(承前)
代入して読むと、ほんとうに単純な話ですが、純粋をめぐっては、おっしゃるような矛盾がみえます。
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005(篠田3)
(....)【経験的でない認識】のうちで、経験的なものをいっさい含まない認識を 純 粋 認識というのである。それだから例えば、『およそ変化はすべてその原因をもつ』という命題は、【経験的でない命題】ではあるが、しかし純粋ではない、『変化』という概念は、経験からのみ引き出され得るものだからである。
(....)第 一 に、ここに一つの命題があって、この命題が同時に 必 然 性 をもつと考えられるならば、それは【経験的でない判断】である。そのうえこの命題が、これまた必然的な命題だけから導来されたものであればそれは【絶対に経験的でない命題】である。また 第 二 に、経験はその判断に真の、即ち厳密な 普 遍 性 を与えるものではない、ただ(帰納によって)想定された比較的[相対的]な普遍性を与えるだけである(....) 。ところでもし或る判断が【経験が与えるのではない普遍性】をもつと考えられるならば(....)このような判断は経験から得られたのではなくて、【絶対に経験的でないことに妥当する判断】である。(....)例えば『物体はすべて重さをもつ』という命題のようなものである。これに反して或る判断に【経験でないこと】が本質的に属するような場合には、かかる【経験的でなさ】はこの判断が特殊な認識源泉から生じたこと、即ち【経験的でなしに認識する能力】によるものであることを示している。それだから、必然性と厳密な普遍性とは、【経験的でない認識】を表示するのに確実な特徴であり、この両つの性質は互いに分離しがたく結びついているのである。(....)
007(篠田5)
我々はかかる必然的な、また厳密な意味で普遍的な、従ってまた【経験的でない純粋判断】が、人間の認識に実際に存することを容易に証示することができる。その一例を諸学に求めるならば、数学の命題のなかからどれ一つを取ってきても事足りるのである。またこのような事例を、ごく有りふれた悟性使用に求めようとするならば『変化はすべて原因をもたねばならない』という命題でもよい。(....)もし原因の概念を、ヒュームがしたように習慣から引き出そうとしたら、この概念はまったく成り立たないだろう。ヒュームは、生起するものがそれに先だつところのものにしばしば随伴するところから、これら両つの表象を結合する習慣(従ってまた単なる主観的必然性)が生じたと言うのである。だが我々は、【経験的でない純粋原則】が我々の認識のうちに実際に存することを証明するのに、わざわざこのような実例をあげなくても、かかる原則が経験そのものを可能ならしめるために欠くことのできないものであることを【経験によらずに】証示できると思うのである。実際、もし経験の進行を規定する一切の規則がどれもこれも経験的なもの、したがって偶発的なものだとしたら(....)
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経験そのものを可能ならしめる、という言葉によって、すでにカントはこれからの仕事を示しています。直観の形式という考え方をみちびいていくのですね。こうして、ヒュームを叩き台に経験を括弧にくくってその可能性を原理へひきずりあげようとしているところがこの箇所の面白さだなと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >かかる(【経験的でない純粋な】)原則が経験そのものを可能ならしめるために欠くことのできないものであることを【経験によらずに】証示できると思うのである。 :という、amaguappa さんアレンジ付きの篠田さん訳を提示していただいたお陰で、やっと理解できたように思います。 特に、経験そのものを【可能ならしめるために欠くことのできないもの】という表現ですね。 中山訳の 007 では、 「わたしたちはこうした原則は、経験というものが可能であるためには不可欠であることを、アプリオリに証明できるはずなのである」 となっていますが、ここをもっと注意深く、素直に読むべきでした。 「変化というものは(新たな出来事[経験]なので)アプリオリではないが、その原因は(因果律という)アプリオリな原則に則っている」 となるでしょうか。 007 の『こうした実例を探すとすれば、「すべての変化には原因がある」という命題を示すことができよう』 という表現に過剰に拘ってしまったのがまずかったのだと思います。 辛抱強くお付き合いいただきありがとうございました。 みなさんの給水やバナナの差し入れのお陰でなんとか続行できそうです。