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幸福感の行き着くところとは?
- 幸福感の行き着くところとは?戦争中の国では自殺者が減る傾向があり、貧しい時代には人々が助け合い、絆や情けや人とのつながりを感じたりします。金や権力を得たとしても人は無力感になることもあります。悩むことも大切ですが、幸福感は一生のうちに感じる瞬間もありますが僅かなものです。
- 幸福感の行き着くところはどこなのか悩むこともありますが、戦争中の国では自殺者が減る傾向があり、貧しい時代には人々が助け合い、人とのつながりを感じたりします。しかし、金や権力を得ても人は無力感になることもあります。幸福感は一生のうちに感じる瞬間もありますが僅かなものです。
- 幸福感の行き着くところはどこなのか悩むこともあります。戦争中の国では自殺者が減る傾向があり、貧しい時代には人々が助け合い、絆や情けや人とのつながりを感じたりします。しかし、金や権力を得ても人は無力感になることもあります。幸福感は一生のうちに感じる瞬間もありますが僅かなものです。
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質問者が選んだベストアンサー
幸福感には「時間的な幅」があるんじゃないでしょうか。 短期的な快楽(麻薬や煙草など)もあれば、長期的に目標を達成する快楽(意志の達成)もあります。 人間は、当然、後者を選ぶでしょう。(最近は前者を選ぶ輩も多いが) 幸福量は、人生の通算したもので量るべきと思います。 よって「行き着くところ」は、自分の意志(夢)を、どれくらい達成したか? そして、それを把握する総合的認識力により幸福感(がどれほどか?)は感受されると思います。 あなたは幸福感は「瞬間」という先入観があるようですが、 たまに山登りをする私は、登頂したときの喜びは、下山するまでずっと続きますよ。
その他の回答 (10)
>一生悩み続けるのではないかとも思います。それもまた >自然だと感じています。 >幸福感って、一生のうちに感じる瞬間もあると思います。 >でも、結局は僅かなものです。 それは違うかな、と思います。 長い間続く幸福感もありますよ。 宗教くさいと思われるかも知れませんが、仏教で言う所の「悟り」の後は悩みから解放され幸福感が続きます。 宗教でなくても、その境地に達していれば、幸福感に満たされます。 マスコミに頻繁に登場する、脳科学者の茂木健一郎さんは、常に幸福感に満たされてると言う様な事を著書で読んだことがあります。 その様な状態は、他の方の著書でも結構見つけることが出来ます。 悩みというのは、言葉が作り出したファンタジーである。と言う人がいます。 今の現実から「将来の不安像を自ら作り出す」これが、悩み、葛藤の正体である。とも言います。 ですから、禅では、いつ来るかどうか分からないことに心を煩わせず、今できることをする。 そのこと「今に生きる」と言います。 言葉を充分に使えず、言葉で思想を操れない子供は、将来を悲観することを知りません。 だから、今に生きることになります。 そのため、子供はいつも楽しそうである。と言う人もいます。 karin0202 さんが、悩んだり葛藤したりする時は将来を悲観していませんか? ちょっと考えてみて下さい。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
愚拙は長いこと、嘘をつかない、借金をしない、健康を維持する、の三点セットで幸福になれると信じてやってきた。 最近になって、最初の二つはどうでもよいような気になった。 快食、快便、快眠、この三点セットで折り合いをつけようと思う。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
>幸福感って、一生のうちに感じる瞬間もあると思います。でも、結局は僅かなものです。 それは、本物の幸福感ではないからではないでしょうか?移ろいでしまうそれを、一体なぜ幸福感だと思ってしまったのでしょうか?もし宜しければお教え下さいませ。 >皆さんは幸福の終焉(行き着くところ)って結局なんだと思われますか? 前提がございますよね? 始まりがあって、終わりがある、という。 一体、なぜ幸福に始まりがあって、終わりがあるのでしょうか?誰がその様に決めているのでございましょうか?聞いてみたいところです。 質問者さまの話の展開や切り口そのものは僕は大好きでございます。 質問者さまが、恐らくは何かに向き合っている印象を受けているのではないかと思う僕がいます。向き合っているという姿勢を感じるからこそ、絶望を感じたり諦めを感じたりという現在地を、もう一度客観化させて、それは本当に絶望なのか?それは本当に諦めなのか?を見つめなおす機会になれば、と思う次第でございます。
- o-sai
- ベストアンサー率19% (199/1001)
特別養護老人ホームに行ってみると、もの凄く幸福感に満たされてる老人に会う時があります。 全てに不満は無く、なんでもしてくれる王様の温泉施設だと感じてる様子。 認識不全障害の、ある種の「痴呆」において、そういう悟りのような境地に達します。 一方で、全てに不満を感じて精神が安定できない「痴呆」もあり、こちらは介護も厄介です。 「自分に合わせて周りの環境を変えていこうとする向上心の強さ」が幸福追求の本質だとすると、 自然環境と対話しながら終着点を探って生き方を定義できる自然派の幸福感もあり、 一方では都市文明の中で鎧の様に道具達を周囲に集める幸福感もあります。 都市文明派はやがて宇宙コロニーを建設するでしょう。 地球が太陽に飲み込まれる数十億年先まで生き延びるのは、間違いなくこちらのタイプです。 「生命」の本質が「あらゆる環境に適応して広がる」ことである以上、 幸福感に満たされて歩みを止めるほうが間違ってるのかもしれません。
お礼
老人ホームに行くことは、たびたびあります。そこで、暴力的な方とか また安らかな顔をしている方もいますよね。 実際に介護スタッフをしたこともありますが、おっしゃるとおりだと思います。 暴力的な方もいて、介護は大変です。 生きることとか、幸福って何かと考えます。 認知症の人って、色の区別も付かなかったり、 寂しいとか、幸福感ってどうなのか?よくわかりません。 >幸福感に満たされて歩みを止めるほうが間違ってるのかもしれません そうですよね。幸福に満たされるって事は、そこで止まってしまう事かもしれない ですね。 深いお言葉を有難うございました。 さらに、探求したいと思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ 結局幸福感の行き着くところは、何だと思いますか? ☆ それは 昔から決まっています。 その決まっている相場から行けば: ・何事も終わってみなければ分からない。 ・悪い奴ほどよく眠る。 ・金を墓場にまでは持って行けない。 ・天国に行っても金を持っていたい。 ・などなど。 ということは この経験世界にあっては すべてものごとは相対的なものだと決まっています。うまいことを言っていればいいのだとも言えますし 言ったモン勝ちだとも言えるのでしょう。どっちもどっちの世界です。所詮どんぐりの背比べのあらそいに終始します。 この相対的な世界を超える領域はあるのか? とうぜん けっきょくは ここに行き着くものだと思います。 無いなら無いと はっきりさせること ここに行き着くということでしょう。 言いかえると 経験世界における幸福感をいくら探究してもまた議論しても何も始まりません。それを超える場が 心にはあるのかどうか。ここに行き着くことは請け合いです。
- kannzou001
- ベストアンサー率22% (49/216)
現在は昔と比べて自由な社会ですので、迷うのは当然です。 心理学上、2~3個の商品をどれか選んでもらうと、最良と思うものを「即断で選択」しますが、それが何十個と数が多くなると「迷う」「保留」するという人が大半だそうです。 選択肢が多いと選べないのが人の心理らしいです。 今の世の中の「幸福」とは無数にあります。 例えば、武士階級での女の「幸福」は家を守り夫を支える事でした。自分のための自由などは考えません。それが誇りと思っていたそうです。今ではそう言う考えは女の不幸の象徴のように思われますが、当時の武士の女はそれが誇りと信じれました。それはそれ以外の世界や選択肢を知らないから幸福と信じれたのかもしれません。しかし、当時の武士の女は紛れもなく幸福だったと思います。 今の世の中は幸福の選択肢が多すぎるので、自分に合う幸福を探せ無い人は迷い続けるのです。 それと昔と比べ、今は幸福のハードルが高いと言えます。 昔は、村一番の将棋の名人。と言うだけで尊敬される事もあったでしょう。尊敬されなくともそれを誇りに感じて生きていけたでしょう。今はネットにつないで全国規模の対戦を余儀なくされます。 恐らく村一番程度では、全国ランクの上位にもいけないでしょう。 「将棋の名人」という誇りは持てなくなります。 今は幸福の種類も多く選びにくい。選んだとしてもそのハードルは高いという二重のハードルが、あなたのような悩みを多くの人が抱える社会になっているのではないでしょうか。 >皆さんは幸福の終焉(行き着くところ)って結局なんだと思われますか? 私は最終的には「健康で健やかに暮らせればそれで良い」と言う事に落ち着くと思います。 それは「老い」ともとれますし「成熟」ともとれます。
お礼
家長制度の崩壊も家族の形の変化だと思います。 ある番組で福祉の豊かな国も、介護の問題も無くても 「自分の存在意識の薄さ」で無力感を感じて 孤独なんだと放映していました。 >「健康で健やかに暮らせればそれで良い」 これは、理想ですよね。できれば、健康でいたいと思います。 ご回答を頂きどうもありがとうございます。
>>幸福の終焉(行き着くところ)って むなしさ、 自己満足、 錯覚、 白鼠がリング状の道(かな?)をひたすら走るも 同じ位置から移動していない・・・。それでも続ける。 幸福なのでしょう。 一方メビウスの輪の面上をひたすら歩み続ける。 結局元の地点に戻る。 結局は冒頭に書いた三点になると思いますが。 幸福とはそれぞれの価値観での充実感しかないのでは? 幸福とは何かと言う意識次第でしょうね。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
宇宙(認識)とは、無の潜在としての認識可能性の“断面”の移動=自我仮説に対する、相補的な時空仮説として生じている。 そこにおいて、宇宙の膨張=不確定性(h)の収束という、異なる本質=異なる認識可能性を一つの軸(時系列化)にするところに時間性は依拠しており、過去の自分も、空間的広がりにおける他人も同じ。 宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常として発生し、実は他人も共通であるという愛に向かって進むと言える。 宇宙が認識に於いて生じるならば、生きるのは楽しむため(精神的充足=意志の達成の感受)である。 その「楽しみ」の原因をつくる欲求は、遺伝子によって発生し、また我々の生きた結果が、淘汰として遺伝子に刻まれていく。 もし、楽しくなくてイヤイヤ生きるならば、その個体は活性が落ちて淘汰され、その状況でもイヤじゃない個体が増殖するだけ。 「楽しむため」といっても、短絡的な快楽主義を意味するのではなく、生きるのに反したり、認識を低下させる欲求は、人生を通算した充足量(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)の総和の最大化に反する。 人の「生き方」には、認識性の発達(より深い認識的な目標の達成による充実感)や社会生命性の発達(社会的行動=助け合いによる喜びor社会的価値(お金や出世)の取得による喜び)といった、二次的な要因があり、人生を通算した“喜びの最大化”には、愛(認識の深まり×社会的自覚化)が必須なのだ(短絡的な快楽主義には帰結しない)。 宇宙の発生に、異なる認識可能性(h)の時系列化が必要であったように、その自我仮説と時空仮設の対発生(自我成立の必要としての環境)において、その自己の生命の社会性を通じた他我化=愛(社会生命性の自覚化=生きる事自体の目的化=助け合いとしての自律的社会行動)こそが、生理的な認識性の最大化とその精神的な充足の最大化を両立させるのだ。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
私は物理で飯を食って来た者ですが、大分前にその分野では誰でも知っている優れた仕事をした超有名な方が、我々の研究所で講演をやりました。しかし、その方は幸せでないと言う雰囲気がにじみ出ていました。そこで、私は私のお師匠さんに、あれだけ著名な成果を残された方が、なぜそれに満足していないようで、不幸に見えるのでしょうかと聞きました。そのお師匠さん曰く、 「人間は過去の光栄で生きて行くことは出来ないんだよ。今の彼には、今の仕事の苛立ちばかりでなく、家族や健康のことで悩みがある。今幸せであることだけが、人間を満足させるのだよ」 多分経験則としては、年を取ると十分居直れるようになって、若い連中が受け入れられないことでも大抵は受け入れられるようになって来るようです。まあ、惚けの効用です。だから、年を取れば取る程幸福感を味わえる機会は増しますね。しかし、それでも、年寄りでも我慢が出来ない不運な目に遭うことだって有り得ます。人間棺桶の蓋が閉じるときが勝負じゃないんですか。
お礼
>人間棺桶の蓋が閉じるときが勝負じゃないんですか。 この言葉に考えさせられました。 過去の栄光に浸って生きている人って多いですよね。私の様に 栄光が無く、ほどほどに生きていると浸るものも少ないです。 年を取って、色んな事に寛容になれる人間に成りたいと思います。 素敵なご回答を有難うございました。
- gonbuto49
- ベストアンサー率23% (33/141)
スタートでありかつゴール
お礼
ありがとうございます。そうですね。スタートだともいえますね。
お礼
>登頂したときの喜びは、下山するまでずっと続きますよ。 山登りって、素晴らしいですね。悲観的思考のある私は持続的な 幸福感を味わったことがありません。 ものは考えようですね。 長期的に目標を達成するのも、生きがいですよね。 とても参考になりました。どうもありがとうございました。