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赤穂浪士の討ち入りの時、もし幕府役人が駆けつけたら

赤穂浪士が吉良の屋敷に討ち入って、2時間余りも死闘を繰り広げていたそうです。 現在なら当然警察がやってくるのですが。 1.近所の人は、誰も幕府に通報しなかったのですか?吉良邸から逃げた人はいなかったのでしょうか。 2.通報するとしたらどこへ通報しますか。火付盗賊改でしょうか。 3.もし幕府役人が到着していたとしたら、どのような展開になりますか?浪士たちは大人しくお縄につきますか。それとも争いますか。 4.ドラマでは、隣の屋敷の武士が争いを止めるどころか、応援して提灯を掲げますが、これはお咎めなしだったのでしょうか? よろしくお願いします。

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回答No.4

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 1.近所の人は、誰も幕府に通報しなかったのですか?吉良邸から逃げた人はいなかったのでしょうか。 まず、討ち入りをしたのは、元禄15年(1793)12月14日夜、となっていますが、正確には15日午前4時頃と言われています。まさに深夜の決行でしたし、それこそ、音もたてないように粛々(しゅくしゅく)と、本所松坂町の吉良邸へ向かっています。 また、当日は雪が降った後でしたので、物音(歩く音)なども消してくれました。 そして、深夜ですので、武家も町民も深い眠りの最中でしたので、直前まで誰も気付かなかった、と、言われています。 さらには、誰かが事件を知ったとしても、その頃の庶民、庶民ばかりではなく武士でさえ、赤穂浪士の討ち入りを歓迎する傾向がありましたので、訴え出る者は誰一人としていませんでした。 赤穂47士は、表門には大石内蔵助以下23人、裏門には大石主税(ちから)以下24人が固めていましたので、吉良邸から外へは一歩も出れない状況をつくりました。 >>2.通報するとしたらどこへ通報しますか。火付盗賊改でしょうか。 まず、答を先に書きますと、訴え出る(通報する)とすれば「大目付」でした。 町奉行所や火盗改などには「大名家」を取り締まる権限はなく、たとえ、事件を知ったとしても出張ることはできませんでした。 確かに、赤穂の47人は浪人ですので街中で騒動を起こした時は、町奉行などが取り締まることはできましたが、吉良邸という大名家での事件では一歩も動くことはできませんし、もし、出張ったりすれば「越権行為」で逆に町奉行が罪になりました。 なお、旗本や御家人を取り締まるのは「目付」でした。 >>3.もし幕府役人が到着していたとしたら、どのような展開になりますか?浪士たちは大人しくお縄につきますか。それとも争いますか。 幕府の役人・・・とは、どのような職の人を指すのか分かりませんが、とにかく、「大目付」の仕事ですので、たとえ、老中や若年寄などが事件を知ったとしても、駆けつける筋合いではありませんでした。 では、大目付は「なぜ動かなかったのか」と、言うと、町民が「大目付」に訴えるようなことはできない組織体制でしたし、仮に、事件を知ったとしても、先にも書きましたが、当時の庶民や武士でさえも赤穂びいきでしたので、出張ることはしなかったのではないでしょうか。 >>4.ドラマでは、隣の屋敷の武士が争いを止めるどころか、応援して提灯を掲げますが、これはお咎めなしだったのでしょうか? 吉良邸の隣は「土屋平八郎邸」でしたが、もちろん、赤穂びいき。 高張り提灯を立ててくれましたが、もし、大目付などからお咎めを受けても、 「我が邸に逃げ込む者を防ぐためだ」 と、言い訳が立ちました。 当時は、町民はもちろんのこと、たとえ武士であれ、許可なく武家屋敷に入ることは「厳禁」でした。 ですから、大石内蔵助が、 「我ら、主君、浅野内匠頭の無念を晴らすため参上。御隣家様には、しばし騒動となりましょうが、平にご容赦、お願いたてまつります」 と、叫ぶと、土屋平八郎は急ぎ高張り提灯を何本も立てて、 「その方らの儀十分に承知。塀を越えた者があらば、どちらの家の者であろうとも討ち果たすゆえ、存分に働きあれ」 と、返答した、と、言われています。 (よもやま話) (1)通常、罪を犯すと、当然、町奉行の管轄となり、伝馬町で入牢させられます。 この時、御目見(おめみえ=公方さま(将軍)に拝謁できる者)以上の直参およびこれに準ずる僧正、院家、紫衣を許された僧侶、神主などは、伝馬町の牢屋敷内にある揚屋敷(あげやしき)と呼ばれる座敷に留め置かれます。もちろん、監視をする役人も付きます。 (2)見事本懐を遂げた後、大石内蔵助は47名の中から寺坂吉右衛門に密命を託し(内匠頭の妻・瑤泉院や弟・大学(長広)、広島本家への報告のため、と、後の世に我らがどのようになるかを見とどけて欲しい、と言われたとも言われて、また、47名の中でただ一人赤穂藩士ではなく藩士の吉田忠左衛門の家来だった)離脱させ、残りの46名は泉岳寺へ詣でたのち「評定所」に自首しました。 (3)評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩内部や藩と藩の争い、旗本と御家人への訴訟を扱うところでした。 (4)内蔵助の判断で、この「評定所」に自首したことで、町奉行所の手出しできないところとなったのです。つまりは、藩と藩の争いなのだ、と訴えたのです。 (5)評定所には、牢はありませんので、内蔵助一同は評定所内で待機していました。 直ちに、評定所からの上申で、時の将軍徳川綱吉が報告を受けた際、綱吉自身は、内蔵助らが作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義」である、と、褒め讃えました。 このことは、老中会議でも阿部正武(あべまさたけ)や小笠原長重(おがさわらながしげ)らが、綱吉の裁定に賛意を述べました。 しかし、側用人であった柳沢吉保は、「忠義」だけで政(まさりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない、と反論しました。 そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤(はやしのぶあつ)と柳沢吉保のお抱え学者であった荻生徂徠(おぎゅうそらい)の2人を呼び議論させました。 この2人がそれぞれ賛成、反対意見を述べ、最終的には、綱吉が2人の意見の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとなり、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹した。 (6)お分かりとは思いますが、「切腹」は当時の武士の死に方としては「名誉」であったし、また、世論に配慮して、浪士たちを幕府は「武士」と認めたことに大きな意義があった。 (7)綱吉が死去すると、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦で、浅野大学は500石+広島浅野本家より300石を受けることとなり、旗本寄合に復活。 (8)46名の子息の中で15歳未満は15歳になると、八丈島や三宅島への「島流し(=遠島)」のはずであったが、すべて「恩赦」。島流しにされていた者もすべて江戸へ帰っています。 (9)内蔵助に密命を受けて離脱した寺坂吉右衛門はすべての事後処理が終わった後、大目付仙石伯耆守に自首したが、身分軽きゆえお咎めがなく。かえって、金子10両を与えられ解放された。その後、他家に仕えたり、江戸に出てきて寺男などをして83歳の天寿をまっとうした。 (10)柳沢吉保の後ろ盾であった荻生徂徠自身も、後に「その志を推すに、また義というべきものなり」と浪士の「忠義心」を認めていたという。 (11)現在の住所は、東京都墨田区両国3-13-9 現在は本所松坂町公園として開放され、吉良首洗いの井戸や稲荷神社がある。両国橋を渡って「回向院」の隣に邸宅があった。 (12)地図: http://www.tokyoguide.net/spot/17/map/ あなたのお役にたてたでしをうか。

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 大変参考になりました。 「吉良義央」のwikiのページを読んでみると、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE 「米沢藩邸に急を知らせた吉良邸近所の豆腐屋」 とありました。 報せた人物がいたわけです。 其の後、米沢藩がどう動いたかは知りませんが、藩邸は桜田門の近くにあったらしいので、吉良邸までは1里程度の距離、急げば間に合ったかもしれません。 もうひとつ疑問に思ったのは、江戸の町では夜になると木戸が閉まって通過できなかったはずですが、浪士らはこれをどう解決したのでしょうか?

その他の回答 (7)

回答No.8

NO4.です。 「補足」です。 木戸がいたるところにあったら、「鬼平犯科帳」に出てくるような盗賊が夜中に「活動?」することはできませんよね。 また、捕らえる「火盗改め」にしても、いちいち、木戸を開けさせて盗賊を捕獲するために出張ったのでしょうか。 火事が起きた時、裏長屋はともかくとして、色々な町内にある火消し連中は火事場に行くために、木戸をいちいち開けさせたのでしょうか。 武家地も町地も、いくら泰平の世とはいえ、大通りは戦に対する軍事道路です。そんなもしもの時、木戸、木戸、木戸では・・・ちょっと。 多くの方が「勘違い」をされているようです。 話はズレますが、 参勤交代も行軍の一つととらえられており、宿場で予約してある宿でも、夜七ツ(午後8時)を過ぎての到着の場合、宿でも断ることができ、そういう時は「野宿」をしました。もちろん、行軍の考え方ですから、陣幕はもちろん、鍋や釜、料理材料、はたまた、殿様用の便器などを持ち歩きました。 ついでにもう一つ、宿に入っても、宿屋の料理人ではなく、同行した供の者の御膳掛りが食事をつくりました。

回答No.7

NO4.です。 >>「米沢藩邸に急を知らせた吉良邸近所の豆腐屋」とありました。 そうですね。まあ、町民の中にも、吉良邸へ出入りして「優遇」を受けていた者もいましたので、吉良びいき、の人もいたでしょうね。 >>其の後、米沢藩がどう動いたかは知りませんが、藩邸は桜田門の近くにあったらしいので、吉良邸までは1里程度の距離、急げば間に合ったかもしれません。 上杉家5代の「綱憲(つなのり)」は、討たれた吉良上野介義央(よしひさ)と上杉家3代定勝(さだかつ)3女富子との間に次男として生まれ上杉家へ養子に行っていました。 綱憲は、報せを聞くと、実父の応援にすぐにも駆けつけようとしましたが、家老をはじめとする重臣たちに、 「たとえ、吉良家と親戚関係とはいえ、また、実父とはいえ、もしも、義央殿が討たれたら、上杉家にも徒党を組んだ、と、お咎めがおよびます。ここは、耐えて、耐えてくだされ」 と、必死の形相で止めた、と、言われています。 >>もうひとつ疑問に思ったのは、江戸の町では夜になると木戸が閉まって通過できなかったはずですが、浪士らはこれをどう解決したのでしょうか? 木戸は、路地を入った裏長屋のみにありました。 表通りに面した路には木戸はありませんでした。また、武家地にも木戸はありませんでした。 浪士は、堀部安兵衛宅に集まった、とも言われていますが、実際には、表通りに面した数軒の家に集まったようです。 (よもやま話・つづき) (1)TVなどでは、皆、揃いの衣装を身につけていますが、実際は、怪しまれないよう「ばらばら」の衣装でした。 (2)大石内蔵助だけは、「火消し装束」だったようです。これには、もし、咎められたら「火の用心」に回っているのだ。と、答えるため、とも言われていますが、自分を入れて47人もの武士が街中を歩いていたら、そのような「言い訳」がとおるはずもなく。大石自身も、せいぜい羽織、袴姿だったと考えられます。 (3)大石内蔵助と長男主税は「切腹」しました。次男吉之進良以は、仏門に入り、三男大三郎家は浅野氏の本家(広島)に召抱えられ、今も続いており、内蔵助から数えると、現在11代目だそうです。 (4)大石家直系の子孫、大石雪絵さんが演歌歌手をしているそうです。

  • myeyesonly
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回答No.6

またまたすいません。 木戸については、浪士の尋問記録に証言が残ってるそうです。 「脅かしたらすぐに門を開けた・・・」みたいな内容なので、単純に脅迫しただけかもしれませんが、赤穂浪士と判れば当時の江戸町民のヒーロー状態ですから、知らなかった事にして通してからまた門を閉めた・・・という可能性は非常に高いでしょうね。 浪士が全く無関係の木戸番の失態を責められないように、刀とかを使って脅迫したと証言した可能性もありますから・・・じつは・・・かもしれません。

  • nene-k
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回答No.5

この討ち入りは幕府公認でした。 直前に知人へ送った「御老中もご存知である」という大石の手紙も残っています。 高家筆頭というかなりいいご身分の吉良さんが、呉服橋という大都会から本所という、当時はちょっとした田舎だった場所に引越しさせられたのも、討ち入りがしやすいように配慮した幕府のやった事です。 確かに、日付がこの日という事はわからなかったでしょうが、「いつか来る」という事は、すでに吉良邸でも察していて、その引越しの頃には、それまでの奉公人をすべてクビにして、国元から親戚筋や身分のしっかりした者に総換えしてました。 以上の事を踏まえて、考えると・・・ 1、皆知ってるので、誰も通報しないし、覚悟を決めたしっかりした人物しか残ってないので、逃げた人はいたかも知れないけど歴史に名の残らない小者だけでしょう。 2、通報するとしたら、大目付だと思いますが、誰も通報しないし、通報しても、事が終るくらいの頃にしか来ません。 3、騒ぎが収まるまで、遠くで見てるのでは? 4、幕府も応援してるので、お咎めなし ちなみに、討ち入りのその日は雪は降っていませんでしたし、合図は、陣太鼓ではなく笛やドラを鳴らしての大騒ぎで、近所の人が集まって400人ほどの見物人が押し合いへし合いしてました。 これは、その見物人の中にいた、あの新井白石の証言なので、ある程度事実だと思われます。 お芝居とはずいぶん違いますが、当時のお芝居は、ちまたのニュースをおもしろく人に伝えるために作られたもの・・・今の歴史小説とよく似たものなので、事実かどうかには関係なく、オモシロければ○です。

  • myeyesonly
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回答No.3

あ、話が脱線しすぎて回答を忘れました。m(__)m >浪士が罰せられる・・・仮に、戦場になってる吉良邸に役人が踏み込んで、逮捕に成功したとしましょう。 すると、その時点で「仇討ち」は否定されてるので、この場合の処罰は獄門・磔、もしくは獄門・打ち首に該当します。 獄門=拷問の事で、拷問をやった後に磔、もしくは打ち首です。 恐らく世間を騒がせた、という点を重視し、公開処刑である磔が選択されるでしょうね。 遠山の金さん風に言えば、「その方ら、夜分、吉良邸宅に押し入り、江戸市中において合戦に及びし事、重々ふとどき、よって市中引き回しの上、磔獄門にしょす」・・・ってな感じでしょうか。 #将軍お膝元である江戸城下で合戦を行うのは大変な重罪で、理由によらず合戦の相方が重罰を受けましたので、「合戦」と認定されれば吉良家も間違えなく処罰されます。 合戦でなかった場合は、吉良の処罰は押し入られただけ、となりますが、将軍のドジを清算するために、吉良も処罰しちゃったでしょうね。 切腹は名誉ある死なので、浪士の切腹は確実にありえない話になると思います。 吉良の方は武士の不名誉として切腹はあるかもしれません。

  • myeyesonly
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回答No.2

お呼びでしょうか? >もし吉良側が勝利していたら・・・ ほぼ確実にありえない話ですが、「勝利」の意味が「赤穂浪士を全滅、もしくは全員捕縛」などではなく、「吉良義央が生存」つまり打ちもらし、という事であれば、可能性は無くも無いでしょうか。 その場合、浪士側は吉良邸で全員切腹する予定だったと聞きます。 取り逃がしはありえる話なので、当初から対策は考えていたでしょう。 従って行政の手による逮捕はありえません。 もし逮捕するなら、赤穂浪士が討ち入った時同様、役人が口上をあげて斬り合い真っ最中の吉良邸に踏み込まなければいけません。 ただ、吉良家の家臣と役人の違いは、吉良家の家臣は、浪士を斬り倒す必要があったのですが、役人は殺すのは最後の手段で、目的は捕縛になり、梯子や刺す股、突く棒、捕り縄など大道具?が使えるますし、後の由井正雪の乱では、丸橋忠也という槍の達人の捕縛に八方鈴という目潰し飛び道具を使用しています。 なので、役人がほぼ戦場の状態で、十分識別可能な身なりをしてる浪士を捕縛する事は、人数を要し、犠牲者は出るでしょうが可能だったでしょう。 吉良家臣のツライ所は、相手は鎖帷子(くさりかたびら)を着込み、刀はまず通らず、槍ならば力いっぱい突いてやっと通るかどうか、という状況でした。 実際、浪士の証言でも数回切られたけど鎖帷子のおかげで平気だったとか、槍を跳ね返したとかいう証言があります。 寝巻き姿で手に武器を持っただけで戦わなければいけなかった吉良家臣は本当に悲惨その物の戦いを行ったわけです。 当直の家来も鎧を着込んでいた物は一人もいませんでした。 それで明け方まで当主を守りぬいた事自体、ちょっと凄すぎる気がするのですが・・・?

  • myeyesonly
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回答No.1

こんにちは。 そもそも、この討ち入りの原因は、将軍綱吉の失態にあります。 刃傷事件の時、現場にいたわけでもなく、風呂に入っていて通報を聞きいたそうですが、ろくな調査もせずに家臣の速報情報のみから、浅野切腹、吉良不問を決定してしまいます。 将軍は幕府内で最高の決定権者ですから、これをやられては誰も従わざるをえません。 老中が全員束になって白装束を着て諫言でもするか、当時幅を利かしていた側用人が命がけで諫言でもすれば再調査の可能性もあったでしょう。 しかもこの諫言は生き証人でもある浅野の存命中(処罰されるまで)にやらなきゃ意味がないので緊急を要していました。 当時、勅使饗応という大仕事の中で、上層部がその価値判断を誤ったといっていいでしょう。これを考えた上で回答いたします。 1、2、当時、交番に変わる最も住民に近い出先機関は、「番屋」と呼ばれるもので、町の辻々にある「辻番」「門番」、ちょっと大き目の自身番などがあります。 特に自身番は同心などが常駐していたはずなので、ここに駆け込むのが最も速報が出来た事でしょう。 火盗の事務所は一般人は怖くて入りにくいところだったようですが、駆け込まれれば出動した可能性はあります。 但し、先に述べた理由により、この討ち入りが、「仇討ち」なのか「押し入り」なのか「合戦」なのか・・・即断できない状況があります。 仇討ちだった場合は、通常は、役人はその場を確保、仇の逃走を防止し、仇討ち者に協力する義務があり、仇討ちは非常に大きな礼節とされていました。 こういう状況では火盗であれ、町方であれ、直ちに出動していいのかどうか、即断できなかった可能性は非常に高いと思われます。 しかも仇討ちの一党は多人数である事を除けば形式を整えており、事後ですが、ちゃんと目付けに報告にまで行って処断を仰いでいます。 お隣さんのちょうちんは結構有名ですが、それ以前に、隣家に危害を加えない事、夜中に大騒ぎして迷惑をかける事、これが仇討ちである事を壁のこちら側からですが、大声で申告しています。 あのちょうちんはその大声を居住者が聞いて主の行った処置ですから、「仇討ち」と言われて「迷惑をかけない」とまで言われたら当時の感覚ではごく普通ではなかったかと思われます。 当然、隣家にも終了報告を行ってます。 3、これは非常に難しいですね。 少なくとも、門前に大石が出頭して、采配は副将の息子と年寄り集に任せて、役人と「仇討ち」である事の主張をして時間を稼ぐ事になったでしょう。 この場合、先に述べたように判断が非常に難しく、しかも周囲に危害を加えてない現状があれば、いきなり役人が踏み込むのはかなり無理があり、上層部の判断を仰いだ事でしょう。 幕府上層部もわざと即断せずに現場待機させて時間を稼ぎ、終わってから「縛につけ」と決定したと思います。 4、先に述べたように、武士にとって仇討ちは非常な名誉であり美徳です。 これを応援するのは当然であり、当時、生類哀れみの伶で、将軍(お上)に対する風当たりは強かったですから、ストレス解消の絶好のネタであった事は確かでしょう。 ちなみに、最終的に処断され高遠に幽閉された上野介の養子(後継ぎ)、吉良義周は、なぎなたを振りかざして応戦し、不破と思われる浪士の2太刀を浴び、顔と背中に重症を負って失神した状態で生き残って、浪士が去った後、残存の家来に届け出を命じています。 やるべき事はちゃんとやってると思いますが、処断された理由は「不行き届き」・・・つまり「何たる事だ!」です。 当時、上級武士の屋敷に賊などが押し入り、大損害を受けるような事は、武士にとっては大変な恥辱、不名誉であり、お家断絶は普通の事でした。

yoshinobu_09
質問者

補足

ありがとうございます。 押し入られた上に罰せられるとは、厳しい世界ですね。 もし、吉良側が勝利していれば、どうなっていましたか。 浪士側が罰せられましたか? その理由は、討ち入りを果たせなかったから、ですか。 それとも盗賊と同じ扱いでしょうか。