• 締切済み

また忠臣蔵関係の質問です

1.「南部坂雪の別れ」は芝居だけだと聞きましたが、南部坂の屋敷には瑤泉院は住んでいなかったのでしょうか。 2.吉良上野介が呉服橋から本所に引っ越した引っ越し先は、前にどんな人が住んでいたのでしょうか。ある本では近藤登之助と書かれているし、別の本には松平登之助と書かれていました。  同一人物なのでしょうか。  もし近藤登之助と松平登之助が別人だとしたら、二つの説はどんなところからでたのでしょうか。 3.討ち入り事件のとき、本所吉良邸の隣の屋敷ではちょうちんを出したといわれていますが、どんな人の屋敷だったのでしょうか。

みんなの回答

回答No.2

 2は、前にも同じような質問がありましたよ。 1.「南部坂雪の別れ」は芝居だけだと聞きましたが、南部坂の屋敷には瑤泉院は住んでいなかったのでしょうか。  東京赤坂の氷川神社のそばに、「南部坂」と呼ばれる急な坂道があります。  討入の前日、大石内蔵助は雪降るなか南部坂の屋敷に住む瑶泉院を訪れ、それとなく別れを告げた。  これが、「南部坂雪の別れ」ですが。。。  今ある氷川神社は八代将軍吉宗が建てたもので、江戸時代初期には、南部家の中屋敷はありました。そこで「南部坂の屋敷」といったのですが、明暦二年(一六五六年)、刃傷事件の浅野内匠頭の祖父の時代に、浅野家の麻布の下屋敷(広尾の有栖川公園があるところ)と相対替(等価交換)しました。    そこで、明暦二年まで南部屋敷があったところ(浅野屋敷となる)と、明暦二年以降に南部屋敷となった(旧浅野屋敷)ところの二か所に、今も「南部坂」があります。  「南部坂雪の別れ」の屋敷は、明暦二年に南部家と交換してできた浅野家の赤坂下屋敷です。この屋敷は、刃傷事件後まもなく公儀(幕府)に返上しているから、浅野家の者は立ち入ることさえできません。だから、大石が赤坂の南部坂に行っても無駄足になっただけ。  刃傷事件後に瑶泉院が入ったのは、同じ赤坂でも実家の三次浅野家の屋敷です。  2.吉良上野介が呉服橋から本所に引っ越した引っ越し先は、前にどんな人が住んでいたのでしょうか。ある本では近藤登之助と書かれているし、別の本には松平登之助と書かれていました。  同一人物なのでしょうか。  もし近藤登之助と松平登之助が別人だとしたら、二つの説はどんなところからでたのでしょうか。  忠臣蔵本のなかには、「松平(近藤)登之助」と、まるで松平の名誉姓を賜った近藤氏のように書いているものもありますが、本所吉良屋敷の前住人は、江戸時代初期の切れもの老中で「知恵伊豆」の異名があった松平伊豆守の孫で、事件当時はは将軍御小姓で五千石の旗本でした。彼は、元禄十五年十二月三日(1703年1月19日)、討入事件のほんの少し前に、従五位下・駿河守に叙任しているので、吉良上野介が本所に引っ越した時点では、松平登之助。討入事件の時に立っていえば松平駿河守ということになります。  ちなみに、松平駿河守(登之助)には十歳ほど年長の従兄で松平右京大夫という人がいました。この人も知恵伊豆の孫で、討入事件当時は松平(柳沢)美濃守(吉保)とともに、御側用人として公儀の政に深く関わっていました。 3.討ち入り事件のとき、本所吉良邸の隣の屋敷ではちょうちんを出したといわれていますが、どんな人の屋敷だったのでしょうか。  時間がないので、またあとで。

  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (678/1421)
回答No.1

>1.「南部坂雪の別れ」は芝居だけだと聞きましたが、南部坂の屋敷には瑤泉院は住んでいなかったのでしょうか。  赤坂にある実家の三次浅野家下屋敷に引き取られていった。 >2.吉良上野介が呉服橋から本所に引っ越した引っ越し先は、前にどんな人が住んでいたのでしょうか。  松平登之助(信望)という説が有力です。  (近藤登之助は三田村鳶魚氏の『横から見た赤穂義士』で広まったが、氏の単純なミス)    http://okwave.jp/qa/q6470459.html >3.討ち入り事件のとき、本所吉良邸の隣の屋敷ではちょうちんを出したといわれていますが、どんな人の屋敷だったのでしょうか。  土屋主税(土屋逵直)  父が狂気を理由に上総久留里藩2万石を改易され、遠江国周智郡で3千石を貰い、俳諧の宝井其角に師事して時折本所松阪町の自邸で連句の会を催す、風流旗本に徹していたとか。    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%8B%E9%80%B5%E7%9B%B4

関連するQ&A