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なぜ仏陀は積極的に人助けをしなかったのでしょうか?
なぜ仏陀は積極的に人助けをしなかったのでしょうか? 仏陀に関する文献を読んでいて、仏陀は積極的に人助けをしていない印象を受けました。 弟子に悟りを説明する場合にも丁寧に説明するよりは喩えで説明していて不親切だと思いました。 (すみません。) 私の勘違いかもしれませんが、仏陀が積極的な人助けをしなかった理由は何でしょうか? よろしくお願いします。
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人助けすることの対象とされる「他人」は何を指しているかの問題。 何かを助ければ何かを失う、犠牲の上で成り立たせてしまう。 いくら損得感情から逃れていてしても、 万人や万物に優しくし助けることができない。 普通人の優しさは認識しえた者に対して発揮されますが、 名も顔も告げず見返りを期待せず 認識していない他人を施すことにも限界があったのでしょう。 仏陀にとって他人が大きすぎて誰も助けられなくなるのです。 器の大きさが仇となり現実逃避になる。 私も含め、中途半端な器なので「やらせてくれてありがとう」 なんて自己満足のためにしかしないぐらいで現実的ですね。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.25,ANo.11と13 【悟りと奉仕とは別の次元】としてしまうこともできますね。精進一途(精進三昧)の世界には、当然、奉仕も入ってきます。自己犠牲も。究極存在への捧げ霧ですから。そこに対象者の選択はなく、自己側の究極存在への奉仕ということの中の事柄です。そして対象者に苦しむ究極者をみれば、関って行きます。 【創造者の夢という】というのは【価値観】ではなく、地上の形象現象が創造者の夢だという実感でしかありません。 【仏陀にとってはこの世は夢】であり、スクリーン表面のイメージの紡ぎでしかない。だから光である意識が通過しているフィルムをきちんとすれば(或いは手を加えれば)、スクリーン表面の夢ドラマが変わっていく。釈尊はそういう力があって、結果である現象にとやこうと、拘泥する必要がなかった。 私の先達さんと窓から光景を見ていた。先達さんはのどかな田園と美しい自然、そして幸せな村人の光景でした。私にはお互いに齷齪と働くばかりの、人達しか見えなかった。見かた(見る側の意識構成)によって、現実が違う。 では客観的現実はどうか。それはない。だから、仏陀はできたのであるが、みんなが自分を置いている意識根源においてフィルムに手を加えれば、蜘蛛の糸のカンダッタの世界も変わり、蓮池の底が無上の天界ともなる。
お礼
奉仕や自己犠牲は大事だと思います。自己も対象者も究極存在の見る夢と考えるとそれ程違いは無い気もします。 仰るとおり、地上の現象が創造者の夢、というのは説得力があります。 何事も見方が大事ですね。村人の話はとても為になりました。 何度も何度も丁寧に教えていただいて恐縮です。本当に有難うございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
ANo.11と13かな。 b-w-step さん。この地上で何とかうまく生きていくことや、この地上をどうにかすることとは釈尊の志向、つまり悟りということでしょうが、違う次元でしょう。 この取りとめもなく、止め処もなく変化し続ける地上界。 ここに無目的性で存在することもできよう(それは現実には無理ですが)し、価値志向的に歩むこともできましょう。 植物魂の天地一体性、動物魂の完全なる、創造者的本能性。そして人(人間ではなく)魂の認識仕分け性。 そういうものを一切包含して、創造者は唯一夢を紡ぎ構成し、紡がせ、構成させている。 そこはいつまでも終わらない、次々と続き変化し続ける。 そこを出たeternal,changeless界の存在者に自己(現象的self)を置くことですから、現象の夢界のことはeternal,changeless界の存在者と同じに、静に自己の中に含んでいるだけでしょう。 苦悩、あぁそんなもの幻想だよ。困った、そんなもの困っていないよ。 ということでしょう。 時に、縁があればちょいと手を指し伸ばす。 それが芥川の“蓮池の底に見える、苦悩界の画像への蜘蛛の糸”でしょう。 つまり釈尊の中ではこの画像界も地上の人間界もみんな救いきっている。そんなもの単なるドラマ・スクリーンの光のイメージに過ぎない。 ということだったし今もそうだと存じますよ。b-w-step さんも私も単なる画像イメージ。蓮池の水紋で描き出すイメージ。 私の今、65年ほど居るところはお江戸のハイキング地域であり、将軍のお狩場(天皇家と将軍しか持てなかった)ちいきでして、東京湾の豊葦原の広大な地域、湿地帯です。でした。 蓮池は十歳前後の私たちは遊び場でしたが(蓮根を折ると繋がっている全部が腐るので、小作人の熊さんに棍棒で追い払われて)、水面なんて実はそんなに波紋を生じません。 蓮が実はインドの思想では天界の花、ムリナリムという事での連想でしょう。 川もお江戸の大川の隅田川、荒川、綾瀬川、中川などなどがありますが、これも水紋はあまり見えない。 人間界という画像を画くには、創造者と人間の意識という創造者の夢forceでしょう。 それが人間の現われ、誕生、継続、消滅でしょう。 生々流転とは一なる創造者と、一なる人界意識の夢えいがでしかない。 そんなものだったと判ってしまえば、一緒になってじたばたするまでもない。ということでしょう。
お礼
仰るとおりです。改めて書かれてみて気が付きました。悟りと奉仕とは別の次元です。個人的に仏陀は素晴らしい人物だと思っているので、なぜ素晴らしい仏陀が奉仕しないのか不思議に思っていました。 あなたは創造者の夢という価値観の中に生きているのですね。 極端な話、仏陀にとってはこの世は夢なのであるから救う救わないというのはどうでもいい、ということなのでしょうか。この世は夢だからこそ執着するな、と。 あなたの価値観、とても勉強になります。何度も何度も回答してくださってありがとうございました。 蛇足ですがあなたと私の敬愛する本多信一さんが重なる部分があります。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
zakky74でございます。 >今迄私は仏陀の悟りは完全無欠と考えていました。しかしその仏陀ですら課題を抱えていたとは知りませんでした。それなら人助けをする前に自分助けが必要ですね。 悟りとは、差を取る事でございます。仏陀は、自分の中の多様な考えや観念の差をとる事には成功しましたが、自分以外の存在の中にある考えや観念との差を取る事には至っておりません。 2500年前のその当時は、自分ひとりで留まるレベルの悟り、その段階でよかったのでございましょう。ただ、自分の国ひとつも悟らせる事が出来ておりません。 また、彼は地球が回っている事を知りませんでした。完全無欠ではございませんよ。もし完璧な悟りでしたら、それは明確に伝わります。そして、今の時代がこのレベルではございません。完璧な悟りを得た人物は、故人には一人もおりません。 明確な悟り(仏陀の悟りは途中段階です)を得ている状態は、全てを明々白々に説明します。そして、それが明確に伝わっていきます。悟った人は、悟った人を次々と悟らせます。それが差を取る世界です。 宇宙に原子が一つも無かった時・・・初めて、原子が誕生してからというもの、その後は次々と原子が登場してきます。そして、原子は当たり前になります。ですが、原子が一つも存在しなかった時は、完璧な原子は生まれませんでした。 地球に細胞が一つも無かった時・・・初めて、細胞が誕生してからというもの、その後は次々と細胞が登場してきます。そして、細胞は当たり前になります。ですが、細胞が一つも存在しなかった時は、完璧な細胞は生まれておりません。 完成された1つが登場する事の意味は、その後に次々と生まれてきて当たり前の様になります。仏陀が完成された悟りを得て、真実との差が完璧に取れているのでしたら、次々と悟りを得る人が生まれてきますが、歴史はどうでしたでしょうか?そして、今の時代は悟りが当たり前で悟りに溢れているでしょうか? >仰るとおり2500年前は本すら無い時代です。当時の思想は現代では古めかしくてどこかちゃちにすら感じられます。 >そもそも悟りは言葉で伝えるのは深遠過ぎた、というのはありうると想います。 今まではそれで宜しかったと思います。 ですが現代となっては、それは逃げです。 今の時代は、ちゃんと言葉で伝えれる領域にまで踏み入っておりますれば、ちゃんと向き合う領域でございます。深遠すぎるものでもありますが、身近すぎるものにまで落とし込める事こそが悟りではないでしょうか? 即ち、悟りを悟る事。悟りから、悟る事。深遠過ぎた世界をも完璧に悟る事で、深遠でない世界と深遠な世界にパイプを繋ぎ、差を取る事が出来ますね。 >少し今思ったことがあります。もしかしたら人によって生きている次元が違うのではないでしょうか。仏陀の悟ったことが通用しない次元に住む人間が居たとしても不思議ではない気もします。これはあまりにも荒唐無稽ではありますが……。 次元とは素晴らしい概念を持ってきましたね。 確かに悟りの次元と、悟りを得ていない次元は違います。 仏陀は、自分の中の次元の違いは克服して次元間の差を取りましたが、他者との次元間の違いまでを行き来する事が出来ていません。即ち、全ての相対的真理を悟り知る事がなかった(絶対的真理と相対的真理の橋渡しが明確にできなかった)事が仏陀の悟りの限界でございます。 もしかしたら、聞きにくい事を言っているかもしれませんが。 如何でございましょうか?
お礼
悟りを『差取り』と表現するのには驚きました。素晴らしい言葉です。ありがとうございます。仏陀ですら完全ではなかったのですか……。複雑な気持ちです。 仰るとおり、仏陀は国ひとつを悟らせることが出来ませんでした。自分ひとりのレベルでした。 仰るとおりです。明確な悟りの定義、確かに学びました。森羅万象を完全に説明したのをあなたは悟り、と解釈しているのですね? 本当の悟りは伝播する、と。納得です。 原子の話は成る程と思いました。 <完成された1つが登場する事の意味は、その後に次々と生まれてきて当たり前の様になります。仏陀が完成された悟りを得て、真実との差が完璧に取れているのでしたら、次々と悟りを得る人が生まれてきますが、歴史はどうでしたでしょうか?そして、今の時代は悟りが当たり前で悟りに溢れているでしょうか?>というのは胸に沁みてきました。輪廻転生の質問でもお世話になっていますが、このことを肝に銘じて勉強を続けたいと思います。 <今の時代は、ちゃんと言葉で伝えれる領域にまで踏み入っておりますれば、ちゃんと向き合う領域でございます。深遠すぎるものでもありますが、身近すぎるものにまで落とし込める事こそが悟りではないでしょうか?>も成る程と思いました。これも心がけて勉強を続けます。 本当に目から鱗が落ちる思いで回答を読ませていただきました。貴重な回答、恐れ入ります。
- senyou2000
- ベストアンサー率0% (0/18)
No,1です。 ご質問と離れておりますが、 2500年前だろうと、仏陀の悟りは完全だったと考えています。 なぜなら、仏陀の云う悟りとは言葉的には難解なことではないからです。つまり仏陀の教えは 「この世のはかなさに気付きこの世への執着を捨てよ」 に尽きると思います。なぜかというと、同じインドのヒンドゥーの概念がそれだからです。 この世への執着を完全に捨て去ることが出来て初めて、魂は神と一体となる。さらにはこの世への未練執着こそが魂をこの世へ引き留め、輪廻を繰り返す事になるというものです。 仏陀は、2500年前にこれを完全に悟り、執着を捨てることが出来たはずです。 ですからこのたった一つの概念に対して、2500年前だから悟りが未熟だという考えは受け入れるには逆に無理があります。 また、仏陀が瞑想中、悟りを得るまでに起こった様々な現象は、ある段階に達しないと体験し得ない現象です。これらの現象は、2500年経った現在でさえ、修行して得られるには並大抵のことではありません。 当時も現在も、仏陀は究極の悟りを開かれた大聖であると考えます。
お礼
仏陀の教えは『執着を断て』で良かったのですね。四苦八苦や八正道などを学んでいて仏陀の悟りがとても複雑なものかと思うようになっていました。指摘してくださって有難うございます。その『現世への執着を捨てる』という根本を忘れないようにします。 この世への執着は現代の方が強くなる傾向にあります。現代では現世に執着できる物事があり過ぎます。そういう意味では悟るのが非常に難しい時代です。 仏陀が大聖である、との言葉に安心しました。私は仏陀が大好きですので……。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
悟りを得た状態であっても、未だ次なる課題がございます。 仏陀は、その課題を超えておりませんでしたが故に、積極的な人助けにまで踏み入る段階にはなかったのでございましょう。また、その時代では、それは最高の悟りでしたし、その時代でやるべき仕事でもございました。 今の時代から遡れば、今の時代の観念から色々と見えてしまう事がございます。 そのギャップを、質問者さまは感じていらっしゃるのだろうと思います(今の時代の悟りは、昔の悟りだけでは弱いという事です。この2500年の間に蓄積された観念までも全部ほどかねばなりません。それは、2500年前の悟りでは無理です)。 因みに、彼が悟り知った内容は、そもそも伝達する事が相当に難しい事までも彼は同時に悟りました。伝えたい真実がありましても、聞く側の器がありますが故に伝わりません。その事を分かってしまっている状態です。 だから、人に伝えるのは乗り気でなかったんですが、周りが教えてくださいというのでやってみるか、くらいの心情で伝達していた様ですね。伝達するには、道具が必要です。ですが、仏陀は道具を開発する事もせず、道具の必要性にも到達しませんでした。 喩えで説明するのは、伝達する際の道具を得ていない状態から、それでも何とか伝達するには・・・という当時なりの知恵でございます。 如何でございましょうか?
お礼
今迄私は仏陀の悟りは完全無欠と考えていました。しかしその仏陀ですら課題を抱えていたとは知りませんでした。それなら人助けをする前に自分助けが必要ですね。 仰るとおり2500年前は本すら無い時代です。当時の思想は現代では古めかしくてどこかちゃちにすら感じられます。 そもそも悟りは言葉で伝えるのは深遠過ぎた、というのはありうると想います。 少し今思ったことがあります。もしかしたら人によって生きている次元が違うのではないでしょうか。仏陀の悟ったことが通用しない次元に住む人間が居たとしても不思議ではない気もします。これはあまりにも荒唐無稽ではありますが……。
- eld3399
- ベストアンサー率4% (16/345)
悟りが広まらず悩んでいたんだと思います。
お礼
意外とありうるかもしれません。仏陀は生きることに悩み、老いることを恐れ、病気を忌み、死を厭っていました。とても繊細な仏陀なら人を悟らせることが出来ずに精神的に参っていた可能性も否定できません。新しい視点からの回答、誠に有難うございました。
補足
補足欄ですみません。昨夜仏陀のことについて考えていてひとつの答えにたどり着きました。 何故仏陀が悟りを得られたか。それは仏陀が恵まれていたからだと思い至りました。仏陀は王子様で美しい妻がいて子供までいました。当時では最高の環境といえます。そして現代と違って物が無い当時では、恐らくそれ以上の楽しみは無いと思います。(学問や音楽は除いて、生物固有の楽しみです)端的に言えば『現世での欲が満たされていた』という面があります。 例えば乞食は思うはずです。一度でいいから美味しい物をお腹いっぱい食べてみたい、と。どれ程その欲を無くせといわれても無くならないはずです。しかし現代の日本人にとって飽食は羨望の的ではありません。 参考:乞食の子←お勧めです。 つまり『欲は完全に満たせば無くなる』という面も見逃せません。『刺青クリスチャン』ではヤクザが敬虔な牧師になるという物語です。ここで注意したいのは『ヤクザ』という面です。お金を沢山手に入れ、舎弟がいるという権威を手に入れ、女遊びもしていた、という記述があります。ヤクザが牧師になれたのは現世での欲を徹底して満たせたからです。 一度も味わったことの無い果実を欲すように、一度も満たされない欲も永遠に続く良くとなる気がします。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
こんにちは。 細かい事ですが^^; また思うところを書いてみますね。 <<仰るとおり涅槃は凡人にはかなり難しいと思いますが、理解が不可能ではないと思います。>> 御釈迦様の教えは覚った人のために説いたものではないですから 凡人に理解(覚らせる)させるためにその方法(八正道)をといたもの。 それが何なのか(なんとなくわかった気になっていても)理解していない凡人の我々には 「難しい」という事自体も評価できないと思っています。 簡単か困難か評価できるのは理解した人のみでしょうからね^^ 我々にできるのは、御釈迦様の伸ばされた人助けのために伸ばされた手を掴み 今ここで実践するか否かだと思います。 その手(八正道)に納得がいったなら、難しい・簡単の評価は置いておくのが、 実践を円滑に進めるために有用なことと僕は思います。 ホント細かいですね^^; 思索に何かしらの役に立てば幸いです。 ~生きとし生けるものの悩み苦しみが無くなりますように~
お礼
おっしゃるとおり、悟りは難しいかどうかすら分からないほどに長大なものですね。何事も理解してみないと難易度は判断できない気もします。この様に私達が普段使う日本語ですら6歳児にはとてつもなく難しいはずですから。 ただ私は疑い深い性格で、何事も徹底して突き詰めないと信じない性質なのです。自分でも手を焼いてしまいます。人生で人並みならぬ苦労をすると極端に慎重になります。 何はともあれ、何回も丁寧に教えてくださってありがとうございました。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
こんにちは^^ maggaと申します。 僕なりに思うことを書いてみたいと思います。 何か思索の参考になれば幸いです。 まず、僕の知るところの仏陀は 「生命として苦とは何か、どのような原因で苦が生まれるか、苦の無くなるとはどういうことか、苦を無くす方法はどのようなものか」 を、悟(覚)られたのだと思います。 そしてその【生命】が苦しみを滅する方法を説かれた。 八正道ですね^^ ★ 弟子に涅槃を語る際、例えや状態の引き算(怒りが無いなどなど)で表現するのは、涅槃はそのものを言語表現すること事態が不可能な性質のものであるからでしょう。 不親切ではなく、可能な範囲で示されたのだと思います。 ★ <<悟りの内容とは凡人が推し量ることの出来ないほどに難解なのかと思います。>> とありますが、そのとうりなのかもしれません。 理解できたら仏陀の教えは必要ありませんもんね^^ 凡人のためにとかれたのが仏陀の教えでしょうから。 そして、当時の凡人(奴隷のような生活をしていた人も、農民も、商業者も)たちが、実践し、聖者になり(覚り・悟り)、ありのままの真理を、理解したのですから(経典いわく)、(もしそれが事実であるなら)我々に出来ないということは無いでしょう。 と僕は思いますよ。 ★ <<仏陀が積極的な人助けをしなかった>> 仏陀は、優先するのはよく理解する人だったと思います。 まず、良き田に種を蒔き 次に、普通の田に種を蒔き 次に、荒れた田に種を蒔く 芽の出ない(聞く耳を待たぬ者)田にいくら種を蒔いても(説法しても)時間だけ無駄に過ぎるだけですからね^^; ここでは田は「理解力・会得の可能性」となるでしょう。 良き田に種を蒔き、時間があれば普通の田・荒れた田にも種を蒔き、 良き田が実れ(覚れ)ば、その覚者に仏陀と同じように種を蒔かせる旅に出す 自分の死後もその循環がより続くようサンガ組織にもにもした・・・ 仏陀は仏陀として、生命を平等に観たとき出来うる最善を尽くされたと僕は思いますよ^^ 「仏陀は仏陀として最大限生命の助けになるであろう行為を尽くされた」と。 ★ 以上が僕の思うところでした^^ お役に立てれば幸いです。 ~生きとしいけるものが幸せでありますように~
お礼
こんにちは。 仰るとおり涅槃は凡人にはかなり難しいと思いますが、理解が不可能ではないと思います。 田に種を蒔く話は成る程と頷きました。実がなれば再び種は蒔かれる。だからこそ一番よい畑から種を蒔いたのですね。 仏陀は人助けをしなかった、というのは私の勘違いだったようです。実は仏陀は弟子の育成、ということで人助けを最大限にしていたのですから。 新しい発見の手伝いをしてくださって誠に有難うございました。
No.17です。 お礼ありがとうございました。 少し違います。 「真理」は万人に共通ですが、実践して「悟り」を得る事は、万人には大変な困難があると云う事ですよ。 釈迦は人集めはしませんでした。 聞かれれば必ず答えました。 答えを実践出来るかどうかは、本人次第です。 キリスト教のように信じる者は洩れなく救われるって思想とは、全くの別物です。 現代の仏教と「釈迦の教え」とは、殆ど別物です。
お礼
悟りへの道がとても困難、というのが成る程と思いました。恐らく私の様な凡人からしたら果てしなく遠い道なのかと存じます。仏教というと寺の厳しい修行を想像してしまいます。ですので仏陀も質問されても答えないのかと思っていました。これは初めて知りました。 現代の仏教と釈迦の教えの乖離は全く知りませんでした。
釈迦は哲学者であって、宗教家ではありません。 質問者様は輪廻転生などでも質問されていますが、絶対に存在するモノからの精神的な脱却(解脱)を、釈迦は探し発見しました。 釈迦の生きていた時代に絶対に存在する「生 老 病 死」から、そして「輪廻転生」も存在する事になっていました。 長くなるので結論にしますが、 釈迦は生きている事すら、「つらく苦しい事」で耐えられないという、「超マイナス思考者」でした。 「生きる」「死ぬ」どちらも彼にとって途轍もない「恐怖」の対象でした。 彼の「恐怖」からの脱却の方法が「悟り」という「解脱」です。 彼は、自分の心の中の恐怖を取り去る方法を見つけ出しただけで、他の人間がその方法を必要だとは思っていなかったから人助けをしなかったような印象を持つのでしょうね。 釈迦は「哲学者」であり、「救い人」「預言者」「神の子」「ボランティア団体の主催者」ではなかったって事ですよ。
お礼
仏陀は『自らの心の中の恐怖』を取り去る方法を発見しただけで、『全ての人の心の中の恐怖』を取り去る方法を発見したのではないことに改めて気付きました。人によって恐怖の対象は違うので、全ての人に対する完全な悟りは無いのかもしれません。仏陀が悟ったのはあくまでも『仏陀にとっての悟り』なのかもしれません。仏陀と違う人に対して仏陀の悟りを強要してもむしろ苦しみを与えてしまう。だからこそ仏陀は自らの悟りの押し売りはしなかったのでしょう。と、今考えました。 この場では仏陀ファンに対しては申し訳ないことを書きましたが、悟りの内容とは凡人が推し量ることの出来ないほどに難解なのかと思います。 あなたを含む今迄付き合ってくださった全ての人に心から感謝します。
お礼
仰るとおりです。例えば私はゴミ拾いをしていますが、逆に言えば私は『他人の、ゴミ拾いという奉仕活動の機会を奪っている』とも言えます。もし私の財産をハイチに寄付すると、私が普通に買い物をしたときに比べて(ごくごくわずかですが)日本の経済は停滞します。そう考えるとハイチには+でも日本には-です。私が猫を餌付けして猫の数を増やせば猫に襲われるねずみの数が増えてしまいます。このサイトで誰かの助けになると『成長の芽を摘む』ことにもなりかねません。お年寄りに席を譲ればその分だけお年寄りは足腰が弱くなります。他人に優しくするとその人の闘争心を奪ってしまって生き抜く根性が弱くなるかもしれません。 結局、自分が良かれと思って何かをやっても+と-を計算すると大体は『0』になってしまいます。そこまで考えると……奉仕活動は自己満足なのかもしれませんね。 関係の無いことですみませんが、この世の物事は+と-を計算すると大体0になりませんか? 大人として多くの知識を得れば夢を失います。(もちろん、例外はあります。)美味しいものを食べれば太ってしまいます。お酒を飲めば間違いなく肝臓は痛みます。パソコンを使う分だけ環境は悪化します。立派な物ほど作るための材料は高価になります。ゆえに立派な物ほど環境を壊します。年齢が経過すれば誰もがある程度は成長しますが、体は老いていきます。 そう考えると……仏陀の言う悟りの内容も徐々に分かってきます。 『器の大きさが仇となり現実逃避になる。』は心に残ります。太宰治も芥川龍之介も立派過ぎる人は逆に現実に適応できないのかもしれませんね……。 何はともあれ心に響く回答を有難うございました。