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宗教を信じておられる方は、何を根拠に宗教を信じておられるのですか。
宗教を信じておられる方は、何を根拠に宗教を信じておられるのですか。 また科学との折り合いをどのようにつけておられますか。 例えば死後3日たったキリストが復活したとか。 むかーし、「エホバの証人」の信者さんがうちにきて見せてくれたパンフレットには 墓からたくさんの人が蘇ってでてくる様が描いてありました。 そのような話をいかにして信じるに至ったのでしょうか。 「知性の犠牲を強いることである。」と武部宗彦さんはおっしゃっていますが。
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たくさん、ありがとうございます。まず、先のお礼の中から・・ >・・宗教は比較しないで選ぶことができるのかが⇒もう1度回答を読んでいただきたいのですが、したのですよ。そして、こうして関心を持ち続けて時間が過ぎると、他の宗教の方の話も耳に入りますしね。 >永遠の命⇒現在生まれて生きて死にますが、死ななければどうでしょう?そのためにはそうできる体、環境いりますね。人間の体はそうできる可能性をもつ、自己更新ができる物質なのです。これを神が創造されたと学ぶのです。人形じゃありません。考え、判断できる脳もそうです。それを使い環境を整えます。永遠に生きられないから憧れから崇拝にまで高められたのかもしれませんが、永遠の命じたいは思考・観念・将来は事実であって、自ら何かできるわけでもありません。聖書の基準でいくとこれを崇拝はまちがいとなります。 >聖書は神ですか。 それは不完全なる人間が書いたものであって神ではないのではないでしょうか⇒「聖書全体は神の霊感を受けたもので・・」テモテ第二3章16節。神が人間に書かせたものです。神ご自身は見えません。どこにでもあるエネルギーのようなものでもありません。(詳しいことは割愛しています) 補足の中から・・ >武部宗彦さんのイエス双子説・・・・教団の人たちだけではないでしょうか。⇒イエスが双子なら聖書にそうあってもいいはずと思いました。何を根拠にその説が出たのかはわかりませんが、タイムスリップできないので、どちらも(復活も武部さんの説も)直接確認できない、ならば現在、確認できることから検証しようという事です。 >a・・・繋ぐことはできません。⇒聖書そのもののデータと復活の話を直接は結び付けられません。科学的に元素やら分子構造やらから復活を検証したい(つまり、No.9のmmkyさんの回答に近い)をご希望ならここでは書きませんが、証人の組織はそれらを考慮した書籍はありますよ。別に証人の本でなくても科学者の人が学ぶような難しい本でもtakotakoqさんはチョイスできますね。というか、これが真に尋ねたかったことだったのですか・・ 補足として、いえる事はそこまで知らなくてもお母さんのお腹の中で赤ちゃんが育って出てくるという事実(結果)は多くの人は現実知ることができます。このことをお母さんはいちいちお腹の外から指示する事はできず、ここがわかれみちでしょうが、知力・判断力の働かない偶然では(自分は)できないと思います。 知らない過去にいけない以上、絶対確実なのは、将来の復活のある時代をtakotakoqさんが目撃する事です。 騙すためにはそれなりの得が騙す方にあるわけですが、自分がtakotakoqさんを騙して何も得はないことはお伝えしておきたいです。忘れたことも多いですが、takotakoqさんがいうように疑問は昔、自分にもあったと思いますよ。疑問をもつ事が悪いのではなく、疑問をどこから解決するのか、答えに対してどのような態度で臨むのかが重要だと思っています。 「言葉の使い方がなっていない点については」・・自分はさほど気になりませんでした。自分のほうこそ、このような機会をもうけていただいて感謝しております。
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- ad383cll
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ANo.8,16のad383cllです。 takotakoqさんのお考えはよくわかりました。証人の組織にもいろいろな宗教の概略(ですが、要点をついていると思います)だけを集めた書籍があります。 自分は他宗教に正しい事が書いていないとは考えていませんし、誠実な方がおられるのは存じております。ですが、あまりにどの宗教にも精通となると、混乱を招く場合もと思いますし、「どの宗教も真理である」とするならば各宗教の違いやある事に対して正反対の解釈はどう説明するのかの答えが出せないのではないかと思っております。真理まで求めるか、自分が満足できれば何でもいいのかという希望はそれぞれ違うと思いますが、ヨハネ3章16節では 「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。」と結果が変わってくる事を示唆しております。なので、このまま宗教に関心を失わず、真理まで到達できることを願っております。人への不信感を克服することもできます。 もしも憂鬱な時はこちらもどうぞ http://www.watchtower.org/j/20050801/article_02.htm 今後、もしかしたらお役にたつかもしれません。だれでもあてはまることです。 「・・真理を知り,真理(聖書)はあなた方を自由にするでしょう」。 ヨハネ 8:32 「・・・さまざまな欲望に引かれ, 7 常に学びながら,決して真理の正確な知識に達することができないのです。 」テモテ第二 3:6~、そういう危険もあるということです。 哲学というのは主に頭で考えることですが、その材料としてあたりまえのようにある自然も観察してみてください。人間だけでは生きられないのですから。 以下はウィキペディアです。イスラムについて少し調べてみました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B3(クルアーンについて)、この中の「聖書とクルアーンの関係」というのもなかなか興味深いものがありました。
お礼
回答をありがとうございます。 >自分は他宗教に正しい事が書いていないとは考えていませんし、誠実な方がおられるのは存じております。 うーん、つまり聖書は絶対に正しい、とおっしゃりたいのですよね。 そういう前提があってのこの言葉だと思います。 他宗教には間違った部分があるけれど、すべてが間違いではない。 そういうニュアンスが感じられます。 >ですが、あまりにどの宗教にも精通となると、混乱を招く場合もと思いますし、「どの宗教も真理である」とするならば各宗教の違いやある事に対して正反対の解釈はどう説明するのかの答えが出せないのではないかと思っております。 そこまでわかっておられて、あえてその宗教を選ばれたという点なんですよね。 疑問に思うのは。 各宗教の違いやある事に対して正反対の解釈をどうするのか、という見極めをしてから選ぶべきだと個人的には思っています。 だって、服や音楽だって他と比較して選ぶでしょう。 それなのにどうして宗教は比較しないで選ぶことができるのかがどうしても理解できません。 >神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされたからです。 これは回答者さまがその宗教を選んだ目的でしょうか。 また同じ疑問をくりかえしますが、どうしてこんなことが信じられるのでしょう。 銀河鉄道999を思い出します。 確か永遠の命の正体は鉄のネジの体となって惑星をささえることだったと思います。 日本神道における永遠の命とは神殿に祀られ、長い年月、参拝されるということです。 (例えばオオクニヌシ) こんな私でも希望や夢の実現などは信じています。 これはいいかえれば神を信じているということなのかもしれません。 あなたがたが信じているのは神なのでしょうか。 信じているのは教団とか聖書だということはありませんか。 しかも、その正体を見極めてもおられないのに。 聖書は神ですか。 それは不完全なる人間が書いたものであって神ではないのではないでしょうか。 したがいまして、せっかくサイトを貼っていただきましたが おそらく今後役立てることはないかと存じます。 「聖書とクルアーンの関係」の方は面白かったです。 だからといってキリストが復活したのも正しい、とはなりませんけれども。(笑) 私は疑問を持つことが真理を開く鍵だと思っています。 もちろん信仰は自由ですが、少し心が硬いのではないか、と感じられました。 しかしながら今回の質問のテーマについては、おかげさまで少し疑問が解けたように思います。 感謝申し上げます。
補足
お礼に少しばかり補足をさせていただきます。 大変熱心に学んでおられるようすが、文章からひしひし伝わってきます。 とても真面目な方なんだろうなあ、と感じています。 学び方についてなんですが、 聖書の中から聖書を見つめるだけでは、聖書を客観的に見ることはできなくはないですか? たとえばインテリアコーディネーターの資格をとった方が インテリアコーディネーターの勉強というのは、メーカーの製品を覚えてそれを販売する技術にすぎなかった、とおっしゃっていました。 それで住宅汚染が問題になったときに、自分が学んできたことは全部ウソだった、と悟ったというのです。 これは、インテリアコーディネーターという世界の外に出て 環境問題にふれたことからその真実に気づいたということでしょう。 また美容師さんの多くは化粧品メーカーによる教育を受けていますから シャンプーで指の指紋がなくなってしまっても、なかなか化粧品が安全な物ではないということが認められないようです。 私はシャンプーは使いません。 ひどくかぶれて脱毛した経験があるので。石鹸にかえることですっかりよくなりました。 だけどそれをいくら説明しても、理解してくれる美容師さんがいないのです。 これと同じで、 http://www.watchtower.org/j/200711/article_03.htm 上記サイトは『エホバの証人』という宗教団体によって記されたもので こういうものばかり勉強するというのは、私は知識に偏りが生じると思います。 それにここに記された論理も正直いっておかしいものが多いです。 ●聖書の歴史記録の正確さに異議を唱えて誤りを実証できた人は一人もいません イエスが死後3日後に蘇ったということについては、 武部宗彦さんのイエス双子説がなかなかいいセン付いていると思います。 絶対正しいとはいえませんが、ぎゃくにイエスが死後3日後に蘇ったことが正しいということも実証されていません。 それが実証されていると思っているのは教団の人たちだけではないでしょうか。 a.ロングセラーである、ベストセラーである、信者の数が多い、聖書の記述はほぼ正しい これらは、「イエスの復活も正しい」と=で繋ぐことはできません。 ゆうべ家族に聞いたんですが、a.のような手法は「数学的帰納法」というのだそうですね。 数学的帰納法は歴史には適用できないのではないか、と申しておりました。 人を騙すためには、100回本当のことをいって信用させておけばいいのです。 ですから、聖書の記述はほぼ正しいからといって、イエスの復活も正しいとはならないわけです。 ●4の「科学的正しさ」というのはウソだと申し上げる以外にありません。 そのさいたるものが、イエスの復活です。 私はNo.9のmmkyさんの回答に誠意を感じます。 それが正しいかどうかはひとまずおいておきますが、質問に正面から答えてくださっています。 エホバの証人さんの回答は、正面からお答えになっておられないのです。 イエスの復活そのものについては触れずに、関係のないことをひっぱってきて無理やり=で結んでいる。 そういった印象を受けました。 私はまだまだ未熟者でして、言葉の使い方がなっていない点についてはお詫びいたします。
- climber(@politeness)
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NO21です。聖書が内容面で信頼できる根拠についてはNO8様が既に回答されていますので、割愛しましたが、あらためて引用しておきます。 http://www.watchtower.org/j/200711/article_03.htm ここで引用されているのはあくまでも一部の例にすぎません。 そして、元寇以下の回答は、この件とは切り離した別の視点から論じたものです。 ところで福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)を読みますと、処刑者やそこにいたローマの兵士たちはその人がキリストであることを確認していること、大勢の人たちが処刑の様子を見守っていること、いつもキリストと行動していた弟子たちが大変がっかりすると共にユダヤ人を恐れていたために人目に付かないところに隠れていたことが記録されています。こうした具体的でリアルに富んだ記述から、処刑されたのはキリスト本人であると考えています。 さらにマタイ28:5-12では、復活後のキリストがまず女性たちに現れたことが記述されています。作り話であるなら最初に男性に現れるように創作するのが妥当です。なぜなら、当時のユダヤ人社会では女性は非常に蔑視されており、女性の証言は信用できないとみなされていたからです。事実、こうした影響を幾らか受けている弟子たちも当初はその話に全く取り合おうとしませんでした(ルカ24:11)。この記述も聖書の信頼性を補強する一要素になっていると考えています。
お礼
回答をありがとうございます。 貼っていただいたサイトのように、いくつ聖書が信じられる、という証拠を積んでもらっても意味がないと思います。 NO16さんは、 「例えば100回正しいことを言ってきた人が近くにいたらその人の101回目の発言もまずは信じるのではないでしょうか・・。」 とおっしゃっています。 これは申し訳ないですが間違いです。 100回正しいことを言った人が101回目にウソをつくことなど絶対にないと、どうしていえるのでしょうか。 逆に、人をだますには100回正しいことを言って信用させておけばいいのだということを学ばせていただきましたけれども。 >元寇以下の回答は、この件とは切り離した別の視点から論じたものです。 ああ、そうなんですか。 それなら、「同様に」と言う言葉で繋がないほうがいいと思います。 「同様に」と書くと「同じ視点でみて」ということだと勘違いされると思います。 >処刑者やそこにいたローマの兵士たちはその人がキリストであることを確認していること、大勢の人たちが処刑の様子を見守っていること、いつもキリストと行動していた弟子たちが大変がっかりすると共にユダヤ人を恐れていたために人目に付かないところに隠れていたことが記録されています。こうした具体的でリアルに富んだ記述から、処刑されたのはキリスト本人であると考えています 以下、武部宗彦さんの説ですが、 ●キリストは双子で、殺されたのはキリストではなく双子の弟だったのではないか。 ●イエスの弟子の仲にトマスという人物がいたがトマスとは双子と言う意味であり、 福音書はトマスのことを「イエスの双子の兄弟」としている。 まだ他にもいろいろキリストが双子であるという証拠について説明されていますが、このくらいにします。 武部宗彦さんの説が絶対正しいというわけではありませんが 少なくとも、死後3日たった人間が蘇ったというように「知性の犠牲」を強いることはありません。 強調しておきますが、どんなに聖書が正しいという理由をつまれても 死後3日たった人間が(霊的復活ではなく)蘇ったというのは普通では信じられません。 >復活後のキリストがまず女性たちに現れたことが記述されています。作り話であるなら最初に男性に現れるように創作するのが妥当です。なぜなら、当時のユダヤ人社会では女性は非常に蔑視されており、女性の証言は信用できないとみなされていたからです。 こちらの方はなぜ女性なのか、についてはわかりません。 宿題をいただいたのでこれからじっくり考えてみることにします。 いろいろ申しましたが、たくさんのことを教えていただきありがとうございました。 心より感謝申し上げます。
- climber(@politeness)
- ベストアンサー率42% (97/229)
NO20です。お礼ありがとうございました。 私たちは聖書を信頼する根拠として、頒布数や由来などの形式面よりも、歴史的・科学的・社会学的・内面調和的正確さ等の実質面を重視しています。形式面と異なり、実質面はある程度調べてみなければ判断はつきません。そこが知力と理性の求められるところであると私たちは考えます。 確かに当時の多くの日本人は戦争の勝利を信じていましたが、この考えには歴史的根拠がありました。かつて執権北条時宗の時代に、モンゴル帝国(元)が二度にわたって日本を襲撃したことがありました(文永の役・弘安の役)。圧倒する規模の戦い慣れた兵士と最新の武器が投入されたため、日本は非常に苦しい状況に直面しました。しかし、いずれのケースも思わぬ暴風雨に直面し、元軍の多くの船が沈没し、結果として日本は守られたという歴史的事実があります。(弘安の役では元軍14万のうち、10万以上を失いました。)そして、明治政府以降の皇国史観(本来的神道の変容)と相まって、人々は、(正しいか否かはともかく)日本は神国なので今回も戦争に勝てると考えました。つまり、戦争の勝利を信じる根拠があったわけです。 同様に、教育を受けた人たちも含め、当時の非常に大勢の人が、新しい宗教であるキリスト教を信じたことにも相応の根拠があったと考えるのが論理的にも自然であると思います。
お礼
こちらこそたびたびの回答をありがとうございます。 >私たちは聖書を信頼する根拠として、頒布数や由来などの形式面よりも、歴史的・科学的・社会学的・内面調和的正確さ等の実質面を重視しています。 ふむ、するとベストセラーだ、ロングセラーだといっていたのはちがうんですね。 回答者さまがおっしゃっていることをまとめてみます。 (1)日本人は戦争の勝利を信じていた。 その理由文永の役・弘安の役で神風が吹いたからである。(戦争の勝利を信じる根拠) (2)当時大勢の人が、新しい宗教であるキリスト教を信じた。 これにも、「神風が吹いた」と同様の理由があった。 そのとおりだと思います。 (1)について回答者さまは【正しいか否かはともかく】と書いておられます。 これはつまり a.吹いた風が神風かどうかはわからない。たまたま吹いただけかもしれない。 b.天皇が神であるかどうかはわからない。 c.戦争をしたことがいいことだったかどうかわからない。 ということですね。 ここまでは同意できます。 理論が破綻しているのはこの先です。 (1)が成立するので、(2)もまた成立するとおっしゃる。 とすればキリスト教にも、a.b.c.が適用される、となるところです。 それなのに、なぜかキリスト教にはa.b.c.が適用されないという結論になっています。 >私たちは聖書を信頼する根拠として、頒布数や由来などの形式面よりも、歴史的・科学的・社会学的・内面調和的正確さ等の実質面を重視しています。 とおっしゃっるので、おお、どんな科学的説明をしてもらえるのだろうかと期待しましたが >当時の非常に大勢の人が、新しい宗教であるキリスト教を信じたことにも相応の根拠があった 頒布数の多さではない、信者の多さが証明だとおっしゃる。 ベストセラーである、ロングセラーであるという理論とそんなにかわらないですね。 もう一度、ご自身の説を読み直し、わかりやすく図に書いてみられることをオススメします。 それよりも、肝心の問いかけにお答えくいただけなくて残念です。 イスラム教徒が「イエスではなくて、イエスに似た男が殺された」と言っている、ということについてです。 キリスト教徒の方が数が多いから正しい、とおっしゃるんでしょうね。 与党が正しくて野党は間違いであるといっているようなもので、数の多さは正しさの説明にはなりませんよ。 まあ、まだ何かおありでしたらお聞きしますが 私がいいたいことはだいたいこのくらいです。
- climber(@politeness)
- ベストアンサー率42% (97/229)
私はエホバの証人です。私たちは聖書全体を神の言葉として受け入れ、組織全体としてはもちろん、個人としても聖書の原則を日常生活に反映させるように努力しています。ただし、信仰とは盲信や感情によるものではなく、ベレアの人たちが培いましたように、正確な知識に基づく(ヨハネ17:3。テモテ第一2:4)、知力と理性によるものでなければならないと考えています(ローマ12:1)。 (使徒 17:11) …さて,[ここの人たち]はテサロニケの人たちより気持ちがおおらかであった。きわめて意欲的な態度でみ言葉を受け入れ,それがそのとおりかどうかと日ごとに聖書を注意深く調べたのである。 聖書全体が様々な分野において信頼できる根拠についての詳細は、同じ仲間の方であられるNO8様が回答されていますので、ここでは割愛します。 さて、(神聖を備えた神の子)キリストの復活については、聖書の中で明確に述べられています。そして大勢の目撃証人がいることも述べられています。そこで一つの問題が生じます。この復活と目撃証人の記述そのものが正しいのかということです。その点についての記述内容と信頼性についてもNO16様が回答されていますが、幾らか補足する形となります。 キリストの死の際に当然ながら弟子たちは意気消沈していました。しかし、後に弟子たちは喜びに満たされつつ、キリストの復活について恐れることなく熱心に宣べ伝えるようになりました。その他の大勢のクリスチャンたちもユダヤ教徒やローマ帝国からの厳しい迫害に直面しなからも大胆にキリスト教を信仰し、キリストの復活について宣明し続けました。一世紀当時、大勢のクリスチャンたちが厳しい迫害に直面しながらも熱心に活動したことは歴史的事実です。これほどまでの熱心な活動の結果、キリストの復活を含めた音信がその当時知られていた全地にまで広まりました。 (使徒 17:6) 「 人の住む地を覆したこれらの者たちがここにまで来ていますが, (コロサイ 1:23) その[良いたより]は天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです。 もしキリストの復活を彼らが目撃していなかったのであれば、これほど大勢の人たちが、命をかけてまで(殉教の死を遂げてまで)、新しい信仰とも言えるキリストとその復活についてここまで宣べ伝えるのだろうかという疑問が生じます。普通なら考えられないことです。 このように私たちは証拠に基づいて聖書を信じるように教育されています。なお、聖書を信じるためには正しい理解が必要ですが、そのためには出来る限り原文の意味を正確に伝えている聖書を利用することが望ましいと考えています。(決して他訳を批判しているわけではありません。) http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm
お礼
回答をありがとうございます。 >聖書全体が様々な分野において信頼できる根拠についての詳細は、同じ仲間の方であられるNO8様が回答されていますので、ここでは割愛します。 それについて、私は納得できないと返事をしています。 あなたがたは=だとおっしゃいますが、私からみれば≠なんです。 理由については重複するので、NO8さんのお礼欄を参考にしてください。 >もしキリストの復活を彼らが目撃していなかったのであれば、これほど大勢の人たちが、命をかけてまで(殉教の死を遂げてまで)、新しい信仰とも言えるキリストとその復活についてここまで宣べ伝えるのだろうかという疑問が生じます。普通なら考えられないことです。 戦争中は日本人の多くが天皇は神であると信じ、天皇のために自分の身を投げ出して戦争にいきました。 それと同じではありませんか。 回答者さまの理屈でいえば、天皇は本当に神であり、それゆえ人々は命を犠牲にして戦争にいったのだ、ということになります。 私にとっては、死んだ人が生き返ることこそ【普通なら考えられないことです。】 そしてコーランでは「イエスではなくて、イエスに似た男が殺された」と言っているようです。 私はイスラム教徒ではありませんが、彼らの言い分も聞かねばならないと思いました。 どちらの言い分が正しいのかは、わかりませんが。 >このように私たちは証拠に基づいて聖書を信じるように教育されています。 イスラム教徒は「イエスではなくて、イエスに似た男が殺された」と言っている、ということを教わりましたか。 科学を愛好するものは、教育されることを好みません。 疑いをもち、自分自身の頭で考えることをします。 まあ、人それぞれということでしょうね。 聖書はロングセラーである。またベストセラーである。弾圧を受けても生き残ってきた。多くの人がその命さえ捧げた。 それゆえ、信仰している、ということはわかりました。(信仰する理由) ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
☆☆(回答No.18) ~~~~~~~~~~~~~ ★(No.13お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 無神論もまた >非思考の場において成り立つところの《信じる》ということがら だということですが、これは正直言って納得できません。 私は考えた上で無宗教なので。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《考えた上で》決めるものは この経験世界のものごとです。生活上のこと・科学としてのいとなみ・あるいは教義を持った宗教もしくはその教義について考えた末受け容れないと決めるという無宗教などです。 無神論は おのれの心に非思考の場がかたちづくられたあと その心の伸びの向こうに《神》が存在するとは見ないとひらめいた場合のやはり心の伸びのかたちです。つまり 信仰です。《考える》をとおして得たものではありません。 非思考の場において 神を思うか思わないかで 有神論と無神論とに分かれるというだけの話です。《教義》とは・したがって《宗教》とは関係ありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この部分について 無視されましたね。 無視するのは 自由ですが 無視されましたねと答えておくことまでは こちらの自由です。つまり 問い求めを放棄されましたねという意味です。確認までで おしまいです。
お礼
えーっと一応申し上げておこうと思います。 私は「エホバの証人」の方に「話だけでも聞いてほしい」、といわれましたので 1年間お話を伺いいました。 頭から否定するのは間違いだと思いましたので。 でその結果、やはり納得のいかないことばかりなので「お引き取りください」と申し上げました。 むこうも「こりゃだめだ」と思っておられたらしくすんなりとお帰りになりました。 この過程のことを 「考えた上で無宗教なので。」と申し上げました。 bragelonneさんは、無宗教は >《神》が存在するとは見ないとひらめいた場合のやはり心の伸びのかたちです。つまり 信仰です。《考える》をとおして得たものではありません。 とおっしゃる。 無宗教を信仰と考えればそのとおりだと申しておきましょう。 しかし私の言葉の意味はそうではない。 お話を伺って、いいものだと思えれば入信したけれど、いいものだと思えなかったので入信しなかった ということを「考えた上で無宗教なので。」と申し上げました。 言葉の使い方がまちがっているのならば謝ります。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.11&13です。 ★ ~~~~~~~~~~ 無神論もまた >非思考の場において成り立つところの《信じる》ということがら だということですが、これは正直言って納得できません。 私は考えた上で無宗教なので。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《考えた上で》決めるものは この経験世界のものごとです。生活上のこと・科学としてのいとなみ・あるいは教義を持った宗教もしくはその教義について考えた末受け容れないと決めるという無宗教などです。 無神論は おのれの心に非思考の場がかたちづくられたあと その心の伸びの向こうに《神》が存在するとは見ないとひらめいた場合のやはり心の伸びのかたちです。つまり 信仰です。《考える》をとおして得たものではありません。 非思考の場において 神を思うか思わないかで 有神論と無神論とに分かれるというだけの話です。《教義》とは・したがって《宗教》とは関係ありません。 ★ ところで回答者様は特定の宗教を信仰しておられるのでしょうか。 ☆ 教義・教団・教祖を持つ宗教は じつはわたしは 個人の信仰の自殺行為だと考えています。信仰で得た観想(ひらめき)を わざわざ《おしえ》として人びとに振れまわるとき それは非思考の場を《考える》つまり思考の場に取り代えてしまっているからです。 いま述べている信仰は 聖書をとおして与えられました。 ★ イエスの復活は、文学的・比喩的なものだとお考えなのですね。 ☆ イエスの弟子たちがどういう観想で復活を確信したかがわたしには分かりませんので 《文学的な表現》だといまは捉えるという意味です。 《冬至》の話は イエスの誕生日があとでその日に当てられたという話です。 ★ 〔復活について〕どこにそのようなことが書いてあるのですか。 ☆ 次に引用しますが ★ 霊的復活 ☆ という表現は まぎらわしいですよ。つまり 復活はたしかに新しい天と新しい地における経験的なことですが その再生というのは 霊的なからだとしてよみがえるというものであるはずです。 ▲ (パウロ:コリントの信徒への第一の手紙 15章)~~~~~ 35:しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。 36:愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。 37:あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。 38:神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。 39:どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。 40:また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。 ・・・ 51:わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 52:最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 53: この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 54:この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。 55:死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ・・・信仰の仕方が本物ではないか、とも思うんですが。 ☆ わたしの信仰としては 次が復活についての答えとして基本であると考えます。 ☆☆ (回答No.13) ~~~~~~~~~~~~ 8. 答えは――すっぽかすようですが―― この復活ということについては いまは将来すべきこととしてそれに臨むのがただしいと言われています。いまは おぼろげに・或る種の予感において 知ることもある。といった答えしか用意できません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ひとこと言うとすれば 復活について 聖書に書かれているからと言ってそれを安易に持ち出すのは 信仰を軽くしているのではないか。です。 つまり その復活を得たならば・見たならば もう非思考の場で信じるということは要らなくなります。信じて来たことが――《神がすべてにおいてすべてとなる》というかたちで成ったのですから――すでに分かるようになっているのですから 信じる必要がありません。
お礼
たびたびお付き合いくださいましてありがとうございます。 >☆ 教義・教団・教祖を持つ宗教は じつはわたしは 個人の信仰の自殺行為だと考えています。信仰で得た観想(ひらめき)を わざわざ《おしえ》として人びとに振れまわるとき それは非思考の場を《考える》つまり思考の場に取り代えてしまっているからです。 いま述べている信仰は 聖書をとおして与えられました。 つまり、特定の教団には属されていないのですね。 立ち位置が理解できました。 復活の記述について教えていただいてありがとうございます。 よくわかりました。 ただ、回答者さまが批判される教団では、イエスの復活は霊的復活ではなく、肉体を伴ったものだとしているようです。 回答者さまの立ち位置がわからなかったもので、こういう質問をさせていただきました。 大変勉強になりました。感謝いたします。
僕の意見です。 理路整然と根拠を語れる人は、ここに投稿しません(キッパキ!)。『神はいるから存在する、以上。』『あなたも信じなさい!』そう言われるのがオチでしょう。四柱推命とか占星術とかにも似た面があります。よく計算され、緻密に組まれた楼閣のようにそびえていますが、その脚元は常に霞に隠され見えません。どんな土台の上に建っているのかが(そこが一番肝心なのに)わからないのです。 ただ、宗教を信じる理由なら想像できます。映画『コンタクト』で地球外知的生命体探査装置の乗組員を選考する場面で、『神の存在を信じますか?』との質問に否定的だった主人公は選ばれなかったのです。『世界の95%の人は何らかの神を信じている』と選考委員は言いました。神の存在を信じない者を選ぶ訳にはいかないと言うのです。 無神論者は無軌道で何をしでかすかわからない。良心が無く、法の目をかいくぐって悪事を行う可能性がある。信用できない。そういった懸念を抱かれるみたいです。特に欧米では、大統領選挙を見ても、『私は神を信じる』とは叫んでも、『私は無神論者だ』とは叫びません。一般人だって、いいえ日本人だって、敢えて『わたしは神を信じない』とは言わないものです。自分の存在を越えたものを認めないという、傲慢な人物に思われるからでしょう。 何故?という質問には、原因で答える方法と、もう一つには目的で答える方法とがあります。『なぜ宗教を信じるのか?』を考えるには、目的を考えてみるとわかる気がします。人間は偶然のできごとにも理由を探します。『なぜ自分だけ運が悪いのか』『なぜこの人と出会ったのか』etc.。これは将来に備えて法則性を見つけようとする人間の性なのかもしれません。人間は奇跡など起こらなくても“神”を創造し、説明をし始めます。いわば神を信じているのではなく“神の摂理”を信じているのです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E7%90%86_(%E7%A5%9E%E5%AD%A6)
お礼
回答をありがとうございます。 >『神はいるから存在する、以上。』『あなたも信じなさい!』そう言われるのがオチでしょう。 ああ、そのとおりですね。 おっしゃるとおりの展開になっていると思います(笑) >無神論者は無軌道で何をしでかすかわからない。良心が無く、法の目をかいくぐって悪事を行う可能性がある。信用できない。そういった懸念を抱かれるみたいです。 つまり大多数の人が神を信じていて、無神論者は悪魔であるというようなイメージができあがっている。 それで無難な道なので宗教を信じている、ということでしょうか。 >何故?という質問には、原因で答える方法と、もう一つには目的で答える方法とがあります。『なぜ宗教を信じるのか?』を考えるには、目的を考えてみるとわかる気がします。 その目的とは「変な目で見られるから」、ということでしょうか。 >いわば神を信じているのではなく“神の摂理”を信じているのです。 貼っていただいたサイト、読みましたが神の摂理がどういうものなのか、よく理解できません。 むつかしいですね~。
- ad383cll
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ANo.8のad383cllです。 ご意見ありがとうございます。補足の回答をさせていただきます。 1、復活の証拠ですか・・そうですね、同じ聖書の中というのが答えでしょうか。過去に復活(神の力を用いて)を行った預言者(神からの言葉を伝える人)、そしてイエス・キリスト(イエスはそれに加えてご自分も復活を経験されました)の例(ルカ 7章14,15節、ヨハネ11章1~44)があります。特にみ子イエスの場合、将来ご自身は大規模にそれを行える事の証明ともなりました。(ヨハネ 5:28) 確かに現在、直接見ることができるとかいうものではないので信じられないというのはあるかもしれません。ですが、2の回答にもつながっていきますが、例えば100回正しいことを言ってきた人が近くにいたらその人の101回目の発言もまずは信じるのではないでしょうか・・。その信頼を築く材料として頒布数や古さや反対を受けても生き残った事実も評価に加えています。経済力があっても世界のほとんどの言語で読めるようにして手にとってもらうにはそれだけの本でなければそうする意義もないでしょう。古くて反対を生き残るというのもそうです。出版されては絶版されてもおかしくないのに誰かが引き継ぎ(それがある国でもいいです)今日まであるのです。1世紀当時はイエスを知る人がいました。 キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった,ということです。 4 そして,葬られたこと,そうです,聖書にしたがって三日目によみがえらされたこと, 5 さらに,ケファに現われ,次いで十二人に[現われた]ことです。 6 そののち彼は一度に五百人以上の兄弟に現われました。その多くは現在なおとどまっていますが,[死の]眠りについた人たちもいます。 7 そののち彼はヤコブに,次いですべての使徒たちに現われました。 8 しかし,すべての者の最後として,あたかも月足らずで生まれた者に対するかのように,わたしにも現われてくださいました。・・・・ 実際,もし死人の復活ということがないのであれば,キリストもよみがえらされなかったことになります。 14 そして,もしキリストがよみがえらされなかったとすれば,わたしたちの宣べ伝える業はほんとうに無駄であり,わたしたちの信仰も無駄になります。 15 その上,わたしたちは神の偽りの証人ともなります。[神]はキリストをよみがえらせたと,神に逆らって証しをしてきたことになるからであり、・・・・ 16 死人がよみがえらされないのであれば,キリストもよみがえらされなかったのです。 ・・・・キリストと結ばれて[死の]眠りについた者たちは,実際には滅びてしまったことになります。 19 今の命でキリストに望みをかけてきたことがすべてであれば,わたしたちはあらゆる人の中で最も哀れむべき者となります。( コリント第一 15:3~19) 聖書をおもしろくないというのを経験しない人はいないかもしれません。理解しにくく、ぶ厚い本で圧倒されてしまうかもしれません。自分も読んでいるうちに眠くなったりもします。 長々と書かせていただきました。最後の頭の話もこちらも勉強になりました。ありがとうございました。
お礼
たびたびお付き合いくださいましてありがとうございます。 復活の証拠は聖書の中にあるとお考えなのですね。 聖書の記述は信用できると。 そこですね、私が回答者さまと異なるのは。 聖書は詳しく読んだことはないので、えらそうには言えないんですが 例えば日本には古事記・日本書紀という歴史書がありますね。 (余談ですが、聖書をまねて書かれたという説もあります) このごろでは、古事記・日本書紀の記述は改竄されているのではないか、という議論があります。 それと同じように聖書の記述も疑ってかかる必要があるかもしれない、と思うんです。 >例えば100回正しいことを言ってきた人が近くにいたらその人の101回目の発言もまずは信じるのではないでしょうか・・。 これを読んで思ったのは、回答者さまは性善説に基づいておられるのだ、ということです。 きっととてもいい人なのでしょう。 嘘も100回つけば本当になる。 みたいなことを言っている人がいたように思います。 天満宮では「鷽替え神事」というのをやっています。 これは嘘を誠に変えるという神事です。鷽は嘘にかけてあるわけです。 私なんかはこちらの言葉を信用してしまうんですね。 自分は頭が悪いので嘘をつくのは苦手です。 でもそういうふうに嘘をついて騙そうとする人は大勢いる、と常日頃思ってるわけです。 >経済力があっても世界のほとんどの言語で読めるようにして手にとってもらうにはそれだけの本でなければそうする意義もないでしょう。 これは一種のブランド志向だと思うんですよ。 多くの人が読んでいる=正しい、という勘違いです。 本の内容が正しいかどうかは、ベストセラーであるとか、ロングセラーであるとかいうことは関係がないと思うんです。 書いてある内容が信用に値するかどうかだけです。 また宗教を選ぶときに他の宗教と比較をされましたか。 洋服を選ぶときには何着か比較して選びますでしょう。それと同じように。 例えばコーランも読んでみられましたか。 コーランではイエスの復活を否定していると聞いたんですが。 (これも自分自身読んだことがないので、えらそうにはいえないのですが) コーランは聖書ほどのベストセラー、ロングセラーではないのかもしれませんが 私がもし宗教を選ぶとすれば、一応どちらの趣旨も押さえた上で宗教を選ぶと思います。
残念ながらキリスト教には無知なものでして・・・ごめんなさい 代わりに、私が今遭遇している偶然についてお話します。 ちょっと暗い話になってしまって申し訳ないのですが ここだけの話です・・・ 今日の早朝(10.15)に私の身内の人が、間質性肺炎という病気で亡くなりました 病名を知らされたのが1ケ月前の9月14日でした その時に、やっと一つの謎が解けた感じがしました それは 8月1日に釣りに行った時に、私の少し斜め前の水面に、直径5~6cmの水の渦が二つできました はっきりとした左巻きの深い渦で、二つともまったく同じ大きさでした 心の中で、ダメだ、ダメだ、消えろと叫んでいました 今までに何度も、いろいろな渦の模様を見せられるたびに、必ず身内の人の死を体験してきたからです 渦は一度消えて、再び別な場所に現れました(釣りの浮子の脇) これはもう完全に予告かもしれないと思いました 誰なのか?そして、どのような形になるのかが分かりませんでした 縁起の悪い話なので、誰にも言わず、ず-と考えていました そして肺炎という病名を聞いた時に、分かったのです また、その人は釣りが唯一の趣味でした なぜ、こうした事が私の身の回りに起きるのかは分かりません 少しは察しがつく事もありますが、人に言える事ではありません 嫌な偶然ですが、ただの偶然とは片付けられない出来事です 奇跡という言葉はあまり好きではありません 偶然を美化したようなイメージだからです 自分だけの偶然を、自分が奇跡と呼ぶのはいいとしても、人に押しつけるべきではないと思います また、あまり話すべき事でもないように思います・・・ ペラペラと余計な事をしゃべってしまいました 少し深い世界に踏み込めば、こんな事はザラにあるのでしょう 明るい偶然の話をしたいものですね つまらない話ですいませんでした、それでは。
お礼
回答ありがとうございます。 >ちょっと暗い話になってしまって申し訳ないのですが いえいえ、そんなことないです。 人間と死は切り離せないものですから。 ご友人がお亡くなりになられたとのこと、お気の毒です。 親しい友人をなくすことはなんとも心寂しいものですね。 で、渦巻きのことですが、申し訳ないですが、私には回答者様の思いこみのように思えます。 渦巻きというのは水のあるところには生じるものなのではないか、と。 それにその渦巻きをみられたのが8月で、ご友人がお亡くなりになったのが数日前ということは二ヶ月以上たっています。 不幸な出来事というのは、生きているうちに何度も経験することなので 二ヶ月も待っていればやってくるのではないか、と思えるんです。 占いと同じようなものではないでしょうか。 占いで「恋愛は凶」であると出たとします。 これって凄く曖昧な言い方なんですよね。 恋人にふられても凶だといえるだろうし、恋人とちょっと喧嘩して仲直りしたのだとしても凶だといえる。 同じことを友人に言うと、 「わからない人にはわからない」と言われてしまいました。 ただ、回答者さまのようにものごとをドラマチックに考えることは悪いことではないと思います。 文学的な素養がおありになるのだと思います。
- abc2008
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本来、宗教を信じる上で最重要な点といえば、やはり、自身にとって、その実生活上に好ましい現証、例えば、経済的に向上するとか、病気が良くなる等の誰の目から見ても確かな証(あかし)が顕われるか否か、かと思われます。しかも、「誰の目から見ても確かな証」という点が肝心であって、つまり、よくある精神修養とか、気休め的な単なる自己満足ではなく、傍(はた)から見ても「なるほど」と共感、納得させてしまうような顕著な現証が不可欠かと思われます。 もし、長年、同じ宗教を信じていて、そのような現証を体得していないとなれば、それはまさにエセ宗教であり、詐欺にあっているのと同等かと思われます。結局、どのようないい事尽くめの言葉や文句があろうとも、現実的に結果として顕われなければ、単に信者を食い物にする宗教的商売に過ぎないでしょう。 元々、宗教とは、ある根本的というか、我々にとって極めて重要で価値あることなのに、全然気付いていないことを教えるためにあるのですが、それは、本来、誰もが自身の内にすごい能力を秘めていて、それを自在に活用してさえいけば、どんな者も不幸とは対極のすばらしい境涯になることができるというものなのですが、残念ながら、ほとんどの人がそのことに気付かず、いわば「宝の持ち腐れ」状態のまま、その人生を終えているのが現状なのです。 つまり、正当な宗教とは、何らかの神仏にすがるというような他力本願的なものではなく、誰もが本来、自身の内に持ち合わせているすばらしい力に気付かせ、発揮させるために存在するのであり、おすがり信仰のように「何かに幸せにしてもらう」などと言うのは、いかさまであり、「自力で幸せになる」ことを教えるのが、宗教の本来あるべき姿でしょう。 ところで、その我々の誰もが持つ内なる特質を見事に解き明かし、その活用法を教えているものが、『法華経』なのですが、それで法華経を『希望の経典』とか『活の法門』などと呼ぶこともあるのですが、それで、宗教と科学との整合性ですが、科学とは一般的に帰納的手段(個々の諸現象から核心的な理論や法則を導き出す)であり、宗教はいわば演繹的手段(いきなり核心を説き、それを個々へと敷衍(ふえん=分かり難い点を方便や比喩等を用いてより分かり易く説明する)して押し広める)が常であり、つまり、アプローチの仕方が正反対なのですが、今では部分的に合致する点が無きにしも非ずで、「昔は奇跡が、今では必然」と解明されているものも多々あり、宗教が非科学的などと言われても、近代科学が躍進するまでは、宗教は当時の一種の科学であり、結局、何事も時代とともに変転するのであり、今後も時代の推移、科学の進展に伴い宗教と科学がより相容れるようになるかと思われます。
お礼
>もし、長年、同じ宗教を信じていて、そのような現証を体得していないとなれば、それはまさにエセ宗教であり、詐欺にあっているのと同等かと思われます。 同感です。 物質的なこと、ご利益的なことを求めるのはおろかだという声が聞こえてきそうですが 確かにエホバの証人さんは、将来死んだ人が生き返る、とおっしゃったのです。 これはご利益を売っているのと同じ行為だと思いました。 「当社の株を買えば将来必ず儲かります」 と言っているのと同じだと思いました。 学業祈願、安産祈願などと称して祈祷を行っている日本神道も同様と思います。 >正当な宗教とは、何らかの神仏にすがるというような他力本願的なものではなく、誰もが本来、自身の内に持ち合わせているすばらしい力に気付かせ、発揮させるために存在するのであり、おすがり信仰のように「何かに幸せにしてもらう」などと言うのは、いかさまであり、「自力で幸せになる」ことを教えるのが、宗教の本来あるべき姿でしょう。 他力本願というのは浄土宗でしたっけ、阿弥陀仏の力のことを言う言葉でしたか。 『法華経』はそれとは違って自力で運命を切り開くものなのですか。 すいません、法華経については学んでおりませんで。参考にさせていただきます。 >今では部分的に合致する点が無きにしも非ずで、「昔は奇跡が、今では必然」と解明されているものも多々あり、宗教が非科学的などと言われても、近代科学が躍進するまでは、宗教は当時の一種の科学であり、結局、何事も時代とともに変転するのであり、今後も時代の推移、科学の進展に伴い宗教と科学がより相容れるようになるかと思われます。 昔の日本の僧侶は仏の道を説くだけでなく、医療知識や建築土木の知識もあって見習わねばならない、とどこかのお坊様がおっしゃっていました。 大変参考になりました。
補足
回答ありがとうございます。 いま、急な来客があったもんで、のちほどお礼を書かせていただきます。 明日になるかも(今15日の夜7時)しれませんが、かならずいたします。
お礼
比較した上で宗教を選ばれたのですね。失礼しました。 >永遠の命⇒現在生まれて生きて死にますが、死ななければどうでしょう? (3)人間はすべて死にます。死なない人間をみたことがありません。 >人間の体はそうできる可能性をもつ、自己更新ができる物質なのです。 (4)科学的な説明がない物は信用できません。 >聖書全体は神の霊感を受けたもので・・」テモテ第二3章16節。神が人間に書かせたものです。 (8)聖書は神が書いたのではありません。人間が書いたものです。 >イエスが双子なら聖書にそうあってもいいはずと思いました。 (9)イエスが復活したというそのことが、キリスト教信者を増やしたのではないか、とわたしは考えています。 しかし、イエスが復活したなど、信用できません。 あなただって死んだ人間が生き返ったのを見たことがないでしょう。 それよりも、イエスは双子だった。 死んだのはイエスの双子の弟だった。これを世間の人々はイエスが蘇ったと勘違いした。 そう考えるほうが理屈が通ると思います。 なぜ聖書に書いていないのか。 復活が双子のトリックだとしれたら信者が激減すること間違いなし、だからだと推測しています。 聖書を絶対視するから、聖書に書いていない→ウソだ。となるんです。 コーランはイエスは死んでいない、死んだのはイエスに似た男だ、としています。 わたしはイスラム教徒ではないですが、この件に関してはこちらのほうが辻褄があっていると思います。 >タイムスリップできないので、どちらも(復活も武部さんの説も)直接確認できない、ならば現在、確認できることから検証しようという事です。 (10)現在確認できるのが聖書だということでしょうか。 どうして聖書にはウソが書いていないと思えるのでしょうか。 人に教えてもらったんですが、聖書には処女受胎や、進化論や天動説を否定する内容が記されているのでしょう。 これはウソを書いてあるということだと思います。 (11)a.ロングセラーである、ベストセラーである、信者の数が多い、聖書の記述はほぼ正しい これらは、「イエスの復活も正しい」と=で繋ぐことはできません。 とおっしゃっていますが、ご自身の回答を見直して下さい。 No.8. 聖書が信頼できる神(から)の言葉として受け止められるようになりました。 >)世界最大の頒布数を誇ります。古さにおいても際立って古く、その時々の時代において反対を受け,しかも生き残った本です。このようにデータや数字があります。そして、内容においても確信できる理由があります。 聖書全体は神の霊感を受けたもので,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です・・・テモテ第二 3:16 (>書かれている歴史記録の確かさ、(筆者が)率直で正直、40人ほどの人が1600年間にわたり、国も違い、お互い面識もないのに、書いた内容の内面的な調和がみられる、 古い時代に書かれた内容で科学的な正確さをあらわす箇所がある、預言されて後にその成就である歴史上の事実がある (12)これは要約すると、ロングセラーである、ベストセラーである、内面的な調和が見られる、予言が的中している、ゆえに聖書は正しく、イエスの復活も正しい、とおっしゃっているのではないでしょうか。 >科学的に元素やら分子構造やらから復活を検証したい(つまり、No.9のmmkyさんの回答に近い)をご希望ならここでは書きませんが、証人の組織はそれらを考慮した書籍はありますよ。 (13)ああ、あるんですね。 それでは今後、それを説明に使われるといいと思います。 間接的説明より説得力あると思いますよ。 >これが真に尋ねたかったことだったのですか・・ 間接的な説明では納得できないので、mmkyさんの例を出しまでです。 彼の説明は直接的じゃないですか。 >知らない過去にいけない以上、絶対確実なのは、将来の復活のある時代をtakotakoqさんが目撃する事です。 私は知らない過去(つまり歴史)を研究しているものです。 研究すれば結構見えてくるもんですよ。 誰もみたことがない未来よりはるかに信用できます。 >自分がtakotakoqさんを騙して何も得はないことはお伝えしておきたいです。 ええ、騙そうとしているとはおもっていませんよ。 回答者さまが騙されているのではないかなあ、と思っているのです。 信仰は自由ですが、 ● 聖書以外のものにも(たとえば正反対のもの)目を向けてはどうか。 ● 「聖書が信用できる理由」というサイトは論理が破綻している。 ということを、知らない人が言っていたなあ、くらいに思っておいてください。 スイマセン、疲れてしまったので、勝手ですが、このあたりで終わりにさせていただきます。 ほんと、疲れました。