信者ではありませんけれど、キリスト教には好感を持っているものです。
一口にキリスト教と言っても、長い歴史の中でさまざまな変遷がありますし、現代でも教派や国によってかなりの違いがありますから、一括りに論じるのは難しいですよね。
そのために、人によってイメージはさまざまでしょうし、これまで回答されている方の中にも、多少誤解をされている方もいらっしゃるようです。(あくまで私の理解の範囲のことですし、私自身にもきっと誤解があると思いますが。)
過去の歴史における過ちにしても、その当時の権力に利用された(或いは、キリスト教自体が権力になってしまった)ことが問題だっだのだと思います。
回答の中で、キリスト教の排他性(異教徒への攻撃性)が指摘されていましたけれど、本質はちょっと違うと思います。本来のキリスト教は、ユダヤ教の排他性を否定し、異教徒へ門戸を開いていったのが始まりだったはずです。(ただし、キリスト当時でも、ローマ帝国からの独立運動の手段として、民族主義的思想に利用されたことも否定はできませんが。)
他の宗教でも、例えば日本の戦前~戦中における国家神道なんかは、天皇を現人神として奉ることで多くの過ちを犯してきましたし、現代でも一部のイスラム教ではいまだに? 宗教ではありませんが、建前では共産主義(これも一種の宗教?)という理想を掲げながら、実際には多くの問題を抱える社会主義国家も存在しています。
結局、キリスト教自身が悪かったと言うのではなく、人間のやることにはつねに過ちがあるということではないでしょうか。少なくとも現代のキリスト教は、過去の過ちは過ちとして認めており、その点については評価すべきだと思います。
そして、現代のキリスト教の実態について思うに、もちろん全てではありませんが、本家の西欧では社会習慣化してしまい、宗教としての本質がかなり損なわれてしまっている感がありますし、逆にアメリカの一部では、新興宗教的なのりになってしまっているところも見受けられます。
ただし、私はキリスト教自体の理念(私の理解では、謙虚に人間の限界を認め、キリストに帰依することで精神の救いを得る(現世のご利益宗教とは一線画す)ということだと思うのですが、いかがでしょうか?)は、ほとんど全ての教派に共通(ただし、モルモン、物見の塔、統一教会などの一部の自称キリスト教を除く)で、非常に健全なものだと感じております。
余談になりますが、キリスト教って仏教の浄土真宗(門徒宗)とよく似ていますね。パウロ(初代キリスト教において、教義体系のほとんどを確立した人物)と親鸞の思想なんて、キリストと阿弥陀仏を入れ替えたらどこが違うのって感じです。
私みたいな軟弱な人間にとっては、これだけ徹底した他力本願は、かえってすごく魅力的に思えてしまいます。
さて、大衆宗教という言葉が否定的に使われていましたけれど、(回答された方は、権力との結びつきの意味で使われていたようですが)宗教って本来大衆のものではないでしょうか。私の理解では、一部のインテリが個人レベルで持つ思想は所詮哲学であり、自己満足の世界で完結してしまい、普遍的な救いを追求する宗教にはなり得ないと感じています。問題なのは、大衆(というより人間の本質)は体制に流されやすいということで、人間の弱さを例えばキリストとか阿弥陀仏とかに頼ることで克服するからこそ、そして集団の中で自分を見つめなおして行く(思想の独走を修正する)からこそ宗教足りえるように思います。
えらそうなことを書いてしまいましたが、私自身、キリスト教でもファンダメンタルな教派の方と話をすると、ちょっと引いてしまうところがあります。一方でリベラルな教派には魅力を感じることがありますが、これって一歩間違う?と哲学ですよね。
最後になりますが、私は基本的に唯物論的な考え方が染み付いてしまって、なかなか宗教には入り込めませんが、wa-chanさんのように、素直にかつ謙虚に信仰を持っていらっしゃる方を見ると、とても好感を覚えますし、ちょっとうらやましく思ってしまうこともあります。
長々ととりとめのない話になってしまい、申し訳ありませんでした。
お礼
ご意見ありがとうございます。まだまだ私も経験不足、勉強不足という事を感じさせられました。失礼とは思いますが、ここで皆様にお礼を言いたいと思います。本当にいろいろな意見ありがとうございました。