- ベストアンサー
哲学における言語の役割を、どう考えられますか?
哲学における言語の役割を、どう考えられますか? 哲学は他人との討論によって昇華していくものであるから、他人に伝えるために言語が必要。 自分の内で考えるときに、言語がないと思考ができない。 ここから先へ進めなくて困っています。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
「自分の内で考えるときに、言語がないと思考ができない」という 事はありません。 まずあるのは、ひとくくりにできる特性を持つ集合(イメージ)であり、 言語は記録やコミュニケーションのために、後から付随するものです (ひとくくりにされたイメージに対して、記号が条件反射的に関係づけ られる)。 もちろん、学校の勉強のように、最初から言語で覚えたものは、言語に よってしか操作できなくなりがちですが、それは固定観念的な、価値の 低いものにとどまります。 アインシュタインも、物理学とは数式を解くことではない(実際彼は 数学的な部分を他の研究者に委託している)=イメージによる思索だ、 と明言しています。 思考実験において、それまでの常識(=言語)を覆すことが本質だ、ていう。
その他の回答 (4)
- kobarero
- ベストアンサー率29% (106/361)
この世界を絵筆で説明するのが絵画。 この世界を音で説明するのが音楽。 この世界を体の動きで説明するのがダンス。 この世界を言語で説明するのが哲学。 と考えたらどうでしょうか。
- kadowaki
- ベストアンサー率41% (854/2034)
>哲学における言語の役割を、どう考えられますか? もし、真面目にこういう問題について考えようとするなら、まず、そもそも人間が「言語」をも介さずに思考できるのだろうか?と問うてみてはいかがでしょうか。 すると、われわれの思考そのものが既成の言語体系や言語制度の枠内においてしか、つまり、自分が体得した言語の文法と辞書という社会規範に依拠してしか機能し得ないことが明らかになってきますよね。 思うに、われわれが人間世界に生を享けるということは、刻々と千変万化してやまない現象世界と歴史的、社会的に言語世界とに囲まれ、それに反応しながら、その影響を受けながら自己形成していくことでもありますよね。 その過程で、われわれは環境世界から刷り込まれた言葉を媒介にして、やはり環境世界がわれわれに次々と投げ掛けてくる未知に対処することを学んできたのではないでしょうか。 >哲学は他人との討論によって昇華していくものであるから、他人に伝えるために言語が必要。 「他人との討論」のための「言語」とか、「他人に伝えるため」の「言語」とかを考える前に、言葉が言葉である限り、必ずこの世(人間世界)に誕生した一回的な瞬間があったはずという自明の事実に思いを馳せてみませんか。 たとえば、ある人が、ある未知の出来事に遭遇し、それに対して前代未聞の声を発したとき、それが新しい言葉が誕生の瞬間であり、言葉が言葉である限り、例外なくこういう誕生事情を持っているはず、と。 ついで、この新たに生まれた言葉がだれか他の人に伝えられたとき、その言葉は、はじめて文法性・辞書性(社会性、規範性)を獲得したと言えるのでしょうね。 こうして、人間は言葉でコミュニケーションしたり、思考したりできるようになったと考えられます。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
任天堂WiiのゲームにおけるJavaと同等の役割じゃないでしょうか。 「ここから先」は無いんじゃないかと思いすが、、、。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
T・ラガルド:聖書の或るレクチュール 『ヘブライ語は何より先ず抽象観念を避ける言語であり、より正確に言えば、抽象化の概念不在の言語なのである。 律法の語彙は具体的で、直接的で、いかなる奸策もなく、<力>であり、イメージ・ソース(=自然)がありうる限り理解可能なものである・・・・ これに対してギリシャ語はすでに抽象概念にみなぎっていて、結果ギリシャ語の思考者達、ギリシャの哲学者達は正確には何を言わんとしていたのを、人はかつて、今でも、そしてこれからも問い続けることができる・・・・ さらに、ギリシャ語という師からかなり刺激を受けたラテン語は、<物のレッスン>を先ず第一とするヘブライ語クラスに入れば、およそ不出来な生徒ということになる。 ヘブライ語が、示す<もの>と一体であることを自負する言語であるとすれば、ギリシャ語は存在の射程から開放された記号システムの中に抽象観念、すなわち、指し示すものとの異体性を導入しているのである・・・・ だから詭弁家はギリシャ語的でしかありえない。 ヘブライ語的見地からしてみれば詭弁家は嘘つきでさえなく、明らかに愚者なのである。』