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クオリア問題とは?- 人間の脳と機械の関係について考える
- クオリア問題とは、人間の脳が外部の刺激から得た情報をどのように経験や感覚として認識しているのかについての問題です。
- 例えば、赤いリンゴを見た場合、その情報は網膜で電気信号に変換され、脳で処理されて赤いリンゴとして意識されます。しかし、電気信号そのものが赤いリンゴとして意識される仕組みは理解されていません。
- クオリア問題に関する考え方は、人間の脳が機械的な処理として説明できるのか、それとも人間の意識は機械では説明できない特別なものなのか、という哲学的な問いかけでもあります。
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上できついこと書いちゃいましたが、一足飛びに結論を書きすぎたかも知れません。 僕に説明を聞くのでなくどこがおかしいか自分で考えられるようになってください。いちいち一つ一つの理論について説明を求めるのは無茶です。理論だけで現在星の数ほどの理論があるのに、~~理論、~~理論はどうか?と質問されても、それは知りません。 ただ言えることは、具体的には知らないけど、「それは正しいです」とお返事はできます。でもぼくあまりそんな勉強したくないので・・・能力も興味もないし。 といっても、やはりとことん追い求めないと気が済まないと思いますので、頑張って下さい。 苦しんだ、と言われてますが、まだ考えるのが楽しいみたいなので、それは止められないし。 嫌みではなく、僕が物理や心理学など好きなのを追いかけて、最終的に論理や正しさの薄っぺらさに気付いたように、sisiさんも、進化論など自分の才能や性格にあった学問か何かを追いかけまくらないと、いくら僕が言っても納得はしないんじゃないかと思います。自分の能力を極め尽くしてみられたら、きっと・・・ でないと、今回のお返事のように、また次から次への新しい理論を引っ張り出してくることになりそうです。気が済むまでその繰り返しになりそうと思いました。 底つきするくらい極限まで追いかけて、いい加減唯物論還元論を追いかけるのに飽きたら、そこに真理を追い求めるのを止めたくなったら、それで気が変わったら、また話しましょう。 自分を変えるべきかも? とか意識が向いたらまた質問してください。 この正しさのループから出たいと思われたら、また言ってください。 ーーー最後に投稿があったので >sheep67さんが聖書と進化論に博識であれば頼もしいのですが、どうなんでしょう ごめん、全く興味ありません。 この辺りが、うすうす、ぼくと性格違うなーと思ってた所なので、参考になることはなさそうです。 ただ、唯物論が無理あるように、これもID論??というのも無理ありますねー。間違ってないけど一面的で皮相的、と言う意味です。 ID論も、唯物論と同じくこれもまた正しくて、そして拠り所にはなりそうにない、と個人的には思いますが、でもsisiさんがそれで納得されるなら、問題ないわけですが。 宗教にチェンジとか書いたんですが、かなりのずれがあるので、具体的なことも知らないので、話は無理みたいです。 ぼくは例えば聖書が史実かどうか? とか、進化論とどう理論的にすりあわせるのか?等は完全に後回しです。ああいうのは神様の参考書だとしか思っていません。その内容が正しいかどうかでなく、参考になるかどうかだけです。 ぼくはつまり、聖書が史実であった!とか証明されてもそれで信じようという気にはならないので。聖書でなく神様専門です。 神様のことさえ分かるなら、例え仏教でもヨガでもタオでもスピリチュアルでも新宗教でも物理でも数学でも参考にしますし、選ぶ目安はそれだけなので・・というか宗教そのものに興味がないんですねー。宗教を拠り所にもしてないし。みんな参考書です。 なので、具体的には聖書やIDについてはわかりません、ごめんー。 というかそういうのなら、キリスト教などにもたくさん論者がおられるので、詳しい方に伺ったらどうでしょうか? GOOにもいるかも。 全部に答えたかな~~・・・自信ないけど 以上ぼくもまだ途中で、上のようなえらそうなこと言える身分じゃないんですが、自分のことは棚に上げて言いました。でないと何も言えないんで・・(というか偉そうなこと書いて冷や汗です・・慣れないことするもんじゃないわ・・・)
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- sheep67
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還元論を追求すべきか? 論理依存を追求すべきかなんですが。 大事なのは納得できるか?なので。 後、回答履歴を見せてもらったのですが、k-jinenさんの良回答がとても優れていると思ったのですが、それでなぜ今回の質問が生まれたんでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます 還元論と理論依存は同じじゃないんですか? はい、以前の質問ではk-jinenさん大変よくしてもらいました 今回質問したのは結局k-jinenさんの回答に答えがあったのかもしれませんが カメラに例えてみるとクオリアの存在が否定されてるように感じてきて焦って投稿してしまいました そうです、それで自我の消失ですね 結局それは自分のクオリアに対する理解不足が原因でしたが。 それとやはり精神的な病気も関係してました
- sheep67
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済みません、話をどう持っていっていいのか分からないので、迷走した文になってます。
お礼
迷走してますか?分かりません とても丁寧でありがたいです
- sheep67
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>赤色の波長をディスプレイに再表示してるのであって、赤色を表示してるのではない あ、なーるほどです。 確かにビンゴですねー。 これで解決、というより、つっかえてた骨が取れたような? >数学的な話 ないない! 数式はさーっぱりです。物理の概念はマニアックに好きですが。科学の考え方みたいなのは知ってるつもりなので、それが指針です。 >哲学的ゾンビの話だと思います やっぱりそうですかー。じゃあ長くなるかも・・ 恐怖心については、僕個人的には、論理の肥大化により感性が極めて圧迫され、ほく自身の本質である心と感性がこの世から消滅しそうになる、そういう恐怖を、当時感じてました。自分の消滅です。 質問者さんはどうでしょうか? ーーーーー 哲学ゾンビについては、まず基本これがパラドックス矛盾であることです。 有名な命題なので、これについてはもうさんざん議論されてるので、それはすでにご存じでしょうか? ネットで調べても、いっぱい出てきますから。 このパラドックスにぶつかるに当たっては、観測問題と同じく、そこから先は解釈問題だと思います。 僕自身は、物理の範疇では解けないけど、物理と哲学など複数の学問の組み合わせで解くことができる、と思ってます。もちろん科学的解決ではないし、論理的解決でもありませんが、なんといっても自分が納得できるので。 それが何か、というと、下に書いてきたような話になります・・ それはおいておいて、 科学は主観を扱えない、哲学でも、主観の体験生々しさは扱えない、と思ってます。 まとめると、論理と主観は相容れない、と思います。 これもあくまで僕の場合ですが、論理依存症からどう脱出するか? がメインテーマでした。 こんな方向性でいいんでしょうか? それとも、意識のハードプロブレムとしての話だと、それこそ学者がよってたかって解けないのですが、 僕はそれは観測問題と同じだからだ、というのは、先に書いたとおりです。 観測問題と同じ=考えるのはあきらめましょう、と言うことです。解釈はもちろんいろいろ付けられます。でも正誤の判定はできません。 前に書いた説明は論理的ではないし、無限大と無限小の組み合わせ、なんて書いてる地点で論理はプッツんしてます。語呂は良いんですが。先のこの説明は極めて直感的な物なので。 これがある種の不可能問題であり、その証明がされるかどうか、ですが・・・先はわかりません。でも誰か賢い人がやってくれればうれしいんですが。 でも、クオリア感性が無限に属する物で、科学は常に有限の対象しか扱えないのであれば、無理っぽいとは思います。 ただ、クオリアが科学で扱えないから、そんなものはない、亡き者にしよう、というのは、解釈のひとつであり、それは判断できないところです。 有限と無限は、決して相容れない、混じらない物ですから。限りがある、と無い、というこの2つの要素が、異質である、と言うことです。論理もここで切れてるから、科学にも哲学にも乗りません。 もしどこまでも論理で考えようとするなら、感性の否定は避けられないですし。 でも現状苦しい問題を突破するために、論理に頼って考えているのですから、人間は脳であって、実は脳幹であって、実は細胞の集まりで、最後はニヒリズムに行くと思います。 幸い現代では、波と粒子の2重性、という素敵な発見があったので、物質中心主義で行ってもその論理は破綻するので、問題ないんですが・・ 量子力学には興味もって居られますか?(相対論もですが) あの摩訶不思議さをちょっとかじったら、うかつに唯物論だ唯心論だと言えなくなります。 数式が分からなくても、そのエッセンスは興味があったら分かるので。 一番いいのは、論理思考の限界を知ることだと、思うんですが・・ 論理と感性を使い分けられるようになったらいい、と思いません? あるいは、哲学ゾンビ問題そのものの追求でしょうか? この辺個性があるので、僕もよくわからいんですが。 思いつくまま書いたので、またお返事ください。
お礼
返信遅くなって申し訳ありません そうですね、つっかえてた骨が取れました >恐怖心については、僕個人的には、論理の肥大化により感性が極めて圧迫され、 >ほく自身の本質である心と感性がこの世から消滅しそうになる、そういう恐怖を、 >当時感じてました。自分の消滅です。 >質問者さんはどうでしょうか? かなり近いです 僕は論理の肥大化により感性が圧迫されるというか、そもそも圧迫される感性すらなくて クオリアは、外部からの入力とそれに照合され再度出現する記憶の電気信号、更に それに伴う肉体の生理作用(心臓がドキドキしたり、胃腸にギュルギュルしたり) のフィードバックの連続的で高速な、脳細胞の一部分による監視だと思ってました まだふとした瞬間そう思って絶望たりするんですが; まぁだからって波長によって電磁波が赤く見えたり青くみえたりする意味がわかりませんし メントールの分子が鼻の粘膜についたらミントの臭いがする意味もわかりません 今はこんな感じで落ち着かせてます 哲学的ゾンビについてはだいたい把握してると思います 435~480nmの電磁波が青く見えるという事実で単純に棄却できますよね >これもあくまで僕の場合ですが、論理依存症からどう脱出するか? >がメインテーマでした。こんな方向性でいいんでしょうか? いやぁ僕はその論理の肥大によるクオリアの縮小というのは思いもつきませんでした 最初っから肥大しまくりで何も感じなかったので笑 だから意識のハードプロブレムの方ばかりにいってました 論理依存症からは精神安定剤の服用により回復してきております(こういう悩みの他に病的な要因が昔から絡んでいたので) >観測問題と同じ=考えるのはあきらめましょう、と言うことです。 >解釈はもちろんいろいろ付けられます。でも正誤の判定はできません。 >前に書いた説明は論理的ではないし、無限大と無限小の組み合わせ、 >なんて書いてる地点で論理はプッツんしてます。語呂は良いんですが。 >先のこの説明は極めて直感的な物なので。 そうなんですか、もう僕も?考えるのに疲れてきました とりあえず、上に書いたような「よくわかんないけど、クオリア感じてるから生きてて良いんじゃない?」みたいなのりでしょうか?みんなも。 >でも現状苦しい問題を突破するために、論理に頼って考えているのですから、 >人間は脳であって、実は脳幹であって、実は細胞の集まりで、 >最後はニヒリズムに行くと思います。 はい、行き着いてました。 >幸い現代では、波と粒子の2重性、という素敵な発見があったので、 >物質中心主義で行ってもその論理は破綻するので、問題ないんですが・・ >量子力学には興味もって居られますか?(相対論もですが) >あの摩訶不思議さをちょっとかじったら、うかつに唯物論だ唯心論だと言えなくなります。 >数式が分からなくても、そのエッセンスは興味があったら分かるので。 量子力学少し興味があって読んだりしてました。 でもそのときは摩訶不思議とか思わず、かの変な振る舞いも物質がしてるんだ・・・ みたいな悲観的な感じで読んでました まだしてますけど、それは理解が足りないんでしょうかね? 回答ありがとうございました
- sheep67
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こんにちは。 ちょっと先に補足で、最初の投稿で書いた、能動と受動はプラスマイナス0になるというのは、前回の結論で書いた、観測問題と同レベルの、人の知恵では解決不能な問題に属するので、どうとも言えない、という意味合いかなーと思います。 で、続きなんですが、ずいぶん、僕のと、質問者さんとの間でギャップがあってなかなか埋まりませんねー。 どういうギャップがあるのかうまく整理しないと長くなりそうなので、ちょっとゆっくり考えます。 最初に >別の部分に記録を溜め込む装置を組み込めば感じているといえるんではないでしょうか これなんですが、どうやったら在ると確認できるでしょうか? 僕は無理だと思います。 だって、人はデジタルカメラにはなれません。 気付きましたが、言われてる話しは、哲学ゾンビの話とよく似ています。 つまり、外見上、あるいは分析し尽くせば人間と寸分違わないゾンビが居て、ただ一つ人と違うのは、その哲学ゾンビには、クオリアだけがない、というそういう仮想上の存在です。 言われてる不安は、この哲学ゾンビがいるかどうか? と言うことにまとめていいのでしょうか? と、逆にちょっとご質問したいのですが。 おもにやはり、感性と、認識把握能力は何が違うのか? 主体と客体とはなんぞや?的な。 もしかしてこの世界は客観ばかりで、主観や感性が幻想に過ぎないのではないか? 的な疑問でしょうか? 唯物論的・・・?な。 このあたりを疑問視されてるような気もするので。
お礼
回答ありがとうございます プラマイ0というのはどうとも言えない、という表現だったのですね なんか難しくて、物理的に式に表すとちょうど相殺されて・・・みたいな数学的な話だと思ってました(汗 下のfishbowl66さんの投稿によりかなり解決に近づいてきたのですが ここで、一気に気持ちを固めていこうと思います >言われてる不安は、この哲学ゾンビがいるかどうか? と言うことにまとめていいのでしょうか? そうです、それです!哲学的ゾンビの話だと思います >おもにやはり、感性と、認識把握能力は何が違うのか? >主体と客体とはなんぞや?的な。 >もしかしてこの世界は客観ばかりで、主観や感性が幻想に過ぎないのではないか? >的な疑問でしょうか? 唯物論的・・・?な。 そういうことですm(_ _)m そのことについても、考えてみた答えを自分に言い聞かせて一応平常心を保ってますが自信がないので一言そえて貰えたら嬉しいです で、fishbowl66さんの回答のお礼欄にも書いたのですが デジタルカメラが撮影してるのはある可視光線の波長で、ディスプレイに再表示されるのもある可視光線の波長の集合にすぎないということでしょうか だったらいくら画像データを認識し記録する装置があっても それは波長を記録しているだけで、僕たちが感じてるあの、「色」は記憶されてないということですよね? つまりあの赤いリンゴは記録されず、あの赤いリンゴの波長だけが記録されてる、と。 この考えが正しいのならなんだかクオリアを感じてきました。sheep67さんの以前の回答も分かってきた気がします。
no1ですが機械論に至るのではないかということでしたが全く同意です。 つまりそう見ればそう見えるという話です。 例えば『パソコンを見た投稿をしたくなった』という経緯を分析してみるとパソコンという外界情報から体が勝手に動いて投稿をしていると見ることもできますしパソコンという外界情報を経て主観が投稿という意思決定をしたという風に見ることもできます。つまり機械論とみても主観的行動と捉えても同じだということです。ただおっしゃるように機械論と捉えるとすべての犯罪者は無罪ということになります。つまり「機械的に動いてるんだらか俺のせいではない」と言っても矛盾はありません。
お礼
再び投稿ありがとうございます 何でも見方次第ということでしょうか 肝に銘じておきます
- fishbowl66
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日に日に、 朝の光を待ちこがれる 清々しい気配となりましたが みなさま、如何おすごしでしょうか。 木立の向こうから、風に乗って、小鳥のさえずりが聞こえてきます。 なんちゃって、実は、朝から、パトカーやトラックの騒音が、読書のBGM。 さて、クオリアの難問ですか、これは難しいですね。 ただ、 >なぜこうして「赤いリンゴ」として頭の中に表示されるのか? ここに問題はありませんか。 つまり、頭の中に表示されるという、余計な言葉で、別途にカメラを持ってきたり、「脳の中の小人」を誕生させたり、無用な仮説を引き出したり、また厳密なクオリア問題と視覚の問題が混同しやすくなってしまいます。 「なぜ見えるのか」と「なぜ赤く見えるのか」という問題は、実際のところなかなか区別するのが難しいと思います。それに、クオリア問題には、色の問題だけでなく、主観とか心の問題にも、というか、主観の問題こそが「クオリア問題」という見方もあるようです。 個人的には、色の問題でいうと、なぜ赤く見えるのか、と問うより、赤い色は何処にあるのか、脳が赤い色を作り出すのか、と、問い直した方がいいように考えます。 それに対して、私の個人的答えは、 「花が赤く見えるのは、花が赤いからですよ」と答えるでしょう。 こんなことを書いてしまったら、このカテの哲学者様から、批判の嵐、いわく素朴存在論・単細胞の馬鹿等々でしょうね。そして私としては、そうした批判に根拠をもって反論する材料はまったく持ち合わせていないのですから。ただ、哲学者が2000年以上も考え続けても答えが見つからない以上、案外、単純すぎて難しいということがあるのかも、と。 さて、御伽噺はこれくらいにして、 クオリア問題に関して書かれた本を少し紹介いたします。 少し古いですが、ラマチャンドラの『脳の中の幽霊』十二章「火星人は赤を見るか」 クオリア問題に関して、私の知る限りでは、よくできた説明だと思います。 特に、言語による翻訳の問題は、一考に値する指摘だと思いますね。 言語問題に関連して、主観のクオリア問題に関しては、 大森庄蔵『時は流れず』第八章「『意識』からの解放」 この本は著者の本の中では比較的読みやすいですね、但し、面体分岐の理論や広松の四肢?構造の難解な理論が必要なのかどうかは、私には理解できなかったですから、なんだとお思いになるかもしれませんが、言語的な説明だけでも、十分面白いと思います。 ついでに、第七章の「主客対置と意識の廃棄」も併せて読まれるとよいかと。 それと、還元主義に関しては、さほど恐れる必要があるのか判りませんね。 極端な機械論も極端な神秘主義も共にどっかへ廃棄してしまえば、量子力学の世界から宇宙の成り立ちまで、すべてが関わりあっている、といった還元主義的な考え方もできると思いますが。 さてさて、どうなんでしょうか?
お礼
おはようございます。静かな朝をむかえたいですね。 視覚とクオリアの混同ですか・・・してる気もします でも頭がカチコチになって柔軟な考えができなくて困っています >個人的には、色の問題でいうと、なぜ赤く見えるのか、と問うより、 >赤い色は何処にあるのか、脳が赤い色を作り出すのか、 >と、問い直した方がいいように考えます。 あぁなんか分かってきた気がします なぜ可視光線のあの帯域が網膜に入ってくるとあの赤が見えるのかということですね 分かってきました つまり、僕がデジカメに例えたのは間違いということですよね? 赤いリンゴを撮影したデジカメのディスプレイには、レンズに入ってくる赤色の波長をディスプレイに再表示してるのであって、赤色を表示してるのではないということですよね? どんな高解像度のモニタも色自体が鮮やかなんじゃなくて波長の再現が優れてるみたいなことですよね? 納得してきました。これでこのカメラの仕組み合ってますでしょうか? だったら問題は解決してきた気がします ラマチャンドラのほうの書籍は表紙が読みやすそうですね でもちょっとそういう本は悩みの種が増えそうなので快方に向かっている現在、すこし距離を置いてしまいます 教えてgooでこのような質問ばかり投稿してますが、実は僕こういうの考えるの嫌いなんです でもなんか考えてしまって、ノイローゼというか結構苦痛です また再発したときように本のamazonページをお気に入りに登録させて頂きました >それと、還元主義に関しては、さほど恐れる必要があるのか判りませんね。 >極端な機械論も極端な神秘主義も共にどっかへ廃棄してしまえば、量子力学の世界から >宇宙の成り立ちまで、すべてが関わりあっている、といった還元主義的な考え方も >できると思いますが。 ちょっと今理解できないですが、還元主義についての恐怖は今現在自分は一応クオリアを感じているということで納得させています。 まだ若干感じてない恐怖は拭いきれませんが理屈を武器に頑張っていきたいと思います 回答ありがとうございます
- sheep67
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こんばんは。 デジタルカメラのクオリアですか・・・ ?? カメラが、僕は今クオリア感じた、とは言わないだろうし・・ん? デジタルカメラがクオリアを感じることは、人間じゃないし、ないと思います。 以下のような話で、質問者さんの疑問の的を得ているのかはなはだ疑問だけど・・ クオリアをどうして感じられるか? と言うことになると、・・ 例えば、色のクオリアを感じるときと感じないときがあります。 感じないときは「たかが青色やん?」と固定観念で見てしまうときです。 クオリアを感じるときは、ありのままに色を見る時です。社会常識のフィルターを通さずに。 この2つの違いを見るとき、 クオリアを感じないときは自分が色を見てますが、 クオリアを感じるときは、なんといいますか、純粋意識、無限小の自分が居て初めてクオリアを感じ取れる、という風に経験上思います。自我の肥大がない状態です。 深い感動があるのは、「たかが~~」という先入観なしの時ですから。心を開いてるとき、我がないときです。 で、デジタルカメラに純粋意識たる、クオリアを認識する主体があるかというともちろん無いので、カメラにはないと思います。 つまり質問者さんは、クオリアを何か、物質のように考えておられる気がしますが、そういうもの、存在、要素があるひとつの概念だと思っておられますが、 上に書いたみたいに、こちらの気持ちの持ちようで大きく変化するというクオリアの性質は、そこに石ころがある、と言うのとは違い、 クオリアを見る主体であるこちらの状況に左右されます。 別の言い方だと、自分と、色を持つ物体との関係性、あるいは状態の組み合わせが、クオリア存在の条件で、性質です。 そうでなければ、誰が見ても同じクオリアを感じないといけませんし。 また別の言い方だと、クオリアとは、主観の一種だと思います。 難しい話になりますが、客観とは、乖離意識ー上に書いた純粋意識によって発生する感覚なのですが、 それと組み合わさる物が、主観といえます。(乖離精神、と呼んでます) クオリアをもっとも最大に感じ取る状態における意識は、「無限小」の大きさです。自我肥大が無くなってるので。(おれがおれが!と思ってるときにクオリアはほんと全く感じません。花だって踏んじゃいます。) そしてその時に発生するクオリアは、「無限大」です。ある種の極限です(僕の経験上) 有限の大きさに肥大した自我は有限しか認識できません、と言うのは分かってもらえるでしょうか? 人が無限を感じるときは、どんなときでしょうか? と考えると、自分が無限小の時、と経験上分かります。 無限の宇宙でも、無限の時でも、無限のクオリアでも、それらを感じることに全力になってるとき、自我はほとんどありません。主体的な意識はありますが。 逆に自我が肥大してるときは、宇宙すら手の内に納めたい、という風な独裁者気分の時は、でっかい無限などかき消えます。感性が鈍るからです。 んーー、論理的証明とはいいがいたいですが(多分に経験則だらけで) なにぶんクオリアの話なので・・ ということで、クオリアを感じるときは、肥大した自我のない、純粋意識の時にもっともよく感じるだろう、と思っています。 言換えると、デジタルカメラには、無限大のクオリアと組み合わさるべき、無限小意識主体がありません。 なので、カメラさんはクオリアを感じ取りようがありません。 クオリアは物ではないし、無限小意識との組み合わせで初めて成立するものだからです。 この組み合わせこそ、クオリア成立に必須条件だと思います。(言換えると観測者問題的です) 受動的精神で感受性そのもの=無限大クオリア。 能動的意識で認識力そのもの=無限小の自分。 この2つの無限が組み合わさります。(とこういうとまたちょっとちゃいますねー、クオリアは無限大と無限小の、接点そのものですが、細かいとこ飛ばします) という以上は、僕の勝手な持論なので、まあ、そういうもんだと思って読んでもらえれば。 ーーー 先の投稿で書いたのをまとめたいんですがいいでしょうか? まとめちゃうと、 自然界のとある本質的現象の、 1,客観的側面=観測者問題。 2.主観的側面=クオリア問題。 だと想像します。 もしそうなら、解決は難しい、というか、全然、少なくとも科学のフィールドでは無理になります。 仮の話ですが・・
お礼
回答ありがとうございます 固定観念ですか・・・なんかそんな気もします でもなんかやっぱりカメラもレンズに映った被写体を認識し、それとは別の部分に記録を溜め込む装置を組み込めば感じているといえるんではないでしょうか なんか人間もそんな感じで脳の視覚野で処理しつつ、大脳の他の場所で過去の記憶から情報を呼び出してきて補完するみたいな・・・ で、やっぱ一切の記憶がない赤ちゃんはその呼び出す記憶そのものがないので 「青」を見たときのあの感じが脳内に広がらないのでは?と思います 下のほうの回答者さんとも話ましたが、木を見たとき感じる、金属とは違う暖かみのある感覚は、以前金属を実際に触ったときに感じた冷たいくて堅いというような記憶に由来するものではないかと思うのです。 >クオリアを見る主体であるこちらの状況に左右されます。 それもやっぱり、レンズの絞り(眼でいう瞳孔?)の空き具合でないですか? 無限大、無現小についてはだんだん分かってきたつもりです・・・ まだなんか僕の考えずれてる気がします・・・ 青を感じる・・・うーんなんかよくわからなくなってきました やっぱ自我ってレンズの絞りではないでしょうか? (かなり堅い頭なので理解できてないかもしれません)
こんにちは、たしかにクオリアって還元主義、唯物論ですよね。客観的事実を積み重ねていったら主観性を持っていた、じゃあいつの時点で主観性に変わったんだってなります。その境界を探るのがクオリア問題だと僕は理解しています。主体性>自由意思>意識>感覚質=クオリア。人間的な性質の最小単位のものとしてクオリアをターゲットに設定したのでしょう。それを科学的な立場から解明する時の呼び名で、昔からの哲学のような文学的な表現を避ける意味でこの新しい言葉を使うのでしょう。 >還元主義?唯物論?に堪え難い恐怖を感じています ほんとに?まあね『実は、君は精巧にできたアンドロイドなんだよ』って言われりゃぁ怖いけど。本当なら、どうして怖くなるかの方に興味があります。人間の神秘性が剥がされていくような、漠然とした不安ならわかります。だけど、主体性って元々幻じゃないですか。自分の自由意思で考え付いたつもりになってるだけで、たいして独創的じゃないってこと多いですよ。別に恐怖なんて僕は感じませんけど。
お礼
あぁ元々唯物論なんですか なんか還元主義に対抗した最後のロマンみたいな認識でした いえ、僕が感じているのは人間の神秘性が剥がされていく、漠然とした恐怖です 自分も主体性は幻のようなものだと思います。 ただそれを形成してるひとつひとつのクオリアは特別なものであってほしいです
- bougainvillea
- ベストアンサー率21% (185/853)
認識論の歴史は精神(こころ)の後退の歴史ですね まず、人々は素朴に目・鼻・耳・口などの器官で外界を認識してると 思っていた。仏教とかそんな感じです。般若心経にも無眼耳鼻舌身意なんて フレーズがあります。 次に科学の進展で脳が認識してると分かってきた。 これがカントくらいですかね。 現代はさらに脳科学が進展して、脳内の電気信号や化学物質などの仕組みが わかってきた。ここらへんでクオリアと言われてるわけです。 そのうち脳科学者たちがさらに研究を進め、クオリア問題も じきに霧消してしまうように思います。 哲学のほうは、クオリアがああだこうだと言葉を重ねるだけで 問題解決には何も寄与しないでしょうね。(某茂木さんなど)
お礼
回答ありがとうございます 歴史的にみるのも興味深いですね 茂木さんの著作は読んだことありませんが、テレビばっかりでて何がしたいのか分かりませんね クオリアも直に解決されてしまうんでしょうかね・・・悲しいです
- Y Y(@yy8yy8az)
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私の回答は不正解、でしたね。 何となく感じてはいたんですが、sisi91さんのご指摘のとおり、記憶から導かれたのでしょう。 もう一度考えてみます。
お礼
いえ、分からなくなってきました その金属を未だかつて触れたことのない赤ちゃんが初めて金属を触れる感触がクオリアかもしれないです でも、それってデジカメに例えた視覚クオリアの存在否定のように、その金属のクオリアも存在しないのでは?と思います 何か思いつきましたら投稿して貰いたいです。 回答ありがとうございました
お礼
>ただ言えることは、具体的には知らないけど、「それは正しいです」とお返事はできます。 「それは(その土俵では)正しいです」ですよね >といっても、やはりとことん追い求めないと気が済まないと思いますので、 >頑張って下さい。苦しんだ、と言われてますが、まだ考えるのが楽しいみたいなので、 >それは止められないし。嫌みではなく、僕が物理や心理学など好きなのを追いかけて、 >最終的に論理や正しさの薄っぺらさに気付いたように、sisiさんも、進化論など自分の >才能や性格にあった学問か何かを追いかけまくらないと、いくら僕が言っても納得は >しないんじゃないかと思います。自分の能力を極め尽くしてみられたら、きっと・・・ すっかりお見通しなんですね >底つきするくらい極限まで追いかけて、いい加減唯物論還元論を追いかけるのに >飽きたら、そこに真理を追い求めるのを止めたくなったら、それで気が変わったら、 >また話しましょう。 >自分を変えるべきかも? とか意識が向いたらまた質問してください。 >この正しさのループから出たいと思われたら、また言ってください。 もう大分走り疲れました。また変な疑念が湧いてこなければ良いのですが まだ進化論側からの精神を考察できてないので、唯一、心のこりですが・・・ まぁそこは前にも言った通りクオリアを自覚できる素晴らしさということも言えますね ーーー最後に投稿があったので >ただ、唯物論が無理あるように、これもID論??というのも無理ありますねー。 >間違ってないけど一面的で皮相的、と言う意味です。 >ID論も、唯物論と同じくこれもまた正しくて、そして拠り所にはなりそうにない、 >と個人的には思います 人類の起源もそうなりますか まぁどれもそれを正しいとする土俵の理論なのでという意味だろうと思いますが そこは客観的にどの論が正しいかある程度割り切れるんじゃないでしょうか >なので、具体的には聖書やIDについてはわかりません、ごめんー。 >というかそういうのなら、キリスト教などにもたくさん論者がおられるので、 >詳しい方に伺ったらどうでしょうか? >GOOにもいるかも。 そうしてみます 堂々巡りになるのかもしれませんが ただ、今そのラエリアン・ムーブメントが頭から離れなくて辛いです ありがとうございました