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キリスト教の最後の審判の考え方について教えて下さい
Wikipediaで最後の審判について読みました。 クリスチャンの方々にも最後の審判についての考えを伺いたいと思って質問しました。 よろしくお願いします。
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>2012年……北朝鮮が何もしなければ良いのですが……。それだけが心配です。 えっとですね。。。。 空にある惑星をグループ分けして、それぞれに名前をつけたわけです。 もちろん 他の星も動いているので、古代と今とでは、地球から見える惑星の位置は違います。 昔は一日は21時間くらい。 自転速度も公転速度も今とは違った。 で、古代エジプトでは時計が無かった。 だから太陽と星で時を知ったわけですが、時間を決定していたのではなく、新年を決定していたんです。 今でいうと7月(ユリウス or シリウス)が新年だったわけです。 古代エジプトでは洪水がいつ起こるか知っていた。 夜明け前に東の空にシリウスが現れたら、必ず洪水が起こっていた。(耕地に降った雨がナイル川を氾濫させていた) そのシリウスが現れた時、その東にオリオン座も一緒に現れたので、ホルスの誕生の時 3人の王が祝いにかけつけた という物語になったんです。 何故3人? オリオン座のベルトの部分は3つの大きな星だから。 ちなみにイエス(オシリス)の磔刑も、他の神話と同様に、天体の動き観察して作られた物語。 まさかギリシャ神話を読んで、星座の星の名前がついた神々が、実在して物語のことをやったとは思いませんよね? で、洪水が起こったあと肥沃な川の土砂がエジプトの平地を覆ったので、後は種まけば豊作になっていたんです。 だから、農耕をするのに星の観察は必要だったわけです。 シリウスが3つの星とともに夜明け前に現れると、必ずナイル川が氾濫していた。 氾濫を予知できるとして使ったわけです。 で、空の星をグループ化して名前をつけたのは、バビロニア地方の牧童たち考えられています。 放牧して夜も外で過ごすので、星空を見て物語を作った集団は、後に民族がギリシャ方面に南下移動をしてギリシャ神話が確立したのだと思えます。 南下することになった原因は冷夏。 北の異教徒の太陽信仰のシンボルが、キリスト教の十字架となりました。 約25,800を12で割ると2150年。 じゃあ、西暦の紀元をスタートとし、西暦2150年がみずがめ座の時代となるかというと、星座の大きさは均等じゃないし、距離も違うし、なにより人間か勝手にグループ化して名前をつけたわけだし、今と惑星の位置は違ったわけです。 人によってみずがめ座の始まりとする年は、100年くらい違う。 100年くらい違っても、地軸が全く違う正座を向いているということは無い。つまり星座の位置がそれほぞズレてない。 今は時計やカレンダーを使っているので、星の観察をする必要は無いですが、当時は種まきの時期を知る必要があったので、天体観察は必要だったわけです。 で、何よりも重要なのは、天変地異が起こって地球が崩壊するというのは 全くの迷信だってことです。 ゆるやかにじわじわ地球の軸が首をふっているわけで、どっからどこまでが 魚座、この年からみずがめ座の時代とはいえないわけです。 しかも、そっちの方角に軸が少しづつ向いてその方向に完全に向いたとしても、他の惑星の引力の影響をもろに受け、天変地異が起こることは 今までも無かったように無い。 冷夏とかありますが、これは太陽の核爆発の具合で そうなっているんです。 地球は太陽の核爆発の具合にとても左右されている。 困るのは生命体です。 特に人間は狭い範囲の温度の中でしか生きられない。 核爆発が少ないときは、冷夏になり食物が育たず、飢えることになる。 それに火山の大爆発で、空一体を数年か煙が覆い、食物が育たず動物が死に植物と動物を食べる人間も激減した。 これらは神の仕業じゃないです。 自然の摂理です。 太陽は地球にいる生命体を干上がらせたいとか、生命がそだたないようにしてやろうとか そういう意思は無いんです。 それをまるで意思を持った存在である神とし神話を作ったのは誰でもなく人間。 太陽は人間が他の人間を殺そうと殺すまいと、関係ないんです。 神の愛は神から人間に一方通行とはそういう意味です。 治世をするリーダーは、集団をまとめるために、倫理のルールを作ってそれを守らせる必要があったわけです。 どの集団だってルールを作ってますよね? そうすることで、個性がそれぞれ違う人たちが共同生活を営めるわけです。 したがって死者の書は死者のための書ではなく 生きている人のための書。 オシリス、シリウス物語は、新しい時代を迎える物語として作られたわけで、いわば正月を祝うのと一緒。 日本じゃ年末に大掃除をして、新年を新たな気持ちで迎えるでしょ? 目に見えない体感できないものを、超えたとするのが通過儀礼。 正月も成人式もそう。 赤道に線がひっぱってあるわけじゃないでしょ?
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- Jasuru
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黙示録については様々な解釈があります。 解釈は大きく分けると4つあって、 1.過去主義 2.歴史主義 3.未来主義 4.理想主義 これから起こることとして解釈するのは未来主義で、 未来主義は別の言い方をすると千年記説、千年王国説ともいいます。 この千年紀説も2つあります。 a.千年記前再臨説 b.千年記後再臨説 私の立場は千年記前再臨説ですが、これだけ解釈も多いので、 全てのクリスチャンが以下のように考えているわけではありませんのであしからず。 終末について簡単に流れを説明すると、 この世で最後にクリスチャンとなるべき人が信仰を持つ ↓ 携挙(全てのクリスチャンが空中に挙げられイエス様と出会い、天国に引き上げられる) ↓ 7年間の患難時代 ↓ イスラエルを救うためにイエス・キリストが再び地上に来る(携挙されたクリスチャンと共に) ↓ 最終戦争(ハルマゲドン)があってサタンが捕えられる ↓ イエスを王とした王国が建設される ↓ 患難時代に信仰を持った人で殉教した人、旧約時代の聖徒が蘇る ↓ 千年後、サタンが再び解き放たれる ↓ 改めてサタンに従う人が出てくる ↓ サタンは永遠の火の中に入れられる ↓ 今ある地球と宇宙は壊され、『最後の審判』が下される ↓ 新しい天と地が作られる 『最後の審判』において裁かれるのは全ての人ではなく、 イエスを信じなかった人々、クリスチャンにならずに死んだ人々です。 臆病者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、魔術を行う者、偶像を拝む者、全て偽りを言う者は 火の池に投げられます。 クリスチャンは祭司となり、むしろ裁く側になります。そして新しい天と地で暮らします。
お礼
黙示録自体に様々な解釈があるのには驚きました。聖書は本当に奥が深いのですね……。 本当に勉強になりました。ありがとうございました。
- mmky
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#6からの追伸まで あと400年でイエスが再誕するのは初めて知りました。あと400年後、地球は無事でしょうか? ○ 心配いりませんよ。信仰者の善なる心の集合が人々にも地球にも新しい未来を与えるのですから。 『本当のイエスの弟子はその準備をしているので教会にはいない』というのは驚きです。1000年王国の準備をしているクリスチャンは教会にはいない、と解釈して宜しいのでしょうか? ○ 神は常に新しいワインと新しい皮袋を用意なされるのです。この意味はいつも古いものは捨てられると捉えればよいのです。だから、「1000年王国の準備をしているクリスチャンは教会にはいない。」のです。つまり、現代も未来も新しい聖書が次々に出されるということでもあるのですね。神も進化しているのです。それが真実なのですよ。「教会人よ! いつまでそんな古いしきたりや教えに縛られているのだ!現代のパリサイ人やサドカイ人になりさがったのか! 我が主はそんなことを望まれてはいない。我が意を知りなさい。我が意を行なえ。それが真のクリスチャンである。」とイエスは言われるでしょう。 その意に応じて答えていますので間違いありませんよ。 まあ、現代の日本に生まれた者はそれを知る義務があるということですね。あなたも間違いなくその一人ですよ。ただ肉の目ではなく心の目で見ないと真実は見えてきませんね。
お礼
追伸有難うございます。地球の新しい未来が楽しみです。 神が進化しているというのは驚きです。教会のいる人々いがいだけが完全ではないのですね。 何度も回答ありがとうございました。
お礼をありがとうございました。 御礼の内容に付きまして、二点ほど追加させてください。 1)”ヨーロッパのキリスト教は一枚岩”というのは、誠に言葉足らずで、質問者様をびっくりさせてしまい、申し訳ありませんでした。イギリスの国教会のためにピューリタンの人たちが、ドイツの新教徒のためにカソリックの人たちが、新大陸に渡ってきたことを思うと、”歴史的な”(現在のことではない)ヨーロッパのキリスト教は、ひとつになって、異端者を阻害する傾向にある、ということを一言で言い表したかったので、決して、他意のあるものではありません。 アフリカンアメリカンの人たちが、”イエスは黒人であった”と主張したり、ユダヤ人の人たちが”イエスの教えはユダヤの教えの焼き直しである”と言い張ったり、するのがまあ、まあ、許される、アメリカ文化の寛容さを強調したかっただけの言い回しです。 2)貴方の、最後の審判で新しい天国・新しい地球に住むことを許されなかった人たちへの深い同情と深い悔恨について: イエスはマシュー伝で二箇所、(19:27-30,9:30-35)、マーク伝で一箇所(10:27-31)、全く違った場面で、”最初が最後になり、最後が最初になる”と結論付けています。 多くの学者によれば、これは地球上での序列がひっくり返るという、単純なものではないのだそうですが、私は、貧しい人、病の人、虐げられてきた人たちが、最初に神の国の門を入ることが出来るのだろうと、ぼんやり考えています。そうであれば”正しいことをしてきたのに報われずに虐げられてきた人は幸いである;神の国は彼らのものになる”(マシュー5:10)という文言とぴったり一致するからです。 宗教は死と向かい合うためにもありますが、この世の不公平を正すためのものでもあります。 最後に、もし悲しい気持ちに打ち負かされそうになったら、大日如来でも、阿弥陀様でも、宇宙のスピリットにでも、そのお気持ちを披瀝なさって、祈ってご覧になったらいかがでしょう。心が強くなってゆくように思います。
お礼
ヨーロッパでは昔はキリスト教はやや排他的だったのですね。現在ではキリスト教も大分穏やかになっていると思います。十字軍の頃やイベリア半島のでの闘争の頃はキリスト教の暗黒時代だったと個人的には思います。キリスト教も進化している、ということでしょうか。 イエスの黒人説、どこかで聞いたことがあります。様々な考え方があって良いと思います。 私もあなたと同じことを考えています。と、いうのも貧しかったり病気だったりした人の方が人間的にまともな傾向があるからです。人は苦しまなければ人の痛みは分かりません。だからこそ落ちぶれたことのある人の方がまともであるとさえ思っています。個人的には村山聖さんや早死にした子供達には絶対に天国へ行って欲しいです。と、いうよりもぜんぜん苦しみを知らない人が天国へ入ったら困る気もします……。苦しみを知って初めて謙虚になりますから……。 仰る通り、宗教は不公平を正す為にもあるのかも知れません。 私は割りと一日中祈っている性質です。少しは心が強くなった気もします。 何度も丁寧に回答してくださって誠に有難うございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.1&7です。 ★ 神が常に人を裁いているというのは知りませんでした。 ☆ でもわれわれも自分がウソをついたなら それを知っています。思いと振る舞いについて 善とそうではない負の善(つまり悪)とそして無記(善悪のどちらでもない)とに区分して自覚しています。 なら神が これらの《捌き》をしないで放っておくという手はないと思われます。郵便物を行き先別に捌くことを即座におこなっているはずです。なぜなら そのくらいのことは 人間でさえみづから分かっているということではないでしょうか。 ただ神は それと同時に 次のようなことをおこなっているとアウグスティヌスは捉えているようです。 ◆ (ユリアヌス駁論 1・5〔16〕) ~~~~ かの全能者は 最初の人(アダム)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ちあふれる恩恵によって滅ぼしている。 (金子晴勇訳=アウグスティヌス著作集) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 善人の悪と悪人の悪とでは その度合いや量に格差があるかも知れません。でもその格差にいっさいかかわらず神は悪をその満ちあふれる恩恵によって次から次へと出る悪から出る悪へと滅ぼしていると見ているようです。悪人にえこひいきをしていましょうか? どうでしょうか? 《最後の審判》という物語は こういう人間の真実を伝えようとしたものです。 《永遠の現在》という言い方をしたりします。
お礼
仰るとおりです。私達ですら己の嘘には気付きます。それなら神なら全てに気付いているはずですね。 神はいかにして私達を救うか考えている、と解釈して良いのでしょうか。 最後の審判は真実を伝える物語、なのですね。 『永遠の現在』とは素敵な言葉ですね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.1です。 あとでヰキぺを見てみたら 次のくだりとわたしは同じことを言っていると知りました。その点 確認しつつ 少しく添えます。 ▲ (ヰキぺ:最後の審判) ~~~~ § 教父 アウグスティヌスは、キリストが生ける者と死せるものを裁くために天から来られる最後の審判について「最後の」、「終りの」という語を付けるのは、神が常に人を裁いておられるからだと教えている。(アウグスティヌス:神の国 第二十巻一章) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ アウグスティヌスは 次のようにも書いています。 ◆ (神の国 20・1) ~~~~~ 審きの日・・・には なぜこの不正な者が幸福であって あの正しい人が不幸であるのか といったへまな口論をする余地はまったくない・・・。 (松田禎二訳=著作集) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち次のように帰結されるのではないでしょうか? ○ 《へまな口論をする余地がまったくない》かたちで《神は人をつねにさばいている》。 ☆ これが 現実である。これが現実であるということを ヨハネの黙示録などは言おうとしている。こういうことではないでしょうか? ただ他方では こうもアウグスティヌスは言います。 ◆ (ユリアヌス駁論 1・5〔16〕) ~~~~ かの全能者は 最初の人(アダム)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ちあふれる恩恵によって滅ぼしている。 (金子晴勇訳=著作集) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
2度目の回答、恐れ入ります。 神が常に人を裁いているというのは知りませんでした。個人的にはこの苦の世界にいる私達をどうやって救おうか常に心を砕いている気もしますが……。それが即ち『裁く』ことなのでしょうか。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
キリスト教の最後の審判の考え方について教えて下さい 。 終末思想はどの宗教にもあるものです。その理由は簡単で、宗教の存在意義がそこにあるからですね。 怖がらせて勧誘するというような低俗な意味ではありませんよ。人間が地上に存在できる理由とそれに従う思想・行動を知るという意味で言っています。その意味を忘れると人間は地上にその形で存在できなくなるのですね。 それ故、宗教の意味を忘れたり履き違えたりすると存続が危うくなるという意味で終末思想があるわけです。キリスト教ではヨハネの黙示録、仏教では法華経あたりの末法思想ですね。 キリスト教系ではヨハネの黙示録やノストラダムスの黙示録が有名ですね。彼らは立派な予言者ですから警告を発しているわけです。あくまで預言者としての未来予測ですから時期や確度に正確性はありませんが、それでも5、6割はあたるようになってますね。 ヨハネの黙示録はクリスチャンには解釈できないでしょうね。理由は簡単でクリスチャンの終末思想だからですね。つまり、クリスチャンを否定してその終焉を予言しているからですね。 ヨハネの予言は、イエス帰天後からイエスの再誕予定までの約2400年間のビジョンを書いたものなのです。もう2000年経ましたから残りは400年ほどですね。400年ほど後にイエスが再誕して新しい教えを説きますから、それまでに古い教えに縛られ方向を失った既存の教会やクリスチャンは一掃されるということを書いているのですね。21世紀以降は20世紀までの宗教も価値観もそれに固着する人々も全て入れ替えるということですね。大陸や大地も入れ変わりますから当然といえば当然ですね。 その前に霊的な啓示はたくさんでますよ。そうでなければ誰も存在できなくなりますからね。それが「死者がよみがえり」という意味ですね。現在がその時期ですね。クリスチャン系は厳しい未来が待っているが、残り400年耐え抜けばイエスの再誕に出会う人もいるということですね。 私も同時代に生まれ変わることになると思いますが、それ以降が本当の新しいクリスチャン、1000年王国ですね。ということで、本当のイエスの弟子はその準備をしているので教会にはいないのですね。 それにしてもヨハネは暗いよね。もっと明るい未来を書かないと好かれないよね。でも観たとおりしか書けないのが彼の定めなんでしょうね。「キリスト教の最後の審判」はそんな感じに取ってます。
お礼
『宗教の存在意義は終末思想にあり』というのは非常に学べました。終末思想があって、善として生きないと終末に地獄行き、という教えがもしかしたら最も大事なのかもしれませんね。そうしないと殆どの人は堕落しそうだからです。 ヨハネの黙示録がクリスチャンを否定しているのは驚きです。クリスチャンの為の一説がクリスチャンを否定しているのですか……。 あと400年でイエスが再誕するのは初めて知りました。あと400年後、地球は無事でしょうか? 心配です。それとも逆に言えば地球の環境が完全にダメになるまであと400年あるのでしょうか。この解釈の仕方は色々ありますね。 『本当のイエスの弟子はその準備をしているので教会にはいない』というのは驚きです。1000年王国の準備をしているクリスチャンは教会にはいない、と解釈して宜しいのでしょうか?
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
うーーん。 改めて聖書の主な物語となったアッカド神話を読みました。 どうやって古代文字を解読していったのか、その作業のやり方や、古代の文学の特徴も説明されている本です。 この物語は戯曲の手法で、ただ書いているのではなく、観衆に訴えかける言葉を使っているそうです。 例えば、「見よ エンキドはまさに・・・・」とか。 「マルドゥークは言うが早いか雷を掴み」とは、マルドゥークが雷を掴んだというそのままの言葉ではなく、怒った って表現ですね。 湾曲表現で、我々日本人も「臍が茶をわかすわ」と湾曲表現を使いますよね。 直訳すると意味が伝わらないが、日本人ならそれが意味するもおがすぐにわかり、物語についていける。 アッカド語と同じ系統のヘブライ語も、同じ特徴を持っており、湾曲表現も多々使われている。 例えば、目が見えなかったものが、目が見えるようになった と聖書に書かれているもの。 イエスの起こした奇跡のひとつとされますが、湾曲表現で、「分別がつかない浅はかな人が、分別がつく利口な人になった」という意味です。 日本語でもありますよね。「あんさんめくらどすか? これは清の時代のものでっせ」という意味は、相手が商品価値がわからないことを指摘した表現であって、視覚障害があると言っているわけじゃあない。 で、<世の終わり> end of the world となっていますが、本当は end of this age なんです。 えっと、、、地球は首ふり運動をしています。 古代は太陽が地球の周りを回っていると思われていました。 で、天文観察において太陽が通る道を<黄道>としました。 その太陽の通るところにある星々をグループ化し、名前をつけました。 おとめ座とか牡羊座とか。全部で12(現代では13) 12? 使徒も12人ですよね。 時計も12進法。 で、、、、ああ メンドクサイ 笑 リンク貼ります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B3%E5%B7%AE <この歳差の周期は約25,800年である>となっていますよね。 太陽の軌道(実際は地球の首ふり周期)は25,800年で、ひとつの星座からもうひとつの星座の間を ひとつの時代(age)としたんです。 <今の世>じゃなくて<今の時代> で、モーセが牛の偶像を破壊したと聖書にありますよね。 エジプトの偶像崇拝をしているのを怒った? ううん、違う。 モーセの時代からは牡羊座の時代になったんです。(天文学的な問題)。 その前は牡牛座のところを地球が首振りで向いていたんです。 前の時代である牡牛座の時代が終わり、新しく地球は牡羊座の方角に向き、牡羊座の時代になって書いてあるだけ。 で、イエスの時代は、イエスがいようといまいと、牡羊座から魚座の時代に移り変わったわけです。 時代が変わったので、ホルス(太陽)物語がバージョンアップして再版されたわけです。 だから、時代がリセットされたので、西暦を変更することまでした。 イエスが生まれたからじゃなくて、新しい時代の魚座に天文学上修正するため、暦を変更したわけです。 初期のキリスト教徒が魚をシンボルとしていた理由がわかったと思います。 聖書では「世の終わりにはどうすればいいのですか」と弟子がイエスに聞いている場面がある。 翻訳ミス。 「この魚座の終わりにはどうなるのですか?」と聞いたわけで、「水瓶を担いだ男の館に入ればいい」と聖書ではイエスが応えたとありますが、これですね。 http://www.hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/tenmon/00000022/32.html みずがめ座の方角に向くので、牡羊座の時代から みずがめ座の時代に変わる ってイエスが答えたという物語。 みずがめ座の次は山羊座。 全部で12。 太陽は12の星座とともに旅をしているように見えたので、イエス または オシリスの息子ホルスである<太陽>は、12人(星座)と旅をしている という物語になったわけです。 昔は漁師は星座で時間と位置を知って航海していたんです。だから星座は時計の無い時代には重要だったので、ウオッチされていたんです。 この世の終わり の本当の意味がわかって、安心しました? 知識が無いと、ノストラダムスの書いた詩を世紀末予言だとわーわー騒ぐことになる。 西暦1000年も世の中の人は この世が終わるとわーわー騒いだらしいです・・・・ 2012年と区切れが悪い数字なのに、終末が来ると騒いでいる理由がわかったと思います。
お礼
わざわざ読んでいただいて恐縮です。目が見えない、というのは『分別が付かない』という意味とは思いませんでした。ひとつ勉強になりました。ありがとうございます。 『世の終わりは』『時代の終わり』と解釈すればよいのですね。 非常に丁寧に教えてくださって嬉しいです。私などにそこまでして頂いて良いのか怖くなっているくらいです。本当にありがとうございます。 そういえば2000年頃からみずがめ座に入る、と聞いた覚えがあります。あれはノストラダムスの地球の破滅理論ではなくてただ単に星座が変わるだけだったのですね。 2012年……北朝鮮が何もしなければ良いのですが……。それだけが心配です。
アメリカ在住の洗礼派です。先の回答者さんと同じく、プロテスタントではありますが、かなり立場を異にします。ご存知の通り、アメリカでは、信教の自由、言論の自由が、保障されていますから、宗派によって、黙示録の解釈も、創世記の解釈も様々です。ヨーロッパのキリスト教の一枚岩の様子とは全然違います。その辺りをご了解ください。 黙示録はジョンのビジョンを書き表したことになっています。(それがエジプトの多神教の偶像崇拝とどう関係があるのか、私にはよく判らないのですが。) この世界の終末には新しいヘブンと新しい地球が創造される。それに従って、誰がその新しい地球の住人になるのかを選ぶために審判が行われる。 そこで、宗派によって、あるいは個人の考え方によって、誰が裁くのか、誰が裁かれ、誰がチケットをもらうのか、チケットをもらえなかった人はどこへ行くのか、の判断が分かれることになります。 選民であるユダヤ人はどうなるのか、すでに死んでしまっている人はどうなるのか、殉教者はどうなるのか、キリストの教えを聞いたこともない人はどうなるのか。などなど。今までのところ、同じ宗派でも意見の全く同じ人は稀です。ですから、No1さんがある意味では物語である、とおっしゃるのも、私にはわかる気がしますし、No。3さんのような正統派の考えもご立派だと思います。 正直なところ、黙示録は、何度読み返しても、神秘そのものです。一応、筋書きは理解はしていますが、現実的な話、禁教令に遭って、牢獄に閉じ込められ、挫けてしまいそうになった信者達や、謂れもなく奴隷として売買された信者達へのラブレターであるようにも思われます。 平和な国に平穏に暮らしている私達には、ちょっと想像のつかない、ものものしい世界が開示されているからです。
お礼
ヨーロッパはキリスト教が一枚岩、というのは初めて知りました。天国は未来(?)の地球というのは非常に驚きました。同じ宗派ですら意見が同じ人が稀というのも驚きました。個人的には同じ宗派なら大体同じ考え方をしている、と思いましたので……。 黙示録が何かはやはり分かりませんね。黙示録が書かれたのがかなり昔なので、当時の世相を繁栄していると私は思っていました。仰る通りものものしいです。聖書は未だに色々と分からない部分が多くて、本当に一生モノです。 関係の無いことだとは思いますが、書かせてください。人には欲がありますね? 私にもあなたにも。そして欲は『満たせば消え』ますよね。仏陀は王子様です。だからこそ仏陀は欲が全て満たされて出家できたのだと思います。欲を満たせば欲が消えてよい人になるのかもしれません。お金持ちの人に割りと優しい人が多いのは『大体の欲が満たされた満足しているから』だと思います。 私が死後の世界は無限にあったら良いな、と思っています。と、いうのも人によって幸せが違うからです。ある人は座禅をして過ごしたいでしょう。ある人はスポーツをしたいでしょう。ある人は勉強したいでしょう。ある人は神様に祈りたいでしょう。 人によって人生の悲しみも違います。例えば子供に先立たれた親の悲しみは完全には癒えません。だからこそ私は『人生の悲しみを癒す為の』世界もあればいいな、と思っています。 最後の審判で選ばれた人が地球に住むとします。私が仮に選ばれたとしたらその地球で精神を病んで死んでしまうと思います。と、いうのも私は選ばれなかった人達が可哀想だからです。今この瞬間でも飢えそうな人々、後悔に悶える人々、苛め抜かれた人々、無念のうちに亡くなった人々を思って辛いです。それで常に辛くなっているのが私です。この前ハープの曲を聴いたら苦しみ悶えて死んでいった先人達に対する涙が10分近く止まらなくなって困りました……。少なくとも私は『全ての人が幸せ』でなければ自分も幸せではありません。私が仮に選ばれたとしたら選ばれなかった人達を救うために必死に頑張ります。もしくは天国に選ばれても辞退します。そうして私を犠牲にして他の人の幸せを願います。変人ですみません……。 折角答えていただいたのにケチをつけたようで申し訳ないです。私の考えが正しいかどうかは全く分かりません。私の考えはあくまでも『私の希望』ですので……。どちらにしろあなたのその回答に現れた好意はとても嬉しかったです。
- cincinnati
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>クリスチャンの方々にも最後の審判についての考えを伺いたいと思って質問しました。 このような回答の場を与えてくださってありがとうございました。私はクリスチャンです。プロテスタントのある教会のに所属しております。従いまして、モルモン教、エホバの証人、統一教会とは関係ございません。またカソリック教会などとも見解において相違があります。 最後の審判というときに思いつく聖書の箇所は以下のような所が思い浮かびます。 「なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」(コリントII5:10) 「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように」(ヘブル9:27) 私どもプロテスタントのクリスチャンは聖書の言葉を100%神の言葉と信じておりますので、その言葉を自分の都合で別の解釈をしてみたり、一部は信じるた他の部分は信じないという捉え方はとっておりません。たしかに聖書はまた日本国が形成されてもいない時代に書かれましたので、表現や説明の方法は現代の科学論文のような論理的な組立になっておりません。しかしおとぎ話に聞こえるような内容を理解すると実は神が浮き上がってくるように構成されています。またその神はイエスキリストトという実在の歴史上の人物を通して人間にも理解できる神の性質を説明しています。それは「私は命であり、真理であり、道である。私を通してでなければ神をしることはできない。」と述べられているとおりです。 さて上のコリント書およびヘブル書の記載はご質問者さんのご質問に関してクリスチャンが考えていることを示していると思います。つまり私は死んだ後今まで自分がしてきたこと、自分が知っていて他人には隠されていたことすべてが示されて神の前で弁明しなければならないような状況に陥るのだと思っています。その結果私は天国か地獄に行くことになるのだと理解していますが、幸いなことに聖書では次のようにも述べています。 「神はそのひとり子を賜わるほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。」 実はこの後に「信じないものはすでに裁かれている」という言葉が続きます。つまり信じている人はすでに天国にいるときと同じような歓喜を味わっているとも解釈することができます。 この地上ではクリスチャンと言えども仕事や学業や経済的な問題、人間関係で悩むことがありますので、完全な喜びを経験することは難しいと思いますが、最後の審判の後は信じることと信じないことによる差はそれこそ大変なことになるだろうと思っています。 罪人の頭のような者の罪が、ただイエスキリストを信じることにより最後の裁きの時でさえ、罰せられることがなく天国に入ることができるというのは驚くべきことだと個人的には思います。さらに死んだ後この世を離れて、裁きの座に付いたときにイエスがこのものの罪は私が身がわりとなって負いましたので、このものに罪はありませんという宣言が聞かれるのか、なにはともあれ裁きの場を通過するのかわかりませんが、本来帰れべき場所にかえるのを楽しみにしています。
お礼
お礼をするのはむしろ私の方です。回答してくださってありがとうございます。 聖書を全て真実と考える宗派もあると知って勉強になりました。私は『聖書の誤謬説』をある牧師に教えてもらったので、宗派でかなり考え方に違いがあるのかと思います。(ちなみに私は洗礼は受けておりません) 罪人が天国へ入れるのは私は次のように解釈しています。『悪人は幸いである』という部分が聖書の中にあったと記憶しています。それは自らが悪人であると『自覚している』からだと私は思います。だからこそ自分に自信を持ちかねない善人よりも自らが悪を犯しかねないと自覚して気をつける悪人の方が良いのかと思っています。ペトロがイエスを裏切ったのも信仰に於ける『余計な自信を失うため』『信仰に対しても謙虚になる為』と私は思っています。 刺青クリスチャンという本でもまさしくその通りかと思います。
- kigurumi
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最初の話かどうかは現在確認できていないのですが、エジプトの壁画に描かれている物語は、イエスとそっくりの内容のものなんですね。 もちろんエジプトの壁画の方がずっと古い。 古代のエジプトの観念としては、人は死ぬと「最後の審判」とされるものを受けることになっています。 モーセの十戒律は10ですが、エジプトのものはそれを含む40以上ある。 「私は人を殺しておりません」 「私は裁判で偽証しておりません」 などなどを死後告白することになるとされました。 それで死んだ人の心臓がマアトの天秤と呼ばれるものの片方に置かれ、もう片方にはマアトの羽が置かれるとされた。 マアトは法・真理・正義をつかさどる女神とされていました。 その羽とつりあわなかった つまり マアトの法・真理・正義にかなっていないものは、心臓がアメミットに食われ永遠に復活できず、かなったものは、オシリスが支配する死の国に行くとされた。 そして地上で災いが起こったとき、オシリスが再来し人々を救うとされた。 これが古代エジプトの死生観で、イエスの元ネタです。 この物語が最初なのかどうかは不明ですが、人とともに観念も移動していき、パレスチナの地域に古代エジプトの死生観が名前を変えて存在し続けたわけです。 イエスの誕生日の12月25日も、誕生秘話も、洗礼を受けたことも、12人とともに旅をし、たくらまれて殺されたことも、元ネタはオシリス。 それはキリスト教は知っていました。 全く同じ内容だってことは。 ところがキリスト教の考えではこうです。 悪魔が信者の信仰心を試すために、エジプトにそのような神話を作らせた と。 のちにイエスが誕生し、オシリスと同じ生まれ方、生き方、死に方をやったものがイエスより何千年も前の話にあるということで、信者がイエスの実在を疑うように、悪魔がわざわざ古代エジプトにおいてやったことだ とのことです。 目的は信者を試すために、神様が悪魔にお願いして、悪魔にやっていただいた結果、イエスの話ができるよりも何千年も前にエジプトで同じ神話があった すべては信者の信仰心を試すため。 ということだそうです。 http://en.wikipedia.org/wiki/Book_of_the_Dead ちなみに、そのマアトの天秤は日本の弁護士のバッジになっています。 またこの最後の審判の概念は、日本にまで伝わり、閻魔となっています。 最後の審判の時の告白で嘘を言うと、閻魔さまに舌を抜かれるから、嘘をつけない という話ですが、子供の頃それを聞いて、真実を知っているのに、何故わざわざ告白させるのだろう?と不思議に思いました。 「私は人を騙したことがあります、私は不倫もして他人を悲しませました、私は盗人です、私は親を省みませんでした」など つぎつぎ真実を告白したら「うむ よくぞ真実を語った。お前の言ったことは嘘ではなく事実だということを私は知っている。隠さず真実を述べたお前は、オシリスの国で永遠に生きられる」って言われるのでしょうか。 じゃあ やり放題じゃん って思いました。
お礼
エジプトの壁画でもイエスの話があるとは知りませんでした。 エジプトの戒律の厳しさには驚きました。 イエスの物語は実はオリジナルではないというのもある意味では衝撃的です。 エジプトが元祖なのですね。 そういえば閻魔様の話もその通りです。神などが全てお見通しならば質疑応答の必要がありませんよね……。 嘘さえつかなければ天国へいけるなら確かに何でもやり放題です。 昔話は意外とあらがありますね。 例えばカンダタという人がお釈迦様の糸をのぼろうとしたら他にも大勢の人が来て糸が切れた、という話があります。しかしその話も良く考えてみるとおかしくありませんか? なぜお釈迦様は地獄の人々を救わないのでしょうか。地獄にいる人を見て内心楽しんでさえいるお釈迦様は腹黒いと思います。 オシリスの話を知ることが出来てとても勉強になりました。 有難うございました。 リンク先も見てみます。
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お礼
何度も回答していただいて申し訳ないです。ありがとうございます。 すみません。2012年に何かある、ではなくて星座が移行する、ということだったのですね。未だに勘違いしていました。時代が変わるだけであって(それも明確にここからは~、ここからは…と区切られているわけではない)、地球が滅亡する、ということは全く無いのですね。いい加減に覚えます。と、いうことは最近新聞の広報欄に載っているソロンの預言書というのはでたらめなのでしょうか? 何はともあれ、本当に丁寧に教えてくださって感謝しています。エジプトで洪水が起こるのは知っていました。しかし詳しくは知らなかったので非常に勉強になりました。あなただけでなく今まで回答してくださった皆様にも改めて感謝します。