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本所吉良邸の前の住人
元禄14年8月に吉良上野介は呉服橋の屋敷から本所に引っ越しましたが、引越し先はボロ屋敷だったといわれています。前の住人は誰でいつどこに行ったのでしょうか?
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本所吉良屋敷の前主については、平成10年から11年にかけての私の2年連載 「忠臣蔵で江戸を探る脳を探る」 で発表した松平登之助(信望)説が研究者などの注目を集めました。 舟橋聖一氏の 『新・忠臣蔵』(昭和31年4月から昭和361年7月まで「毎日新聞」に連載) では近藤登之助説を採用していましたが、これを原作とするNHK大河ドラマ『元禄繚乱』(平成11年)では、松平登之助(信望)説に訂正されました。 その後、Wikiなどでも松平登之助説が書かれるようになりました。 Fewhelltonさんが書かれたことを補足すると、近藤登之助説は三田村鳶魚の『横から見た赤穂義士』(昭和5年、叢文閣)から広まったもので、私が松平登之説を発表するまでは定説のようになっていました。 本所吉良屋敷の前主が近藤登之助だったという説は、「兼松稲荷 公儀帳面掲載嘆願書」 に書かれたものが最初です。これには享保十九寅年二月(1734年 3月)の年月が記されています。 吉良屋敷討入事件から数えて、30年と少ししか経っていない。 同史料は、吉良屋敷跡にできた松坂町一、二丁目のうち、二丁目にあった兼春稲荷の別当、当時森下に住んでいた円蔵院という修験者(山伏)が、名主、年寄、五人組と連盟で書いたとされるものですが、のちの時代に書かれたものかも知れません。 引用しましょう。 乍恐以口上書付奉願候 本庄松坂町与申所ニ九尺四面之土蔵之稲荷宮御座候 此宮之儀先年御公儀御竹蔵御水門之内ニ御座候 此地近藤上り之助殿屋敷ニ相渡申候屋敷之鎮守と尊被指置候 其後吉良上野助殿江相渡申候・・・以下略 ※ 「近藤上り之助」 は原文のまま 文政拾壱子年九月廿八日(1828年 11月 5日)の年月日がある史料では「近藤上之助」 これらは昭和2年に再発見された史料のうちのひとつで、平成3年3月につくられた 『墨田区古文書集成V』 のなかに翻刻掲載されています。この古文書集成の解説でも、近藤登之助を採用しているくらいです。 この近藤登之助説を覆すために使った史料は、公儀普請方作成 「御府内往還沿革図書」(役所控、東京都公文書館蔵)や、「寛政重修諸家譜」、遠近道印作をはじめとする何枚もの江戸大絵図(古地図)などです。 「御府内往還沿革図書」に掲載されれた絵図を模写して雑誌に掲載したものを添付しておきます。
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#2の回答で誤記があったので訂正します。 ×登之介 ○登之助
お礼
わざわざ訂正いただき、ありがとうございました。
- 百 楽天(@100rakuten)
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松平信望。無料wikiを参照されたし。 なお、近藤登之介とするのは、おっちょこちょいな市井の江戸研究家三田村鳶魚の誤解を真に受けたのか、舟橋聖一の『新・忠臣蔵』ほかかつては多かった模様。NHK大河ドラマ『元禄繚乱』では松平信望登之介の上げ屋敷となったそうです。
お礼
ご回答、ありがとうございました。
- Pinhole-09
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将軍のご小姓の旗本松平信望(登之助)の屋敷は元禄11年 9月の大火で焼失し、11月に本所に代地を拝領し新築した。 元禄14年8月ここを退去し、あとに翌月吉良上野介が入居 した。 信望は下谷の町野酒之丞の屋敷を拝領入居した。 本所の信望の新築屋敷が一時的入居のためのものか、さだか でないので不明の所もあるが、五千石の旗本であり、たとえ 仮屋敷であったとしても、ボロ屋敷ということはない。
お礼
早速のご回答、ありがとうございます。 >本所の信望の新築屋敷が一時的入居のためのものか、さだか でないので不明の所もあるが このあたりも解明できるといいですね。町野酒之丞とはどんな人なのでしょうか。
お礼
定説を覆されたご本人から直々の詳細なご説明に驚きました。 お礼を書く前に「御府内往還沿革図書」に掲載されれた絵図の要求をして、たいへん失礼いたしました。 ここにご説明された以上に、何かありそうですね。 またよろしくお願いいたします。
補足
「御府内往還沿革図書」に掲載されれた絵図の添付が見えませんが。