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仏教に関して疑問があります。
仏教聖典では執着をはなれよと教えていますが、学校の勉強をするためや、仕事をこなすためには、どうしても執着がつきまとうと思います。「正解しなくては」「正確に業務を遂行しなくては」などです。この矛盾をどう解決していけばいいでしょうか?どう考えれば勉強や仕事と仏教を両立できますか? どなたか教えてください。
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どうしても執着がつきまとうと思います。「正解しなくては」「正確に業務を遂行しなくては」などです。この矛盾をどう解決していけばいいでしょうか? ○ 目標と実際との間のギャップを埋めようとする心の格闘は「執着」ではありません。「結果」を求め過ぎるということなんですよ。仏教では「目標」に対する「努力」を良しとしているのです。1つの目標が達成されれば次の目標に向かって努力する。つまりいつまでも努力なのです。「結果」を求めてもすぐ得られるものではありませんからそこにはあせりや落胆という気持ちもあるでしょう。でも1つの目標に向かって努力することは良いことで「執着」とは言わないのですね。どのような目標を持っても良いですが高すぎると苦しくなりますね。だから、少し高めの目標を設けて努力するというのが仏教的中道の思想なのです。つまり、全てがたゆまない努力の過程と捉えれば良いわけです。 歴史上の天才といわれる人は一つのことに没頭した方々ですね。現代流に言えば変人ですが、執着の塊とは言われないでしょ。 では「執着」とは何かですか。努力の過程で得られた「結果」に心が留まることなのです。一つの目標でしかなかったものに留まって動こうとしない様を執着というのです。 例えば、勉強であれば「この理論しかない。」とかね。業務であれば「これしかない。」という考えですね。退職しても「私は元・社長、部長、課長」とか、「私は元・総理、大臣」とかいう人いるでしょう。 そのように過去にできた結果、過去にできなかったこと、悔しかったこと、嬉しかったことなど過去に心が留まること、それを執着というのです。つまり誰しも離れればただの人なんですよね。それだけのことなのです。一方、未来に対してはあせりですね。結果を求めすぎることは「あせり」ですね。 だから、目標を持って努力する(格闘する)自分を愛することですね。それが執着やあせりから抜け出す特効薬ですね。 「言葉」に囚われることはありませんよ。
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どうもー、#14ですー! 勘違いしてましたーごめんなさい。。。 なんか、、宗教ちがうみたいです。「仏教聖典」って聞いたことないです。 私がまちがってました。ごめんなちゃい。
- Y Y(@yy8yy8az)
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「結果」にこだわることが「執着」・・・・・ そういえば、質問自体も「結果」を気にすることを“執着”と捉えているようでもあるし。 一理あるなぁ。 だからポチッ!
こんにちは。 意味をちゃんと理解されていませんね。 「仏教の教えにさえも執着してはならない。」と、教えられているはずですよ。 読書百遍と申すがごとく、何回でも読んでみて下さい。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
なんか変ですね。 質問内の事柄は、物事を間違いなくやろうという気持ちを取り上げているようなので、この場合は“心構え”という事になるのではないでしょうか。こうした心構え的こだわりは執着とは言わないように思いますが。 “執着”という表現は仏教的には「好ましくない結果」が付きまとうようです。 たとえば、正確に業務を遂行しなくてはと、常に業務に就くときに細心の注意を怠らないよう努力するのは、よい結果が期待できますが、業務を離れてもそのことが気になって、日がな一日他の事が手につかない、他人とのかかわりに気を使う余裕もない、といった状況になれば、執着という言い方も可能かと思います。 でも、これもなんかちょっとおかしいような。 執着と云うよりノイローゼでしょう、なんて言われそうな。 とは云っても、とりあえず「結果が思わしくない状況になることが予想されるのにもかかわらず、その事にこだわる心を、“執着心”と云う」 ・・・・・と、表現してみました。 未熟な“回答”ですが、これなら矛盾は感じないと思います。
- yuimakozi
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人間が生きているのは、「生」に執着していると考えれば、死んだ方がいいということになりますか。 食べることが、執着だとすれば餓死しろということですか。 「正確に業務を遂行する。」と言う事が執着だとすれば、何もするなということですか。 仏陀は、この世は諸行無常だと説きました。全ては変化するのである。不変なものは無いのです。 しかし、人間は永遠に変らない事に執着するのです。ずっと美しいままでありたい。づっと気持ちが変らないでほしい。 いつまでも若くありたい。死にたくない。等々です。 仏陀は、諸法無我であると説きました。全ての事(もの)には実体がないのです。しかし、人間は、自分の実体だと考えている「我」に執着します。 そういった執着から離れよと教えているのです。 また、執着は欲(煩悩)から生じます。だから、欲を滅することが重要になるのです。 人間は、食べなければ死んでしまいますよね。けれども生きていく必要以上の食べ物を欲しがったり、美味しいものを食べたいと思うのは、欲なのです。つまり食に執着しているのです。 また、生きていくためには働かなければいけませんよね。居、食、住をまかなうお金が必要です。しかし、人間はもっと良い生活がしたい。もっとお金をもうけて贅沢したいと思いますよね。それが、欲です。お金や物に執着しているのです。 そういった執着から離れよと仏典では説いているのです。 しかし、在家のままでは欲を滅することは不可能ですし、執着を捨てる事は出来ないでしょう。 出家して、釈迦や比丘たちのような生活をすれば、その可能性は高くなるでしょうがね。
- shift-2007
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>「正解しなくては」「正確に業務を遂行しなくては」などです。 その理由が出世や他人の高評価、を狙ったものなら立派な執着でしょう。 自分がなぜそのような考えや動機を持つのか自覚すれば執着を美化することもないはずです。 仏教聖典よりも己を知ることが大事だと思いますよ。
- Nucleus_
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~しなくては とか ~でなければならない が執着なのだと想います。つまり、とらわれ。 ~したい などというのは 希望や望み だと想います。 「希望や望みも執着である」というのは間違いでしょう。
執着を離れようとすること自体も執着であるということを聞いたことがあります。 無理に離れようとはせず、しかし次第に、結果的に離れたならよいということではないでしょうか。 さとりを目指すこともある種の執着から始まります。しかし、その執着がなければ執着を離れる、つまりさとりと言うこともないわけです。ですから、執着と言うのはきっかけぐらいにおもって、特に気に病むようなものでもないのではないかと思ったりもします。 博学なことは良いことですし、有能であることも私の知る限りでは、仏教においては薦められる事です。ですが、それらの事が主になって、さとりに向かう修行がおろそかになっては本末転倒であるというのが、実際の教えではないかと思います。つまり、目的と手段が入れ替わるようでは困ると言う意味です。博学有能で、しかもいつも新鮮な思考の持ち主であると言うのが、本当の意味で執着を離れつつある状態ではないかと思います。もちろん、博学で有能であることは、よいことではありますが、さとりの必須条件というわけでもないのですが。
在家の身でしたら、世俗の義務を果たす事が最優先だと思われます。 義務以上の夢を持たれているのならば、それも了として差し支えないものとも思われます。 社会的に価値のある夢の実現に向かってゆかれるのならば大変に良い事ではないでしょうか。 成すべき事を成しつつ、仏教を学んでゆかれる事は素晴らしい事だと思われます。 顕教では、実体の無いものに対して執着を離れよと説かれていますが 在家の身では、まず無理な事のように思われます。 しかし、少しづつ教えを学んで過ごすうちに、年月と共に、自然と離欲した心境に至る事ができるのではないでしょうか。 仏教は年をとってはじめて分かる、という言葉があります。 若いうちに学んだ事が、やがて年をとってから実を結ぶという事なのでしょう。 在家であるならば、学業や仕事をまず第一にした上で、仏教を学んでゆくべきものと思われます。 「執着を離れよ」という教えは、出家者向きの教えと考えてよいのではないでしょうか。 在家であるならば、執着あるがままに、学んでいってよろしいものと思われます。 それが自然でもあり、そこに在家の純粋さが感じられるようにも思われます。 ご参考になさってください。
実際には複雑ですが、簡単な例で説明を試みます。 「正解したいとか」、「正確に業務を遂行したい」では、仏教の言う執着に当たらないと思います。 執着とはもっと、思想が染みついた(他人を差し置いて)自分に益を持ってきたいような欲望を指すと思います。 例えば数学の問題を解く場合、人間には子供が分からないことを「何故空は青いの?」と聞くように 分からないことを理解したいという、自然な心の働きがあります。 この様な心の動きで、正解したい、問題を充分に解きたいという「欲」なら純な心の動きでしょう。 これは、執着と言わないと思います。 しかしそうではなく、他人に自分の優秀さを見せつけたい。 他人を排しても自分の益を求めるような欲を、執着と言うと思います。 ですから、欲と仏教は充分両立できると言えるでしょう。 簡単な例ですが、イメージで理解できるでしょうか?
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お礼
みなさんご回答ありがとうございます。参考になりました。