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「人間の存在および能力の一般を信じる」ということはおかしいのですか?

「人間の存在および能力の一般を信じる」ということはおかしいのですか?

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回答No.5

 こんにちは。  げんみつに言えば   ○ 信じるのは 考えることの出来ないものについてです。  ☆ なぜなら 考えることの出来るものは 考えるという言葉があるからです。  ただし 親がわが子を信じるとか わたしは誰だれさんの言っていることを信じるとかいうふうに 信じるを使う場合があります。  つまり わが子については その人となりからその思想(生活態度)からをまとめたかたちで認識しその認識と その子が何かわるいことを仕出かしたと噂されるその事件とを見比べて 考えた末に わが子がそんなことをするはずがないという意味でわが子を信じると言っています。つまりそれは 考えた結果について 強くその事実としての妥当性を思っているという意味で 使っています。すべて《考える》の領域での出来事です。つまり 《信じる》という言葉を 考えや思いを強めるために転用しています。  誰だれさんの言うことを信じるというのも あくまでその言っていることの中身を吟味してその結果 事実認識としての妥当性や推論としての間違いの無さについて わたしは強く確信していると言っています。つまり 先ほどの例と同じく 《考えや思い》を強めるために 《信じる》を転用しています。なぜなら すべては 考えるの世界における出来ごとだからです。  確信・信頼・信用 これらの言葉は 《信》という文字が入っていますが すべて考えたことの結果について用いるものです。  さて 《人間の存在および能力の一般》は 考えることのできるものごとではないでしょうか。  存在は目に見えています。能力はその発揮するところやその結果について 目に見ることが出来ます。精神的あるいは抽象的なものごとであるならば 心の目に見えます。つまり《考える》ことがらです。  よって これについては 《信じる》という言葉は――強めのための転用でなければ―― 用いません。  どうでしょう?

回答No.4

それを信じずして生きてゆく術はない。

回答No.3

おかしくはない。

回答No.2

「人間の存在および能力の一般を信じる」ただし、 その不完全性の自覚をコミで、という事でしょう。 この神は、本当は無である(=絶対確定において無) ものを、そのいい加減な認識において有限化する (無いとは分からないことが有)造物主なのです。

  • sotom
  • ベストアンサー率15% (698/4465)
回答No.1

文脈がおかしい。何が言いたいの? 哲学ではなく、言葉遊びに失敗しただけにしかみえない。

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