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アルケーの神は偉大なり

  宇宙の法則、万物の根源であるアルケーの神を除いて神は存在しない アルケーの神は唯一絶対である、 アルケーの神は全知全能である、 アルケーの神は永遠無限である、 アルケーの神は永遠不変である、 アルケーの神は永遠不滅である、 アルケーの神は偉大である これを否定できる者などおるまい。  

みんなの回答

回答No.55

アルケー歩けェ~私は元気ヰ~… 歩くの大好きヰ~どんどんゆこ~

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回答No.54

「モノ」と「コト」との齟齬の不在証明が可能になっているのでしょうか?

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回答No.53

>>baka-hage さん、あなたはアルケーの神に何か不満があるんですか。 >>アルケーの神は神ではないとか、アルケーの神は存在してはならんとか、そーゆー不満があるのですか。 >>アルケーの神に不満があるとしたら、どこに不満があるのですか。  不満ですね。もっと正確に言えば「Hitonomitiさんの語っているアルケーの神」に不満があります。  人の道は「アルケーの神つまり宇宙の法則を探求・追求してその法則にしたがって生きていくという考え」ですよね?  先の回答の中にも書きましたが、人の道においては宇宙の法則に従い 命題1「アルケーの神は唯一感じることが出来る神である」 命題2「アルケーの神以外の神は感じることが出来ない」 という二つの命題を提出していますが、私は人の道でおっしゃるところの命題2は間違いであると述べました。根拠は回答No.50に記したとおりですが(詳しくは「宗教の本質」「宗教の本質十カ条」「善悪の問答について」をご参照下さい)、すると命題1も間違いという事になります。  では、人の道ではどのな根拠を持って命題1、命題2にたどり着いたのでしょうか?まったく根拠が示されていません。  また、「根拠はアルケーの神つまり宇宙の法則にしたがって導かれたのだ。否定できまい。」とおっしゃるのであれば、論理学者バートランドラッセルがいう「自分で証明せず、懐疑主義者に反証をさせようとする」という宗教がよくやる間違いと同じですよ指摘したいわけですよ。しかし、その手法が人の道の取る手法であるのなら、どのように導き出されたのでしょうか??  そして、皆さんが何度も質問されているのに、その宇宙の法則そのものが「どのようなもので」「どのように働いているのか」というようなことは明らかにしてくださらない。もしかしたら、人の道は「アルケーの神がいる」「宇宙の法則がある」「宇宙の根源がある」という事は分かっていても、それがどのようなものであるかは分からないという「不可知論」の立場なのですか??  こういったことにお答えいただけないのが不満です。  まぁ、一言で言えばkunobouさんの指摘されているように、根拠がないってことが不満ですね。 >>それとも「人の道」が神を語ることに不満があるのですか。  この質問は、さきの回答の中の「無神論者だと思ってお話をすると大体の人が結局は汎神論か理神論者なんですよね。」ということについてかと思いますが、私も無神論についても書籍等々をあたって調べてはいるんですが、結局はどの書籍も理神論か汎神論なんですよね。例えばリチャード・ドーキンス。彼は『利己的な遺伝子』の頃は無神論者っぽくて、ついにこういう無神論者が来たかと思ったんですが、『神は妄想である』の頃になると汎神論ぽい発言が目立ち、一年くらい前の英字版『ニューズウィーク』のなかでは理神論ぽくなってまして。「何だ無神論者も結局また理神論か」と思っているときに、「人の道」なる無神論を説く人が現れたかと思ったので、がちがちの無神論を期待していたんですがやっぱり汎神論だったという事で、「また無神論じゃなかった」と残念と勝手に思っただけですよ。だから、「人の道」が神を語ることには何の不満もありません。私の勘違いが生んだ勝手な期待はずれです。 >>あなたには神や仏があるんですか。  私には神や仏はありませんよ。自分の中に神も仏もない凡夫です。 >>あなたは南無阿弥陀仏と唱えておるけど阿弥陀様に唱えておるんではないのですか。  私がお念仏を唱えている??それはいつのことですか?私はお念仏を唱えてなどいませんし、お念仏を唱えようなどという殊勝なお心は私のどこを探してもありませんよ。 >>浄土真宗のお坊さんは阿弥陀様を信じておらんのですか。  浄土真宗のお坊さんは阿弥陀様を信じていませんよ。私達に阿弥陀様を信じるなんていう殊勝な心は一つもありません。 >>阿弥陀様は神でも仏でもないんですか。  阿弥陀様は仏様ですよ。 >>神や仏は世の中に数えきれん程あるけど、アルケーの神だけに不満があるのですか。 >>それとも阿弥陀様を除いてそれ以外の神にも不満があるのですか。  いいえ、私は世界中の宗教のすべての立場を知りたいと思って、日夜本と格闘しています。こんな楽しいことに、不満の持ちようもありません。 急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀仏

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回答No.52

では今の世界はすでに完璧であり、何も問題はないということですね。 人と人の社会は「地獄」に関わらず、宇宙の法則に反するような混乱を生じさせることは不可能であり、完璧である、と。

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noname#136007
noname#136007
回答No.51

  質問者さんに、過去に何度も指摘したが、「妄想」と「論理的思考」の違いが分かっていない。 論理的思考とは、一般的に事実と認知されている事柄を根拠として主張する物である。 一方「妄想」とは、根拠を用いず主張する場合、例えば主張だけを言う場合である。 以前にも口にしていた「ビッブパンはギャグである。」は主張だけで根拠が添付されていないので、 「妄想」の類になってしまう。 また、一般に事実と認知されいない事実を根拠として主張する場合も「妄想」と言われても仕方がない。 「宇宙が無限に続いている」も同様で、根拠の添付されていない主張だから、「妄想」となってしまう。 宇宙の端が膨張していることが観察されているから宇宙は膨張していると言うなら、観察された事実を根拠にしているので、論理的な思考と言える。 根拠なしに地球外に人間のような生命体の存在を主張するのも同じである。 此処で、かつてないほど「妄想」と「論理的思考」の違いを分かりやすく書いた。 今後は、まず、一般に認知された、明らかな事実を元に主張すると良いだろう。 これが、論理思考の第一歩になる。妄想論から脱することの出来る一歩となる。 学習して、前進することを希望する。  

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回答No.50

 アルケーの神は唯一絶対であり、無限であり、永遠であり、永遠だからこそ不滅である。と、しますが全知全能だとか偉大であるとかは小さな人間の“気持ち”なので定義から外します。  この定義を受け入れる事が出来る“凡人=普通の人々”の心情はどちらかと云えば「感じる」と言うよりも「信じる」という表現の方が適当かと思います。この定義を「感じる」事が出来るのは“聖人=悟りの世界に入れた人々”。であると言いたい。  前にも言いましたが宗教には祈りが必要。  祈りは信じるものがあってこそ、本気で祈れます。  そして真に祈り続けることで、感じる心が育ちます。  信じて祈り、そして感じようとする。  これが信仰心というもの。  人の道さんは祈り続けたうえで掴んだ“感じ”ではなさそうなので、信じているという表現の方が正確かと思います。  ではなぜ、信じるのではなく感じるのだと主張してしまうのでしょう。   それは普通の人々が持っている“良心”、神や仏の心と同質の“良心”を重要視しており、だからこそこの心持を一足飛びに「万物の原理」に結び付けてしまい、万物の原理=信じる、神の心=感じる、が、万物の原理=感じる、とすり替わってしまうのです。  釈尊は「本来、善とか悪とか、そういうものはない」と云ったそうです。  これを哲学っぽく言い換えれば、「全体と個」あるいは「生産と破壊」といった意味を含ませることが可能かと思いますが、こんなイメージでこの世の現象を捉えようとすれば、個々の物質の集合である“宇宙”は「善」の象徴である神の創造ではなく、宇宙そのもの中に人間の想定する「神」も「悪魔」も存在すのだと、思えるのです。「全体」と「個」。「誕生」と「消滅」といったイメージです。  ちょっと脱線しましたが、人の道さんが“信じる”を“感じる”と言い換えてしまうのは、「良心=好ましい心(やさしさとか)」を重視しているからかと思います。  この心こそが宗教の源泉でなければならないのに、従来の旧態依然とした「宗教」は御利益とかに心を奪われた「漬かった信仰」になっていると。  人の道さんも希求するように、私もこれからの宗教は、好ましい心「良心(他者を思う気持ちとか)」を基礎に置くことを一人一人が自覚する必要があると思います。  自分の中にある「良心」は神や仏のこころの反映なのだと受け止めて、この心を“勇気を以て信じる”。これが大事かと思います。      

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回答No.49

 「人の道」の捉え方に変化があったというよりも、神殿を覆う濃い霧が消えかかってきた、と云ったような感じです。  回答者さんたちは気づいていないようですが、人の道さんの立場をたとえて言うと、古臭い旧道を通ることに疑問を抱き、バイパスを使って一足飛びに目的地へたどり着いてしまった、ということでしょう。  その目的地で見たものを、これが「アルケー」だと思ったのです。  その「アルケー」はたぶん物理的な“存在”だったのでしょう。  この物理的な“存在”を人の道さんは「アルケー」と見たわけです。  このような受け止め方をすれば、物理屋さんでもある程度、人の道さんを理解できるのではないでしょうか。  人の道さんは旧態依然とした「情」的世界の負の部分の影響の大きさを心配し、そしてそのことに気づかない善良な市民の多いことが、腹立たしいのだと思います。    だからこうして「人の道」を問いかけているのです。  この人の道さんの着点は非常に新鮮なのですが、いかんせん、手持ちの大きな風呂敷は古く、だから穴だらけ。  そして、そのことに気付かない回答者さんたちは、その陥穽に嵌まっているのです。  私には、それがわかるので穴に落ちないよう、大きな風呂敷に摑まっています。  また人の道さんは「アルケー」を物理的存在とのみ受け止めている、と、決めつけているわけではないことを付け加えておきます。検討中です。  哲学には帰納法とか何とか、とか考え方の「方法」があるようなので「アルケー」をかりに正しいとしてみて、思索した場合、人の道さんを論破する根拠を発見できるのだろうかと、思いついたりしましたが、・・・・・私の頭では無理か。      

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回答No.48

  >>その神や仏とは、天国、地獄、極楽浄土を語る神や仏、つまり信じるための神や仏をゆーております。  ほんなら、浄土真宗の阿弥陀さんのことやないな。私達阿弥陀さん信じてないからな。 >>信じるための神や仏とは単に想像の産物であり、なんぼでも必要なだけ想像し作ることの出来る神や仏のこと、感じることのできぬもののこと。  これについては「宗教の本質」「宗教の本質十カ条」「善悪の問答について」のなかでもお話していますが、神や仏は人間の創造の産物出ることは否定しません。しかし、感じることが出来ないというのは間違いです。というより、進化の過程で人間がみにつけた見えないもの(獲物や捕食者)を感じる能力「行為者の過剰検出」が、霊や神の概念の前提にあると考えられます。それは、神や霊という概念がすでに存在している現在でも同じで、神や霊の概念があるから「感じる」のではなく、「感じる」という事が前提にあって霊や神であると解釈しているに過ぎません。つまり、神や霊といった概念は行為者の過剰検出という人間誰もが持っている能力に依存または寄生する形で存在すると考えられます。(この「行為者の過剰検出」がどのように生じるかについては「善悪の問答について」の中で詳しく述べています。)  ですから、感じることが出来ないというのは間違いです。 >>「人の道」は神と呼ぶに値するものはこのアルケー以外には在り得ないと考え、アルケーの神と呼ぶのです。  人の道は無神論だと思っていたのに、汎神論だったわけですね。残念です。無神論者だと思ってお話をすると大体の人が結局は汎神論か理神論者なんですよね。ドーキンスに然り、人の道然り。 >>アルケーの神は万物の根源、宇宙の法則なので想像の産物ではありません。 >>つまり信じるものではなく感じることのできるもの、我々のまわりに四六時中あるもの。 >>アルケーには天国や地獄、極楽浄土はありません。 >>天国や地獄、極楽浄土は宇宙の法則に従うものではないからです。  私は仏教学のほかに人間の認知構造・心理構造を専門的に勉強してきました。天国や地獄・または極楽浄土という概念は人間の進化の過程で得た認知作用や心的作用によって生み出されたと考えています。しかし、天国や地獄・極楽浄土は宇宙の法則にしたがうものではないという。私は人間の認知的作用・心的作用も脳が生み出していると考えています。つまり、天国・地獄・極楽浄土という概念を生み出した脳の働きは、宇宙の法則には含まれないという事ですか?? >>我々のまわりのものは全て宇宙の法則に従い動いているのであるから、常にアルケーの神を感じていることは明らかです。  馬鹿なことを言わないで下さい。人の道でも「ニュートンの万有引力の法則」について方っておられましたが、『プリンキピア』くらいは読んだことありますよね?この中で、すべての人は引力をかんじているのだから引力があるのは明らかですなんて姿勢はまったくありませんよ。では、その引力とはどのようなものでどのように作用しているかを、当時はまだ現代物理学のような微分積分法を使われておらず幾何学的は方法で証明しておられます。しかし人の道は「証明がない」。  ここで言われる宇宙の法則はどのようなもので、どのように働き、何故普遍で、何ゆえ全知なのか?などなど、まったく証明がなされていない。まずアルケーの神を「感じる」とはどのような状態をおっしゃっているのですか??その感じた中から「尻尾はないと考えてよい」とお考えになったのならば何を感じたのですか??  それとも、人の道は宇宙の法則を証明していくのではなく、宇宙の法則があることは知っていても我々には理解することが出来ないという不可知論の立場ですか?? >>以上ゆーたことを考えれば、あなたの問いへの答えは自ずと導かれるはずです。  証明を提出してもいないのに「これを否定できる者などおるまい。」なんてまるで宗教みたいですよ。論理学者バートランド・ラッセルは「立証責任」という観点から、『Russell,Is there a God?』の中で 正統派(宗教家)の多くは(中略)懐疑主義者がその反証することが務めであるかのごとく語る。 と述べています。自明の事実であるという所に胡坐をかいてな証明せずに、懐疑主義者に反証させようとして「無理だろう」と攻める手法ほんと宗教みたい。  急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀仏

Hitonomiti
質問者

お礼

  baka-hage さん、あなたはアルケーの神に何か不満があるんですか。 アルケーの神は神ではないとか、アルケーの神は存在してはならんとか、そーゆー不満があるのですか。 アルケーの神に不満があるとしたら、どこに不満があるのですか。 それとも「人の道」が神を語ることに不満があるのですか。 あなたには神や仏があるんですか。 あなたは南無阿弥陀仏と唱えておるけど阿弥陀様に唱えておるんではないのですか。 浄土真宗のお坊さんは阿弥陀様を信じておらんのですか。 阿弥陀様は神でも仏でもないんですか。 神や仏は世の中に数えきれん程あるけど、アルケーの神だけに不満があるのですか。 それとも阿弥陀様を除いてそれ以外の神にも不満があるのですか。  

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  • ctaka88
  • ベストアンサー率69% (308/442)
回答No.47

>宇宙の法則に従い地上に楽園を造ろーとする者と、宇宙の法則に逆らいその楽園を破壊しよーとする者がおったら争いが起こるであろーな。 >そのときどちらが正しいんや。 >ちゃんとその答えを持っておるんか。 >答えもないのに勝手な断定をしてよいのか、どーや。 上記に対しては、すでに答えています。 私の価値判断はカントの命題であり、そこで善悪を判断するとはっきりオウムの問題の時に書いています。その時もあなたは、私の問いかけに対して、何も答えていません。 「宇宙の法則に従い地上に楽園を造ろーとする者」vs「宇宙の法則に逆らいその楽園を破壊しよーとする者」は、独我論者が互いに言いあっているのであれば、互いに相手を悪というだけです。 あなたこそ、 (1)これを極端に推し進めると、「人の道」=アルケーの神を感じないのは、人間ではないということになります。 (2)「宇宙の法則に従い地上に楽園を造る」のに邪魔になるから、殺してしまえということになります。 (3)私が前に人の道さんは「オーム」の本名松本某と五十歩百歩ではないかと言ったのは、まさに上記のようなことです。(私の発言に番号をつけました) という私の発言に何の答えもせずに、勝手な断定をしているのです。 しかも >宇宙の法則に従い地上に楽園を造ろーとする者と、宇宙の法則に逆らいその楽園を破壊しよーとする者がおったら争いが起こるであろーな。 と、またまた上記の(2)を全肯定するようなことを、臆面もなく書いています。 あなたは本当に、(3)を認めてしまうのですか????

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回答No.46

質問者は >人間は天国や地獄を作り出すことは出来ない。  と言っておきながら、 >アルケーの神にとって天国や地獄はゴミである。 >アルケーの神にとって宇宙の法則に従わないものは何であろーと全てゴミにしか過ぎん。   などと、「ゴミとして存在している」と言っているように思います。存在しないのならゴミですらないからね。 Q1.宇宙の法則に従わない人間は、ゴミである「地獄」などを実際に作り出すことが出来ると言うことでしょうか。 >問うのはえーが、たまには答えてみいゆーとるんや。  ブロックする前にそう言ってくれよ、ブロックされたら答えられねーだろ!w Q2.このカテでは質問者が答え、回答者が質問するんじゃなかったっけ Q3.「アルケーの神を感じる」と言っていますが、何に対して、どのように感じるのですか? >あんたはアルケーの神は偉大であると感じておるが、だから証明はできておらんのや。  私が「アルケーの神は偉大であると感じておるが、偉大ではないと信じよーとしている」ということを証明してみてください。

Hitonomiti
質問者

お礼

  >Q1.宇宙の法則に従わない人間は、ゴミである「地獄」などを実際に作り出すことが出来ると言うことでしょうか。 ゴミは存在しない。 ゴミは存在してもしょーもないものであるからアルケーの神が全部掃除したんでもーない。 人間がゴミを作ろーとしてもそれはアルケーの神が許さん。 だからゴミは存在しないし作ることも出来ん。 > Q2.このカテでは質問者が答え、回答者が質問するんじゃなかったっけ だから質問でき、こーやって回答が返ってくるんであろーが、有難いと思え。 >Q3.「アルケーの神を感じる」と言っていますが、何に対して、どのように感じるのですか? 地面に立っているとき既にアルケーの神を感じておる。 地面が磁石のよーに我々を吸い付けておるから、我々は地面に立って歩くことが出来るのである。 これはアルケーの神がそーさせておるんや。 それでもなおアルケーの神を感じないと言えるか、どーや。  

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