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死にたい?
祖父を亡くしてから、死にたい、と言い始めた祖母がいます。 死にたい人間が周りにいた経験がないので、その発言に対してネットで調べたり、友人や親と話したりしてみました。その中で、 死にたいと言う人間には優しい言葉をかけてあげなさい。 死ねば良いなんて言う人間は最低よ。 人には幸福になる権利があり、それは義務である。 なんて述べられていることが多いです。しかし、その根拠はなんですか? 何故、死にたいという人に生きろというのが正しいのでしょう。 すいません、道徳観がずれているようで、このように問うことすら、本来憚られるようなのですが、教えて頂きたいです。
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>死にたいと言う人間には優しい言葉をかけてあげなさい。 >死ねば良いなんて言う人間は最低よ。 >人には幸福になる権利があり、それは義務である。 >なんて述べられていることが多いです。しかし、その根拠はなんですか? 少なくとも今日、自分は死ぬ事はできないから・・・。これらは、そんな単純な感情の発露が根拠だと、自分は思っています。当然だと思います。 >祖父を亡くしてから、死にたい、と言い始めた祖母がいます。 なのでお婆さんは、「生きたい」と思っていると自分は思います。「生きたい」けれども、「お爺さんは二度と還らない」ので、お婆さんは「辛くて死にたい」のだと思います。 >何故、死にたいという人に生きろというのが正しいのでしょう。 根拠なんてありませんよ。ただひたすら、「お婆さんは幸せに生きたい」と願っているからこそ、「お爺さんが二度と還らない」事を許せないのだと、判断するだけです。 だからこそ、優しい言葉を・・・。それ以上の事は、出来ないと思います。
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- cincinnati
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>死にたいと言う人間には優しい言葉をかけてあげなさい。 >死ねば良いなんて言う人間は最低よ。 >人には幸福になる権利があり、それは義務である。 >なんて述べられていることが多いです。しかし、その根拠はなんですか? 人はいずれこの地上を離れなければなりませんが、地上にいる間はおぞましい死などについて考えないというのが通常の神経なのだと思います。ただし両親や自分と同年代のいとこなどがぼつりぼつりと亡くなる現象を見て行きますと、死というものが避けられないだけでなく、同時に帰ってゆく場所のような懐かしさもこころの内のどこかにはあるのではないでしょうか。 従いまして、優しい言葉をかけるのも元気づける意味で良い事思いますし、死期をを明確にお伝えするというのも場合によっては配慮なのかもしれません。真に幸福であるならばおそらく死を必要以上には恐れないとおもいますので、幸福感を刻一刻味わって欲しいと思います。つまり人それぞれの生き方から発言されたと思います。 蛇足ですが、もし私に同じようなことを語る祖母がいたら、以下の聖書の言葉を送ります。 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」 (「ヨハネによる福音書」11章25節)
お礼
回答ありがとうございます。 死とは、おぞましいもの。同時に、帰って行く場所。従って、(死にたい人間に)優しい言葉をかけること。もしくは、時間を伝える配慮も時には必要。 例えば、 遊んでいる子供達がいるとして、その中に、帰りたい、というものがいて、その子に、また遊ぼう、と声をかけて元気づけること。もしくは、時間だから帰れ、と配慮をすること。これらが必要。 ということでしょうか。 真の幸福を感じている者は死を恐れない。 祖母もそんな境地に至れば、死にたいと言う事も無くなりそうです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 わたしの母の母のそのまた母つまり曾祖母が 同じようなことを言っていました。 その後大人になってからふり返ると――さすが 昔の人だと思うことには―― もう家事も何も仕事が出来なくてみんなに申し訳ない 穀つぶしになってしまった ごめんしてくれよということだったのか。でした。 あぁ われながら 情けないと言っているのかも分かりません。
- kigurumi
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そっちからアプローチしても建設的なものは得られないんじゃないかと 本当に死のうと思っている人は、まわりにほのめかすことは無いです。 さっさと死にます。 周りにほのめかすってことは「助けて」って訴えているわけです。 寒くて凍えそうって言ってるんじゃないかと。 この状態の時、会話は無力だと思う。 どんな言葉も何も動かさないと思う。 童話の世界はあなどれない。 アルプスの少女が、山のことを思ってはいけないと禁止令が出されたとき、夢遊病になってしまったように、精神がすりへってしまった人はアナザワールドにひきつけられる。 <トムは真夜中の庭で>という童話も、大人は見てもわからなかったがトムの精神状態は限りなく磨り減っており、その状態になったときトムの心はアナザワールドを出現させたわけです。 それは不幸続きの人が、アナザワールドな超常現象を解く宗教にひきつけられるのと似ている。 で、高齢者の自殺も病気がトップですが、自殺に至らないまでも死の病として、<役割の喪失>が深刻な問題になっていると思う。 夫の世話が彼女の日常に大きな比重を占めていたと思う。 ご主人が他界したことで、大きな比重をしめていた役割を喪失したわけです。 子供や知人よりずっと長く一緒に人生を共に歩んできた人が、この世からいなくなるって、大きな災害だと思う。 これから何をしたらいいのか、自分の確信できる役割が見当たらないわけです。 自分の存在価値が見当たらないわけです。 そうなったとき、自分の人生はご主人とともに失ったも同然となり、生きる価値・自分の役割を喪失したとして、後追い自殺をしたり、自殺はしないまでも、心のともし火が消えてたことで、精神活動が停滞し、それが肉体機能の停滞につながり、後を追うように息が途絶える人が結構いる。 <100万回死んだねこ>って童話がそれに当たる。 <星の王子様>って本がある。 「友達になってよ」と王子様が言うと、きつねは「嫌だ」と言った。 飼いならされると、もう離れるのが辛くなるからってのが友達になるのを拒否した理由。 主人公は星の王子様と心の共になったが、王子様は帰らなければならないと去っていった。 (蛇に噛まれて死ぬことで、元いた星に帰っていった) ある意味自殺です。 王子様が去った地球で、主人公は心の友じゃない人たちに囲まれ要領よく暮らす。 そして空を見上げ、王子様を思い出しニコニコ笑う。 周りの人は何故主人公が空を見上げて幸福な顔をしているのかわからない。 おばあさんはもしかしたら、ご主人に飼いならされたため、永遠に離れることになったのが、とても辛いんじゃないかと。 おばあさんが、空を見上げてご主人のことを思い出し、ニコニコする日は来るのかわからないが、よかったら読み聞かせてあげては と思いました。 また、伴侶をなくしたことが死にたいという気持ちに至ったのだとしたら、同じ境遇にあった人と交わることで、痛みを分かち合えるようになると思う。 家族じゃ無理、同じ境遇の人じゃないと癒せない。
お礼
回答ありがとうございます。 童話に、そんなに多くの教訓があったんですね。子供の時以来触れることはなかったので、少し成長した今、もう一度読み返してみたいです。 癒す、ですか。 やはり、死にたい、という人は慰めるものなんですね。
- y_hisakata
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まず、正解などない質問だ、という前提でお話をしますし、 おそらく質問者さまもその点はご理解いただけていると思いますが…。 で、まず「社会では、なんで死んではいけないという道徳があるのか」という点ですが、 これは、「安易に自殺されると社会が困るから」です。 「死んだ方がマシ」という社会も、普遍的にあるのですが、それを容認していては 国が成り立ちません。 北朝鮮を見ればよくわかるでしょう。どんな社会も昔は現在よりも厳しかったのです。 辛くても、人民を黙々と働き従わせる制度が必要だったのです。 また、自殺を容認するような社会、そして指導者はその資質が疑われます。 ですから、「理由はどうあってでも死んではならない」といいます。それが定着しており、 それに対するありとあらゆる「理屈付け」つまり理論武装が行われました。 なんとなく一般人も「なるほど自殺はいけないんだぁ」と刷り込まれています。 また、たいていの宗教も自殺を禁じているはずです。特にキリスト教はそうですね。 仏教は宗派により厳しさや論調は異なるようですが、いずれにしても 「自殺したら成仏できない」とか、まぁたいてい脅しにかかります。 ポイントはいずれにせよ、「自殺したら死ぬよりももっとひどい目にあう」という 脅しで制御をかけている点です。 生きていたらこんな良いことがある、というご褒美ではありません。 ここのところをよく考えてみてください。 次に、社会よりももっと身近な、たとえば家族とか友人、知人の場合でいうと、 近しい人が自殺をすると、とてもせつない思いをする という重要な問題があります。近しい人の死は、老若をとわず理由を問わず悲しいものですが、 自殺となると特に切ない思いがします。 私自身、自殺したかった時期も長かったのですが、老いた母親がおりまして、 この母を先に残しては死ねない、との気持ちで 生き延びた経験があります。 死にたい人に生きろというのが正しいのではありません。 あなたが死んだら悲しい思いをする人がいる。だから、出来たら死なないでほしい。 たぶん、人の思いを率直に言葉にするならそういうことではないかと思います。 道徳観とか倫理とか、そんなことはどうでもよいのではありませんか? もうひとついうと、あなたのお祖母さんは「死にたい」と言っているだけで、 積極的に自殺をしようとしているわけではないように思われます。 年をとったら、「はやくお迎えが来てほしい。苦しまずぽっくり死にたい」というのは、 全部が全部とはいいませんが、老人の一般的な考え方ではないかと思います。 うちの母も同じようなことを申しております。 こうなると、何か生きる希望を持てとか頑張れとか言うのは無意味ですから、 「じゃあ、お迎えが来るまでしっかり徳を積みましょう」というような提言は いかがでしょうか。 毎日、お経をあげるというのでもいい。仏壇を拝むのでもいい。 なにかそういう良いことをすると、「生前徳」が積まれる、そして死後や来世に良いことがある。 これは、仏教では割と普遍的に言われていることです。 もちろん仏教徒でなければないで構いません。人に親切にするのでもいい。優しい言葉を かけるのでもいい。何か自分で「人や世の中によいこと」つまり自分の気持ちのよいこと、 を積み重ねると、少しずつ罪が消え、徳が積まれていくのですよ、というようなことを 提案してみてはどうでしょう。 実際に仏様がいるかどうかなんて関係ない。ただ自分の心の中にそういう「概念」が生まれれば、 いつ死んでもいいが、生きている限りは徳を積もう、と思うだけで、周囲を悩ませることもなく、 本人も心穏やかに生きていけることが出来るのではないでしょうか。 実は仏教の本質も、実際に仏が存在するかしないかなどという問題よりも、 「心の置き方をどうすれば人は心安らかに生きられるのか」という知恵の集大成にあります。 仏教を信じる信じないではなく、「こう思って生きれば安らかに生きられますよ」という ことなのです。この際、この知恵を大いに利用させていただこうじゃありませんか。 ただ、変な宗教にはまって膨大なお布施などしたりしないよう、ご家族のご注意が必要かとは 思われます。
お礼
回答ありがとうございます。 社会からの理由、気持ちとしての理由。と、様々な理由があるのですね。 おっしゃるとおり、祖母、は早くお迎えが来たら良いな、という意味で言っているそうです。
- kagakusuki
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個人的には、根拠と言える程の理由は無いのではないかと考えております。 「辛ければ死んでも構わない」という考え方は、「何としてでも生きなければならない」という考え方と比べれば、生きる事に対する執着が弱い考え方です。 そのため、「辛ければ死んでも構わない」という考え方をする人間は、「何としてでも生きなければならない」という考え方をする人間と比べて生き残る確率が低くなりますから、数が減って行き、「何としてでも生きなければならない」という考え方をする人間が大半を占める様になります。 殆どの人間が「何としてでも生きなければならない」という考え方をしている様になったため、それは人類共通の価値観と見做されて、本当に正しいのか否かは別として、正しい考え方だと考えられる様になっただけなのではないかと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 遺伝、ですね。 生きたいものが生きていく。時間とともに、その割合は増えていく。 皮肉にいえば、生きろという意見は、極端であるとも言えそうですね。他にあったはずの意見は失われていっているのですから。 だから、条件反射のように生きろという訳ですね。
- 0n0s0
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私は敢えて死ねばいいと言います。本当に死ねるのか?死ぬ勇気があるのか?大切な子供、親族を残して死ねるのか?そこで死んだとしてもこういう場なら罪悪感はありません。祖父と一緒の所へ行けるのだから祖母も本望だと思いますし幸せだと思います。 死ぬを留まっても幸せが訪れないとは限りません。 これはあくまでもこの場合での回答です。
お礼
回答ありがとうございます。 死ねば良い、ですか。 老い先短い祖母が死にたいと言っているのですから、生きろ、という理由はあまりないです。 だから、逆に死ねと言って、その言葉の真意を確かめるわけですか。 祖母が本当に死んで、罪悪感が湧かないかどうかは自分は判らないですが、安易に発言している祖母に、周りが面倒な気持ちになっていることを伝えることにはなりそうですね。
お礼
回答ありがとうございます。 根拠は、自分は死ねないから、ですか。 そうですね。私は今、死にたくないです。 自分の死にたくない感情から、相手の死にたいという発言を、自分の事として受け止めているんですね。 祖母が本当に生きたいかどうかは判らないですが、辛い気持ちである事は確かです。 だから、辛いということに対して慰める。 私は、死にたいなら死んで良い。というか、死にたいというからには相応の覚悟はあるんだろうな?と考えて来たのですが、 辛い状況にある人間に何かすることは正しいことだというなら納得出来ます。 自分の視野が広がった感じがします。 ありがとうございました。