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昔の照明に関するお話
- 昔の照明に関するお話を教えてください。
- 昔の照明に関するお話を教えてください。
- 江戸や明治、大正などの時代における屋内や屋外での照明についての話をしていただけますか。
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質問者が選んだベストアンサー
私の経験の昭和初期の話です。 地方の農家ですが、一応電気は来ていました。しかし御存じ ないでしょうが、当時の電気料金は、電気使用量による 定量料金と、電燈1灯あたりいくら言う定額料金との2通り あり、普通の小農家は定額料金で1軒に1灯が普通でした。 電燈は当然居間だけ、離れたトイレは夜真っ暗です。 慣れても怖かったですね。他の部屋で明るい所は、囲炉裏端 で燃えている時です。冬は暖かく明るい良い場所でした。 都会は今と同じで各室電燈が付いています。 大正時代は都会でもランプを使っていた家もあったようです。 遊びに行って古いランプを見ました。油を燃すと結構明るい のですが、煤掃除が大変で電燈が急速に普及しました。 ランプ掃除は子供の仕事と聞きました。 遅く生まれてよかったなあ。 ランプは明治になり、江戸時代の行燈(あんどん)を駆逐し 明るさと安全さで普及しました。しかし軍歌には地方の農家 で行燈を使う歌詞があり、明治半ば以降でも使われていた ようです。 明治になり付けられた街灯はガス灯でしたが、電力供給が 始まると電燈になり、取り扱いの簡単さから、建物の照明 に次第に浸透していきました。 ガス灯の街灯の、点、消灯作業は大変だったと思います。 盛り場のネオンサインは大正時代(後期?)から付けられた ようで、子供心をくすぐられました。(大人も) 当時の電球は10~40ワット位で今にくらべると暗く 特に部屋の天井の4隅が暗く全体照明で不良です。 江戸時代の行燈。蝋燭も同様全体照明が不良で、怪談話が 多いのも当然です。百目蝋燭なら兎も角、行燈はとくに 悪く子供は夜がこわかったでしょう。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 日本で電気が普及し始めたのは、明治15年(1882)で、東京・銀座に灯された日本初の電灯(アーク灯)には、連日大勢の人が見物に訪れたという記録があります。 風が吹こうと雨であろうと消えることのない電灯は、当時の人を驚かせたことでしょう。 江戸時代は、当然、灯かりと言えば「蝋燭」が主流でした。また、庶民などは安い「魚油」が主流でした。 百目蝋燭は、武家や大店などで、面白い話としては、吉原は現代の新宿などのように百目蝋燭をふんだんに灯しての「不夜城」でした。そして、赤い格子と派手な家構えには、人々を吸い寄せる力があったのでしょうね。 また、江戸時代は、夜の「無灯火」での外出は禁止されており、どこの家庭(庶民も)でも1個は必ず「提灯」が常備されていました。 提灯の歴史は古く、室町時代に中国の宗に渡った禅僧が伝えたと言われ、当時は、「桃燈」と書かれていました。そして、最初の頃は、木枠に紙を貼り、その中に蝋燭を灯し、台に置いたり天井からぶら下げたりしていましたが、やがて、「籠」に紙を貼り持ち運べるようになりました。折り畳み式も発明され、庶民には「便利になったものよのう」と絶賛されました。 江戸時代のリサイクルとして、「蝋燭の蝋買い屋」も立派な仕事の一つでした。これは、武家や大店、吉原などに出向いて、蝋燭から流れ落ちた蝋を買い取り、再び、1本の蝋燭にするという商売でした。 行灯(あんどん)もありましたが、木枠に紙を貼り、蝋燭や椿油を灯し、光が四方にも届くようにしたもので、庶民には人気でした。しかし、提灯のように持ち運びができないため、家に据え置きでした。 長屋暮らしの人々は、主に素焼きの皿に「魚油」で、こちらは安いかわりに黒煙が上がり、臭いもきつい。従って、農家などと同じように「陽が暮れたら寝る。陽が昇ったら起きる」でした。そして、妻帯者では、夜の楽しみがないので、自然と子だくさんになったのです。ある程度裕福な家庭では、「椿油」が用いられました。 ヨーロッパ、特に北欧では、鯨油を使ったりしましたが、何と、鯨漁をしても肉などは食べず、もっぱら「鯨油」の抽出だけに鯨を獲っていたのです。
お礼
七月ももう最終の週、文月さんの謦咳に接しジャンマシュタミ、バガヴァン・クリシュナの記念祭を迎えます。 灯火管制ではとても不自由でした。 お話の事のライフサイクルやスタイルはとても想像できないですね。 早速のお話をまことにありがとう御座いました。歴史の経験、擬似経験。私がどんどん私でなくなる。 もう少し更なるお話の窓を明けておきます。ありがとう御座いました。
補足
文月さん、お江戸を終えた東京の下町生まれ育ちの、この小老人も過去がどんどん非自己となっていきます。 当時の記憶も、感情や意識も。もう異国のことよりも遠くなっていきます。 ヒマラヤの奥地から茶色ながらも清冽な流れを下るガンガも里里を通る頃はぬるく更に混濁します。たくさんの細流を拒むことなく受け入れ、多様な要素と内容を許容しているのでしょう。 私は町の道路に降る雨水の流れです。たくさんの方々、大きな流れにもお会いできたのですが、何も分らずに着てしまいました。 細流の多様もなく、少しは昔人の生活を知りたいと思いました。 頂いたたくさんのお話を咀嚼し、こういう中で先人はどんな生活と感情だったかなぁと思いを致していきます。 本当にありがとう御座いました。 (いろいろ試行したのですが、やはりメールは跳ね返りますね。他の方のが届いているのでしょうから、もっと工夫が必要ですね。ありがとう御座います。今後ともどうぞよろしくお願いします)
お礼
Pinhole-09さん、ありがとう御座います。 暗さ、怖さ、不便、そして労力の苦労。 こういうのって、それこそ経験ですものね。 中国やインド、或いは東南アジアの奥の方ではこういう経験と世界なんでしょうね。 私達はことばで語られ、それを自分の中で反芻して経験をシュミレートします。 でも現実の深さはそういう思い画きではとても足元にも及びませんね。 私はこういう経験世界での感情と意識、そして歴史の選択と歩みを思い、今の私達が先人を論ずる事の限界を自覚したいのです。 ありがとう御座いました。
補足
もう新しい読書領域を増やす事もなく、昔の中に浸かっただけの過去ひとになりました。 でも過去がこうだったという事も忘れていくのです。 60年も前の下村湖人の次郎物語でも、子どもがランプ掃除をします。 そういうことをすぅっと通り過ぎていますが、状況などを少しは思って読むことでしょうね。 ロマン・ロランだってガンディーだって、孔子だって、バガヴァット・ギータだって、昔の本です。 今の気持ちだけで読んでも、懸隔が大きいでしょうね。 いろんな状況の違いの中でも、照明って、とても大事な気持ちです。 参考に出したご質問の中の生活なども、私には想像もできないことです。 そういう中での歴史であり、本だったのですね。 決して今の気持ちだけでの読書や歴史理解ではいけないなぁと、思っているのです。 ありがとう御座いました。