- 締切済み
魂・心・生命の定義
魂・心・生命の定義 これらをロゴスで定義づけるのは、不可能かもしれませんが、広辞苑の定義だけでは理解し難いため、これらについてもっと良い・解りやすいと思われる定義をお持ちの方、是非お考えをシェアー頂けないでしょうか?よろしくお願いいたします。
- みんなの回答 (15)
- 専門家の回答
みんなの回答
- nakaotatsu
- ベストアンサー率12% (1/8)
魂・心・生命の定義 「心とは」 心とはいわゆる通常のエゴ心の事で自我とも言います。聖書では肉欲と言われています。心とは肉体の視覚、聴覚、味覚、嗅覚などの4つの感覚器官の細胞の意思の事です。心は見えたものや聞こえたものに左右されやすく欲望の渦に巻き込まれやすいものです。 魂と生命は叡智や神、潜在意識とも言えますそして宇宙の意識と言います。 「宇宙の意識とは」 人間や大自然の全ての生物に宿る命のパワーで、宇宙の叡智、 全知者、神、生命、潜在意識、人体の触覚の感覚、魂、でも、 ありますし、そのワンパワーは、大自然の万物や心や肉体をも、 創造しています。 又、その感覚は、直感的、警戒的な知覚状態です、又、人体の 宇宙的細胞の記憶分子で、DNA(ディオキシリボ核酸)とRNA (リボ核酸)の知識や印象の働きです。
- yuniko99
- ベストアンサー率15% (31/204)
生命は循環ですねえ ネゲントロピー(エントロピーに逆行して)によって 太陽エネルギーを貰っての組織化 運動 生命維持でしょう。 心は高等な動物に顕著ですねえ 犬猫 イルカ クジラなどにはあるようですが アジやサバ 蛇などには 殆どないようです。心は辞書では元は動物のはらわたの意とありましたが 主に人間の思い喜び悩むものでしょう。 魂というのは生命にも在るし心にも在りますねえ。DNAや育み思ううちに培われていくものでしょう 人間の心も死んでも魂として残された現実の中に生きていることでしょう。意識・精神は消えますが。 総じて人間は生命と心(性質で出来ている)を持ちそれらの魂を受け継いでると言えるでしょう。 生命40億年、人間 数百万年の魂を是非活かして未来の遠い未来の存在にたすきの様に繋げたいですね。
- freulein
- ベストアンサー率39% (94/237)
小生の日ごろの考えを申し述べます。 「ありたい私」と「現にある私」との差を考えます。この差を算出する・演算結果を吟味する・演算結果をゼロに近づける・近づいたとの振りをする・・・・これらをこれらの作業すること・作業結果などを大まかに「心」とか「悩み」と呼び、心の内の打算の少ない順に信念・理性・魂と呼ぶ。 「ありたい(と思われる)私」と「現にある(と見える)私」がどれくらい本当らしいかは「私」にはやや不確かのままにしがちです。 この定義の有用性は「悩み」の由来を理解するときにはっきりします。「ありたい私」とは本当の私か?どこからやって来たのか?「現にある私」とは本当にあるのか?本当は見せかけたい私なのか?自分の悩みの由来と程度が自分で吟味(いくらか?)するときに役立つでしょう。悩みの解決へのヒントが得られるかもしれません。 この「差」の演算結果がいつまでもゼロになることがないと「心」が病みます。「ありたい私を過小に設定する」「演算を止めたい傾向」「演算結果をゼロにする努力を諦める傾向」「現にある私を誇大に妄想してしまう傾向」などなどいろんな病状が整理できるのではないでしょうか? さて、「生命」です。「ありたい私」と「現にある私」との「差」を知る・差をゼロに近づける機能を持つ主体を生命とします。草や木、虫にも心があることが理解され、また実測されるでしょう。
「哲学とは何か」 と考えながらアプローチしていきますと・・・ 「複雑なことをかかれて腹を立てるのは 筋違いであり、現実を見ていない。 「お前の知識がないだけだ! 「質問者はもっと知的好奇心をもって 俺様の回答を認めるべきである!」 と根拠なく主張するのは、哲学ではありません。 誤謬の原因は、 「哲学者を含め、科学者一般は、数式をはじめとする、 言語で考えているのに、認識を誤り、『哲学者は言葉で考えていない』と主張する。」 「『イメージ』とはもっとも厄介な、偏見であるにもかかわらず 『哲学的思考の基礎』として取りあつかい、結論として 『血液型占いが科学的である』と主張するようになる。」 (血液型占いは非科学的です。www) 魂・こころ・霊について質問を受けているにもかかわらず、 自分の我見(ドグマ)をだらだら落書きし、自己満足。さらには・・・ 「愚民どもは、目の前の物はすべて原子である、と信じ込んでいる」と とんでもない大嘘をつく。 そういう人は、「魂がなにか」ということについて 語る 能力もないし 資格もない ということが、哲学的常識です。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
#5の者です。 「ロゴスで定義する行動」との事ですが、それは誤解です。 言葉で考えている訳ではありません。 アインシュタインは、数式で考えるのではなくイメージが 大事だと述べ、実際、彼は様々な現象や実験結果から得られた イメージを友人の数学者に伝えて依頼しており、皆が感銘を 受ける相対性理論の方程式を作ったのはアインシュタイン 本人ではありません。 誰しも、目の前の物は、原子の集まりだと思っていますが、 実際、原子を目にした訳ではありません。 様々な現象をうまく説明し、また実験によって証拠を得て、 そう思っているだけです。 その原子の延長に、素粒子やクォークを感じることを、 「ロゴスで定義する行動」とは言えないと思います。 古典的哲学に見られるように、物理学のように多様な現象の 原理における単純さを追求するのではなく、現象的複雑さの 上に複雑な概念をつくり、それをベースに複雑な思索をする 事が、「ロゴスで定義する行動」だと考えます。 確かに、物理学の知識がなければ私の文章でイメージできず、 『(現実から遊離した)難しい言葉で自慢している』と腹が立 たたれるのは仕方のない事です(好奇心が優る事を祈るのみ)。
お礼
psytex様、私がロゴスとロゴスを超えた世界を、全く別な世界と想像させる表現をしたがゆえに、psytex様を誤解をしていように感じさせてしまいました。申し訳ありませんでした。 私は物理学の知識はありませんが、「アインシュタインが、数式で考えるのではなくイメージが大事だと」と言われた事に共感します。私も真のロゴスとは、果てしないイメージと感動を与える存在であると実感しております。そして、私自身も音楽という専門分野でその世界を追究する者です。 私はpsytex様が物理の知識をひけらかし、自慢をしているとは決して思っていませんので、ご理解下さい。psytex様の物理の世界での感動が、より皆様に伝わるよう願っています。 有り難うございました。
1魂 まず、魂は身体と関係のないものの総称です。「魂は身体である」といううそを広める人を「だましい」屋とよびます。そういう人は、「魂は、わたしのものである。」とさけびその勘違いを他人に触れ回ります。魂がなんであるかを知らないからそういうことができるのです。女装したおかまの痴漢です。 魂とは一義的です。エネルギーです。 魂は多義的であるという人は、知識を深める必要があります。 魂のない人は、「一義的なことを一義的なことである」と捉える精神的能力に欠けています。魂は、一義の動なのですから・・・ 善という立場からすると、魂のない人・魂について無知な人は、悪というのはひょっとしたらナイのかもしれないと考えています。そういう人にとって善は多義であり、そういう人たちは、悪も善のひとつであると定義します。うそはつき放題という宣伝の偽善代理人です。 悪は存在しないというのは、悪です。悪は何もしなくてもすくわれるというのは、善の安売りです。 2こころ 心とは血流の中心です。温かさを生的につなげるシステムです。人間にとって一番大事なものです。「喜びと悲しみ」・「善と悪」・「美と醜」の源です。心とは色の鏡です。魂の受け皿です。「わたくし」にとっての念です。 3レイ 霊とは、思弁です。過去からの態・未来への希です。「わたくしたちWE」を繋げる道筋です。 やたらに「信じる信じる」とうるさい人は、これから便所に行かなければならないということも信じています。低級な「物」を信じているということです。自分で自分の世界を作りそのドグマを他人に押し付けようとする人です。体験も経験もまったくない。生命力も途切れ途切れの元気のない幼稚な唯物論者です。
お礼
nananisseさんの豪快で解りやすい表現に笑わせて頂きました。はっきりとした熱い気質でこれからも一筋の眩しい光を我々に注いで下さい。有り難うございました。
>魂・心・生命の定義 これらをロゴスで定義づける われわれ万物の霊長たる人間も、結局は地上に満ちた星ならぬいく万の生命体のひとつに過ぎないので、そういう意味では生命というのは一番理解がしやすいとは思います。つまり他人を含めて生命というものは他人でありじぶんでもある、世間にあるいきものだということで。 今朝殺した遅咲きの蚊も生命の一種であり、私たちは利己的に無造作にこれをなきものにしてしまいます。これでいいのか?という議論も「生命の定義づけ」という作業には必要になってくるかもしれませんが、ここは先を急ぎます。 心、魂 はおそらく人間だけが感じている一種のバーチャルな存在だといえますが、他人を見てその存在を感じるというよりも、やはり人間が他の生命体とはっきり異なっっているのは、自分自身の中へその意識を振り向ける能力を持ったということであり、心とはごく簡単にいってそういう内を照らす感覚の総体なのだということではないでしょうか。 「一寸の虫にも5分の魂」と言われるとおり、虫も魂を持っているという認識が存在します。いや、これはひとつの喩えでしょうか。この’虫’は取るに足らない身分の人間にも”それ”は存在するのだ、という意味のなかでの取るに足らない身分の人間=「一般的人格」と解釈するのが妥当なのかもしれません。この場合は人格に存在する普遍のものということから 魂=尊厳、あるいはその人格が持つ固有のアイデンテティ、もっと煮詰めて プライド というものになるのかもしれません。 ご参考まで。
お礼
komaas8様の高尚なお人柄を思い浮かばせ、人間の尊厳性という内容を考えさせられる内容です。有り難うございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 《たましい》は 多義的です。 A たましい: (1) 身体組織としての感性 (2) こころ (3) 霊 B こころ: (1) 感覚を意識し 認識すること。また 認識した内容。 (2) いっさいの認識をもとにして 自己および他者あるいは世界に相い対するとき人間存在に生じるはたらき。 これは 好悪の感情や喜怒哀楽の気持ちであったり こころ差し(志)であったり あるいは要するに 《わたし》という意識そのものであったりする。 (3) さらには たましいが霊としても捉えられる場合と同じこころがある。 これは 肉(つまりこの場合 精神および身体を言う)をあたかも超えて伸び広がるかに思われるところがある。→《信じる》 C 信じる(信仰): 非経験〔についての〕思考のこと。経験思考に非ざること。 または 表象しえぬものをわざわざ思うこと。ただしその表象し得ぬものをも 言葉などその代理によって表象すると主張することがある。 あるいは 絶対とわれとの関係。→《絶対》 D 絶対: そういう想定である。経験的な相対世界を超えたところと規定し想定する。思考を超えている。 《考える》を超えるこころのはたらきは 《信じる》と呼ばれる。 それは 有神論と無神論とに分かれる。どちらも 互いに同等である。信仰であり その形態が 有神と無神とで分かれるのみ。つまり《神がある》と言うのも《神がない》と言うのも ともに《信じる》の領域を捉えて言おうとしている。なぜなら 《絶対者》は表象しえぬゆえ。 E 肉: (1)身体 (2)身体および精神 すなわち 経験的な存在の全体 F 精神: こころのこと。特にこころの(2)のはたらきとして 基本的に 記憶・知解・意志の三つの行為能力を言う。 ( a ) 記憶行為: 精神の秩序。感性内容を意識し記憶する。意識内容を知解行為が加工したものをも記憶する。 その組織・その過程。 先験的に 存在じたい もしくは その自然本性じたいの秩序を司ると思われる。 ( b ) 知解行為: 記憶組織という宝庫から ものごとを捉えて認識し さらにあらたな整合性をもった認識内容につくる。 ( c ) 意志(愛): 大きく広く 直接的にせよ間接的にせよ 記憶および知解を行為するときに すでにそれらを促すように発動していると思われる。 知解行為の結果から取捨選択しその内容を みづからの意志(おもむくところ)として判断し決定する。実行にも及ぶ。 G 三一性( trinity ): これら記憶・知解および意志の三能力行為は 経験的・時間的な行為を成し 他者のそれらと 社会的な関係をむすぶ。 このとき 時間的な隔たりを持って 三行為はけっきょくのところ 一体性を有すると考えられる。 社会形態(一般に国家)にあっては順番に 司法・立法および行政という役割にそれぞれ相当する。 H 三位一体( Trinity ): これは 《絶対》という表象しえぬものを 人間のことばという代理物で 仮りに表象し仮りに表現しようとしたもの。 ・記憶能力が 父なる神。光のたとえとして 光源。 ・そこから生まれる知解行為が 子なる神。光の発耀。 ・それら両者から発出するかのような意志行為が 聖霊なる神。光の持つ明・暖。 絶対の領域では とうぜんながら 三つのものは 一体である。 三つのそれぞれの個は全体と 全体は各個と 各個は各個と それぞれ等しい。無限の半分も無限であり 三分の一もやはり無限である。 I 霊: 《絶対》ないし《絶対者》のこと。 J 《イエスはキリストである》: 霊なる神が 肉(精神および身体)になった。という物語。 K 人間: このキリスト・イエスつまり 《かみでありひとである存在》に似る存在者である。 それは 霊なる神を分有するというかたちだとされる。 《絶対》によってあたかも指先でのように触れられている。あたかもこころの明けまた伸びとして窓が開かれている。これを《分有する》という。 L 《人間は神の似像(にすがた)である》: 三位一体なる神のはなはだ不類似にしていくらかは類似する三一性をそなえた人間をいう。 この人間は 神にかたどって造られたと表現された。 一定の社会形態(国家)も 三権の分立かつ協業というかたちで一種の三一性を有し 似姿の様相を呈している。 M 生命: これは 以上のすべてを言うものか?
お礼
ご意見有り難うございました。 bragelonne様が、人生の中で、神という存在をどう実感し捉えているかに興味がありますが、この内容には立ち入らないようにしますね。 有り難うございました。では、お元気で。
連投失礼いたします。 そして、掲示板的使い方になることをお許しください。 >ロゴスには限界がある事を知りつつも、 知的人間はロゴスで理解したがる傾向にあるように思います。 ロゴスを超えた世界がどんなに美しく神秘的であるか、 また、それを実感しようと努力する事が、人間の真の創造性を育てるようにも思います。 こちらのご返信に対しては『御意、全く同感』です。 神秘的というと俗世間の方の多くはマスメディアの影響で 『オカルト』と捉える傾向が強いし・・・。 科学、学問も『発展途上』でありながら その時点でそれらを『常識と呼び』疑う事すらしない・・・。 しかし、現実には『相対を持たない絶対的な、真 善 美』と言うモノも 確かに『実在』し感じ取る事が出来る・・・少なくともできるはず。 目に見える『可視光線』は電磁波のごく一部の波長体。 耳に聞こえる『可聴音』もまたごく一部の周波数・・・。 『何かを極めた』時それは達人と呼ばれる。 しかしその地点は『単なる臨界点』にしか過ぎず、 その先には『それ以上』の何かがある・・・。 そこまで行けば『超人』・・・つまり人の領域を超える。 そんな次元では『魂、心、生命』も表現可能な何かが有りそうな気がする。 既に科学は『5次元、6次元も証明』している。 (米国 リサ・ランドール博士) 言語的に超言語の世界を専門用語も使わず 可能な限り表現した方(インド出身 J.クリシュナ ムルティー氏)おります。 ご返信を頂き『質問者様のご質問の真意』が理解できました。 質問者様の更なる進化、ご成長を願っています。 それでは。
お礼
真摯なご返信有り難うございます。thank2012様の美しい詩的な文章を読むと、私の想像が始まります。色々な人のお考えを聞く中で、また新しいインスピレーションを受けることができ、本当に感謝しています。 J.クリシュナ ムルティー氏の「Conversation with God」は興味深い本でした。 私のこの質問の投稿を解決済みにせず、オープンのままで残しますが、どうかご了承頂けますようお願いいたします。 有り難うございました。
こんばんは。 大変興味深く、このご質問のやり取りを 拝見させていただいております。 ご質問者様の言われる通り、 >ロゴスで定義づけるのは、不可能かもしれません それが一番的を得ている答えだと感じます。 ロゴス、言葉を超えた、『超言語的、超ロゴス』でしか 表す事は出来ない・・・と思います。 (私達は『超言語的言語、表現』はできません。) 言語や言葉、表現は『ひとの思考の産物』であって、 如何なる表現も『それ』ではありません。 『りんご』は単語であって、 『りんごそのもの、それ』ではありません。 『写真や画像、3D』も同様に 『それ』を実体とする事、『実在させる事』はできません。 『定義』と言うものもやはり、『思考の産物』です。 ですから『ある程度、ある一部、ある側面』の 『それ』を表現する事はできても、 『完全』ではなく不完全です。 魂、心、生命・・・それらは何らかのエッセンスである事は 想像に容易いとは思いますが、それ以上の表現は出来ない・・・ そう思います。 それでは。
お礼
ご返信有り難うございました。ロゴスには限界がある事を知りつつも、知的人間はロゴスで理解したがる傾向にあるように思います。ロゴスを超えた世界がどんなに美しく神秘的であるか、また、それを実感しようと努力する事が、人間の真の創造性を育てるようにも思います。
- 1
- 2
お礼
語られたロゴスに相対できる内容も想像力も乏しい私は、相手の感動する世界を、ロゴスだけで理解するのは困難なようです。 再投稿有り難うございました。今後ともよろしくお願いいたします。