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聖書の命令についての疑問:自分の父または母を打つものは必ず殺されなければならないのはなぜ?
- 聖書の出エジプト記には「自分の父または母を打つものは必ず殺されなければならない」という厳しい命令があります。この命令は現代でも適用されるべきなのでしょうか?
- 一部のクリスチャンは、聖書は神の言葉であるため、この命令は誤りではないと考えています。しかし、現代の社会では家庭内暴力を容認しない価値観が広まっており、この命令は適用されるべきでないと主張する者もいます。
- 聖書の解釈は個人や教派によって異なるため、適用、不適用の判断は人間に委ねられています。学者や牧師などの宗教的指導者は聖書の解釈を行い、信者に対して教える役割を果たしています。しかし、このような判断は一意ではなく、個人の信仰や経験によって異なる場合もあります。
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社会律法と祭儀律法は守らなくてもいい 人が勝手に作ったと考えられてます、本当の意味での律法は 十戒のみです ただ律法と言ってますが私たちが考える戒律じゃなく 出きれば守りましょうねという感じの意味 ヘブル語で矢を意味してそうしましょうね~と言う意味らしい 日本語では・・・しなければならない となってますが・・ http://www.catholic-shinseikaikan.or.jp/seisho/shujitu/year_c/c08.htm 律法・トーラー この語トーラーは動詞ヤーラー〈矢を射る〉から派生した名詞ですから、「歩むべき道を指し示すために神が放った指示」のことです。その特徴を次の三点にまとめることができます。 (1)トーラーは神が恵みをこめて教えた「指示」であり、「律法」という訳語が思い起こさせるような律法中心主義的な見方とは無関係です。 (2)それは生命を欠いた文字の固まりではなく、神からの生きた呼びかけであり、活動的な力です。ですから、トーラーによって人は命を取り戻し(詩19:8)、それによって喜びを覚えることになります(詩19:9)。 (3)従って、人間がトーラーに示すべき態度は、律法中心主義的な服従ではなく、むしろ「喜び」と「愛」と「心地よさ」だと言えます。 ですから、今週の朗読でも、エズラによって律法が朗読されたとき、聞いて泣きました。混迷する時代にあって、生きるべき確かな指針を獲得できたからです。しかし、これ以降、律法遵守を強調するあまり、硬直化が始まり、律法中心主義へと落ち込んでゆきました。 だから社会律法と祭儀律法は守らなくてもいい ということですね
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- taco8ch
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>それでは聖書のどの部分は現代に適用しなくてよいのでしょうか? >また適用、不適用の判断は一体誰が下すのでしょうか? >人間である学者先生や牧師先生が聖書に対する判断を下していいのでしょうか? ユダヤ教がキリスト教に比べて柔軟な面を考えて見ます。 キリスト教が聖典として旧約と新約の二つを用いているのは周知のとおりです。 その文書群の構成は教派教団によって様々あり、外典とか偽典とか諸々あっても、 表向きこの二つという体裁です。 一方、ユダヤ教の経典はというとこれが微妙です。まずキリスト教徒の呼ぶところの旧約です。 ――ただ、この「旧約」という呼称は、あくまで「新約」があっての呼び方であって、 「旧約」という呼称がすでにキリスト教の立場を表明していることはご承知でしょう。 ここではユダヤ教にならって旧約をタナハと呼びましょう―― タハナの意味は、旧約文書群を三つのカテゴリーにわけたときのそれぞれの頭文字をとって・・・ まあ、それはどうでもいいんですけど、 要はユダヤ教はこのタナハを聖典としています。この点にひとまず間違いはありません。 ただ、さっきから「最も重要な」とか「微妙」とか口籠るのには理由があって、 ユダヤ教にはタハナの他にもいろいろと重要な文書群があって、 トセフタとかミシュナとかタルムードといった書物にまとめられています。 これらはどんな書物かというと、――ここからは伝説も混じっちゃうのですが―― タナハに入ることのなかった番外編の律法について、 タハナとの連携を保ちながら、タハナを解説・補完する書物として扱われています。 どういうことかというと、たとえば質問者さんの疑問のように、 時代背景や住む国の事情(ユダヤ人は散らされた民だからね)に到底そぐわない律法が タハナに書かれてあったとする。これはあかんだろうというわけで、 ユダヤ教のお偉いさん、ラビといい、まあ、質問者さんが挙げた 「人間である学者先生や牧師先生」みたいな人が集まって、 ああでもないこうでもないと議論する。 知恵を出し合って、タハナの権威を傷付けることなく、 かつ時代や文化にマッチした解釈を下すのです。 こうしたことが延々と歴史の中で繰り返されてきた結果、 膨大な量の副読本ができちゃったわけです。 時には、タハナに書かれてあることと全然違うように思える箇所も 無きにしも非ずですが、その辺はご愛嬌です。 質問にあった「自分の父または母を打つものは・・・」についてが議論されたかどうかは、 今からこれらの書物をゴソゴソと探そうという気力は俺にはないですが、 とにかく、いろいろ問題を抱えながらではありますが、 それでもユダヤ教徒たちはそのへん何とかうまくやってきたし、 多分、こうしたことは現代でも行われているはずです。 聖典について権威あるラビたちが解釈書を出すと、どうなるか想像つきますね。 解釈書これもまた聖典になるわけです。ユダヤ教徒の前でそんなことをいうと 「いや神の言葉はタナハだけだ」と怒られるかもしれませんが、 実際、タルムードという書物などはすでにタナハに並ぶ権威をもって 扱われているように感じます。 キリスト教徒からはすっかり頑固親父のレッテルを貼られてしまったユダヤ教ですが、 こうして、何といいますか、回路の組み換えというか、臨機応変と言いますか、 増え続ける聖典も気にせず、わりと自由にのびのびとやってきたわけですね。 さて、ご質問のキリスト教はどうでしょう。 キリスト教といっても様々で十把一絡げにはできませんが、 この先、キリスト教の聖典が増えるとはちょっと想像がつきません。 鍵の掛かった白亜の教会の中に篭って、自分の手足を聖典という十字架に 縛り続けている信者も中にはいるのではないでしょうか? そのうち、自分の父や母を打ったからといって、本当に子供が殺されるようになると、 洒落にならないけど、人間の理性って、時としてとんでもない方向に向かうからなあ。
- kigurumi
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撃つと翻訳されているものには叩くという意味と、殺すという意味とがあるようなんですね。 <人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」というものであった。神は、戸口に印のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。つまり、この名称は、戸口に印のあった家にはその災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来する。> 過ぎ越しの祭りの起源ですね。 日本にもありますよね、茅の輪。正月のお飾りとして残っていますし、地方ではまだ過ぎ越しの祭りをやっているところもある。 この撃つというのは殺すって意味。 その章を見ると、編纂があまりうまくできていないと思う。 恐らくハムラビ法典を参考にして作られたものだと思う。 ハムラビ法典の内容と同じだが、詳細になると期間とかが違う。 ハムラビ法典は奴隷に対する処遇も書いてあり、その箇所が聖書でのこの箇所に該当するとしたら、、、 奴隷の身分の父親を子供が殺した場合、君主の財産を減らした子供は、君主に損害を与えたわけですから、ただじゃすまないってことですね。 しかし、ヘブライ人になると、ヘブライ人は奴隷の身分から開放されたので、奴隷になってはならないとある。 どうしても自活できないヘブライ人を生かすために同胞のヘブライ人を奴隷として雇った場合も、期限を設けて、期限がきたら、十分自活できるだけの財産を持たせて開放しなければならない と書いてあります。 一生奴隷に身分にならないように配慮されているところが、ハムラビ法典とは違うわけです。 だって奴隷になってはならないって基本がありますから。 例外措置として可能だけど、ずっとは駄目ってあくまで基本に戻れるようにしてある。 で、もう一つ思ったのは「自分の父または母を撃つもの」が他人の場合。 日本の仇討ちに通じるものがある。 仇討ちを果たして不浄を消し去るまでは、家を告げなかった。 殺しのライセンスが与えられるので、この場合、「殺してはならない」に該当しない。 何故なら、「イスラエルの子が人を殺そうか 殺すはずが無い」と十戒にありますが、イスラエルの民は同じイスラエルの人を殺さない、殺した場合はその人はイスラエルの子ではない異邦人、従って、イスラエル人ではない人を殺してはいけないという規定は無いので、イスラエルの子ではない あるいは他人を殺してイスラエルの子ではなくなった人を殺してもかまわないわけです。 十戒の一つに「イスラエルの子なら父母を敬う」とあります。 父母を敬わない時点で、イスラエル人ではなくなり異邦人になったということなので、十戒の縛りは適用されず、父母を殺した子供は殺しても律法には触れないわけです。 家庭内暴力とかそういうのではない。 十戒にそむいた時点で、イスラエルの子ではなくなり異邦人となる。 異邦人に対してはイスラエル人は同胞に対するルールを適用しません。 だからイスラエル人は何度も他の民と戦争をして殺してきました。
- michael-m
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キリスト教の教理は旧約聖書を基礎として、その上にキリストの教えという教会を立てています。 敷石が岩だから、建物も岩で作らねばならないとしたら、それは正しいでしょう。 しかし、キリスト教ではその基礎を踏まえた上で、キリストの教えを守るのです。 古い新しいではなく、新約聖書の中でキリストの教えを解釈していけば自ずとこの答えも見えてくるはずです。 ユダヤ教はそのキリストの教えを否として旧約に忠実に生きています。 つまりこの問はキリスト教に対してなされるべきものではなく、ユダヤ教に対して成されるべきものです。 また、もし「大昔のことだから現在に通用しない」と言っている牧師や学者がいるなら、その者は新約を勉強していないか、誰かの受け売りでしかないといえるでしょうね。
補足
ご回答ありがとうございます。 以前どこかの牧師先生(キリスト教)から旧約の中の律法には道徳律法と社会律法と祭儀律法の3種類があって、このうち社会律法と祭儀律法は守らなくてもいい、と聞いた覚えがあります(親を打つ子は殺されなければならない、は社会律法)。 社会律法と祭儀律法は守らなくていいと、一体誰が決めたのことなのか、ご存知の方いらっしゃいますでしょうか?イエスキリストは道徳律法の重要性を語っていますが、社会律法と祭儀律法については 語っていないと思います。
- 雪中庵(@psytex)
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2千年も前に書かれたものに、今も従わねばならないのなら、 この間の人間はバカばっかり、という事だね(^o^)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.3です。 《文字は殺し 霊は生かす》というところについておぎないます。また ★ これはモーセがいた大昔の命令で、現代では適用する必要はない、という方もおられるようですが、 / それでは聖書のどの部分は現代に適用しなくてよいのでしょうか? ☆ という問いにも或る程度お答えできると考えます。《どの部分》というより 全体として受け取り方が違って来ているというものです。局面が違って来ています。 ▲ (パウロ:コリント後書 3:3-18) ~~~ あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、〔* モーセの律法が石の板に書かれたというそのような〕石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。 文字は殺しますが、霊は生かします。 ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 戒律ゆえに罪に定める役目があり その結果 罪は死に行き着くというそのようなモーセの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。 そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。 なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。 このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。 しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。 このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。 しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。 ▲ (パウロ:ローマ書2:21-29) ~~~~ それならば、あなたは〔* モーセのもたらした律法の命ずるところを〕他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼 を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、 文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。 その誉れは人からではなく、神から来るのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- Mokuzo100nenn
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キリスト教は信仰ですから、聖書に書いていあることが嘘でも、間違っていても、否定してはイケないのです。 この点においてはオウム真理教も同じで、教祖さまが言ったことを疑ってはイケなかったみたいですね。 敬虔なキリスト教徒はモーゼの命令を信じておりながら、所属する国家の法律があるために、殺すのをためらってるのでしょう。法律が無かったら聖書の教え通りにDVの子供たちを殺しにかかるつもりなのかもしれません。 その点において、キリスト教徒の方がオウム真理教徒よりも常識が有ると言える。 その点において、オウム真理教徒の方がキリスト教徒よりも教えに忠実と言える。 敬虔なキリスト教徒は、母親はセックスしていないのにイエスという人が生まれたと信じているのですが、体外受精で子供ができるようになったのは20世紀に入ってからでしょう。 フィリピンで人口の90%以上、韓国で人口の25%ぐらいの信者を獲得したキリスト教が、日本では人口の1パーセントぐらいしか信者を獲得できない事実があります。これは、日本人が聖書の内容はすべて真実だと言う教団になにか胡散臭さを感じるからではないでしょうか。 ドイツにも、あの強烈なプロテスタントの国に住んでいるドイツ人にも、理性のある人がいました。フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェという人です。この人は「あの王様は裸だよ!」と言った少年のように、タブーとされていたキリスト教団の嘘・偽りを堂々と指摘した勇気ある哲学者です。 (キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 (講談社+α新書) ) キリスト教団は既に人類の30パーセント、約20億人を信者にしてしまった。 人類史上最強最大なグローバル教団であり、その政治力、経済力は計り知ず、最終的にはキリスト教以外の”邪宗”を尊重する人間に対して強硬手段をとるようになるかもしれません。非キリスト教徒は、十字軍の歴史を思い出さなければなりませんね。 世界一強力なグローバル教団に対して、日本人の常識がいつまで歯止めをかけることができるのか、少々不安ではありますね。
- AXIS_
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訂正 ×しかし、他者の言から学び、他者から学ぶ、と言う段階も、学者先生などにはあるのでしょう。 ○しかし、他者の言から学び、他者にとりあえずは従う、と言う段階も、学者先生などにはあるのでしょう。 >人間である学者先生や牧師先生が聖書に対する判断を下していいのでしょうか? 自分で考えて自分で判断し、行為し、振舞うならたとえ間違っても仕方ない。しかし誰かの判断に従って行動するのは良くないでしょうね。
- AXIS_
- ベストアンサー率12% (9/71)
他者の言はどこまでいってもゴミ、ガラクタです。 たとえ本当のことが書いてあっても、です。 自分の思いから探し当てるしかないでしょう。 他者の言に輝きを見て理解できるのなら、それは自分が持っているからです。 しかし、他者の言から学び、他者から学ぶ、と言う段階も、学者先生などにはあるのでしょう。
- katyan1234
- ベストアンサー率18% (347/1849)
自分の父または母を打つものは必ず殺されなければならない」 この裏を見ないといけない つまり人の家族を殺したりした場合は報復されてもいいということだからお互いに気をつけて生活しよう。 と言う意味があり隣人を愛しなければならいという言葉に通じますね。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
貴方のお年は幾つ位だか見当がつかないですが、宗教の論理的な整合性に拘っているところを見ると、精神はお若いようですね。よくよく考えてみたら、宗教とは論理的な辻褄が合っているかどうかなんてどうでも良いことですね。宗教は学問ではないのですから。それよりも、その宗教で困っている人を救えるかどうかが本質ですね。宗教とは理屈ではありませんよ、と言う意味で貴方の質問に対して参考になるかもしれないことを、以前この哲学欄んで回答したことがあります。そこで4回ほどそこの質問者さんと遣り取り致しました。ここの質問とは僅かにずれた問題を論じては居りますが、特にそこの#3と#4が貴方の質問の内容に当たらずとは言え遠うからじだと思います。 http://okwave.jp/qa/q6017383.html に載っています。貴方の質問に関連したことを他の側面から見ていることになっているとも思われますので、興味がお有りでしたら覗いて下さい。
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お礼
大変よくわかりました。ご回答ありがとうございました。 「人が勝手につくった」ということであれば、聖書だけを読んだのでは キリスト教を正しく理解できないようですね。 その他の皆様にも大変お世話になりました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。