その人たちの言うことさえ聞いていれば、まったく罪をおかすことが無い、だからただひたすら上のその人たち(祭祀たち)の言うとおりに庶民はしていればいい」なんです。 だからキリスト教は図書館を閉鎖し、聖書だけ読んでいればいい、私たちの言うことに従ってさえいればいい ってなったんです。 ライラの冒険 黄金の羅針盤では、キリスト教会が猛烈に反発しボイコットしたので2ができなくなった。 登場する教権がキリスト教であり、それに盲目とされた人々の目を開くのがライラだとして描かれているとして、キリスト教に敵対する映画だとして、ボイコットをして、ソクラテスのような映画を押さえつけたわけです。 恐ろしいでしょぉ。。。。 ソクラテスも若者をたぶらかして神に背信させようとしたという罪で処刑されました。

noname#142902
質問者

お礼

そう言われてみれば天国と言う思想自体がイデア論と共通する部分が多いです。また、宗教は民衆を操る手段としては最高と言えます。過去を振り返ると、キリスト教やイスラム教も相当悪いことをしてきましたし、日本でも僧侶達はかなり美味しい思いをして生きてきました。ソクラテスの話は知っています。色々と学んで、この世と言うのは善人が迫害されて、悪人が優遇されていると感じます。 何回も回答ありがとうございます。毎回毎回とても勉強になります。表の知識だけでなく、人々が教えない裏の知識が本当に役立ちます。

noname#202494
noname#202494
回答No.16

質問は、キリスト教における洗礼の意味を問うているんでしょうか。もしそうであるとするならば、 新教においては、洗礼は広く世界に、”私はイエスの言葉を信じ、彼の教えに従います”という宣誓するという意味があり、信者にとっては重要な事象ですが、それ以上でも、それ以下でもありません。 大変に簡単かつ明確なものなのです。 洗礼を受けていないと天国にいけないのでしょうかとの問いに対しては、正直なところ”死んで見ないとわからない”、としか言えないのではないでしょうか。

noname#142902
質問者

お礼

洗礼とは世界に対しての信仰の宣誓、ということですね。洗礼と天国との関係は仰るとおり、死んでみないと分かりませんね。

回答No.15

 No.14を承けます。  ★(No.14お礼欄) 逆に洗礼を受けないと天国へ行けないという記述もあるのですか……。  ☆ たしかに 次の聖句は 《神の国》と言っています。  (B-1)ヨハネ3:5 イエスは答えた。《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ ≫神の国≪ に入ることはできない。》   ≫神の国≪:  βασιλεία   τοῦ   θεοῦ ( he basileia tou theou );          kingdom of heaven  あるいはまた 次の場合には 《楽園》です。  ・ルカ23:43 あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる   ≫楽園≪: παράδεισος (paradeisos); paradise  ちなみにマタイには マタイに限って《天の国》という表現が出て来ます。多くの例がありますが:  ・マタイ3:2 (洗礼者ヨハネの言葉) 天の国は近づいた   ≫天の国≪ ἡ   βασιλεία   τῶν   οὐρανῶν ( he basileia toon ouranoon );         kingdom of heaven  ☆ これら《神の国 / 天の国 / 楽園》は 同じことを言っていると思われます。別の場所(?)だったら おかしなことになります。  なぜ水による洗礼が 導入されたのか?  旧約の時代には 信仰のしるしとしてアブラハムに割礼がほどこされるにようになりました。それ以来 ユダヤ人はみなそうしています。でも 新約に到って 異邦人にも福音が伝えられると ペテロも容認したようにこの割礼はあってもなくてもよいことになります。  そう考えると 洗礼も なくなってもよいのではないかと勝手に考えています。  それによると イエスは 洗礼者ヨハネに義理立てしたのではないか。  つまりあるいは 割礼に代わる儀礼をしばしの間――その過渡期において混乱のないようにと――洗礼つまりこの場合は水による洗礼を 用いることにした。こうではないか。  むろん 水による洗礼の場合にも あくまで聖霊による洗礼が重要なのだと思われます。  ただし 一度儀式に使われたなら それだけのコトとして受け留められたものと思われます。じっさい サクラメント(秘蹟)として 水による洗礼が捉えられた。つまりは 理由や根拠はない。しかも 秘蹟としてそれによるのだと。  わたしは 水による洗礼は 要らないと考えます。

noname#142902
質問者

お礼

要らない、とまでお考えですか。意外な意見が出てきて驚いています。確かに聖書に割礼という言葉はたいぶ出てきました。割礼と言う儀式が新訳にでは水による洗礼へと変化したのは興味深いと思います。何度も有難うございます。

回答No.14

 いえいえ 聖句はあります。  A: 聖霊による洗礼と思われるもの  B: 特に水による洗礼を言っていると思われるもの  (A-1)ヨハネ福音1:13  この人びと(《ことばを受け入れた人・その名を信じる人びと(1:12)》)は 血によってではなく 肉の意志によってではなく 人間の意志によってでもなく 神によって生まれたのである。  (A-2)ローマ書10:9-10  口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです。  (B-1)ヨハネ3:5  イエスは答えた。《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない。》  (B-2)マタイ28:19  《・・・ あなたがたは行って すべての民をわたしの弟子にしなさい。かれらに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。・・・》  (B-3)使徒行伝2:38-39  すると ペトロはかれらに言った。《悔い改めなさい。めいめい イエス・キリストの名によって洗礼を受け 罪を赦していただきなさい。そうすれば 賜物として聖霊を受けます。・・・》  (A-3)使徒行伝8:16    〔サマリアの〕人びとは主イエスの名によって洗礼を受けていただけで 聖霊はまだだれの上にも降っていなかったからである。  (B-4)使徒行伝22:16  〔アナニアからサウロ=パウロへ〕《・・・今 何をためらっているのです。立ち上がりなさい。そのかたの名を唱え 洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。》  (A-4) コリント前書1:17   なぜなら キリストがわたしを遣わされたのは 洗礼を授けるためではなく 福音を告げ知らせるためであり しかも キリストの十字架がむなしいものになってしまわないように 言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。  (A-5)ヨハネ3:22-4:2   イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って そこに一緒に滞在し 洗礼を授けておられた。・・・洗礼を授けていたのは イエスご自身ではなく 弟子たちである・・・  (A-6)使徒行伝1:5   (復活のイエスの語るには)《・・・ヨハネは水で洗礼を授けたが あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。》  (A-7)ルカ3:16   〔洗礼者ヨハネの語るには〕《わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが わたしよりも優れた方が来られる。・・・その方は 聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。・・・》  (B-5)ローマ書6:3   それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆 またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。  (B-6)ロ―マ書6:4   わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ その死にあずかるものとなりました。それは キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように わたしたちも新しい命に生きるためなのです。  (B-7)エペソ書5:25-27  ・・・キリストは教会を清められる。・・・ことばを伴った水の洗いによって。・・・水が欠けても ことばが欠けても それは洗礼ではない。

noname#142902
質問者

お礼

逆に洗礼を受けないと天国へ行けないという記述もあるのですか……。洗礼は聖霊によるものであり、イエス様の弟子自体が洗礼をしていたということに驚きました。ありがとうございました。

  • cincinnati
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回答No.13

プロテスタントのクリスチャンの間では聖書が述べているか否かということがすべての根拠になりますので、そのような記載はないはずですので、洗礼を受けていなくても天国に行けます。 もっと正確に言えば、キリストを知っているならばあなたはすでに生きながら天国にいるように思われることでしょう。ただしここで「知っている」という意味を考えてみる必要がありそうです。もし現在あなたが見ているコンピュータの画面にカウントダウンする数字が現れて、10秒後にコンピュータが爆発することが判明したらどうするでしょうか。 1)爆発すると「知って」コンピュータを表に放り投げますか。あるいは自分で外に飛び出しますか。 2)画面に数字が現れて、10秒後に爆発するとの表示が出ても本当に爆発するとは「思わない」でそのまま作業を続けますか。 上の質問に1)と答えた人が、同様にイエスキリストを「知ると」即座に人生が変わり、行動に起こします。2)と答えた方は爆発するとは「信じなかった」わけですから、おなじような「知り方」でイエスキリストを知ってもなんの変化もないと思います。 つまりあなたがイエスキリストを知れば、洗礼の有無に関わらず天国にゆくことができるということになります。洗礼を受けたけれどもイエスキリストを知らなければ天国に行けない2)のような方も多くおられると思います。 神様は無礼な方ではないので、あなたの首をひねりながら私を信じなければ首をひねるぞというお方ではございません。あなたが知ろうとすることを尊重されます。知りたくないのであればそれも由とせざるをえないのが神様お立場です。 話がそれましたが、洗礼はあくまでも象徴であり、儀式ですので、直接的にも間接的にもあなたの救いとは全く関係ございません。

noname#142902
質問者

お礼

そういえば聖書には洗礼を受けないと天国に行けないとの旨は書いてありませんでした。言われてみて気付きました。洗礼は象徴、救いとは関係ない。ありがとうございました。覚えておきます。

  • kigurumi
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回答No.12

他の回答を今読んで、あっ 笑 って気づいた。 洗礼は洗礼者ヨハネがやっていたもので、イエスがやっていたとは書いてない。 イエスも洗礼を受けた側となっている。 イエスが弟子の足を洗う場面がありますが、あれは洗礼じゃあない。 日本語でも ヤクザから足を洗う という慣用句?がありますよね。 悪いことをやめる って意味として聖書でも使われている。 足は地面に近いので 汚れやすいわけです。 一番汚い部分と考えられ、その汚れを取ることで、精神的な穢れも取る、行いを正す みたいな意味ですね。 で、インドは沐浴のメッカですが、沐浴をして体についた菌を洗い流す他に 精神面も清める役割を古代からしていたと思えます。 その一派がパレスチナ地方に移り住み、大工と呼ばれていた。 思想を建築するので大工。 そのマネをしたのが、、、、、えっとぉ エッセネと呼ばれる人たち。 さらに クムランってユダヤ教の原理主義的な派閥ができあがってきて、沐浴をさかんに推奨した。 悪いことを考えただけでも、沐浴をしなければならないという規律があった。 他にも「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」などの教えがあった。 侮辱するものの相手をするな って意味であって 無抵抗とは意味合いが違う。 そしてその教団は 二人のメシアの出現を予言していた。 単純に考えれば、イエスと洗礼者ヨハネ。 ただ、私は二人とも実在の人物じゃあないと思うし、クムランの書物にも現れたとはかかれていない。 クムラン 地震で壊滅的な打撃をこうむって 今は存在していないが、そこから旧約聖書のほとんどの写本がでてきた。 死海文書と呼ばれるものです。 そこにはイエスのことも、洗礼者ヨハネのことも 書かれていない。 彼らにとって 天の国とは 上層階級の12人のことだった。 この上位12人に入るのが難しい。 それを「らくだが針の穴を通るより難しい」と表現されていた。 らくだとは、宗教学校の卒業真近のランクのこと。 学校を卒業したら、実践で聖職者になり、のぼっていって、上位12人のランクに選ばれたら、天の国に入った となっていた。 ユダヤ教の宗教の階級ランクで、そういうシステムだったんです。 なーんだぁぁぁ って謎 解けました? 天にあるのではなくて、ユダヤ教の祭祀のランクのトップ12人で構成されてるものが、天の国。 今は無理、だってエルサレム神殿が崩壊したので、神殿が無い以上祭祀がいない状態。 だから、エルサレム神殿を再建しない限り、祭祀の仕事は無く、機能しないので、天の国を構成する12人のグループは構成できない。

noname#142902
質問者

お礼

足が一番汚れやすいから『足を洗う』。教えてもらって気付きました。だから『足を洗う』のですね。イエスは大工として働いていたと書かれていた本(聖おにいさんという漫画)がありました。確かに大工は思想を建築するので大工と言えます。金持ちが天国に行くのが難しい、というのはそういうことだったのですか。また、謎が解けました。 以前に紹介してもらった動画、長かったですが、全部観ました。ついでに英語のリスニングの勉強にもなりました。ありがとうございました。ヨハネの黙示録にあるように、本当に統一政府が出来て個々人にICなどが配られて完全に監視される時代が来るのか心配になってきました。今でも既に実現が近付きつつありますが、途上国などでは国民番号制度やICチップなどの管理は非常に難しそうだと感じています。

回答No.11

 別回答です。  ▲ (ルカによる福音書23:39-43)~~~~  ・・・十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。    「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」  すると、もう一人の方がたしなめた。    「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。    我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。    しかし、この方は何も悪いことをしていない。」  そして、    「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い    出してください」  と言った。   するとイエスは、    「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」  と言われた。  ~~~~~~~~~~~~~  《楽園》と《天国》とは同じだとすれば この犯罪人は おそらく水による洗礼を受けることはできず そのまま息を引き取ったでしょうから 聖霊による洗礼のみを受けたのではないかと考えられます。どうでしょう?

noname#142902
質問者

お礼

確かにその犯罪者は洗礼を受けられませんでした。しかし聖霊によって洗礼を受け取ったと言えます。と、なると聖霊による洗礼が一番大事なのかもしれません。

  • kigurumi
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回答No.10

私は漫画も読みますが、文献も読むんですね。 理論で説明してある論文を読めないと、主張しているものがわからない。 それで1000ページ上段 下段にみっちり小さい文字で書かれてあるものも読むのですが、さすがに興味が無いものは、読めないです。 で、私は知らないことがあると、知りたいと強く思うので、ぶあつい辞書みたいな本も読んでしまうんです。 一言では説明できないので、ぶあつい本になるわけです。 それを全部読まないと理解できないものが、私が知りたいと思うものなわけだから、知りたいという欲求があるので、読んでも疲れないばかりか、ぐいぐい 引き込まれていく。 「なーるほど そうか」とわかったところで、質問があると、「えっと 確か・・・ あーたら こーたらで・・・」と思い出しながら回答しているんです。 なんとか相手に理解してもらおうとするので、長文になる。 興味が無い人は うんざりすると思う。 だけど、「知りたい」という欲求が強ければ、解説を読めるはずです。 「結局 yesかnoか どっちなんだよ どっちかって質問だから どっちがだけで答えろ」と質問者に言われたことがある。 「ん? 私の文を読めば、質問そのものが間違えているとわかるから、yesでもnoでもないとわかるはず、、、回答を読んでないしーー」って思う。 せっかくのチャンスなのに、結論だけ求めるわけで、結局 理解しないまま 間違えたことをずーーーっと思っているわけで、読まないから、その後も 勘違いのまますごして「わからない」となり、同じ質問を繰り返し続けるしかない。 まあ、結局 質問者が 「 知りたい 」という強い欲求が無いから、ずっと「わからない」で今まできたわけで、その後も「わからない」のまますごすことになり、回答したものがまったく無駄になってしまうわけですが、「まー いいかー 書くことで私のおつむの中の知識も整理されていくから」って思います。 洗礼は 人間が編み出した通過儀礼の一種だと わかっていただけたら幸いです。 気持ちの問題だとわかっていただけたら幸いです。 洗礼をやったところで、持って生まれた人格は変わることはありません。 ただ、表向きのふるまいを変化させることは可能になります。 お祓いってありますよね。 プラシーボ効果が関係する。 「悪い霊は除霊したので、もう消えました。」と言われた人が、健康を取り戻すことがある。 プラシーボ効果で、実際医療でプラセボというものがある。 気持ちの持ちようで身体機能が低下してしまう人に、「この薬を飲めば落ち着く」とビタミン剤を薬だといって与えると、不思議なことに血圧が落ち着き、心拍数も正常値にしゅーっとなる。 プラシーボ効果なわけで「楽になりました よく効く薬です」と言う。 頭痛もそう。 緊張が原因で頭痛を頻繁に起こす人には、プラセボを与えると、頭痛が消えてしまうことがある。 このようにプラシーボ効果を洗礼は利用していると思える。 「過去の悪い行いはすべて消えた」と言われたら、安心するでしょ? 緊張がほどければ、結構がよくなり、息苦しさも消えるでしょ? ガラっと体調がよくなり、体が軽く感じるでしょ? プラシーボ効果。 だから、病的なほどの人には 結構この洗礼は効果があるかも。 プラシーボ効果により、生まれ変わったと、心を軽くする人もいると思う。 そういう意味では まあ あってもいいとは思う。 そうやって プラセボが必要な人も確かにいる。 だけど、要らない人もいる。 プラセボは無害なので、精神的なもので体が不調にならない人が飲んでもどうってことないのですが、「この水を飲まないと毒が体にまわる」的な売り込みはいただけないですね。 害あって一利なしですから。

noname#142902
質問者

お礼

仰るとおり、単刀直入に『回答』という手もあります。しかし1つの理論を導き出すのに回り道が必要です。そういう意味で答えだけでなく他の事柄まで書いていただいて嬉しいです。 洗礼はむしろプラシーボ効果という意味で大事なのかもしれませんね。そういう意味で納得しました。

回答No.9

 こんにちは。  旧約聖書に述べられた時代 アブラハムやモーセは 水による洗礼は受けていません。  ということをお考えになってみては いかがでしょうか。

noname#142902
質問者

お礼

こんにちは。 仰るとおりです。盲点でした。ありがとうございました。

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