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「偽善」の功罪と”偽善批判”の説得力

 しばしば、日本および東アジア諸国では、「偽善」という言葉が使われます 大して世界を知る立場ではありませんが、一般の人よりは諸外国渡航経験がある自分は、東アジア諸国以外では、「偽善」という言葉をほとんど聞いたことがありません。 個人的に疑問なのは以下の通りで (1)偽善と批判される行為は、功罪があるのか?所詮は自己満足ではないか? (2)偽善という批判を行う人には、何もしないで批判だけの人が多数います。何もしないが故に批判に留まることに何の問題意識もないのか? (3)偽善という価値判断の根拠はどこにあるのか? (4)偽善は悪であって、善ではないのか? (5)偽善と看做される行為によって得られる功利は、否定されうる(べき)ものか? (6)偽善との批判によって批判者は何か得る物があるのか? (7)偽善批判者は、批判する偽善による功利を得ている事実を理解していないのか? 質問に対する回答は、その回答に至る理屈について解説をお願いします なお、理論のない単純回答だけの回答は自重してください。

みんなの回答

noname#225664
noname#225664
回答No.4

「偽善」と言う行為は世界中あると思いますよ。立場によって評価は偽善、あるいは善、または「こんな 程度ならまあいいか」と受け取り方はそれぞれですね。質問者さまもそのひとりなんです。 ただし「偽善者」と大勢が認めれば、それはその通りです。人間すべては経験出来ませんが一応 偽善かどうかのジャッジはそれぞれ発言できるし、その反論も可能ですよね。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.3

この質問は哲学カテのほうがしっくりいくかもしれませんが、「社会」というカてに近い回答も出来るかもしれません。社会における「偽善」の立ち居地と意味という方向から考えてみます。 1)分かり難い質問ですが、社会的な慈善行為などを「偽善だ」と批難する人とその行為の意味を問われておられるのなら、たしかにそのひとの「自己満足」の部分は大きいと思います。少なくとも「ボランテア」として身銭を切っている人にとっては「なぜ批難されねばならないのか!?」という感情的な反発を招くことが多いと思いますので逆効果になることもあります。彼ら、彼女たちを真面目にさせて、更にそれらの行為を拡大させる方向へ持っていけるのならこれは功の部分ですね。 日本でも一部取り入れられようとしている司法取引などを批判する考え方は反合理主義の面があって、これは哲学的な面から考慮せねばなりませんが、これが結果として犯罪そのものを助長し社会を崩壊へ導くだろうという主張はよく社会全体で考えていく必要があるだろうと思います。 2)これはあきらかに同意できます。やはり積極的(に社会を進化させようという)一面がなければならないと思います。 3)行為者の良心の問題でしょう。はっきりとした証拠などを指摘することは多くの場合不可能だと思います。 4)3)とかかわりますが、どちらでもないと思います。 5)そういったもので世界が回っていることは事実です。なので、おおきなくくりでは否定は出来ないと思います。 6)これもそういった自由があるということで当人も満足し、社会の風通しが良くなるという利得は十分にあると思います。 7)批判そのものを偽善と決め付けることは出来ません。もちろん多くの場合は理解も意識もしていないと思います。いしきしているとすればそれこそが偽善でしょう。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.2

しない善よりする偽善、といいますね。 結果主義を採るなら、偽善で何が悪い、文句あるか ということになると思います。 売名の為に、人を助けても、それで助けられるのだから 問題ないだろう、というわけです。 しかし、行為主義を採るなら、目的に問題がある偽善は 悪い、と評価されることになるでしょう。 米国などでは結果主義的傾向が強く、 日本は行為主義的傾向が強い、といわれています。 結果主義は、結果さえよければ、過程はどうでもよい ということになりがちです。 極論すれば、どんな悪いことをしても、結果がよければ それは良いことだ、ということになります。 こういう社会は、弱肉強食になりがちです。 行為主義は、いかに結果を出せても、それが正しい 過程を経ていなければ、評価しない、ということに なります。 高見山という米国出身のお相撲さんが、言いました。 「日本は、努力して出した結果でないと評価されない。  逆に言えば、努力さえしていれば、結果が出なくても  それなりに評価される社会だ」 こういう国は、犯罪が少なく、弱者に優しい社会です。 反面、情緒的になりがちで合理的精神が 育ちにくい社会でもあります。 (1)偽善と批判される行為は、功罪があるのか?所詮は自己満足ではないか?       ↑ 目の前の人を助けることが出来る、という功があり 本当の解決にならないという罪があります。 (2)偽善という批判を行う人には、何もしないで批判だけの人が多数います。 何もしないが故に批判に留まることに何の問題意識もないのか?      ↑ 偽善が大手を振ってまかり通る社会は、それこそ 偽善に満ちあふれた社会に、つまり道徳が地に落ちた 社会になるでしょう。 目の前の人を助けることは出来ても、社会全体が 堕落することになります。 犯罪が激増するでしょう。 (3)偽善という価値判断の根拠はどこにあるのか?      ↑ 長い目、広い視野で考えた場合、偽善はやはり 良くないことです。 (4)偽善は悪であって、善ではないのか?      ↑ 助けられた人にとっては善かもしれませんが、 社会全体に対しては悪です。 助けられた人にとっても、それが本当に善いことかは 疑問です。 飢えた人間に魚を与えてはいけない。 食べ終われば、又与えることになる。 飢えた人間には、魚の捕り方を教えなければ ならない。 そうすれば、彼は一生食うに困らなくなるだろう。 (5)偽善と看做される行為によって得られる功利は、否定されうる(べき)ものか?       ↑ 否定されるべきです。 真の解決にならないからです。 それどころか、真の問題点を覆い隠す ことになります。 (6)偽善との批判によって批判者は何か得る物があるのか?      ↑ 道徳的に正しくあることが可能になります。 道徳的に正しくあることは功です。 (7)偽善批判者は、批判する偽善による功利を得ている事実を理解していないのか?     ↑ 道徳が地に落ちた社会は、より大きな害悪をもたらす でしょう。

noname#210263
noname#210263
回答No.1

偽善は何も悪いことではない。 偽善でもなにもしなヤツよりマシ。

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