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クリムトとエゴン・シーレ

絵に造詣が全く深くないんですが、なんとなく「クリムト」の絵が好きです。知人はエゴン・シーレがいいと言ってました。こういうものに理屈を言い出すとつまんなくなっちゃうんですが、それと、見るものが感じればいいという意見もある、でもただ「いい」とか「好き」では作者の意図を誤解なく受け止めてるかどうか、又他人と共有できているかどうか確認のしようがありません。なんとなくいいなといいましたが、理屈的には服が平面で顔や手などが立体というところが美しく感じるのと、とりあえず顔がきれいだからだと思います。ごっつ、下世話なところで惹かれている。絵のいいわるいはどういうところを見ているのでしょう?ご意見ください。純粋に絵がいい場合と、背景含めていいという場合がありますよね。たとえば岡本太郎の太陽の塔はデザイン的にいいと単純に言えるが、絵によってはあれは恋人のだれだれで、友人から奪い取って、その哀しみが浮き出てるとか「説明つき」のやつあるじゃないですか。でも背景は絵の評価と関係ない気もするし。ということで、絵の見方とはなにか?教えてください。

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  • illashige
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回答No.4

またしても、言葉足らずだったかもしれません。 ”技術的に高度なほど”というのは、リアリズムのうわべの描写力といったほどの意味で、おっしゃるような「写真みたーい!」っていうやつのつもりです。 芸術は、自然に対する憧憬だと書きましたが、自然にたんに擦り寄った表現では、一流の芸術たりえないでしょう。(リアルな絵に限らす・・)。 発想の奇抜さは、突きつめた意味では、関係ないと思います。ちょっとしたサービスにはなるでしょうけれど、びっくりさせられるような意外性は、その場限りのものですし。ぼかんと、リンゴひとつ描いた絵でも、愛想はないけれど、優れた作品になりえるのではないでしょうか。 個性をむりやりこじつけたような作品に対するご批判、同感ですね。 ただ、ダリをそういったものであると、評価してよいのかどうか、迷うところではあります。 えらそうなことをいってきたわりに、ぼくは美術史の専門家でもなんでもないので、詳しくいうことはできないのですが、芸術には、その時代、時代の様式ってものがあり、絵画の場合は、音楽ほどには、それに縛られないとはいっても、当てはまることも多いわけでして・・。ダリは、シュール・レアリズムの後期の人のようで、先輩格には、ミロとかエルンストなんかが、あの手の絵を描いています。 ですから、ダリが一人で奇をてらって、ぐにゃぐや時計なんかをでっちあげたというわけでもないようです。そうした当時の様式をベースにした作品なんでありましょう。ただ、それをあえて取っ払って(何が描いてあるのかをあえて無視して)ながめてみて、やはり”造形的な創作力”はけっこうすごいかもと、思わせられる気もします。とはいえ、ぼくも好みからいえば、そんなに好きではないので、かばってやることもないですが。

MONKEYMONKEY
質問者

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ありがとうございます。 難しいですね(こればっか)。結局「センスがある」って言葉になっちゃうんですけど、この「センス」ってのはなんとなくつかめてるのですが、言葉に還元しづらい。映画・音楽・小説・漫画はセンスがあまり問われてない気がします。「浪花節」で勝負できる。「浪花節的感動」です。「タイタニック」は浪花節ですが、高尚とされる「2001年」や「市民ケーン」なんかでも「浪花節」的ものさしで見れない事もない。「去年マリエンバードで」ぐらいですか、センス勝負は。絵でも「ゲルニカ」なんかは語られる時「浪花節」で語られる事が多いですね。戦争の悲惨を描いたとか。実際絵にそういう人に訴えかける力もあると思うのですが、媒体としてあまり向いてはいないでしょう。「蛍の墓」を見せた方が伝達力がある。なので絵は「浪花節」とはもっとも遠い所に位置すると思われます。 モロ「センス」勝負となる。 そのセンスにシュルレアリズムがどう引っかかるかですが、おっしゃる通り私などが巨匠ダリを簡単に切り捨てるなッちゅ-話ですが、単なるしろうとの感想ですのでお許しください。間違ってるにせよそうイメージついちゃってるというだけの話です。 1983年頃森田芳光が新感覚の映画を作りました。彼は全く映画を見てない人でしたので感覚だけで撮ってたのですが、それに影響をされ角川春樹や伊丹十三などがシュールなシーンを挿入しだしました。でも、単なるうわべだけの模倣なので全くもって恥ずかしい映画になってしまっている。「たんぽぽ」なんかがそうです。 ダリも別にいいんですが、「時計」とか「いちぢく」っていうシュールの表現物が、どうも「そのままやん」ていうアイテムで馬鹿にされてる気がする。シュールを表現するのにシュールなものをもってこられても安易だなって気がするのです。シュルレアリズムであれなんであれ「センス」なんですよね。「未来世紀ブラジル」には奇をてらったという感じがしない。ナンセンスだからではないでしょうか。意味をもたせようとするとよくない。意味とはつまり浪花節。ダリは浪花節だと思うのです。

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  • 1511
  • ベストアンサー率20% (24/118)
回答No.6

昔、テレビで見たんですけど。 小学校低学年位の生徒達を、美術館の絵の前に座らせて、好き勝手に喋らせるというのがありました。 クレーの(自画像だったかな?)絵をみんなで囲みながら、「恐い顔をしている」とか、「色がきれい」とか、いろいろ喋らせるんです。 たまに先生が、「なんで恐い顔なのかな、おこっているのかな?お腹が痛いのかな?」ときいたりします。 聞かれれば、無理してでも答えるんです。「お母さんに怒られたんだよ、きっと」とか。 周りの子は、ふーんてな顔で(そりゃあ人それぞれでしょうから)、それでも結構興味津々にきいてました、 そんな話も、他人の心を覗いてるみたいでおもしろいのかもしれません。 基本的には、私もこんな感じでみてます。 「恐い顔だ」と思ったとしたら、(なんで僕はこわいとおもったのか)または、(なんで恐い顔がきになったんだろう)とか。人に説明するみたいに、自分に解説を試みている。 いい絵や、感動するというのは、こんなことかなとおもいます。 絵にひかれているのは、自分でも分かっている、気になってしょうがないのに、なんでか分からない。 いや、逆かもしれません。確かに自分の身に起っている事なのに、説明できないから、気になっているのかもしれません。 人にそれを伝えようとすると、図録を持ち出して、「ここがこうなって、この、こういうのがいいんだよ。」って、言葉じゃさっぱり分からない。まさに言葉を失うというやつです。 絵をみて経験した事をつたえるために、その絵なしでは成り立たない。 わたしにとって、その絵が唯一無二になってしまうのです。

MONKEYMONKEY
質問者

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ありがとうございます。 おっと!これはやはり「絵=記号」論ではないでしょうか?眉をつりあがらせる事によりその絵は「おこってる絵」になるというね。キュビズムやシュールレアリズムはその記号論を鋭角的に追及したものだと思う。それで、ではなぜ怒ってるのか、そのヒントもきっとその絵の中にあるはずである。それがなければ、その作家は失格ではないか。だって作家こそ最初の観客なのだから。観客である作家がそのヒントを知覚できていればその作家が人間であるかぎり他人にも伝わるはずである。作家も自分で描いてなんかよーわからんなと思ったらそれは失敗作として捨てられているはずである(その作家が誠実なら)。又、ダリですが、ダリはほんまに自分でなんか感じでたんかい?と疑いたくなる。とけた時計描いたらみな驚くやろな的なものを感じる。もちろんとけた時計こそ「記号」と言える。が、しかしそれは絵画的な記号ではなく意味としての記号であり(安直に時空がゆがむとか)、棒が二つで十字架という記号とは違う。漢字でたとえると絵画的なのは棒が三本で「川」であり(川の絵に見える)、「女」編に「末」で「妹」みたいなのがダリではないか。視覚的記号と理屈的記号の違いです。理屈を表現したってそれは絵のよさとはいえないのではないかと。

  • tigress
  • ベストアンサー率21% (16/75)
回答No.5

とても難しいご質問なので、どこから手をつけて良いかわからず、支離滅裂な回答になると思いますがご容赦ください。 ある特定の絵画に心惹かれるのはなぜか?これはもう、その絵を観る立場の人と作者に共通の「センス」があるということだと思います。端的に言えば「好み」かどうかですよね。 綺麗な風景画や人物画ならとてもわかりやすいことです。ただ、これがフォービズムやキュービズム、アブストラクトになっていくと、どんどん「浪花節」の介在する余地がなくなっていって、もうセンスというか直感の世界になっていくと思うんです。 絵や作者のエピソードはその理解を助けるためのものにすぎないし、そのエピソードで絵に対する思い入れが深くなり、その絵自体の価値が変わるというのは納得できないことかもしれません。 エピソードがつくのは、超有名な画家に限られますしね。(こう書いてきて、コッポラの「ジャック」を思い出してしまいました。あれってコッポラの息子さんのことを知らなければ、フツー以下の映画だと思う(^^;))。 でも映画で言うならテリー・ギリアムはシュールでナンセンスな作品も良いけど、浪花節やってもただの浪花節では終わらせない。『フィッシャー・キング』なんてもう究極の浪花節ですが、彼のセンスがなければたるい駄作で終わったと思います。 でも「あんな映画、どこがいいの?」という人がいるのも事実です。 と、いうわけで、結局は絵を観る人が、「この絵が好きだ!」と思った時点で、作者の意図とまではいかずとも、センスを汲み取れている、と思っていいんじゃないでしょうか?私はそれで自己満足に浸っています(^^;)。 他人と共有することまで考えずともいいと思います。もちろん共有できればとても嬉しいんですけど。 ちなみにクリムト好きです。特に彼の風景画は「この中に入って何時間でもボーっとしていたい」くらい心惹かれます。 伊丹十三さんはエッセイはおもしろいんだけどなあ・・・。 ああ・・、やっぱり支離滅裂になってしまいました。すみません(^^;)。

MONKEYMONKEY
質問者

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ありがとうございます。 うーーーーーーん。その、「センス」というものは何かというのがお伺いしたい事の本音であるのですが、つまり、センスの規範を少しでも言葉にしたいというか。別に他人と共有したいとか作家の意図を完全に把握したいという欲望がめちゃめちゃあるわけではないのですが、なんつーか感じた事を不完全ながらも何らかのことばで表現しないかぎり「かっこつけて」あの絵はいいとか言ってるのと本当にセンスを感じている場合の区別がつかない。絵に限らずもちろん全て「好み」があるので人それぞれという考えがあるのは私も了解しております。しかし、一方命がけで素晴らしい絵を描こうと努力してきた人々が適当に猫の絵を描いて女子高生に「かわいー」と言われる絵と「等価」とされてはあまりにもかわいそうというかね。やはり芸術的に高尚なものとたんなる漫画とは「人それぞれ」ではくくれないという考えもあっていいと思うのです。高尚な絵と漫画みたいな絵というのはもちろん極端にした話ですが、僕は別にダリに恨みがあるわけではないですが、両方とも歴史に残る芸術とされているが、エゴン・シーレの良さは高尚だが、ダリの良さは下世話なものをよりどころにしているのではないかと、この質問の意図にそってあえて例題として問題提起させていただいた次第です。ダリがダメだと主張しているわけではなく例題にすぎません。ちょっと発想を変えてみます。木の棒が二本あります。このままではただの棒ですが、これをクロスさせると「十字架」に見えます。漢字の「十」かもしれません。絵は「絵の具の組み合わせ」の繰り返しです。赤の絵の具をキャンパスに「ぺタ」と塗っただけではただの点ですが、その横に緑と黄色を塗れば「信号」を連想させてたりします。なんとなくこんな事の延長線上に「芸術」があるのではないかという感じもします。という事は絵とは(絵もまた)人に何かを連想させる「記号」ではないのかと。うーん、ちょっとわかんないですけど。ですので絵とは写実であるべきでなく記号であるべきというか。

  • jyuu
  • ベストアンサー率23% (37/157)
回答No.3

絵のいい悪い見るとき、 僕は、その人は誰か、というのをまず見ます。 作品を通して作家の顔が見えてくるかどうか、ということです。 嘘っぱちの作品はこの段階で問題外になります。 作品一連を通して何か一貫性ないものですね。 一流どころの絵は原則があってその原則がどこをとってから見ても適用されています。これを絵の中の秩序とか表現されたりします。 その原則は哲学的な深さがあったり、技術的な高みが要求されたり、多種多様です。 子供の絵にも文脈からして、おっこれは!!というのがあります。 しかし、大概の場合偶然形成されたものでその子供が持つ原則でない場合が多いです。 クリムトとシーレに限っていえばラインですね。惹かれるラインが独創的です。 どの絵を見てもこれはクリムトが描いたライン、シーレが描いたラインというのが解ります。 同じく色彩も独特ですが、ラインの方が真似るのが難しそうです。 ずいぶん前にテレビで見たのですが、鶏でされゴッホとピカソと誰だったかしらの絵を見分ける事が出来るそうです。 このように、作家性があるかどうかということを原点に僕は絵を見ます。 ですので技術的な面で 芸術に優劣をつけること自体ばかばかしいと思っていたりします。 個人的な意見ですのでただ参考にしてください。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 ■つまり、「作家性」と言い換えられるでしょうか。それは映画や音楽でもそうですね。コッポラの映画、黒澤の映画。バッハの音楽、坂本の音楽。 ■映画は小説や漫画同様物語です。非常に理屈っぽいアートです。結局全ての物語は「疑問」と「答え」で言いくるめられます。起承転結は「疑問」と「答え」を4段にしただけです。長編はそういう段がいくつもあるに過ぎない。「疑問」が興味深く、「答え」がなっとくいく。これが基本なわけで、大衆が鑑賞するにほとんど完全な共通タームがある。 映画と漫画はもうひとつ絵の部分がありますけどね。 ■音楽は「音階の組み合わせ」と「リズム」。これも非常に共通タームが確立されている。つまりパターン。 ■絵は商業として成り立ってないところが映画・小説・漫画・音楽と一線引くべきかもしれない。 作家性はしかし、個性をはじめから狙ったようなものは最悪だと思います。ダリには僕はそれを感じてしまう。優れたものの模倣や影響を繰り返し(実際シーレもクリムトの影響を受けている)、それでも湧き上がる個性こそ本物というか。前人への敬意なく安易に「変わった絵」を狙う「受け」を狙うのはスタンドプレーと呼びたい。 但しウォホールはかっこいいんだよな。実際商売にしたと言う意味でキース・へリングもですが、凄い。というか、商売になってなければ芸術の資格がないのではないかという考えもあります。非商売の極論をすれば誰にも見られなくてもいいという自己満足に行き着く。誰にも見られないということは「表現」とはいえない。

  • illashige
  • ベストアンサー率53% (305/569)
回答No.2

書きかたが悪かったかもしれません。 チンパンジーの絵、子供の絵は、自然そのまんま、という意味で、芸術とはいえない、と思います。子供は、じゃ、いくつまでだ、といわれても困りますけどね。 写実的(とりわけフォトリアリスティック)な絵は、おっしゃるとおり、芸術になりにくいでしょうね。 やはり、技術的に高度なほど、”神(自然)の創造物のまんま”になりやすいでしょう。 しかし、優れているといわれている写実絵画は、一見写真のようでも、デッサン、色彩など巧妙に作者のアレンジがおこなわれているみたいです。 ぼくは、その手の絵では、フェルメールが好きです。比較的新しいところでは、アンドリュー・ワイエスもそこそこ。(どちらも、フォトリアリスティックってのとは違うけど)。 ピカソはたぶん、別格の天才かも。好きですけど、どこかすごすぎて、近寄りがたくもあるかなぁ。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 すいません。自然に近づくという事と芸術についてがごっちゃになってしまいました。しかし、自然に近づくっていうこと(写実)と芸術が相反するとい議論もあり、ややこしくなってきました。 僕も書き方が悪かったと反省しました。それは写実のことです。アンドリュー・ワイエス初めて知りました。とってもいいと思います。そこで前言撤回ですが、写実が芸術ではないというのは違いますね。だってフェルメールもワイエスも描写にあらゆる選択肢がある。写真とは違う。色の選択、タッチの選択、人物の表情の選択、場所の選択、、、、。決して「写真みたい」という誉め言葉は出ません。僕が言いたかったのは「写真みたい」という誉め言葉が出てしまうようなものです。 結局発想の非凡さが優れた芸術という事ですか。誰でも思いつくようなものが駄作。写真みたいという絵は誰でも思いつく。予測の水平の向こうにあるものを描ける者こそすぐれている。偶然性や奇をてらったものは「予測の水平の向こう」という位置にいないものではないか。 あと技術はどうなんでしょうね。やはりうまいべきだと思います。へたうまとかいうけど、発想したことを確実に描写できる力が必要かと。技術がまったく生かされていない場合もあるし、技術が質を凌駕することも確かにある。

  • illashige
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回答No.1

絵画に限らず、優れた美術の条件は、造形的に優れていることだと思います。 造形性というと、なんとも抽象的で、雲をつかむようですが、ぼくなりに考えるに、キリスト教に根ざした西洋的な考え方からすれば、神の創造物がその理想のお手本だろうと。 人間のそれに対する憧れの表現が、芸術のような気がします。 神を持ち出さずに、いいかえれば、自然の美しさに対するあこがれの表現が芸術・・。 これは、たとえば風景画や、人物の絵に限らず、たとえば、完全な抽象画でも、そこに表現されている色や線、形が、美しいということは、”神の創造物”にあるエッセンスを真似ているという意味で、同じことだと思います。 ただ、前衛的なアートにあるような、ひろってきた岩をどかんと置くとか、キャンバスに絵の具をバケツでぶちまけるというのは、ルール違反だと思います。これは、”神のなせるワザのまんま”(自然の風化による岩、重力などで広がった絵の具・・)で、ずるでしょう。 また、チンパンジーや、小さな子供の描いた絵もおんなじ意味で、たいていの場合、美しいに決まっています。 このように考えてくると、造形的に優れているのは、自然界の万物で、そのまんまでは、芸術ではなく、優れた造形性と、それを表現しようとする作者の人間としての、意図や汗を客観的に感じられるものが、優れた美術なのではないでしょうか。 しっかりとした造形性があって、それを表現しようとする作者の人間を感じられる作品であれば、その制作動機が、金儲け、うけねらい、名誉欲みたいなちょっと不純な感じのものだとしても、そんなことはまったく関係ないと思います。完全な芸術は、完成後は作者を離れて存在するってとこでしょうか。その作品のもろもろの背景も、本質的には、このように切り離して考えるべきのように思えます。もちろん、好きな作品、作者をより身近に感じるために、そういったことを知るのは、無駄ではないでしょうけれど。 好き嫌いは、こういったこととはまた別問題です。 やや二流っぽい、作品でも(造形的にやや弱くても)、たとえば、描かれている女性の顔が好きだとか、風景画が心を癒してくれるとか、そういった楽しみ方も、重要な、絵画の存在理由かとも思います。 ぼくは、エゴン・シーレ、クリムト、両方とも好きです。クリムトのほうがちょっとだけ優れている気もするが・・。うーむ。これは自信がない。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。難しいですねー。でも自然界共通の美というのはなんとなくピンときました。たとえば銀河の渦とつむじと鳴門の渦は共通だったり、木の枝と神経系が似てたり。そういうことの延長線上に「共通の美」というのがあると言うことだと思いました。という事はやっぱり感じるしかないですね。理屈で説明は難しい。 ただ、絵の具ぶちまけとチンパンジーの書いた絵は同じだと思うのですが。チンパンジーの絵も偶然でしょう。偶然は芸術ではなかろうと。表現ではなかろうと。 あと、基本的に写実的なほど、意味ない期がします。写真でええやんと。彫刻で人間そのままってのあるじゃないですか?あれなんか実物でええやんと思うんですが。 あと、ピカソ、ムンクはありかと思うけどダリがちょっと汚いという気がします。奇をてらってるだけな気がする。とろける時計とか意味ないと思うなあ。あと、全然違うアートと考えていいと思うけどエッシャーは面白い。

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