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1949年の日本はどの位貧しかったですか
1949年の日本はどの位貧しかったですか 1949年(昭和24年)は、古橋廣之進が水泳でアメリカ人をやっつけたり、 湯川秀樹博士がノーベル賞を受賞したりしたことが大きな話題になった年ですが、 その年の日本は、まだ浮浪児がたくさんいたり、闇市があったりしていたのでしょうか。 第2次大戦後まもなくに比べて、日本の世の中は、少しは貧困が減っていたのでしょうか。
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私、1949年といえば小6、いまは片足を棺桶に入れているような年代。 で、疎開して東北の寒村にいました。 当時は弁当といえば日の丸弁当といって、ご飯の真ん中に梅干しが一つ付いているだけ。 それでなければタクアンが三切れほど。もちろんご飯も白米じゃない。 給食といえば米軍供与の脱脂粉乳をお湯で溶いたものが週に1回ほど。 雪国だったが、長靴買うにも配給券と引き換えだった。疎開組だったので優先的に配給券もらえたけど、地元の子は自家製のワラ靴だったね。 小学校卒業して30年ほど後のクラス会で「君の弁当には梅干しの代わりに紅ショウガが入っていた。それが食べたくってね~」と言われたことがある。 この一事で当時の貧困さ、分かってもらえます? タンパク質のタもない弁当。敗戦4年後の日本はまだまだこんな状態でした。 高校出て東京は上野へやって来たのが昭和31年、すかさずシューシャインボーイが寄って来て「おじさん、靴磨かせて!」 まだまだ浮浪児らしき子が上野の山をうろうろしていた。 今上野の山の近代美術館のあるあたりは、石灯籠を柱にした掘建て小屋が軒を連ねていたしね。 こちらも貧乏学生で、腹いっぱい食いたいな~という毎日でしたね。 米屋から配給券もらってそれで食べる一膳飯やもたくさんあったし、そこの常連でした。 新宿駅周辺の闇市が完全に無くなるのはまだまだ先のことです。
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- nishikasai
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>その年の日本は、まだ浮浪児がたくさんいたり、闇市があったりしていたのでしょうか。 実際に見てないけど浮浪児はまだいたと思います。1952年あたりからの記憶がありますが、「親の言うことを聞かない子は上野の浮浪児になりなさい」とおふくろに脅かされていました。あの頃は渋谷に住んでいましたが、駅前で傷痍軍人がアコーディオンを弾いてました。 >第2次大戦後まもなくに比べて、日本の世の中は、少しは貧困が減っていたのでしょうか。 はい、アメリカからの援助でかなりマシになっていたようです。本格的復興は朝鮮戦争が始まった1950年からです。それまでは「もう日本の工業は終わりだ。これからはせいぜい自転車を作って東南アジアあたりに輸出するだけだ」という状態になっていました。それが朝鮮戦争特需でがらっと変わりました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 大変勉強になりました。
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