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なぜ仏陀は積極的に人助けをしなかったのでしょうか?
なぜ仏陀は積極的に人助けをしなかったのでしょうか? 仏陀に関する文献を読んでいて、仏陀は積極的に人助けをしていない印象を受けました。 弟子に悟りを説明する場合にも丁寧に説明するよりは喩えで説明していて不親切だと思いました。 (すみません。) 私の勘違いかもしれませんが、仏陀が積極的な人助けをしなかった理由は何でしょうか? よろしくお願いします。
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人助けすることの対象とされる「他人」は何を指しているかの問題。 何かを助ければ何かを失う、犠牲の上で成り立たせてしまう。 いくら損得感情から逃れていてしても、 万人や万物に優しくし助けることができない。 普通人の優しさは認識しえた者に対して発揮されますが、 名も顔も告げず見返りを期待せず 認識していない他人を施すことにも限界があったのでしょう。 仏陀にとって他人が大きすぎて誰も助けられなくなるのです。 器の大きさが仇となり現実逃避になる。 私も含め、中途半端な器なので「やらせてくれてありがとう」 なんて自己満足のためにしかしないぐらいで現実的ですね。
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- 島崎 信也(@zakky74)
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zakky74です。 >色々と勉強していて・・・『説明が不足している』・・・私がしっかりと分かることなら、他の人・・・全ての生徒を天才レベルにまで引き上げる・・・私は全ての人に徹底して理解してもらえるほどの教師になりたい・・・その未熟さで苦しんでいる人を救いたい、とも思いました。 なるほどですね。ここは随分と赤裸々にb-w-stepさんの心情が語られている気がします。 僕は塾の講師のアルバイトをやっていた経験がありまして、b-w-stepさんが仰りたい事の何たるかは、僅かばかりかもしれませんが共有できる気がしています。ここに関しては語り合いたいものですね。 b-w-stepさんのお話を受けて、改めて悟りについて触れたいと思います。 もう一つのご質問でのQ&Aの内容も少し借りながらのお話になります。そちらで少しだけ触れましたが、実は観術は最終理論を理解・説明する事に成功しておりますし、悟りについても明々白々です。 これは言い換えれば、悟りの科学化を為しえたと同時に科学を悟らせる事も可能にしたと表現できます。実は、僕が仏陀の悟りに関してお伝えしているのはその観点もそこかしこに入っています。 それで、今日の投稿は悟りの性格について共有しますね。 悟りは悟りです。本来は悟りには性格などありません。このQ&Aでも、仏陀が悟り知った世界は涅槃寂静・・・空しかない・・・静か過ぎる・・・とお伝えしています。 では一体どうして悟りの性格などという表現をするのかと言いますと、観術がその要素を含んでいるんですね。少しばかりお付き合い下さい。 悟った人に共通する事は、今までの複雑の世界をとにかくシンプルにします。一つから全てを整理します。仏陀であれば、空。老子であれば、道。イエスキリストであれば、愛。 皆、新しい概念を用いて全ての複雑を、或いは現象世界を理解・整理しています。 そんな中、老子の悟りとはまさに悟り一色と言いますか、純粋です。悟り100%。俗世間には興味がなく、いわゆる人間五感覚脳の認識から離れる事に成功したら、もうそこには戻らないという選択をしています。 極力、人間世界には関わらないんですね。それが老子の悟りです。 一方、これに対してとても対照的な悟りの人物がいます。それが孫子です。彼は、人間世界に積極的に入っていきます。孫子の兵法13篇のうち、まず第1篇には計る事から始めましょう・・・と出ます。その計る際に五事をもって計るとありまして(道・天・地・将・法)、その頭に道が来ます。 道を得た後に、人間世界から離れたのが老子でしたら、孫子は人間の世界にも積極的に入っていきます。 悟りを得た多くの人は、例えば仏陀・老子・キリストたちは皆、例えるならば夜の悟りです。夜は寝ますよね?安らぎますし平和ですしシンプルですし考えなくていいですし戦いません。 孫子は、例えるならば昼の悟りです。昼は起きています。忙しいですし戦争ですし複雑ですし考えばかり働きますし戦いや争いに富みます。孫子は、悟りを得たら夜の世界に生かすのではなく、昼の世界にも生かしましょうという姿勢で、積極的に人間世界に介入していきます。 (孫子は、よく誤解されるのですが、戦いを推奨などしていません。戦うな!と言っています。戦わずして勝つ道、平和であり続ける道について追求する事が前提でした) 夜の悟りと昼の悟り、人間世界に入らない悟りと人間世界に入る悟り・・・これらを共有した上で何をお伝えしたいかと言いますと、本来、悟りとは夜の悟りですし、人間世界に入らない悟りです。 人を悟らせるなんて事をしなくても良いのが悟りの本性でもあります。 それでは僕は一体どうして昼の悟り、孫子の悟りなどと言うのでしょうか?実は、それが観術の意志にも繋がります。観術の意志が、昼の悟りで勝負したい、孫子の悟りで勝負したいとの心があります。 老子は、絶対世界100%の人です。夜の悟りは、それで構いません。そして、悟りとはそういうものです。では孫子の悟りで勝負する世界とは、昼の悟りで勝負する世界とはどう表現するのでしょうか? それは、絶対世界を99%で置いておきますが1%を相対世界に持ってきます。 即ち、空の世界だけで留まるのが老子の悟りでしたら、孫子の悟りは空から一体どうやって色が生まれてくるのだろうという理解・説明を明々白々に行い、それを人に伝達・共有する事で、周りの人も悟らせていくという道です。 即ち、差を取る・・・んですね。 このQ&Aの初期の頃に、仏陀の悟りは完璧ではないといいました。その理由は、夜の悟りだけに留まっているし、絶対世界だけに留まっているからです。相対世界を無視しちゃうんですね。 夜もあれば昼もある。字数制限が来ましたが、観術は孫子流です。
お礼
昼の悟りと夜の悟りいう考え方は目からうろこが落ちました。あなたの文面は本当に丁寧な説明です。相手に分からせようと思って噛み砕いてあります。読んでいて楽しくなりました。またの回答をお待ちしています。
- 島崎 信也(@zakky74)
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zakky74です。 >人間は『色・色・色・色』しか感じ取れない、ということですね。仰るとおり、私達は物事は一定期間持続すると考えがちです。しかし一瞬たりとも全く同じ物事はありませんね。これは勉強になりました。 その通りです。五感覚と脳の認識によって色しか受け取る事が出来ない様になっています。仏陀の周りにいた人たちも、一人の漏れも無く人間五感覚脳の認識が働いている状態ですね。 一方、仏陀が悟り知ったのは空で、その事によって苦しみから解放されましたが、仏陀の周りにいた人たちにとってはそれが受け取れない認識になっているんですね。 ですから、弟子たちが質問してきたとしましても仏陀にとっては、その質問の答は、人間五感覚脳の認識からまずは解き放たれない限りは永遠に来ない・・・という事を知っていますから、何とか認識方式・理解方式を変化させようとして、色んな試みをしますね。 それが、例え話であったり、禅問答であったり・・・色々な手法がありますが、仏陀が何と向き合おうとしていたのかが観て取れますし、それと人間五感覚脳の認識に依存している人たちに対する愛を感じずにはいられません。 一方、言葉に囚われたり、五感覚の認識に囚われている状態でしたら、そっけなく見えたり、無視している様に見えたり、厳しく見えたり・・・と多様な誤解を受ける事もありましょう。 次元が違う故に起きる現象でもあります。角度は違いますが、イエスキリストも似ていますね。ソクラテスも老子もそうです。 >観術を感術と思った理由は次の通りです。私は以前観術について少し調べました。その時に周りの空間を『感じる』ということで感術かな……と思いました。 なるほどですね。 確かにその観点から観れば、観術は感術ですね(笑)。 僕が書いているブログでは、極力そうした誤解とならない様に配慮していますが。 『観術』の検索には僕のブログも(多分)引っかかりますが(手前味噌で恐縮ですが)、もし僕のブログからそうした箇所が見つかった場合は、ぜひ遠慮なく共有して下さい。僕の表現方法、伝達方法に問題があります。b-w-stepさんの観点とお力を借りながら、補足していけたらと思います。 観術によって、その人間は結果的には感性の大爆発が起きます。いわゆる悟りが当たり前の状態で、悟った人たちの連帯、悟った人たちのグループインテリジェンス・グループリーダーシップが胎動する頃には、終わりなき感動の連鎖が起きていまして、感動の中心はどこにでもありますし、感動の中心はどこにもありません。 五感覚を超えたイメージ感覚による新しい感性によって、いつもSUKKIRI、今ここが最高、何を観ても神秘・歓喜を経験する世界があります。悟りの感性が大爆発、真理が大爆発、そういう意味では、「感」という文字やイメージも相性が良いのですが、そもそもそれは悟りを前提としている為に、まずは人間五感覚脳の認識を超えてからっ!その後の世界ですね。 そして人間五感覚脳の認識を超える為の技術は、「感」ではありません(また、「感」は術にしてしまうと現段階では別の問題が起きます。これについては機会があれば後ほど)。よく、感覚によって答を得る、悟る、真理を得る、真実と出会う・・・という話を聞きますが、それはその方の勘違いです。到達するまでの未だ途中段階です。 仏陀も「感」から悟りを得た訳ではありません。 周りにいた人の大半が、その様に勘違いしただけです。 悟りを得る為に必要なプロセス、それが「観」であり、観術とネーミングが着いている意味や背景などがあります。五感覚では、感性には爆発は起きません。 まずは、明々白々に空を悟り知る事、その前段階において、人間の脳機能に固定されている認識初期設定を解除する段階に、「観」が不可欠なんです。 観術というネーミングの背景は幾つかありますが、 ・観と見 ・東洋と西洋 ・認識初期設定 などを挙げる事が出来ます。 この3つの背景に触れる事を通して、仏陀が突破した世界、突破した先で迎えた限界、が透明化してくるという非常にワクワクした世界でもありますので、もし興味ある項目がありましたら仰ってくれれば、心から歓んでお応えしますね^^ 今日は、これにて失礼します。 (b-w-stepさんとの交流はいつも楽しみなんですよ・笑)
お礼
色々と勉強していて感じることがあります。特に倫理系について強く感じます。それは本などでは『説明が不足している』ということです。 以前あなたが教えて下さったとおり、どれ程難しい概念でも丁寧に丁寧に噛み砕けば誰でも理解できます。実際に大学レベルの理論を幼稚園児に教えて理解してもらったこともあります。誰もが同じ人間です。私がしっかりと分かることなら、他の人にもわかるはずです。それを教えられないのはひいては自分の理解不足だと思いました。生徒の無力さをバカにする教師がごく一部だけいます。しかし本当に実力のある教師ならば全ての生徒を天才レベルにまで引き上げることが出来るはずです。 結局何が言いたいのかと言うと私は全ての人に徹底して理解してもらえるほどの教師になりたい、ということです。恥ずかしながら色と空の概念について完全には呑み込めていません。Wikipediaの説明でも私には難しいようです。その自分の未熟さに直面した時、その未熟さで苦しんでいる人を救いたい、とも思いました。 五感覚が悟りを妨げている面は否定できません。しかしその五感覚を上手に使って悟りに導くことは出来ないのでしょうか? 五感覚を否定するのではなく(否定も大事ですが)上手に悟りの手段と出来ないのか、と考えてしまいます。『本当の善とは悪を否定するものではなく、悪を赦して包み込むもの』と私は考えています。そこで『本当の悟りとは五感覚を否定するものではなく、五感覚をも上手に使いこなすもの』と考えてしまいます。仏陀も五感覚を使った説法をしても良かった気もします。この世には完全なものは恐らくはありません。だからこそ何事にも抜け道があります。五感覚バリバリでも悟りに至る道が無いのか、と考えてしまいました。 ブログも見てみました。しっかりと読む時間が残念ながら私にも無いのですが、興味深く読ませていただきました。ケチをつけるようで申し訳ないですが、文章の量を増やすともっと良くなるはずです。 自分の意見を主張するとどうしても他の人を苦しめる面があります。毎回毎回あなたにも嫌な思いをさせているのではと心配しています。しかし何事も徹底しないと気がすまないのが私の性分なので、許していただけると幸いです。あなたの博学さには頭が下がります。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
zakkyです。 >糸が解けたり絡まったりという現象が速いことに意味があるのでしょうか? 速いことで何か得をするのでしょうか? はい。意味がありますね。 悟りの世界を、糸を道具にして説明しています。 そして話の流れ上、b-w-stepさんに説明する際に僕が少し意識した事がありまして、色即是空・空即是色のイメージと、諸行無常のイメージと、整理整頓のイメージ、これらを同時にお伝えしようとした背景があります。 >>限りなく速くて今ここの繊細な時間の中に同時に起きている状況 という表現をしたのは、そういう意味です。 >色と色の間を行ったり来たり、というのは実は色同士の間では根本的な変化が無い、と解釈して良いのですね? 結んだ状態同士で多少形が変化しても根本的には変化がありませんね。 >色・色・色・色は結んだ状態同士の変化。色・空・色・空は結んだり解いたりした根本的な変化。 >そして私達は結んだ(あるいは解いた)状態しか見ていません。原子で考えれば分かりやすいですね。物質という原子が結んだ状態は見えていますが原子の単体は私たちには見えません。つまり私達は空を見落としているのですね。 そうですね。 似てはいますが少し違います。 今日は、同じ事を少し角度を変えながらお話しますね。 悟りから観たら、常に起こっている世界は、実は空・空・空・空・・・です。空しかありません。静か過ぎる・・・それが涅槃寂静。ですが、悟りを伝達する際には人間五感覚の認識を持った人が相手ですから、五感覚にも認識できる世界を使いながらも空を同時に伝えなければなりません。 人間五感覚脳の認識からは、五蘊という現象がありますから、この現象と悟りの世界を何とか橋渡ししなければなりません。つまり、悟りは本来は五蘊を認めないのですが、人間としての認識世界を認めた上で涅槃寂静の世界を語るとなると智慧がいるといいますか、一筋縄ではいかないと思いませんか? つまりその世界では多種多様、複雑な世界です。なのに、空しかないし涅槃寂静とは・・・。 そこで仏陀が語ります。色不異空・空不異色・色即是空・空即是色としながら、空は色に凄まじいスピードで動いて、色は空に凄まじいスピードで動いて、そのスピードが今ここの繊細な領域に限りないスピードで起きている・・・と。それが諸行無常です。 空・空・空・空・・・・から、 空・色・空・色・・・・と。 そして、そんなに激しく動き回っている世界だけがある中で、一体どうして固定された主体が生まれるんですか?として、認識主体が打ち消されますし、同時に認識対象も打ち消されます。 それが諸方無我。 悟りの世界から観ると、静か過ぎる涅槃寂静だし、人間の認識世界に起きている現象は常に速いスピードで動いている諸行無常だし、そんな中で固定的な主体などありはしない諸方無我が人間が観ている世界観です。 それなのに、静か過ぎる涅槃寂静を知らず、諸行無常ではなく常に固定された何かがあると思い、更にそれを分けて主体を創っているという事は(事実に反する動きをやっているにも関わらず)、幸せになろう、思い通りにならない、などと思う事は、何をどの様にしても、どこに行っても、何と出会っても、当然にして違和感が起きるよね?というのが一切皆苦ですね。 ですから、 色・色・色・色・・・は事実の世界ではありません。 人間が認識した後の結果の世界が、色・色・色・色・・・です。 つまり、既にもう絡まった状態から人生スタート(だから一切皆苦)なので、空を悟り知った時には苦しみがなくなったよと仏陀は言っています(照見五蘊皆空度一切苦厄)。 悟りの世界に見る4つの柱、涅槃寂静・諸行無常・諸方無我・一切皆苦と繋げて表現しています。 重要な事は、空の仕組み・メカニズムまでをも悟り知る事です。 即ち、空しかないのだったら、一体どうやって空から宇宙・銀河系・太陽系・地球・植物・動物・人間が生まれる様になっていて、一体どうやってエネルギー・量子振動・力・光・素粒子・物質・生命・精神が生まれる様になっていて、阿頼耶識・末那識・潜在意識・顕在意識とはどういうものなのか、とかそうした事を一切説明できる空の仕組み・メカニズム。 そこに到達したいとするのが、物理学・科学の姿勢でもあります。 水から見たら、確かに分子は空です。 でも分子さえも未だ、原子・素粒子・・・と続きます。 まだまだ解けます。 もうこれ以上は解く事が出来ない・・・それが純粋なオリジナルの空の様相であり、仕組み・メカニズムはそこに到達せねば理解出来ません。 字数制限が。 ところでお聞きしたいのはb-w-stepさんが観術は感術ではないかと思っていると何度かお伝え頂いていますが、どうして感術だと思われましたか?
お礼
人間は『色・色・色・色』しか感じ取れない、ということですね。 仰るとおり、私達は物事は一定期間持続すると考えがちです。しかし一瞬たりとも全く同じ物事はありませんね。これは勉強になりました。 観術を感術と思った理由は次の通りです。私は以前観術について少し調べました。その時に周りの空間を『感じる』ということで感術かな……と思いました。 これからの回答も楽しみにしています。
- 島崎 信也(@zakky74)
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zakky74です。 > やはり糸の結び方も違うのですね。と、いうことは・・・人生ならば、絡み方も違うはずです。 仰る通りです。 結ぶ、解く(ほどく)という共通の動きが働いている仕組み・メカニズムは共通ですが、一つひとつの絡み具合や解き具合は、全く違うものですから、何を入り口にして解けるのかは人によって違います。 それ故に、これをやれば悟れる・・・というのが中々なかったんですね。仏陀が瞑想によって悟りを得ましたが、多くの人が瞑想をしても悟りが来ない理由もそこです。部分的な何かによっては悟りを得る事はありません。全体的な何かと向き合い、糸が解けたり結んだりするが如く、共通するメカニズムや動きに関心を持つ事の方が悟りには相性が良いです。 > 整理整頓とは解くも結ぶも自由自在、というのは・・・そして展開と因数分解は全く逆の操作です。 僕は理系出身ですが、面白い例えを持ってきましたね^^ 数学や物理に言う変換なども似た様なものとして持って来れます。微分・積分の行ったり来たり、フーリエ変換・フーリエ逆変換の行ったり来たり・・・などですね。 >英語で言えば英単語の意味を言えるのではまだまだです。 >糸を結んだ英文と糸を解いた日本語の文章。これを自由に行き来することが整理ですね。 この例えもとても面白いものです。仰る通りです。 今日は、少しイメージを追加します。 色即是空、空即是色の様に、色⇔空は、糸が解ける世界と絡まる世界を行ったり来たり、そしてそれが限りなく速くて今ここの繊細な時間の中に同時に起きている状況の事を指します。 この時、重要な事は行ったり来たりするのは色と空を行ったり来たりするのでありまして、決して色と色の間を行ったり来たりするという事を仏陀は言ってはおりません。 雨になったり、雪になったり、氷になったり、川の水になったり・・・と変化がありますが、この変化をさして諸行無常とは言いません。諸行無常とは色と色の間を行ったり来たりするものだという様な誤解が、多くの方にありますが、悟りの世界から観た諸行無常とは、色と空の間を常に行ったり来たりするんだよ、というものです。 色・色・色・色・・・が諸行無常なのではなく、 色・空・色・空・・・が諸行無常だと言う事です。 ところが、人間の五感覚を通した認識には、 色・(空)・色・(空)と見えるので、まるで色・色・・・と見えるんですね。 色と色を行ったり来たりする事も、確かに理解・納得する世界がありますが、真に理解・納得する世界とは色と空を行ったり来たりする事を明確に理解・納得する事です。仏教にいう4つの柱のうちの諸行無常とはそういう事ですね。 ですが、伝えられる側から見たら五感覚の世界ですから空というものがイメージ出来ません。五感覚の世界でも空っぽく捉える事ができる近しいイメージ、それが無でした。 般若心経に多くの無が出てくる事も、仏教に虚無の思想が多くある事も、そうした背景があります。 因みに、なぜ虚無主義となるのかについてもここから学ぶ事が出来ます。空でしたら、また結ばれてくるのでとても安心なのですが、無は五感覚から見て無・・・ですね。実は当人は未だ五感覚なんです。 悟った人が、五感覚の人に五感覚をとりあえずはなれる様にさせる一つの道具が無なのですが、五感覚を離れる事が出来ない状態で無を聞くと、まるで有るものが無くなるから怖いとか、不安に感じたり、得たり蓄積する世界に意味が無くなったりするんですね。 諸行無常や虚無が陥り易い現象です。ある人はこれを無病と言っており、僕はこの表現を気に入っています(五感覚中毒は有病。無病はこれを否定した際に空にまで到達できていない状況)。 > 1つ閃きました。糸を解くのと結ぶ・・・つまり悟るとは『糸を完全に操る』ことではないでしょうか。 素晴らしい気付きですね。こうした気付きの蓄積は、僕は宝物だと思います。ぜひ宝物を皆さんで共有して下さいね。 ところで、糸を解くと失われてしまう気がするのは、人間だったら起き易い心理現象です。それは人間の認識のパターンによるところが大きいですが、人間の脳の認識は部分だけを取るクセがあります。全体と出会っていても、人間の脳の認識からは部分しか取れません。 ですから、本来は一本の糸と出会っていても、まるで結び目だけしか目に入りません。3時間前も今も3時間後もずっとずっと結び目だけが目に入ると、やがては結び目だけが有ると思います。逆に言えば、結び目の直ぐ隣にある細さは無いと思います。 失う気がするという事は、多くの場合は無いと思う事へと繋がっている様です。糸が解けるのは、未だ糸が残ってはいますしいつでも結べるのですが、再現できないと思っている人にとっては無となります。
お礼
糸が解けたり絡まったりという現象が速いことに意味があるのでしょうか? 速いことで何か得をするのでしょうか? 色と色の間を行ったり来たり、というのは実は色同士の間では根本的な変化が無い、と解釈して良いのですね? 結んだ状態同士で多少形が変化しても根本的には変化がありませんね。 色・色・色・色は結んだ状態同士の変化。 色・空・色・空は結んだり解いたりした根本的な変化。 そして私達は結んだ(あるいは解いた)状態しか見ていません。原子で考えれば分かりやすいですね。物質という原子が結んだ状態は見えていますが原子の単体は私たちには見えません。つまり私達は空を見落としているのですね。 色同士の行ったり来たりは原子で言えば固体から液体へ。木が燃えて二酸化炭素が発生。しかし空という原子単体は見ていません。 前々から思っていましたが『観術』は私は『感術』と思っています。 ありがとうございました。本当にとても勉強になりました。このやりとりは人生の宝物です。 ※仏教における色(しき、サンスクリット:ruupa)とは、一般に言う存在のことである。 ※仏教の空(くう、梵: śūnya、巴: suñña)とは、固定的実体もしくは「我」の無い事や、実体性を欠いている事を意味する。 引用:wikipedia
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
zakky74です。 >人によって生育環境が違うのでその人の性質と言う糸の結び方も違うのでしょうか。 全部、違います。もし、後に機会を見つけましたら糸が結ばれていく仕組みにも詳しく触れますね。 > ところで『積み上げる』と『手放す』は分かりました。では『積み上げたものを整理する』というのはどうなのでしょうか。私達は知識などを『積み上げて』柔軟性を失います。そこでパソコンのハードディスクを最適化するごとく『整理する』という概念はどうなのでしょうか。自分の知識を点検して直すところは直し、つなぐ所はつなぐ。個人的に『手放す』というのはどうしても損をする気がしてなりません。貧乏な生活をしていると何かを手放すのが惜しくなります。壊れたものをいかにして活用するか考えて生きていますので……。私は積み上げた物を『大事にして整理整頓して』生きて生きたい気もします。手放すのは最低限にして。貧乏性は嫌ですね。 糸を用いて表現してみます。 積み上げたものというのは、糸が絡む世界です。1つ絡み、2つ絡み、3つ・4つ・5つ・・・と絡み、1000・2000と絡んでくると、34個目の絡みと749個目の絡みを同時に見たい時が来ても、その他多くの絡みによって、もはやどこにあるのかもどの様に関係性があるのかも、とても見えません。 整理するという事は、糸を解き(ほどき)、34個目の絡みと749個目の絡みの因果関係が見えた時にスッキリするという事ですね。ですが、見えただけでは理解とは言えず、絡みを確認して、絡み同士の繋がりを見ただけで留まります。 ですから、真の意味で整理整頓とは言いません(覚えた単語と単語の因果関係を見ただけです)。真に整理整頓の状態とは、糸をこれ以上無いくらいにまで引き伸ばして真っ直ぐの状態となり、もう一度、結んで再現する事が出来る状態です。そして、いつでも真っ直ぐにまで解いて、何度も結んで再現する事が出来る。この繰り返しを超スピードで行える時に、整理整頓と言えるでしょう。 整理整頓の世界は、理と頓が入っています。 理は、仕組みですね。 頓は、今ここ・・・の瞬間的な世界ですね。 整理整頓とは、今ここ常に働いている仕組み・メカニズムの事を指します。 色即是空、空即是色の世界ですね。つまり、糸が絡む色と、糸がこれ以上は解けない世界にまで解かれる空とが、今ここ常に行ったり来たりしている状態です。 > ところで悟りは私は『無』だと思いました。・・・私は素晴らしいものだと思います。 無と空は違います。 無は、悟りに向かうプロセスで重要な概念ではございますが、無が悟りではございません。無は、有と共に存在していると言いますか、無と有は双子の様な間柄ですね。お互いに相対です。 空は、相対を許しません。 糸で表現するならば、有と無は未だ解かなければならない2つの絡まりとして存在しています。そして、この2つの絡まりはお互いに双子です。空は、これ以上は解き切れない真っ直ぐの状態です。 ですから有だけの概念から解き放たれても、悟りは来ません(虚無)。 そして、無だけの概念から解き放たれても、悟りから遠いです。 有と無は、同時に解くべき双子です。 積み上げたものを手放すという時に、何か損した様な気分になったり、不安恐怖に駆られたりするのは、こうした有と無の整理整頓が済んでいない状態です。そして、空を悟り知っていない状態だから起きる事です。 空を悟り知り、整理整頓できる自分の状態でしたら、いつでも再現できる事を知っています。再現できるのだから、捨ててもいいし、切ってもいいし、離れてもいいし、無くなってもいいです。 空即是色のイメージがあるんですね。 色即是空だけで終わると、何かなくなってしまうイメージだけが先行してしまいます。ここがまさに仏陀の弱点です。仏陀は、色即是空についてはよく説きましたが、空即是色についてはほとんど語りませんでした。 これは歴史上の覚者みんながそうです。 空即是色こそが、宇宙の誕生メカニズムの事であり、まさに科学・物理学が捜し求めている答でもあります。空しかないなら、一体どうやって全ての現象が生まれたのよ?・・・それをハッキリさせ切れなかった仏陀でした(ですが、当時のミッションは十分果たしたかと思います)。 空から色が、一体どうやって? 真っ直ぐの糸が、一体どうやって結ばれてくるのか? それが明確になるからこそ、色即是空、空即是色であり、整理整頓の世界に突入します。 この時、b-w-stepさんが損する気分になったり、貧乏性というのは解消できるかと思います(笑)。
お礼
やはり糸の結び方も違うのですね。と、いうことは仏陀にとっての糸の解き方と私にとっての糸の解き方は違うのですね。人によって違う人生ならば、絡み方も違うはずです。 整理整頓とは解くも結ぶも自由自在、というのは成る程と思いました。中学数学の展開と因数分解を思い出します。解くという展開と結ぶという因数分解。それを完全に習得しなければ中学数学は残念な結果に終わります。そして展開と因数分解は全く逆の操作です。 英語で言えば英単語の意味を言えるのではまだまだです。 say:言う 単語の同士の絡まり(=コロケーション)を理解してもまだまだです。 say helo to~:~によろしくと言う。 糸を結んだ状態を次のように仮定するならば 『I want to say hello to you.』 糸を解いた状態が次のような状態かと思います。 『私はあなたによろしくと言いたい。』 糸を結んだ英文と糸を解いた日本語の文章。これを自由に行き来することが整理ですね。 1つ閃きました。糸を解くのと結ぶことではある意味では何も失われないのかと思います。糸を解くと何もかも失われてしまうと思い込んでいた私は間違っていたようです。糸自体は失われません。結ぶ方法さえ覚えきれば何度でも結べます。もしかしたら違う結び方も試せるかもしれません。人生という糸を振り返って嫌な思い出も嬉しい思い出を解きほぐしても何も失われません。糸は糸であって解き方と結び方を知っているのは私だからです。つまり悟るとは『糸を完全に操る』ことではないでしょうか。 無は絶対的なものではない、ということですね。真実の悟りでは無と有の間を自由に移動できるのですね。 確かに仏陀の悟りは完璧では無いですね。本当に完璧な理論なら誰でも納得が出来るはずです。本当に素晴らしい教師はどれ程出来の悪い生徒でも成績を上げますから。 といころで空即是色という考え方はプラトンのイデア論に似ていませんか? この世の存在は全てイデア界を手本にして創られた、という。 一応アンチョコを載せておきます。 『色即是空……万物は互いに関係しあって存在している』 『空即是色……万物の真の姿は空であって実体ではない。』 丁寧に教えてくださって本当に嬉しいです。恐れ多いくらいです。
- Y Y(@yy8yy8az)
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仏陀には、真理を求める気持ち(欲望)が強かったから。 マザーテレサは、苦しんでいる人々を助けたいという気持ち(欲望)が強かったから。 人は家庭を、家庭は社会を、社会は国家を必要とする。 そして国家には元首が必要。 精神世界の元首、それが釈尊であり、キリストである。 釈尊は精神世界の元首としての役割が、宇宙の意思により与えられた。 言い換えれば、宇宙の精神は、人間「釈尊」を通して「真理」なるものを我々人間に知らしめた。 別に釈尊でなくても、だれでもよかったのです。たまたまその役目が釈尊だったという事。 b-w-さんは自身にどんな役目があるように感じますか。 自身をより良く生かそうと思ったとき、それは“他者を積極的に救う事”でしたか。 釈尊も生身の人間。体が二つも三つもあったわけではありません。 自身の役割だけしかできなかったのです。
お礼
人には役目があると分かりました。 仰るとおり、人によって役目は違うのだと思います。 私の役目はまだ分かりません。 ただ何事にも対応できるように日々精進しています。 完結かつ深い回答、誠に有難うございました。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
zakky74です。 何回かの投稿を経まして、主題「なぜ仏陀は積極的に人助けをしなかったのでしょうか?」や「丁寧に説明するよりは喩えで説明していて・・・」について、触れたつもりでした。 仏陀が悟りを得た事と、悟りを得た人とそうでない人との格差の話と、悟りを伝達しようとした時の彼の心情に照らし合わせながらお応えしたのが前回のお応えとなります。(素粒子やひもを用いず)空を用いたのは、そういう意味がございます(仏陀が空を悟り知り、彼が空を活用しておりましたし)。糸を用いたのも、色不異空 空不異色 色即是空 空即是色をイメージしやすくする為の道具でした。 不親切に見えたり喩え話をしてしまう背景など、他にも色々とあるかもしれませんが、一段階そうしたb-w-stepさんの疑問はおさまったのでしょうか? その疑問がおさまったら、次の段階として空について触れられるかと思います。つまり、 >ところで積み上げる『空』というか根本的な『空』は素粒子、若しくはひも理論のひもという考え方もありうると思います。 と仰る話題は、その次の段階と睨んでおります(そして何と、もう一つのテーマとも相性が良いお話ですね^^)。この辺りのお話、非常に大好きでございまして、ヒートアップする予感があります。
お礼
何度も回答して頂き、本当に嬉しいです。その回答の内容も今までで一番分かりやすい内容です。今まで私は仏教書などを読んでもチンプンカンプンでしたがあなたの回答の言葉はすっと入ってきました。『糸』というたとえ話も素晴らしいです。人によって生育環境が違うのでその人の性質と言う糸の結び方も違うのでしょうか。 ところで『積み上げる』と『手放す』は分かりました。では『積み上げたものを整理する』というのはどうなのでしょうか。私達は知識などを『積み上げて』柔軟性を失います。そこでパソコンのハードディスクを最適化するごとく『整理する』という概念はどうなのでしょうか。自分の知識を点検して直すところは直し、つなぐ所はつなぐ。個人的に『手放す』というのはどうしても損をする気がしてなりません。貧乏な生活をしていると何かを手放すのが惜しくなります。壊れたものをいかにして活用するか考えて生きていますので……。私は積み上げた物を『大事にして整理整頓して』生きて生きたい気もします。手放すのは最低限にして。貧乏性は嫌ですね。 ところで悟りは私は『無』だと思いました。本多信一さんという私の敬愛する人は次のように書いていました。『苦しみとは後天知が生み出す』と。つまり子供の頃の様な欲の少ない心こそが悟りに近いのではないでしょうか。聖書にも『幼子のような人が天の国へ入る』との記述がありました。人間は年を重ねるに従って生きる為に自分自身と言う糸を巻いてしまうのかと思います。ある人は子供を守る為に『人を陥れる癖』という糸を巻いて自分をも苦しめてしまいます。その様に自分を苦しめる原因を解きほぐすことがまさしくあなたの仰る悟りへと向かっていくことではないでしょうか。『無』が悟りという気がします。ただ苦しむ原因は千差万別で無へ至る道は無数にあるがゆえに仏陀は悟りを強要できなかったのかもしれません。ちなみに無は空しいと仰る方もいると思いますが、私は素晴らしいものだと思います。 これからの回答も楽しみにしています。
- tumaritou1
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お釈迦様の『一切皆苦』と云う言葉のイメージは、精神疾患と云う印象を受けます。是は今で言うところの『死に対する不安恐怖症』と考えても良いと感じています。この解決方法がお釈迦の教えと感じています。 精神治療の原点、或は完治すると云う究極の『心の癒しの教え』と感じています。ですが『分からない者』に教える事は出来ません。 精神疾患は、物事の見方が作り出したものと感じています。その訳は、目の前の一つの世界を『頭の中で作り変えて、その作り変えた世界で不安や恐怖にまで作り替えている事』が揚げられます。その証拠が『現実には無い不安を問題にしている点』です。現実には無いものに怯えている事が『恐怖症』と言えるからです。 普通では、不安の場合にはその対象物が目の前に存在します。その存在が無くなった時点で、不安は消えます。この場合は健常者と云う事になります。ですがその対象物が無くなった後も、心の中には不安が意識されています。 その意識に上がった事を『問題にして訴え続けるものが、具体的な症状名や病名になっています』つまり『意識地獄』の状態が精神疾患における状態となっています。意識し続け無ければならなくなった状態が『精神疾患』と云うものだからです。まさに意識地獄=一切皆苦の世界だからです。 お釈迦の教えは『究極の心理療法』とも言えると感じます。その証拠が『悟り』です。悟りに入るための事を『お釈迦の教え』と解釈しています。仏教の教えでは有りません。お釈迦の教えで今日まで続いているものには『禅』と云うものがあります。 禅による教えとは(私的な解釈ですが)苦悩を、或は不安を感じさせている者が自身の中に存在している、その者が分る事で、不安の元が全て分かる。違う言い方をするなら『恐怖症』を起こしている者が自身に内在していると云う点です。 禅による悟りの究極なものの一つに『生死の問題が解決する』と云うものがあります。。これこそが『恐怖症の完治した姿』と言えるからです。 ですが悟りに付いて説明する事が出来ない、或は、今正に恐怖症の人に、悟りの原理を提示したところで、誰も見向きもしないと考えられます。 例えば神経症と云うものがありますが、本人の言い分は『症状の解決』だけが問題になっています。神経症の原理と、完治すると云う原理を提示したとしても、おそらく見向きもしないと考えられます。 神経症の中から出る事が出来ない人は、『症状の解決』だけに焦点を当てて生きています。精神疾患の大部分が『意識に上がった事』を問題にして生きています。ですがその解決とは、その問題を問題にしなくなる事です。 つまり本人が目指す事と、本当に治った姿がかけ離れている事が、精神疾患が治り難い原因となっています。症状の解決が『意識にがって更に症状が固定されている事実』があります。 完治した姿は『症状を問題にしなくなった、成長した人間性』言い方を替えるなら、症状に振り回されない人間性の構築に有るからです。 症状とは誰にでもある『湧き上がった感情=雑念』と云うものですが、症状にまでして問題にするその人の認識が本当の問題点とも言えます。 健常者と云う人と、症状として訴える人の差は、その湧き上がった雑念を『問題にするかしないかだけです』湧き上がった感情を受入れてそのままに出来る人が健常者と云う事になります。 人間には意識が二つ在ります。一つは感じさせられている者=自我意識です。もう一つは感じさせている者です。自我意識は目の前の事やものを、もう一つの意識から送られてくる生きる為に必要な『言葉に拠らない』情報で判断しています。 この情報を意識上に上げている事が、症状名になっています。人間の高度に発達した脳の機能の理解不足が『異常ではないものを異常にまで押し上げています』 感情を湧き上がらせる者の情報の一端を書いてみます。高いところ、狭いところ、広いところ、鋭い刃物を見た時、人に会った時、人が見ている時、大勢の人がいる所、スピードを出した感じ、この時に湧きあがる感情が『症状名になっています』 この感情は誰にでも湧きあがる感情であって、問題にしなくなった時が、完治の時です。精神疾患は治り難いと言いますが、問題の視点が、全く違っている点です。 不安と云うものが存在する時の不安は、真実の世界を見ている事に相当します。不安の対象がなくなっても、或は、不安の対象が近ずいてきただけで不安を頭の中で作っている現象が『恐怖症』と云うものです。目の前に対象が無いにも拘らず、頭の中で不安を作り出しています。宗教で言う『地獄』です。 この解消方法を示したものが、お釈迦の教えですが、判り難いです。感じている自我意識と『感じさせている者』の出会いが悟りです。自身の中の自身を働かせている者との出会いです。
お礼
自己紹介のページ、読ませて頂きました。精神疾患の治療法については洋書の『Broken Brains or Wounded Hearts』を読んでみて下さい。私自身も精神医学について学んでいる時に読んで目から鱗が落ちました。精神疾患の原因を衝撃的ではありますが教えてくれます。精神科医が書いた本なので信頼性も高いです。レベルは東京大学の入試英文をすらすら読める人が大きな英和辞典で専門用語を引く、位でしょうか。英語が出来ない場合は英語を勉強してでも読む価値があります。なお私は本を1ヶ月かけてアメリカから取り寄せました。 と、書いても読める人はあまりいないかと思うので(すみません)内容を紹介します。第1章でボブという精神病の患者がいました。精神科医である著者の最初の面接の時にボブは何も話しませんでした。2回目の面接の時にボブはいきなり椅子から立ち上がって壁に向かって歩いていき、そのまま壁と10センチ位の距離をとって向かい合っていました。面接の間中、ずっとボブは壁と向かい合って時間を過ごしました。著者は結局一度もボブと話を出来ませんでした。 これは何を意味すると思いますか? ボブは異常な人間ですか? 狂っていますか? 普通に考えたら狂人でしょう。面接で一度も話をせずにいきなり壁にくっつくのですから。 しかし著者はボブに優しく接し、信頼関係を築いていきました。精神科医である著者自らがボブと一緒に遊び、語り合い、最高の友達になりました。ボブは自らの過去を著者に話し始めました。ボブは軽い身体障害を患っていました。その為父に虐待されてきました。それだけでなく同級生にも虐められ続けて生きてきました。つまりボブは『Wounded Hearts』つまり『心が傷ついて』いました。さて、その心の傷と異常な行動とどの様な関係があるのでしょうか。 著者はボブに最初の面接の話をしました。するとボブは面接で何も話せなかった理由を語り始めました。ボブはドアを開けて面接室に入るときに『ドアを正しい方法で開閉できたか』気になっていました。ボブは今まで人間に虐げられてばかりだったので人を恐れていました。そのためにドアを正しい方法で使わないと著者に責められると信じきっていました。椅子に座ってもドアを本当に正しく閉められたか否だけが頭の中で渦を巻いていました。著者にすら虐げられるのではないかという恐怖とドアを開閉できたかと言う不安で話すら出来なくなっていました。 では2回目の面接で壁の所まで歩いていった異常な行動の原因は何でしょうか? ボブは椅子に座って面接者である著者の顔を見ることが非常に辛かったのです。ドアを開閉できたか否か気になって無口になった自分。そうして迷惑をかけている対象である著者。ボブにはその現実が耐えられませんでした。著者から離れる為にボブは壁へと歩いていき、壁の前に立っていました。そうすれば著者の顔を見なくてすみます。著者からも見えずにすみます。 <精神疾患は、物事の見方が作り出したもの>とありますが、ボブの物語を読んだ時に私はボブは精神疾患にならざるを得ない非常に苦しい人生を送ってきたと思いました。つまり『精神疾患は心を病んだのではなくあまりにも苦しい人生を送ってきて心が傷ついた』のだと私は理解しました。そうして人生の嫌な面ばかりを体験して人生そのものが嫌になっている、と。人の嫌な面ばかりを見てきて人間が怖くなっている、と。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
zakky74です。 解く(ほどく)作業と積み上げる作業とお伝えしました。更に補足する様な形で話を展開したいと思います。今日は、一本の糸を借りて解くと積み上げるのイメージを共有したいと思います。 50人の子どもがいて、50人にそれぞれ長さや色が全く同じの一本の糸を配り、好きな様に結びながら、玉を作る遊びをします。時間が経った後に、50本の糸を回収した時に50本の糸が丸っきり同じ形をしているという事が起こったのでしたら、それはとても驚く事ではないでしょうか? 50本の糸は、全く違った形となって回収される筈です。50人の経験する世界が皆、違うからですね。一人ひとりが糸を結ぶこの作業が積み上げるというイメージに相当します。 糸は、単語一つであり例えば「りんご」とか「犬」の様なものです。同じ単語であっても、それを結ぶ人が違えば出来上がる単語は全く違ったものになります。 現に、「りんご」にはどんなイメージがあるかを問うてみたら、「赤い」「丸い」「ニュートン」「青森産」「お母さん」などの多様な応えがあったそうです(これは知人が実験した結果です)。 勿論、同じ「赤い」を応える人もいますね。しかし同様にして、「赤い」にはどんなイメージがあるかを問うてみたら、やはり最後には違うモノが出てきます。 同じモノだと思っていたものでも、そこに対する結び方が一人ひとり違うという事ですね。糸の結び方が違う様に、同じ単語やモノであっても、その解析や解釈などは一人ひとり違いますから、全く違うものとなっている訳です。 これだと、同じりんごだと思っていたものは、別の人からは同じりんごではないものとなってしまい、共通の土台がなくなってしまうので疎通・交流は起きない事を理解してしまうんですね。 仏陀は、この事をよく理解しておりました。 彼が悟り知った空とは、そうした全ての結びあげた(積み上げた)世界が、もうこれ以上は解く(ほどく)事が出来ないくらい、真っ直ぐの状態にまで解ききった世界の事を指し示しております。 全ての現象(結ばれた世界)は、空によって出来たよ(一本の糸)。色も受も想も行も識も、全部は空によって出来たよ。そして、空に戻っていくよ。その空が五感覚によっては見えないけれど、僕はその空を悟り知ったよ。そしたら(考えの材料が空だから)、全てが消えてなくなったよ(これ以上は解けない)。だから、苦しみが消えたよ。 の様なですね。 ただ、仏陀は自分の糸を完璧に解く事はできましたが、全ての人が一体どの様に結んで、どの様に絡ませて、どんな風にして、今の状態に至ったのかを理解・説明できる領域にはおりませんでした。 自分はたまたま解けたけど、他の人はどうやって解くのだろうか?とても大変な作業でございます。解くためには、仏陀はその人の結んだ通りの結び方を、まず自分が行い、そして次に自分が一つひとつ解く作業を見せながら、その人がそれを真似しつつ、一つひとつ丁寧に解いていく道となるでしょう。 これが、仏陀と仏陀以外の人の差を取るという事でございます。 仏陀自身が差を取ったのは、絡まった世界を解いた、積み上げた世界を解いた、という事を指しているんですね。 ところで、一人ひとりの結び方を理解するには相当難しい作業ですし、悟りを得た人から見たら、もう一度そんな絡んだ世界に入り込むのはとても覚悟がいるものです。 仏陀は、空を悟り知りました。 しかし、多くの人は空を悟っていません。五感覚がバリバリ元気なその状態で、仏陀が語る空の世界をどうやって理解できるのでしょうか?自分の糸が複雑に絡んでいる状態で、仏陀の様なシンプルに解かれている一本の糸へと、どうやって解いていけるのでしょうか? 苦行や禅の世界が、一体なにをしたかったのか、理解できる様な気がしませんか? 自分の状態を省みない(自分が絡まっている、自分が五感覚の)状態で、空や悟りを得ようとするのは、永遠に悟れないし空を理解できません。仏陀はその事を分かっていました。 多様な質問が、仏陀に投げかけられた事でしょう。 悟りとは何ですか? 空とは何ですか? その質問が、既に五感覚バリバリであり凄まじく絡まっている状態から出発した質問です。既に、自分がイメージを持った状態で質問をしますが、仏陀が例えどんな答を返しても、質問した人のイメージ体系(結び、積み上げた世界)へと吸収して、記憶してしまいます。即ち、更に結んでしまいます。 違うのにっ!と仏陀は言いたいじゃないですか? だけど言えない。 だから例え話です。 何とかして解きたい。だけど既に結ばれた世界に自分が入ってしまっては解けないから、別の糸を用意しながら、違う結び方もある事を感じてもらい、気付いた人から解いてね、と。その心から、例え話です。
お礼
丁寧に教えてくださって恐縮です。仏陀の悟りが糸の例を挙げて頂いたお陰で分かり易くなりました。学校などで仏陀について教わるときもその様な教え方をして頂ければもっと早く理解できたのに……と思ってしまいます。しかしここで理解できたのでよかったです。 ところで積み上げる『空』というか根本的な『空』は素粒子、若しくはひも理論のひもという考え方もありうると思います。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
zakky74でございます。 もう一つのご質問に対する応答に似ていて、こちらも今回はフッと空いた時間での回答をお許し下さいませ。 >悟りを『差取り』と表現するのには驚きました。素晴らしい言葉です。ありがとうございます。仏陀ですら完全ではなかったのですか……。複雑な気持ちです。 はい。 人によっては、この事が中々受け入れ難く感じる事もあるかと思います。 >仰るとおり、仏陀は国ひとつを悟らせることが出来ませんでした。自分ひとりのレベルでした。仰るとおりです。明確な悟りの定義、確かに学びました。森羅万象を完全に説明したのをあなたは悟り、と解釈しているのですね? 本当の悟りは伝播する、と。納得です。 ほぼ仰る通りです。ほぼ・・・というところにやや差を含ませておりますが、もう一つのご質問にお応えする中で、その差も取れてくる事かと思います。 >原子の話は成る程と思いました。・・・というのは胸に沁みてきました。輪廻転生の質問でもお世話になっていますが、このことを肝に銘じて勉強を続けたいと思います。 >・・・も成る程と思いました。これも心がけて勉強を続けます。 勉強も2タイプあるかと思います。 一つは積み上げていくタイプ。 もう一つは手放していくタイプ。 僕は、この2タイプを絶妙なバランスを持って共存させていく事こそが勉強だと理解しておりますが、日本の教育や身近な環境ではどうしても積み上げていくタイプの方に偏りが見られるかと思います。 部分でとって、違いを見て、名前を付けて、名前を覚えて覚えて覚えて、因果関係を覚えて、体系化されたものを覚える・・・これが積み上げるタイプですが、とても日本の相性が良いです。 これをずっと繰り返し続けた場合は、新しい知識や概念など自分が覚えている事や自分の中に格納されている因果関係や体系化されてきた道にそぐわないものは、自然に受け付けなくなってしまうんですね。自分自身も気付かないうちに○・×判断基準が働いてしまいます。 ちょっと脳細胞に電気信号が走ったり、脳機能に障害が起きるだけで、絶対と思っていたものが揺らいでしまう事実がありますね。積み上げる作業は、脳の電気信号が一定の道を走っているというイメージに置き換えると分かりやすいかと思います(違う道を走る事もできるという事ですね)。 故に、ほどく(解く)ことはとても大切です。悟る(差を取る)道とは、どこまでもどこまでも手放し解いていく道で、この繰り返しが実践そのものでもあるが故に、ここからが勉強の始まりと申し上げました。 即ち、手放した・・・という新しい積み上げになっていないかが気になったのでございます。積み上げではなく手放す方向へ歩もうとする姿勢でした。 >本当に目から鱗が落ちる思いで回答を読ませていただきました。貴重な回答、恐れ入ります。 こちらこそ、丁寧に読んで頂きまして大変嬉しいです。 この後のお応えまで、もう少々お時間を頂くことを宜しくお願い致します。
お礼
zakky74様には大分失礼な態度をとって申し訳ないと思っています。すみませんでした。今度の回答も本当に目から鱗が落ちました。 仰るとおり、積み上げる勉強だけでは違う物事を受け付けなくなってしまいます。手放す勉強と言うのも大事だと思います。 新しい回答、誠に有難うございました。もう一方の質問ではzakky74様の文言にケチをつけましたが、慣れてくると心地よくなってきます。これも積み上げた結果なのかもしれません。この後の回答、心より楽しみにしています。
お礼
仰るとおりです。例えば私はゴミ拾いをしていますが、逆に言えば私は『他人の、ゴミ拾いという奉仕活動の機会を奪っている』とも言えます。もし私の財産をハイチに寄付すると、私が普通に買い物をしたときに比べて(ごくごくわずかですが)日本の経済は停滞します。そう考えるとハイチには+でも日本には-です。私が猫を餌付けして猫の数を増やせば猫に襲われるねずみの数が増えてしまいます。このサイトで誰かの助けになると『成長の芽を摘む』ことにもなりかねません。お年寄りに席を譲ればその分だけお年寄りは足腰が弱くなります。他人に優しくするとその人の闘争心を奪ってしまって生き抜く根性が弱くなるかもしれません。 結局、自分が良かれと思って何かをやっても+と-を計算すると大体は『0』になってしまいます。そこまで考えると……奉仕活動は自己満足なのかもしれませんね。 関係の無いことですみませんが、この世の物事は+と-を計算すると大体0になりませんか? 大人として多くの知識を得れば夢を失います。(もちろん、例外はあります。)美味しいものを食べれば太ってしまいます。お酒を飲めば間違いなく肝臓は痛みます。パソコンを使う分だけ環境は悪化します。立派な物ほど作るための材料は高価になります。ゆえに立派な物ほど環境を壊します。年齢が経過すれば誰もがある程度は成長しますが、体は老いていきます。 そう考えると……仏陀の言う悟りの内容も徐々に分かってきます。 『器の大きさが仇となり現実逃避になる。』は心に残ります。太宰治も芥川龍之介も立派過ぎる人は逆に現実に適応できないのかもしれませんね……。 何はともあれ心に響く回答を有難うございました。