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儒者は二朝(二つの王朝)に仕えてはならない?

儒者は二朝(二つの王朝)に仕えてはならない? (少なくとも中国の)儒教・儒学が教えるところによれば、儒者は二朝(複数の王朝)に仕えてはならないそうですが、 これについて詳しく教えてください。 ・まずこの教えの根拠となっているテキストは何か ・そしてそもそもなぜなのか ・「朝」とは広く国家くらいの認識なのか、政権なのか、単に君主なのか 儒教三千年という本のp.218にさらっと書かれていました。 http://www.amazon.co.jp/儒教三千年-中公文庫-陳-舜臣/dp/4122051487

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  • bakansky
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回答No.1

「賢臣は二君に仕えず(けんしんはにくんにつかえず)」 下記のサイトに簡単に説明がありますから、それでほぼ分ると思います。 → http://www.sanabo.com/kotowaza/arc/2004/06/post_1546.html 司馬遷の『史記』にある言葉であるということは、必ずしも「儒者」限定ではないですね。 二君にまみえないというのは、日本人の感覚からは自然なことですが、広い中国の戦乱の世では、より有利な方の君主に寝返ることもまれではなかったでしょう(日本でも、戦乱の世には、裏切りなど、珍しくなかったでしょうね)。

tuktukrace
質問者

お礼

ありがとうございます。 なるほど史記ですか。 形式的には二君に仕えるなということですが、言わんとすることは自分の忠義・忠節を全うしなさいと言うことですね。この教えは儒学のそれと一致するので、"儒者"は二朝に仕えるなということになったのでしょう。 対象が国家か政権か君主かという違いはあまり関係なく、問題にされているのはその忠義や忠節のほうだと理解しておきます。 >二君にまみえないというのは、日本人の感覚からは自然なことですが、 質問の発端はまさにここです。 日本も江戸時代になる前、戦国の世では、武士は主君を七回変えて一人前だと言われていたらしいのです。安定した江戸時代になり、武士の社会でそれまで以上に儒学が盛んになり、いわば官学的な扱いになりました。安定政権を指向する江戸幕府が儒学の官学化を推し進め、そこに含まれていた「二朝に仕えず」という考え(実際は史記に書かれていることのようですが)を強く前面に押し出した結果、「日本人の感覚」になったのかもしれない、と理解しておきます。 ありがとうございました。

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  • juyjuy
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回答No.2

前の回答者様が書かれておられる通り「賢臣」なのですね。 でも大概の官僚は二君はもちろん、二朝に仕える事は当たり前でした。だからこの言葉が「珍しい事」として史記に記録されたのでしょう。 アメリカなどでは上級官吏は二君(違う大統領)には仕えないのが原則です。西欧の方が王制時代以来、この点は徹底していたのではないかと思います。