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今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。変な問いです
今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。変な問いですね。 私の頭の中から現れたというのは間違いです。さて、どこから現れたのでしょうか。 本当の自分は何かということで悩んでいる方をみます。そして、二元論での回答が多いことに驚きました。 私たちの本性は、外面でもなく内面でもない。時間も空間も超えています。それは私たちの傍に常にあった。私たちは、生まれるたこともなく死んだこともなかった。「自分」というものがあると思っていることが間違いです。私たちの本性は、実在でも、非実在でもありません。時間も空間も存在しません。心も存在しません。魂も存在しません。「色即是空」もありません。「絶対」もありません。「空」もありません。それらは、自我が創り出した幻想です。自我自体も幻想です。自我はどこから来たのでしょうか。 言葉で考えているものは、すべて幻想となります。言葉を観念を離れてください。ありのままをみてください。「色即是空」、「空」を観念でとらえてはいけません。 外の問いを出してみますね。 質問1「一羽のカラスが鳴きながら飛んでいきました。その鳴き声はどこから現れたのでしょう。そしてどこに消えたのか。」 質問2「両手を叩くとパンと音がするでは片手の音はどんな音か。」(禅の公案) 二元論だと答えがでないでしょう。 もし、分る方は回答してみてください。でも、回答した瞬間に間違いとなりますよ。 私は誰か。これを見ているのは誰か。これを聞いているのは誰か。と常に問うてみてください。 私は誰か。この問いは、どこから現れますか。そしてどこに消えますか。 私・・・は・・・誰か・・・。どこから現れますか。 私は誰か。という問い自体には意味はありませんよ。 さて、今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。
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- kigurumi
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価値の不在みたいなものかなぁ。 クリミナルマインドってドラマを観ていて思うのです。 普通の人がどっかのタガが外れて狂気に染まっていく。 価値観が微妙にずれている。 頭がいい人ほど、「どっちが上でどっちが下か 本当のそうなのか そう言えるのか」を問い続けた結果、価値観を失い、その時足元の地盤が消えてカオスの闇に落ちていく。 理論でいって「従って私は神だ だから人を殺してもいいのだ」「あるいは殺人は救済だ」とかシリアルキラーは自分の殺人の正当性を主張する。 確かにその理論を聞くと納得してしまいそうになる。 だが魅せられながらも理性を保ち続けることができれば「偽者」と見破れる。 何を持って見破るのかというと、人間性、倫理。 これを使わないと、見破れず足元の地盤を崩され、カオスの世界にいざなわれてしまう。 シリアルキラーを理解しようとするとき、こちらの世界に居続けたままでは、相手の心がわからないので、相手の住む世界まで入り込むわけです。 そうしないとシリアルキラーの動機や言動がわかりっこない。 しかしシリアルキラーの考えが理解できるようになるということは、恐ろしいことでもあるわけです。 <「魔物と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう、気をつけねばならない。深淵を覗き込む時、その深淵もこちらを見つめているのだ」> ニーチェ。 魔物を覗き込んでいるうち、魔物に食われてしまう危険が高くなるから。 同化してしまうとあっちの世界にいってしまう。 クリミナルマインドはドラマですから、43分くらいで終わるので、あっちの世界に逝かずに現実に戻ってこれる。 もうちょっと長いと、結構辛い。 セブンって映画は辛かった。 主人公は魔物に食われてしまった。 似たような映画でセルってのがある。 やはり主人公は魔物に食われてしまい、価値の崩壊とともにカオスの世界の住民になってしまったわけですが、刑事の方が同化率が低かったので、正気をたもてて、主人公はまだ食い尽くされていなかったので、残ったマインドに訴えて、正気を取り戻させ、本来の使命をやりとげさせた。 アメリカでは心理系の職業の人が一番自殺率が高いのだそうです。 カウンセリングをしていてクライアントの闇の世界を覗いているうち、食われてしまい自殺するわけですね。 で、あまりにも危ない人の場合は、二人体制でカウンセリングを行い、片方が引き込まれて相手の世界に感情移入してしまい食われそうになっていると見たら、もう1人の人が食われきる前にパートナーはもう自分では目を逸らせないので、ぶん殴ってでも目を逸らさせるのだそうです。 そうすることで、こっちの世界に戻ってこれ正気を取り戻せる。 で、今基盤を失い価値がわからなくなったあなたに必用なのは、あなたをぶん殴ってくれる人。 「目をそらせ それは幻だ。君は現実の世界の住民だ。 痛かっただろう。現実に戻ったから痛いと感じれるのだ」と言ってくれるパートナー。 現実に戻ればどっちが上でどっちが下で、なにが大事で何が虚構か見破れるようになりますよ。
ざっくりしすぎかと思います。 例えば、「新しい」という言葉は時間を軸に前後の関係を示しています。 関係は関係でしかなく、意味は文脈の中で決まってきます。 言い換えれば、「新しい」という言葉を使ってあらゆる状況を説明することも可能ということです。 ですから、あらゆる状況を説明可能だからといって説明する者が天才というわけではありません。 >自我が創り出した幻想です これも事実なのですが、威張って言うものではありません。こっちが恥ずかしいです。 仏陀においては、個別の具体的な細かい部分もしっかり説明可能なので、ざっくりとした物言いが逆に感動を呼ぶのでしょう。 日常の生活を輝けるものにする為に地道に行動しましょう。
お礼
回答ありがとうございます。 あなたは今、私は誰かと問うてみましょう。 「私」・・・(どこから現れましたか)は・・・・・・誰か・・・。どこに消えましたか。 考えて・・・(どこから現れましたか)いるのは・・・・・・誰か・・・。どこに消えましたか。 こんどは私が自分(仮の概念)に問うてみましょう。 「私」・・・(どこから現れたのか)は・・・・・・誰か・・・。どこに消えたか。 あなたと私にとって、何か共通して変わらないものが在りませんか。 内側でもない外側でもない。無でもない有でもない。あれでもないこれでもない。しかし、全てに存在(仮の概念)している。全てに充ちている。いつもあなたの傍にずっと在りつづけている何か(仮の概念)。 探そうとしてはいけません。 その瞬間に「探そうというもの」と「探されようとするもの」の二つに分かれてしまいます。もともと一つのものを分けてはいけません。あなたは既にその到達地点にいるのですから。仏陀も祖師もともに手をとりあっていませんか。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
そうした矛盾は、「自己の認識が結果的な産物であり、それとは 独立した外的存在がある」という先入観に基づき、そうした 「絶対時空」=認識とは無関係に時間の流れや空間的広がりはある、 という素朴唯物論的な考えは、相対性理論や量子論以降、百年 かけて否定されたものです(一般人の常識はついてきていないが)。 最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測される事に よって生じています。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめ込む と存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限不確定の闇の中に 仮想的な認識体の断面を切り、その仮定断面の運動を想定すれば、 相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我仮説の 補完(相補的不確定性)としての時空仮説を認識するのです。 無の不確定性無限の潜在たる「認識可能性(=自我仮説性)」に 対する、相補的対発生としての「時空仮説性」。 不確定性原理において、絶対的に確定化すると“無=無限”に帰する ものを、階層現象表面的に(=いい加減に)定性化することで有限な 存在性が派生している=「無いとは分からないことが有」なのです。 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った) 補完なのです。
お礼
回答ありがというございます。 何かの記事で見たのですが、量子論的世界像では、例えばある人がテーブルクロスの掛ったテーブルを見るとき、ある人に見えないテーブルクロスの下はそのある人にとっては存在しないことになるというのがありましたね。 >無の不確定性無限の潜在たる「認識可能性(=自我仮説性)」に 対する、相補的対発生としての「時空仮説性」。 概念を外しましょう。そこに何が在りますか。 そもそも、この質問は誰が誰にしているのでしょうか。あなたと私、他の皆、路傍の石、花、樹、犬、音、 光、月、太陽、その根源(仮の概念)が同じだとしたら、この質問は誰が誰にしているのでしょうか。 あなたが、私・・・は誰かという時、私が私・・・は誰かというとき何か変わらずに在るものがありませんか。 私・・・(どこから現れましたか)は・・・・・・誰か・・・。どこに消えましたか。 内側でもない外側でもない。無でもない有でもない。あれでもないこれでもない。しかし、全てに存在(仮の概念)している。全てに充ちている。いつもあなたの傍にずっと在りつづけている何か(仮の概念)。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.6&7&10です。 ★ (No.7お礼欄)~~~~~~~~~~~~ >つまり あなたから この質問は現われたという回答内容です。 そうすると、「私」と思ってい私が、私は誰かと問うてみると・・・どこから現れたでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 同じですよ。 ★ 「私」と思ってい私が、私は誰かと問うてみると ☆ というように《私が・・・問うてみる》ということです。その《私》すなわちここでは pipilukn なる名前を持ったあなたから現われたのです。 ★ (No.10お礼欄) ~~~~~~~~~ あるとき禅の老師が自分に向って「おーい主人公騙されるなよー」と叫びました。 そして、それに続き老師は「はーい」と答えました。 これらはどこからあらわれたのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《老師》がそこに一人しかいないというのであれば その《叫び》をおこなった人からです。 もし ★ これら ☆ がその情況の全体を言うのだとすれば 社会生活の大きな文脈が背後にありますが この一対の問答に絞るなら やはりこの《老師》から現われたのでしょう。ただし ばかばかしい問答ですから ただの夢遊病であるかも知れません。 それら全体のことが どこから現われたか? と問うのなら それは別の主題として扱ったほうがよいでしょう。 ひとはどこから来たのか。といったたぐいの主題です。
お礼
回答ありがとうございます。 >ひとはどこから来たのか。 とてもよいポイントです。質問と同じく2つにわかれるまえの1ということですね。 でも1 自体も概念化すると間違ってしまいますが。
- DMIM
- ベストアンサー率17% (10/56)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
余分な回答です。 ★ 二元論だと答えがでないでしょう。 ☆ 二元論もけっきょく観念の内なる観念だと知っていれば だいじょうぶです。 それより問題は やはりこころの高ぶりだと言ったほうがよいでしょう。 へりくだれと言わなくても 高ぶりはだめ。詳しく言えば 中途半端な高ぶりではだめだと言ったほうがよいでしょう。 十年一日組みが 何と多いことか。
お礼
回答ありがとうございます。 あるとき禅の老師が自分に向って「おーい主人公騙されるなよー」と叫びました。 そして、それに続き老師は「はーい」と答えました。 これらはどこからあらわれたのでしょうか。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
>全く複雑ではありませんよ。既に解決しています。それに気付いていないだけ。何が邪魔しているのでしょうか。 お見それしました。いや、御目出度う御座います。もう解決しちゃってるのですか。ちゅうことは、皆をお救いになるためにあなた様は出現なされたという訳で御座いますか。恐れ多いことで御座います。観音様のような方で、 なにごとのおわしますかは知らなねども かたじけなさに涙こぼるる 次第で御座います。 あたくしは、せいぜい非線形効果という、自分が相手で相手が自分でって、こんがらかりながら物は判って来るということしか判らない未熟者で御座います。あたしくし、てっきり二元対立思考か、いや違う何どという物の見方で判った気になれるお方は、線形思考きり出来ないお方がするもんだと思っておりましたが、どっかに非線形性でも入っているので御座いましょうか。いえ、そんなはずありませんよね。 >相手を認めているのは誰ですか。 非線形効果って、相手と自分がこんがらがった一体だということで御座います。だから、私がどうだ、自分がどうだ、それがどこから現れたただ何どということに拘るお方たちは、非線形効果が何たることか、まるで判っていないお方だと言っているので御座います。 >私たちは、「自分」と認めているものがいつ生まれたか自分自身で認識することはできません。死んだとにいうことも自分自身で認識することはできません。その全てに「私」が介在していますか。何が介在していますか。 さすが、観音様は言われることは凄い。未熟もんのあたしくし、生まれただとか死んだちゅうことが、どこでどうこの問題に関係あるのかさっぱり判りません。 理屈とは 理屈でないと 理屈言い てな事でも言ってるので御座いましょうか。それなら未熟なあたくしにも何が言いたいのか判った気になれそうで御座います。自他一体になった非線形効果だなんて理屈を捏ねていないで、「私」に拘り、「私」がどこから現れたかと問うことによって、「私」だけを抽出した超単純な線形思考に恍惚として浸れと言う有り難いお言葉を持って、観音様が凡夫達の前いに現れたぞよ、と言う事なのでございますね。 でも、何の因果か知りませんが、あたくしには自他のしがらみと言う非線形効果からお人達が逃れられる何んて信じることが出来ません。折角の観音様の御出現に、何とも不信心は罰当たりとお笑い下さいませ。あたくしは未熟者でも捨て置かない阿弥陀様のお慈悲にすがりとう御座います。
- DMIM
- ベストアンサー率17% (10/56)
> 今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。 1元が2元との2元であることに気付いていない人から現れたのでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 言葉にはとらわれないでください。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.6です。 ★ 「私」には特に意味はありません。 ☆ 何か別のことを言おうとしておられるのかも知れませんが わたしの寄せた回答としては こうです。 この《「私」には特に意味はありません。》と言っているひと・すなわちピピルクンさんご自身のことを言っています。 つまり あなたから この質問は現われたという回答内容です。
お礼
回答ありがとうございます。 >つまり あなたから この質問は現われたという回答内容です。 そうすると、「私」と思ってい私が、私は誰かと問うてみると・・・どこから現れたでしょうか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ さて、今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。 ☆ 文中のほかの箇所で 括弧無しで現われる《私たち》というときの話し手から現われたものです。 その今 《わたし》と自称しているあなたから現われています。 あなた自身は どこから現われたのか? これはまた 別の主題とするのがよいでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 「私」には特に意味はありません。
お礼
回答ありがとうございます。 質問は理論ではありません。 あなたがこの回答をするときこれはどこから現れましたか。 >現実に戻ればどっちが上でどっちが下で、なにが大事で何が虚構か見破れるようになりますよ。 あなたは、毎日夢をみます。そのときそれはその中では現実のものと認識されます。 あなたは、目を覚まします。今見たのは夢であったと気付きます。 では、今、目を覚ましている世界が現実であるということはどのように証明するのでしょう。 あなたが回答するとき、眠っているとき、目を覚ましているとき、の中で何か変わらずに在るものがありませんか。