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なぜ仏陀は積極的に人助けをしなかったのでしょうか?

なぜ仏陀は積極的に人助けをしなかったのでしょうか? 仏陀に関する文献を読んでいて、仏陀は積極的に人助けをしていない印象を受けました。 弟子に悟りを説明する場合にも丁寧に説明するよりは喩えで説明していて不親切だと思いました。 (すみません。) 私の勘違いかもしれませんが、仏陀が積極的な人助けをしなかった理由は何でしょうか? よろしくお願いします。

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  • miko-desi
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回答No.37

人助けすることの対象とされる「他人」は何を指しているかの問題。 何かを助ければ何かを失う、犠牲の上で成り立たせてしまう。 いくら損得感情から逃れていてしても、 万人や万物に優しくし助けることができない。 普通人の優しさは認識しえた者に対して発揮されますが、 名も顔も告げず見返りを期待せず 認識していない他人を施すことにも限界があったのでしょう。 仏陀にとって他人が大きすぎて誰も助けられなくなるのです。 器の大きさが仇となり現実逃避になる。 私も含め、中途半端な器なので「やらせてくれてありがとう」 なんて自己満足のためにしかしないぐらいで現実的ですね。

noname#142902
質問者

お礼

 仰るとおりです。例えば私はゴミ拾いをしていますが、逆に言えば私は『他人の、ゴミ拾いという奉仕活動の機会を奪っている』とも言えます。もし私の財産をハイチに寄付すると、私が普通に買い物をしたときに比べて(ごくごくわずかですが)日本の経済は停滞します。そう考えるとハイチには+でも日本には-です。私が猫を餌付けして猫の数を増やせば猫に襲われるねずみの数が増えてしまいます。このサイトで誰かの助けになると『成長の芽を摘む』ことにもなりかねません。お年寄りに席を譲ればその分だけお年寄りは足腰が弱くなります。他人に優しくするとその人の闘争心を奪ってしまって生き抜く根性が弱くなるかもしれません。  結局、自分が良かれと思って何かをやっても+と-を計算すると大体は『0』になってしまいます。そこまで考えると……奉仕活動は自己満足なのかもしれませんね。  関係の無いことですみませんが、この世の物事は+と-を計算すると大体0になりませんか? 大人として多くの知識を得れば夢を失います。(もちろん、例外はあります。)美味しいものを食べれば太ってしまいます。お酒を飲めば間違いなく肝臓は痛みます。パソコンを使う分だけ環境は悪化します。立派な物ほど作るための材料は高価になります。ゆえに立派な物ほど環境を壊します。年齢が経過すれば誰もがある程度は成長しますが、体は老いていきます。  そう考えると……仏陀の言う悟りの内容も徐々に分かってきます。  『器の大きさが仇となり現実逃避になる。』は心に残ります。太宰治も芥川龍之介も立派過ぎる人は逆に現実に適応できないのかもしれませんね……。  何はともあれ心に響く回答を有難うございました。

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  • shift-2007
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回答No.16

人を救うということはどういうことなのか、 ということでしょう。

noname#142902
質問者

お礼

仰るとおりです。人助けをしても人は救えず、逆に困らせるかもしれません。何が人の為になるかは人には分からないのでしょう。だからこそあえて手出しはしなかったのかもしれません。

回答No.15

 こんにちは。  ブッダがいわゆる出家を志した動機としては 生老病死の四苦をあきらかに見ることだったと言われますが 老病死のみっつの苦については分かりやすくても 生という苦については 分かりづらいようです。  宮元啓一の説によると――これはわたしは bonbonnier という方からおそわったのですが―― 生存欲のことだそうです。  なおまだ分かりにくい部分を残すと思いますが 周りのことが目に入らずただひとりだけにおいて生きようという欲望に駆られているときの無明(無知)なのでしょうか。  ▲ 宮元啓一:苦楽中道――ゴータマ・ブッダは何を発見したか――  http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ これによると まづブッダが初め修行のためについた仙人らのおしえは こうであったと言います。  ▲ ~~~~~~~~~~   輪廻←―行為(業)←―欲望  すると、輪廻的な生存をやめるためには、つまり解脱にいたるためには、善悪の業を滅ぼせばよく、善悪の業を滅ぼすためには、欲望を滅ぼせばよいことになる。この解脱のメカニズムを図示すれば、つぎのようになる。   欲望の滅―→業の滅―→輪廻の滅(解脱)  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ところがブッダに分かっていたこととしては この《欲望の滅》などは 一時的な・心理的な・うわべのことに過ぎないということ。そこで到達した結論としては 先に触れた生存欲としての無明なのではないかだったと。欲望の起こる根源を見つけたのだと言います。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~   輪廻←―善悪の業←―欲望(貪、瞋)←―根本的な生存欲(渇愛、癡、無明)  ・・・では、欲望のよって起こる根源である根本的な生存欲を滅ぼすにはどうしたらよいか。それは、ふつうの人間には自覚できないことをはっきりと自覚すること、根本的に無知だった状態から最終的に脱出することである。  これを可能にするものこそが、無自覚、無知の対極にある智慧であると、ゴータマ・ブッダは見たのである。すると、解脱のメカニズムは、図示すれば、つぎのようなものに改められることになる。   根本的な生存欲の滅―→欲望の滅―→業の滅―→輪廻の滅(解脱)  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただしこの智慧は わたしに言わせれば たとえばブラフマニズムが梵我一如として世界との一体感を説いたことに見られるような《心がやわらがしめられている状態》だとは思います。  そう考えると ブッダはそれほど新しい考えを編み出したとも言えない。  ただたぶんですが ブッダは なにぶんにもブラフマニズムを否定しておのれの説を打ち出しましたから けっきょく神(ないしブラフマン)はいなかったわけですし 後世に説かれて来る仏性も明確には言わなかったので 拠りどころがあいまいに成ってしまった模様です。  《おのれ》を拠りどころにせよと言っているか あるいは《ブッダ自身 もしくは 観念のブッダ》をそれとするか。さらにあるいは 《戒律のみ もしくは その修行のみ》という派閥を生むことになってしまったか。《言葉では何も言い表わせない》という密教方式に走ったか。などなど 拠りどころは不明確・不明瞭なものとなりました。つまり多様なものとなりました。  ぎゃくに言えば 仏性 このひとことで済むはずだとも言えますが いづれにしても 後世においてだけではなく その思想は初めから迷走をしていたと考えられます。カリスマのごとく人びとからアイドル視はされていたようですが。  あるいはさらにつけ添えるとするならば  ○ 根本的な生存欲  ☆ に無明(無知)の根本原因を見るというのは 或る種の仕方でブディズム風の《原罪》を見たということかも知れません。クリスチアニズムでは キリスト・イエスの出現とその死で この原罪もちゃらになりましたが ブディズムでは 後世に出たアーラヤ識に通じるというようなこの原罪論が 決して正面には据えられないようですが 大きくくすぶっている。こう考えられます。  つまり 思想そのものがすっきりしないのですから 《人助け》も――いくらかの物語に伝えられた話を除けば―― やはりはっきりしない。というところではないでしょうか?

noname#142902
質問者

お礼

生存欲、という考え方は素晴らしいと思いました。私も同様の考えを持っています。今までに私は『生存本能』と呼んでいました。これからは生存欲という言葉を使わせていただきます。 人間は生きている限り悪い気持ちが付きまといます。有名になりたい、と考えるのは自然です。嫌な人を滅ぼしたい、と考えるのも自然です。その様な悪い考えは生物が生きる為に必然です。 もっと言うと善も悪も生物として自然な感情に対して人間側が勝手に分類をしている気がしてなりません。善と悪は対極ではなくて緩やかに繋がっているのではないでしょうか。 人助けに関しては是非を問う人自体があまりいなかったのかと思います。

noname#142902
質問者

補足

補足面ですみません。お礼をした後に苦楽中道のホームページを読みました。非常に勉強になりました。よく考えると私も仏陀と同じ様なことを考えていました。私も苦行に似たことをしたこともあり、徹底してだらけたこともあります。そして不思議と『生存本能』という考えが沸いてきました。仏陀と違って私は勉強を通じてですが……。 医学的に言えば苦行を通して欲望が生じる身体的・精神的な余裕が無くなるのかと思います。 仏陀信奉者に対して失礼かとは思いますが(私も仏陀は大好きです)、仏陀は全ての自称に対して考察を深めたのなら、恐らく死ぬまで答えは出なかったのではないでしょうか? 仏陀が発見したのは正しい道に至るまでの道のりだけではないでしょうか? と、いうのも古代ギリシアの思想、中世ヨーロッパの思想など、主な思想だけでも非常に多大です。理解するだけでも大変です。現代では本があるので勉強はし放題ですが、当時は本すら無かったはずです。と、なると自力で全ての思想を纏めるとなると多大なる困難を伴ったと思います。この世に全てに対する完全な理論は仏陀は作り出せなかったのでは? と考えてしまいます。仏陀好きな人、誠にすみませんでした。ただ、彼のこの世は苦という考え方や中道という考え方は私にとっては救いとなりました。 補足欄に追加の感想を書いてすみませんでした。貴重なホームページ、誠に有難うございました。

  • freulein
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回答No.14

No.6です。少し補強します。  仏教では「現世での救いがない」といっているわけではありません。「この命のある間に悟れ」との励ましは沢山なされています。救いが外からやって来るものでなく、「私の中から現れてくるものだ」というのです。だからご利益を外に求めることが既に「迷い」だとされているのです。  迷う人とは、心を尽くして欲望や憤りの道を歩んでおられるのでしょうか、仏の道を「聴く耳を持たない」のでいっそう迷うのかも知れませんね。

noname#142902
質問者

お礼

仏教は現世での救いが無い、と言っていないというのを心にとめようと思います。生きている間に悟ることが大事で、利益を外に求めない。 まずは聴く耳を持とうと思います。 自分の不勉強さ、未熟さを指摘してくださりありがとうございました。

noname#125464
noname#125464
回答No.13

仏教思想史の専門家ではありませんが、僭越ながら私見を述べさせていただきたいと思います。 インドでの宗教を考える場合、常にバラモン教(現代はヒンドゥー教)を意識して考えなければなりません。当時の仏教はまだ世界宗教ではありませんでした。インドの一ローカル宗教で、競っていかなければなりませんでした。 バラモン教は、司祭階級バラモンが最上位で、クシャトリヤ(戦士・王族階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)で、これらの中にも入らない人々はそれ以下の階級パンチャマ(不可触賤民)と言われ、身分は固定されたものでした。( http://ja.wikipedia.org/wiki/バラモン教 ) 下層階級の人々にとって、苦しみしかない状況を逃れるのは他宗教に改宗することでした。他宗教とは時系列的に列挙すると仏教→イスラム教→(キリスト教)です。他にも種々あったようですが、詳しくないので省略します。 仏教はバラモン教とは違って非常に哲学的思考を含んだ教えでした。高尚な考えを一般人が理解することは難しい部分がありました。端的に質問者さまのお聞きになっている答えを述べるとこのあたりで終わりになりますが、もう少し続けさせて下さい。 時代がずっと飛びますが、ガンダーラという歌にもなっている都市がありますよね。ここは国際都市で様々な宗教が入り乱れ、玄奘(三蔵法師)が訪れたときは仏教が栄えていたと思っていたのにそうでもなかったのに驚いたかもしれません。仏教は自身の宗教が滅んでも達観しているほど戦うことに執着していなかったようです。バラモンの支配階級に圧迫されると、戦うことをしない仏教よりも、自己主張の強いイスラム教に改宗していき、ついに仏教はインドでは現代のヒンドゥー教では一部の神様になってしまいました。 自己の存在を主張するイスラム教が多い東パキスタン(現パキスタン)と西パキスタン(現バングラデシュ)にはバラモン教の中で非圧迫階級に属した人たちが多かったのです。 仏教はといえば内部の思想的対立変遷は激しいものがありました。部派仏教→中観思想→唯識という仏教の基礎となる哲学思想が発展していきました。浄土思想ももちろん入っていますが当時の東ローマ帝国のキリスト教ネストリウス派の影響を受けた思想ではないかと一部の専門家言っています。キリストと阿弥陀仏。自己の外に絶対者を設けている点には共通点はあります。密教思想は、仏教が滅んでいく最後の思想でインドで生き残るためにバラモン教の考えを取り入れていきました。しかし対立をも厭わないイスラム教が仏教に取って代わったのです。 このあとチベット、シルクロード、中国、朝鮮、日本と伝わっていくのですが、省略させてください。 「なぜ仏陀が積極的に人助けをしなかったか」の答えはちょっと思想が哲学的で高尚すぎ、一般人には難解でバラモンの下層階級を助けるほど、実際生活においても好戦的ではなかったということではないかと思います。 最後に中観思想以後の仏教思想である程度共通するのは、形而上学を排する、形而上学に陥らないということではないかと勝手に思っています。形而上学のことはご自分で勉強なさってください。

noname#142902
質問者

お礼

宗教同士の争いが厳しいことに驚くと共に、自らを余り省みない仏教も意外でした。仏教はそもそもそれ程布教をしない、というのは非常に興味深いです。だからこそインドでは今ではあまり仏教は広がっていない、というのも驚きです。 イスラム教の自己主張が激しいのも驚きです。キリスト教よりもイスラム教の方が優しいと学びましたが、意外とそうでもないのかもしれません。 仏教自体でも内部対立が激しいのには驚きました。キリスト教の内部対立の激しさは知っていましたが、仏教は知りませんでした。どの宗教でも内部対立はあるのかもしれません。 これからも勉強を続けようと思います。この度は丁寧な回答、誠に有難うございました。

回答No.12

 ANo.11です。  皆さんのご回答と質問者様のコメントを今拝読しました。菩薩達を前にして花を以って応える話をご存じでしたか。  私は仏教は数十冊の啓蒙書しか読んでいませんし、修行もしていない素人です。創造の意識という神の教えを40年ほど精進はしています。  実は人の自主性や意志の発揮が大事だと思いついたのは、小学校の高学年でした。  何にも実際の能力がない私は、どういうわけか友人や大人の相談相手や助言者になっていましたが、何でも聞けばいいなんてだめだなぁと痛感して、その役を辞めました。  それで言葉での伝えもあまり受け取ってはくれない。意味を受け取り、理解はしてくれますが。  気持ちが大事なんです。分析したり演繹したりして、自分のカテゴリ体系で意味づけているのに気付いてとても不満でした。  自主性と意志発揮、感じ方が大事で、頂いたコメントの【相手の成長力をも奪ってしまう』という表現は少し的が違うような感じです。  自己の問題に自己がどう対処し、向かい合うか。それに四苦八苦するのが一番大事だという意味です。  だから自分でやれ、って突き放したのです。私は何も知らないよって。  根本的に自己を変えるのであれば、自己を出てしまうことが必要です。  クリシュナのお父上(魂のことですが)は伯父(父上の弟)に王国(自己性)を奪われ牢獄(ego性)に繋がれました。  獄中で生まれたクリシュナは看守(感覚や思索、思考演繹)の眠るとき(働かさせないで)そのego性という牢獄を抜け出し、育ち育てられ、父上(魂)を解放しました。  というバガヴァッド・ギータの比喩的解釈で、私たちは精進しています。ご参考までに。  http://www.yogananda-srf.org/  http://www.srf-tokyo.org/tokyo_group.php  私は宗教を嫌って、二十歳代を過ぎました。そして或るきっかけから、所謂る健康法やストレッチに応用されているハタ・ヨガを十年ほど、本格的にやりました。  でもまたあるきっかけで、いまのラージャ・ヨガにめぐり合いました。  ラージャとは武士や藩主を意味します。  クリシュナは藩主であり、武士の武士です。  それは肉体とこの思考や感覚、或いは生きるということのcontrol、支配することを意味しています。  武士とは俗界、地上界の支配者です。地上界に生まれ、意識している者、存在者はそこを支配し、controlできるようになって、根本的に自己の存在を変えていけます。  そして自己の根本存在を変えることにより、自己を支配することができます。  自己の支配ができなければ、人はただやらされているだけです。最初の基点起点もしらず、最後の理念・究極存在も知らず。  そういううちは何を使用が、語ろうが所詮は夢の幻です。  といぅのが私たちの精進です。無論、私も理屈(このラージャ・ヨーガは実は心身と宇宙の理論体系です)だけは漸く自己で判ってきたに過ぎませんが。  言葉の端はしが非常に大切でして、自分がその段階にならないと素通りしてしまうのです。  そんな過去の、そして今の経験です。  禅宗や仏教のかた、キリスト教の方も精進されています。  どの方にも異質ではないようですね。私たちのは宗教かも知れませんが、結局ヒンドゥのものっていうか宗教って理論が大事のようです。宗教は宗教ではない。信仰は信仰ではない。  と存じております。

noname#142902
質問者

お礼

 わざわざ2回も回答してくださってありがとうございます。40年ほど精進していることに驚きを感じます。質問者様はご自分の事を素人と書いていますが、私はもっと素人です。質問者様の様に謙虚になれる点でも見習うべきと思います。  実際に相談を通して、言葉では実はそれ程伝わらない、と気付けたのは意外です。逆に言えば言葉による情報の伝達を過大評価していた自分を恥ずかしく思います。花を使った言動は一般人からすると明らかに変ですが、実は的を射ているのかもしれません。  相手の成長を奪うのではなく、四苦八苦が一番大事、つまり成長ではなく『苦労』が大事、という意味でしょうか。つまり『成長』を奪うから助けないのではなく『苦労』を奪うから助けないのかもしれません。悟りとは全ての無常を知ることかと思います。と、なると苦労を通さないと悟れないのではないでしょうか。苦しみぬいたからこそ悟りは開けるのかもしれません。実際、仏陀が両極端(王子としての時間と飢え死にしそうな時間)を体験したからこそ中道という考えを得られたように。この世の無常というのは非常に悲しい考え方ですが、それはこの世で苦労しないと分からない事ではないでしょうか。 参考になるURLまで載せてくださって有難うございます。自らの価値観の狭さを痛感した次第です。後でゆっくりと読んでみます。 本当に丁寧に教えてくださって有難うございます。誠に有り難いと共に恐れ多いです。

回答No.11

 b-w-stepさん、同じ思いを持ちます。  それで私は推量しました。   1.その人の自主性を期待し、信じ、そして大切にした。   2.人のあり方は一様ではない、ことばで伝える事は不十分で一種の思いを、想念を直接に伝えている。   3.この地上的世界に関する言葉の域や世界を出ている、事柄を言葉で分析などしながら説明するのは無意味であり、限界がある。   だから、黙って花を手にして手で捻る(向きを変える)などをして、伝えようとしている。  人助けですが   これも人の自分自身が解決する問題を自分で向かっていくことが大切だという、一種のカルマ思想でしょう。   生活や地上のことの援助は、信仰や解脱への進歩で自然に、そして根本的に解決されていくものだという見解・理論でしょう。   ちょいとした慈善や博愛などは一時的で表層的だという見解でしょう。    こういう釈尊の思想は私は大事だと思っています。でも常人は具体的な、眼前の苦痛や苦悩の解決こそ望みますね。  私は20歳から66歳まで社会事業(福祉なんて新憲法での用語ですが)の老舗の大学に居ましたが、個別処遇も制度や社会の進展も重要だとは思います。  しかし、私たちがそういうことにどう対処していくかの成長がもっとも大事だと思っています。  大学はもう辞めて、10年弱になっているんですが。

noname#142902
質問者

お礼

同じ思いを持つ方が居て安心しました。 1.人助けをすると、相手の成長力をも奪ってしまう。故に人助けは人助けとは限らない。 2.言葉という手段を使うことが最善ではない。だからこそ想念を伝える為に花を手にした。 3.真理とは言葉で説明できるものではない。 人助けは表面的で一時的、相手が根本的に変わらなければ無意味というのは非常に同意します。しかし私は人を根本的に変える様な素晴らしい説教(生意気ですみません……)を考えています。どうすれば人が本当の意味で救われるのか、と毎日悩んでいます。変人だとは思いますが。だからこそ仏陀のあり方に非常なる興味を持ったのです。 質問者様、豊かな人生経験を活かした回答、誠に有難うございました。

回答No.10

悟っているからです。そして心配するまでもなく全てが悟るんですよ。 最初は仏陀には始まり最後も仏陀で終わるということですよ。

noname#142902
質問者

お礼

誠に失礼ながら私の実力不足で意味が良くわかりませんでした……。しかし仏陀が第一、ということでしょうか? すみません、より一層勉学に励みます。

  • Nucleus_
  • ベストアンサー率34% (8/23)
回答No.9

結局、自分を救えるのは自分だけだから. だと想いますよ.

noname#142902
質問者

お礼

そうかもしれません。他を救うことは出来ないのかもしれません。仏陀は人助けにすら無常を感じていたのかもしれません。この世に無常を感じるなら、人助けに無常を感じてもなんら不思議はありません。切なく、心を痛めでも仏陀は真理を見ていたのでしょうか。

回答No.8

 たぶん、人には役割と云うものがあるから。   人それぞれ天から与えられた能力の範囲内での役割、というものがあるのでしょう。   将棋の駒でたとえれば、王には王の、飛車角には飛車角の、そして桂馬や香そして歩には歩の、それぞれの役割があります。  王も、歩も万能ではないように、釈尊も万能ではありませんでした。  釈尊は、般若心経を顕わしたように、この世の真理を顕わすために生まれ出でたのだと思います。  釈尊は、神ではないのです。  万能ではありません。  もっとも、神でさえ万能ではありません。  この世の創造主であるとされる神が万能なら、この世に不幸などというものは作らなかったはず。  この世に存在する“悪魔”を創造するはずはありません。  万能ではないゆえに、そして自身の、天から与えられた役割を全うするために、出家し、過酷な修行をして、我々凡人に真理の世界を顕わしたのでしょう。  積極的の行った人、その代表的な人は、マザーテレサではないでしょうか。      

noname#142902
質問者

お礼

仏陀は万能ではない、というのは仏陀を尊敬している人にとっては辛い言葉かもしれませんが、そうなのかもしれません。だからこそ仏陀の能力にもおのずから限界があったのでしょうか。 神が万能かどうかは分かりません。しかし一回現世に生きることより『苦しみ自体を知る』『悪いことをした自分を通して自分の醜さを徹底して分かり、謙虚になる』『人生という戦場でたたきのめされて自分の弱さを徹底して知り、弱者の痛みを知る』ということを考えると、人生はやはり苦が必要かと思います。不幸があるからこそ幸せが分かると私は思います。子供の頃は普通は幸せです。しかしそれは大人になってみないと分かりません。大人という地獄へ堕ちなければ子供という天国も分かりません。それと同じ様に闇を知らないものに光は見えない、と思います。御礼でなく、説教のようですみませんでした。

回答No.7

仏教でいう究極の救済とは、輪廻からの解脱であり、 それが仏法を説く意味です。 仏陀はマンジュウを配りはしません。 仏陀は神ではなく、元来、修行者であり、自ら解脱する 道を模索しただけであり、悟りを得て輪廻から解脱して 「ブッダ(目覚めた人)」になったのです。 マンジュウを配っても、それは輪廻という巨きな苦しみを 長く、深くすることでしかありません。 あなたの言う「救済」が即物的な意味である限り、 あなたは真に救済されることはないでしょう。

noname#142902
質問者

お礼

仏陀は輪廻から離脱することが第一と考えていた、というのは改めて教えていただいて成る程と思いました。輪廻からの離脱、それが仏教のテーマであり、救済である、というのをもう一度良く考えたほうが良さそうです。即物的な救済は意味を成さない、というのはその通りだと思いました。しかし仏陀はその輪廻からの解脱を他の人に対しても導くように成さなかったのが不思議でならないのです。しかし輪廻からの解脱が救済である、というのはとても勉強になりました。初心に帰ります。