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親魏倭王

「親魏倭王」称号の授与にはどのような国際的契機があったのでしょうか

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回答No.2

「国際的契機」ということですので、まず「倭王」の側から。 倭国内的には「共立した女王」ですので一応の安定はあったろうけれど、「魏志倭人伝」が書くように、「黄ドウ」も必要になりますので、「親魏倭王」の認定の物的保障として、金印紫綬は、価値ある贈与だったはずです。 次に、魏の側から。 言うまでもなく、三国分裂状態です。どれが「正統性ある王朝」か、ということを国際関係の中で承認されないといけない状況です。 関中を支配している、あるいは、後漢王朝の滅亡を見届けている(禅譲を行わせている)ということは一つの基本条件だったろうけれど、そうした「名」とともに「実」において東方「遼」において公孫淵を平定した、ということは大きな成果だったろうと思います。それが、景初2年の9月(ころだったか)。平定した司馬仲達が、死の床にある皇帝と会見するのが景初3年の1月1日。その間の景初2年6月に朝鮮半島の帯方郡に使者を派遣した卑弥呼を、なんとしても迎え入れたい、と考えるのが魏だったのではないでしょうか。 景初2年12月に魏から倭王卑弥呼に宛てた親書が書かれていると、魏志倭人伝は書いています。日本の学者が「景初3年」の誤り、と主張していることは承知していますが、皇帝の死の前後について、その時代を知っている沈寿という史官が、書き誤る、と想像することのほうが困難だと思います。外交関係が、現代のどこかの国のように、それほど浮薄軽佻なことであれば別ですが。 念のため、「景初3年」と書いた銅鏡が「景初3年の誤り」の根拠とされていますが、「景初4年鏡」が1985年ころ京都府の古墳から出土して以来、その根拠性が薄れたことはご存知ですよね。

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回答No.1

日本にしてみれば、西の海の向こうの大国とパイプラインを築けた。 魏にしてみれば、勲章を与えたということは実質的に支配していることと同義。 東の海の向こうとは言え、遠く離れた国外の国を支配下にした。 そんな感じです。 参考までに、

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