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道徳教育とは
道徳教育が教育現場で復活するようです。 私が小学生の頃、道徳を規律や規範だと勘違いした 教師が立ち振る舞いから椅子の座り方まで教えていた ことを覚えています。 その教育を受けた同級生が今どんな生活をしているか を考えたとき、そんな道徳教育は無駄だったと思わざる をえません。 幸福になった人間は一握りでヤクザになった者や娼婦 になった女性、果ては離婚して2号さんになった人など 不幸になった人間の方が多いです。 人間は幸福になる為、法律を守り他人を大事にする。 それが道徳の本文なのに、形式だけの道徳はやめてほしい。 と思うのですが、どう思いますか。
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教育がどうでもその通りになるとは限らないのは当然です。全員が東大に行って博士になるわけでもありません。教育は道しるべでしかないのですから。 道しるべは無視しようとすれば無視できます。でも問題はそういうことではないと思います。無視するということはこちらの方向はこういうものだということを知らせるという意味です。それもないと自分で選ぶことはできません。無視する人は無視を選ぶわけですが、それが出来ないということです。何にも規制のないやりたい放題の自由は実は不自由な世界というのに似ています。 道徳の教育には否定的な意見が多いですが、否定している人は意外に中高年だったりします。それはかつてそういう教育を受け、自分には無駄だったと思ったという経験があるからです。でもいまの子供はそういう経験さえないのです。その無駄だったと思えることこそが経験なのですから、それを与えてやるのも大事です。 例えばこどものころに童謡を歌わされたのは僕らは詰まらいことと思いました。歌謡曲を歌いたいと。でも歌謡曲は他で習えるが、童謡は他で改めて習えないのです。結局僕らは童謡を知っています。今になると良い歌と思えることもあります。無駄ではないわけです。つまりそれを経験させるということです。 一般的な考えは他でいくらでも学べます。それこそ漫画でも学べるのです。形式ってのは大事でその形式をどの程度崩すのかを知る事が大事なんですよね。つまりピカソの絵は基本をこの程度崩していると知ってから面白くなるわけです。人間に深見を与えるには必要なんですよね。 でも戦前の北朝鮮のような教育を受けた昭和一桁の人間が作った日本は素晴らしく、戦後の教育を受けた人間作った日本は衰退してるってのは現実でもありますね。それをどう考えればいいんでしょうね。
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道徳に限らず、何の授業であっても、ついていかれる人と全く理解できない人がいますね。家庭で普段から道徳教育がなされていれば、慣れ親しんだ内容ですから授業を聞いても実例を思い浮かべすんなりと理解できます。つまり予習している事と同様になります。 しかし全くかけ離れた家庭環境に生きればそれは実感としてわくはずがありません。礼儀作法から始まって、マナー、礼節、社会の仕組み、してはいけない事、親を敬う、老人に優しくする、子を愛する、命を大事にする、虐めは卑怯、互いに人として敬うなど多くを教わります。しかし親がひどければ、きれいごとだろうで終わってしまうでしょう。 それでも考えさせる機会を全員に与えます。この授業がなければ、道徳を知らない子供は自分や周囲のあり方に疑問を持つ機会すら無いかもしれません。 どの科目であろうが、自宅で予習復習をする人と、その場だけで勉強する人では長い間の人生の結果が違って当然です。道徳の授業でいくら習っても実践を持って復習する機会がなければ記憶が消えやすい。 しかし最後にそれを考えたり受け入れるか捨てるかは結局はその人の判断なのです。 極道の同級生は道徳を打ち消す家庭環境や友人関係に生きる事を選んだのでしょう。しかしこれは個人の問題で、授業の存在自体を否定する事にはなりません。 常識的な家庭では道徳や倫理は三つ子の魂に刻み込まれます。しかしたとえ親が教えなくても、子供は自分で考え判断するる能力を持ちます。その時に、できるだけ良いもの、正しいとされている考え方に多く触れさせてあげたほうが良いと思いませんか。少なくとも自分が否定される環境でも、それはおかしいのだ、自分はもっと大事な存在だと気がついてくれるでしょう。様々な意味で私は必要な授業だと思います。
道徳と言う名の洗脳じゃね。(´・ω・`)本で教える事が出来ると思ってるおぼっちゃん首相の発想じゃね。
- kohichiro
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>人間は幸福になる為、法律を守り他人を大事にする。 それが道徳の本文なの それは間違いないと思いますが、これは道徳の一部しかカヴァーしていないと思います。 >道徳を規律や規範だと勘違いした教師が立ち振る舞いから椅子の座り方まで教えていた そういった昔のまちがった”道徳教育”の例を見ても、やはり道徳教育は(教師自身のためにも)やらないよりやったほうがいいと私は思います。 力の無い教師の恣意にさせるより、そして現政府のおもわくらしい危険な”愛国教育=道徳教育”に堕するより、基本的に、しっかりした一流の哲学者によって書かれた道徳の教科書にもとづいたカリキュラムを教師も一緒にまなびつつこなす授業になることが望ましいと私は思っています。 一例として 梅原猛氏の書かれた「道徳」という本があります。哲学としての仏教の教えを基本としたものです。これを何年間かにわけてじっくり読み、まなぶというのもいいのではないでしょうか。 他にもいろいろ好例はあるとおもいます。
- hekiyu
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道徳は学校教育では身につきません。 中国や韓国の道徳教育は盛んですが、 結果はご存じの通りです。 だから、欧米などでは宗教を利用しているのです。 新渡戸稲造の「武士道」にあります。 「御国では宗教教育をしていないと聞きましたが ホントですか?」 「ホントです」 「お~、それでどうやって子供達に道徳を教える ことができるのですか」 それで新渡戸稲造は考え込み、日本には武士道が あるではないか、ということになったのです。 ”人間は幸福になる為、法律を守り他人を大事にする。 それが道徳の本文なのに、形式だけの道徳はやめてほしい。” ↑ 道徳は社会の秩序を守るためにあるのです。 社会の秩序を守る道具には他に法律があります。 法律や道徳をひっくるめて、規範とか規律といいます。 法律だけでは秩序は守れません。 法律以前の規律、規範として道徳があります。 米国などでは災害などで、法が機能しなくなると 暴動が発生します。 しかし、日本では311でも判るように、法が機能 しなくても秩序が守られます。 これなどは、日本の道徳が米国よりも優れていることを 示しています。
- bn10000
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そうですね。 学校で教える事じゃないですね本来は。 幼い頃の躾だったり、日々の生活の中で学習し身に付けていくもの だからね。 ただ、あまりにも馬鹿親が多すぎるので苦肉の策で 学校に頼らざる終えない状態かもね・・・ 意味も分からず覚えさせても意味ないんだけどね~ ま~今の20~30歳みたいなのが更に増えてくると 中国と遜色なくなるから・・教育現場も踏ん張り時ですね~
- g0721475
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道徳とは教科書で教える物では無く、近所のおじさんおばさんが、そして親が 教えてこそ、身体で覚える物です。 テレビではマンガ昔話が解りやすくて面白いのですが、文部科学省では扱いません。 お笑い芸人の先生が教育すれば必ず聞いたことは忘れない、悪い事はやらないと思 います。 公務員先生は、教科書を棒読みするだけで面白くないので身につきません。 生徒はいらつき心理的に悪さをしたくなります。 先生も説得力の無い話し方で苦労しますね。霞ヶ関も賢くないですね。 英語や数学や化学が得意でも、応用が苦手・社交が苦手先生が増えて、 女子生徒のスカートの中を覗く先生も増えています。 ここから先生の道徳教育をして欲しいです。
- qwe2010
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学校の教育は、子供が大人になり、自分で生活するための知識を与えるためにおこなう物です。 その知識は、仕事のためであり、生活するのに必用な知識なのです。 その知識の全てが役に立つわけではなく、ほんの一部の場合もあります。 道徳教育が、役に立つ人もいれば、役に立たない人もいるでしょう。 しかし、必要ないと思っていても、必用になる場合があります。 そのときに困らないための勉強です。 英語や歴史、物理、科学、ほとんどの人が、大人になって必要ないです。 道徳もその中の1つです。 必要ないように見えても、一般常識として必用と思います。 周りの環境に寄りますが、知らなければ、バカにされる場合も多いいです。
同じように道徳教育を受けて 皆が不幸な人生を歩んだわけではありませんよね? 学校で学ぶことはほんの一部であって それ以外は親や社会から学んでいくものです。 ヤクザや2号さんや離婚は それぞれに理由があってそうしているのであって 道徳教育の問題だとは思えませんよ。 形式だけの道徳でも 道徳は必要なことだと私は思います。 むしろ道徳とはその形式を学ぶことだと 私は思います。 後は自らの人生で応用していくだけです。
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回答ありがとうございます。なるほど、形式も大事ですか。 それならなぜ反社会的な職業に就いたり、他人に言えない 身の上になるのでしょうか。 それは本質を教えず、手先の事柄で成長できたと勘違いしている 人が多いからです。 挨拶ができてあたりまえ、礼儀ができてあたりまえですが、 本質はその先にあると教えないのです。そこで止まってしまうから 何も残らないのですね。
お礼
回答ありがとうございます。 そうですね、近代国家というものは国民に福祉を与えるばかり ではなく、戦争に兵士として徴用することも強制します。 それは近代国家同士の関わりが外交で収まりがつかなかった場合に 戦争になるということもありえるからです。 そのために国家に忠誠を誓うことが正義とされた時代でした。 それは自由な国、アメリカでも星条旗と国歌には敬礼して従うこと に疑いを持たないことにもつながります。 しかし日本は一度の戦争で国土が焦土と化したことから戦争を忌み嫌う 思想や風潮が蔓延しました。 まるで国歌とはという概念そのものが形骸化したように感じます。 共産党の言うようなことは国民としても国家としても責任と義務の 役割が薄れてしまう結果になりかねません。 ですから、共産党は変質する。と言わざるを得ませんね。